🌈9)─1・C─古墳祭祀文化=ヤマト王朝の日本統一=民族神話文化=天孫降臨神話が天皇の正統性。⦅1⦆〜No.18 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 古墳時代とは、新たな日本の始まりで、天皇の正統性が確立した時代であり、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度が成立した時代である。 
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 皇室の血族優先(ネポティズム)は、血縁・地縁による依怙ひいきであって、個人的私的利(利益)的な縁故、身びいきとは違う。
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 【中学歴史】古墳時代についてまとめてみました
 2021.02.272021.02.15
 古墳時代歴史の全体構造
 この記事は約7分で読めます。
 今回は、中学校で習う「古墳時代」について、わかりやすくまとめてみました。
 古墳(こふん)というのは、権力者の大きなお墓のことを言います。大きなお墓を造ることができるということは、それだけ大きな勢力が日本に存在していたというわけです。
 弥生時代には、日本列島は大きな戦乱があったとチャイナ(中国)の歴史書に記述があるし、考古学的にも敵の侵略から集落を守るための濠(ほり)が設けられた環濠集落や矢に射られた頭がい骨が弥生時代の遺跡から発掘されています。
 【中学歴史】弥生時代はいつから?土器は?わかりやすく解説します!
 中学生に向けて、弥生時代について解説をします。いつから始まり、大陸からどのようなものが伝わったのか?土器の特徴を中心に解説します!
 一方で、日本列島に前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)という大きなお墓が現れた後は、こういった争いの形跡の数はグッと減りました。
 それでは、古墳がたくさん造られていた時代の我が国の様子を見ていきましょう。
 目次
 我が国の歴史全体の流れの中の古墳時代
 古墳時代の時期
 古墳時代はいつから始まったの?
 古墳時代はいつまで続いたの?
 大和朝廷による国内の統一
 古墳時代大和朝廷の勢力はどれぐらい拡がったの?
 大和政権の政治のしくみ
 古墳時代のコンテンツ
 古墳文化の特徴について
 中国(チャイナ)や朝鮮半島と我が国のかかわり
 仏教の公伝
 我が国の歴史全体の流れの中の古墳時代
 歴史はまず大きなトコロから理解をすることが大切です。
 中学歴史の全体構造
 大和朝廷が日本列島の大部分を統一しようとしていた時代だという大まかなイメージをまずは押さえておきましょう。
 研究者によって評価が分かれるところではありますが、遅くとも3世紀中・後半から始まり、推古天皇奈良県の飛鳥地方に都を遷す西暦589年までのことを古墳時代(こふんじだい)と呼びます。
 以下、くわしく述べていきます。
 古墳時代の時期
 古墳時代はいつから始まったの?
今の日本のように、何年から何年まで何時代が続いたとキリよく明言することはできません。昔のことなので、史料が不足していたり、証拠が出てこないために研究が不十分だったり、研究者によって時代の解釈が異なったりするからです。
 大まかにはではありますが、3世紀後半から遅くとも4世紀中頃にかけて、現在の奈良県の大和の豪族を中心として近畿地方に強大な連合政権が誕生したと言われています。この連合政権のことを大和政権(やまとせいけん)と呼び、政府のことを大和朝廷(やまとちょうてい)と呼びます。
 3世紀の前半頃から、日本には小さな山のように盛り上がった大きなお墓が作られるようになっていました。これを古墳(こふん)と言います。その頃に、奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡に、90m級の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)と呼ばれる大きな古墳が造られました。また、3世紀中期には纏向遺跡の地域に箸墓(はしはか)古墳という前方後円墳が造られたと言われています。前方後円墳は上空から見るとカギのような形をしており、円と四角形を組み合わせたような形のお墓です。これだけ大きなお墓を造ることができるのは大きな力を持った勢力がこの地域にいたことを示します。これが大和朝廷の中心であった大王(おおきみ)家、つまり現在の天皇のご先祖なのではないかという研究結果があります。
 古墳時代はいつまで続いたの?
 古墳は大王(おおきみ)家を象徴する前方後円墳をはじめとして各地で造られるようになりました。
 ところが、朝鮮半島から仏教が伝わった6世紀中旬頃には巨大な古墳は造られなくなりました。
 一般的に古墳時代の終了は、第33代の推古(すいこ)天皇奈良県の飛鳥(あすか)に都が遷された時期であると言われています。ここからは飛鳥(あすか)時代と呼ばれるようになります。
 大和朝廷による国内の統一
 古墳時代大和朝廷の勢力はどれぐらい拡がったの?
 前方後円墳が誕生したのが3世紀の初めです。それから全国に古墳が分布するようになります。
 5世紀末頃のものと思われる鉄剣や鉄刀が発見されています。埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山古墳(いなりやまこふん)や熊本県の江田船山古墳(えたふなやまこふん)から出土された鉄剣や鉄刀がそれです。そこには文字が記されています。
 獲加多支鹵大王
 という文字です。「獲加多支鹵」は「ワカタケル」と読み、これは第21代の天皇である雄略(ゆうりゃく)天皇であると言われています。雄略天皇がご在位されたのが5世紀末頃なのですが、前方後円墳の分布なども踏まえると、その頃には大和朝廷の勢力が北九州から東北の南部のあたりまで拡がっていたことが分かります。
 【中学歴史・国史(日本史)】天孫降臨神話 - 「三大神勅」とは何か?その内容をわかりやすく解説しました
 天孫降臨神話について、「日本書紀」の三大神勅の内容と三種の神器の由来についてわかりやすく解説しながら、ストーリーを説明していきます。
 大和政権の豪族は神話とも関わりが深い
 大和政権の中枢は、臣(おみ)の中のトップである大臣(おおおみ)や連(むらじ)の中のトップである大連(おおむらじ)などが中心となって政治が行われ、他にも専門の技術労働を行う品部(「ともべ」とか「しなべ」とか言う)が組織されていました。
 大和政権は有力豪族による連合政権なので、それぞれの豪族も領地があり領民がいたりします。大和政権下の豪族の私有民のことを部曲(かきべ)と言い、私有地のことを田荘(たどころ)と言います。地方豪族のトップはわざわざ畿内の大王がいらっしゃるところに移住するわけではありません。地方に住んだまま大和政権の役職に就きます。例えば、国造(くにのみやつこ)とか県主(あがたぬし)と呼ばれる役職です。
 古墳時代のコンテンツ
 まほろば社会科研究室では、古墳時代については以下のようなコンテンツを公開しています。
 古墳文化の特徴について
 独特な形をしている巨大なお墓である前方後円墳が日本列島に広がりを見せた頃、人々はどのような生活をしていたのかをまとめてみました。
 【中学歴史】古墳文化の特徴をまとめてみました
 中学生に向けて、古墳文化の特徴をまとめてみました。
 古墳時代弥生時代からどのように生活が変わっていったのでしょうか?
 朝鮮半島から渡来人(とらいじん)と呼ばれる人たちが日本に来て、彼らが日本に新しい文化を伝えました。上の記事は、そのあたりを中心に紹介した記事です。
 中国(チャイナ)や朝鮮半島と我が国のかかわり
 古墳時代には大陸から多くの文化が入ってきました。
 古墳時代には大陸とのかかわりがあったということです。中国(チャイナ)大陸の様子や朝鮮半島の歴史の歩みを見つつ、それが我が国とどのように関係し合っているのかを学びます。
 【中学歴史】古墳時代の頃の中国と朝鮮半島の様子をわかりやすく
 中国の五胡十六国時代南北朝時代朝鮮半島三韓時代や三国時代の説明をしながら、これらの国と日本がどのような関係であったのかを、「好太王碑文」や「宋書倭国伝」などの史料を踏まえて解説します。
 単に渡来人(とらいじん)がやってきた!ということだけ勉強してもダメです。朝鮮半島から渡来人が日本にやってきたのには理由があるのです。そこを一緒に考えていくのが上の記事です。
 仏教の公伝
 後の我が国の歴史の中に大きな影響を与えたのが仏教の伝来です。
 公に仏教が伝えられたと言われる時期には2つの説がありますが、仏教の公伝の前後には大和朝廷による統治の危機が訪れました。その様子が分かるコンテンツをアップしました。
 【中学歴史】6世紀の朝鮮半島と我が国 - 仏教の伝来を分かりやすく解説
 6世紀に入ってから日本には皇位継承に危機が訪れました。また仏教の受容をめぐって大きな議論が起こりました。やがて聖徳太子の政治に繋がり、日本の国づくりが本格化していきます。
 歴史の全体構造歴史古墳時代
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 古墳祭祀文化とは、奈良・ヤマト大王が日本列島・日本民族を戦乱の弥生時代・殺しあいの弥生文化から解き放し縄文文明の非戦空間に戻す為に始め、日本統一と共に全土に広めた平和文化であった。
 中国や朝鮮にない日本独自の古墳が、ヤマト方式前方後円墳である。
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 中国大陸や朝鮮半島から日本列島に逃げて来た人々は、旧石器時代縄文時代弥生時代は渡来人であり、古墳時代、飛鳥・斑鳩時代は帰化人である。
 帰化人とは、天皇に忠誠を誓い、日本国に愛国心を持ち、日本民族の為に身を粉にして働いた異国人・異邦人である。
 坂上田村麻呂坂上氏は、移民系氏族で、功績によって天皇から改賜姓を授与された。
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 左派系反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人は、日本天皇を否定し日本民族を抹殺しようとしている。
 彼らは、超エリート層の高学歴な政治的エリートや進歩的インテリで、数万年前からの民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はない。
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 反宗教無神論・反天皇反民族反日本のイデオロギーであるマルクス主義社会主義共産主義は、1847(弘化4)年にドイツ・ユダヤ人のマルクスエンゲルスによって創作された。
 極左組織フランクフルト学派の哲学者達は、1930年代後半にアメリカに亡命し、アメリカを反天皇反日本の急先鋒につくり変えた。
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 スタディピア中学校検索中学校学習ガイド古墳時代から奈良時代
 古墳時代
 大和政権の誕生
 古墳時代
 3世紀後半に、近畿地方の豪族による巨大な勢力が生まれ、大和政権となりました。王や豪族が死ぬと古墳と呼ばれる大きな墓がつくられました。前方後円墳などの種類がある古墳は、全国各地の豪族によってもつくられ、6世紀末までを古墳時代と呼びます。
 古墳の多くは表面に石がしきつめられ、人や家、馬の形をしたはにわが置かれました。内部の石室や死者をおさめた棺(ひつぎ)には、銅鏡、玉、銅剣などの祭りの道具やかんむり、農具、馬具などがおさめられました。当時の人々は太陽神や自然の神々など、一族を守る神を信仰しており、古墳の内部には神とされる動物などの絵が描かれました。
 中国と朝鮮の動き
 中国では、4世紀ごろから国が分裂し、5世紀ごろには南北に分かれて争いがおこり、このころを南北朝時代と言います。朝鮮半島では高句麗(こうくり)と百済(くだら)、新羅(しらぎ)の三国が勢力争いをしていました。大和政権は百済と南部の国・伽耶(かや=任那〈みまな〉)と組んで、高句麗新羅と戦った記録が、好太王碑(こうたいおうひ=広開土王碑〈こうかいどおうひ〉)に記されています。5世紀ごろ、大和政権の王は「大王」と呼ばれ、九州地方から東北地方の南部にまで支配していたことが、埼玉県・稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄剣や、熊本県・江田船山古墳から出土した鉄刀と、前方後円墳の分布でわかります。
 大陸文明の流入
 朝鮮半島との交流により、朝鮮半島から日本に移り住む人も多くなりました。この人々は渡来人(とらいじん)と呼ばれ、農業の技術や道具、須恵器(すえき)と言われる土器や絹織物をつくる技術を伝えました。さらに、漢字や儒学など学問も伝え、6世紀半ばには仏教も伝えています。
 キーワード
 大和政権
 奈良盆地を中心とする近畿地方の豪族によってつくられた巨大な勢力。
 古墳
 王や豪族など権力者(けんりょくしゃ)の墓で、前方後円墳や円墳、方墳などがある。
 渡来人
 朝鮮半島から日本へ移り住んだ人々で、農業や学問など多くの技術や知識を日本に伝えた。
 須恵器
 渡来人が伝えた窯(かま)によって高温でつくられたかたい土器。
 飛鳥時代
 聖徳太子の時代
 飛鳥時代
 6世紀ごろ、大和政権の中で蘇我氏(そがし)や物部氏(もののべし)など豪族の間で、支持する皇子(おうじ)を大王にしようと争いがおきました。この争いを抑えるために女性の推古(すいこ)天皇が即位しました。推古天皇のおいの聖徳太子が摂政(せっしょう)になり、蘇我馬子と協力して天皇を中心とする政治制度を整えようとしました。仏教や儒学の教えを取り入れた十七条憲法を制定したり、冠(かんむり)の色で地位を区別する冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制度をつくって、家柄を問わず才能や実績のある人を役人に起用しました。6世紀末の中国は隋(ずい)が南北を統一しており、大陸の進んだ文化を取り入れようと、607年に小野妹子をはじめとする留学生や僧を遣隋使(けんずいし)として隋に送りました。その後、隋はほろび、唐が中国を統一しました。唐は律令などの法律をつくり、税や兵役を負担させるなど、国のしくみをつくりました。
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 ウィキペディア
 古墳時代(こふんじだい)とは、日本の歴史における弥生時代に続く考古学上の時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代を指す。『日本書紀』によると、応神天皇は行宮を難波大隈宮とし、大王(おおきみ)と呼称された倭国の首長である仁徳天皇は都を上町台地の難波(なにわ:現在の大阪市)に定め宮居を難波高津宮とした。国内流通の中心である住吉津や難波津などが開港し、倭国が統一していった時代とされる。
 ほぼ同時代を表す「大和時代」は『日本書紀』や『古事記』による文献上の時代区分である。
 時代区分
 古墳時代前期
 初期ヤマト王権(地域国家)
 弥生時代末期には、発掘調査の結果から、北部九州を中心とする政治勢力奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことがわかっている。
 3世紀前半に魏の歴史文献に倭国王親魏倭王卑弥呼が現れるが、その所在地邪馬台国が北部九州、畿内のどちらにあったのかについては未だ学説が分かれている。
 古墳時代中期
 ヤマト王権と豪族層が共に力をつけていった。豪族層の武力は国造軍と呼ばれ倭軍を担った。前方後円墳が全国に広がった。
 古墳時代後期
 古代国家の成立
 安閑(531年 - 535年)・宣化(535年 - 539年)・欽明(539年 - 571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣を作るなど、各地の豪族が部などを作り、勢力を張っていた。
 時期区分(古墳)
 古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部[注釈 1]から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。
 前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。
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 朝日新聞デジタル記事「(葦)「渡来人」の古墳群 今井邦彦
2018年6月8日 15時39分
 公園整備され、形や年代が様々な横穴式石室を見学できる一須賀古墳群=大阪府河南町
 写真・図版写真・図版写真・図版
 大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館は、6世紀ごろの古墳が250基以上も集まる国史跡・一須賀(いちすか)古墳群の中にある。だが展示で、この古墳群にあまり詳しく触れていないのが気になっていた。現在開催中の企画展「渡来人と群集墳 一須賀古墳群を考える」(17日まで)に展示された主要な古墳の出土品を見て、あらためてその面白さがわかった。
 一須賀古墳群では韓国のものとよく似た金色に輝く装身具が出土し、5~6世紀に朝鮮半島南西部の百済(くだら)や、南端部の加耶(かや)から渡ってきた人々と、その子孫の「渡来人」集団が築いたと推定される。すぐ北のエリアには用明天皇推古天皇聖徳太子の墓とされる古墳がある。一須賀古墳群を築いた人々と、王権や蘇我氏など有力豪族の関係も興味深い。
 大阪では百舌鳥(もず)・古市古墳群世界遺産候補になり、古墳への関心が高まっている。一須賀古墳群は地味だが、巨大な古墳の築造が終わった後の大阪の歴史を知るには重要な史跡だ。公園が整備され、多くの横穴式石室も見学できる。ぜひ、そばの博物館で古墳群の詳しい展示がいつでも見られるようにしてほしい。
編集委員
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 2021年10月27日08:00 産経WEST「THE古墳 箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か
 小畑 三秋
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 邪馬台国(やまたいこく)の時代にあたる3世紀後半に築造された箸墓古墳奈良県桜井市、墳丘長約280メートル)。当時としては最大規模の前方後円墳で、この被葬者が倭国(日本列島)を統治した「大王」とされる。この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か」と話題を集め、畿内説が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。
 東京のような大都市だった
 46年当初から調査を担当したのが、同県立橿原考古学研究所元副所長の石野博信さん(87)。現場で着目したのが、大量に見つかったつぼや甕(かめ)など煮炊きや貯蔵用の日常の土器だった。一見すると同じような形だが、装飾などが奈良県内のものと少しずつ違っていた。
 特集・連載:
 THE古墳」
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 2022年11月2日08:00 産経WEST「THE古墳 世界遺産としての天皇陵 時代を超えて皇室が祭祀
 小畑 三秋
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 中央上)、御廟山古墳(左端)、いたすけ古墳(左上)など巨大前方後円墳が集中する
 宮内庁が管理する仁徳天皇陵古墳など大阪の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群が御代(みよ)替わりの令和元年、世界文化遺産に登録された。陵墓は「皇室の祖先の墓」として立ち入りが禁じられ、「公開性が求められる世界遺産の精神と矛盾する」との指摘も多い。陵墓を30年以上にわたって発掘した元宮内庁陵墓調査官の徳田誠志・関西大客員教授(60)は「陵墓の尊厳を守ることと、文化財的価値は相反するものではない」と指摘。登録から3年余り。「世界遺産の本来の意味は、文化遺産を将来に向けて保全すること。登録は議論の大きなきっかけになった」と話す。
 「静安と尊厳」
 国内最大の仁徳天皇陵古墳(堺市、墳丘長486メートル)、2番目の応神天皇陵古墳(大阪府羽曳野市、同425メートル)など、世界文化遺産となった49基のうち宮内庁が管理する陵墓は29基を占める。
 仁徳天皇陵古墳の堤(手前)から見た墳丘後円部(上)と水をたたえた周濠。発掘調査に際して報道関係者らの立ち入りが許可された=令和3年11月
 陵墓を立ち入り禁止としているのは、ひとえに「皇室のご先祖のお墓として祭祀(さいし)が行われており、静安と尊厳の保持が最も重要」というのが理由。この姿勢は世界文化遺産登録後も変わらない。
 特集・連載:
 THE古墳」
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 11月2日09:00 産経WEST「「古墳サミット」宮内庁仁徳天皇陵の発掘報告
 国内最大の仁徳天皇陵古墳=堺市
 東北から九州まで各地の古墳の魅力をアピールする「全国古墳サミット」が今月19日午後1時から、堺市堺区のフェニーチェ堺で開かれる。同市の仁徳天皇陵古墳で昨年に行われた発掘調査についての報告などが行われる。10日まで参加者を募集している。
 当日は、仁徳天皇陵古墳について宮内庁担当者が解説。さらに、東北最大の前方後円墳で知られる宮城県名取市の雷神山古墳(墳丘長約170メートル)▽巫女(みこ)など精巧な人物埴輪(はにわ)が出土した群馬県高崎市の保渡田(ほどた)古墳群▽宮崎県西都市の西都原(さいとばる)古墳群などについて、地域で取り組む保全や活用状況が報告される。
 申し込みは、10日までに堺市のホームページか往復はがきで。定員1700人で先着順、無料。問い合わせは同市世界遺産課(072・228・7014)。」
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 3月2日08:00 産経WEST「THE古墳 天皇陵かもしれない牽牛子塚…古墳は関西に集中
 小畑 三秋
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 関西には、とにかく古墳が多い。世界文化遺産に登録された国内最大の仁徳天皇陵古墳(堺市)、飛鳥美人壁画発見から50年を迎える高松塚古墳奈良県明日香村)は歴史教科書でもおなじみだ。飛鳥時代の女帝・斉明天皇の墓とされる牽牛子(けんごし)塚古墳(同村)は整備が完了し、「天皇の石室」が3月から公開される。ほかにも、明石海峡大橋を見下ろす絶景スポットに復元された五色塚古墳(神戸市)、大阪の町工場の下に眠る古墳群、イノシシが出没し住民を悩ませながらも憩いの場になった京都の古墳…。さまざまなストーリーが秘められている。
 仁徳天皇陵古墳(手前)などがある百舌鳥古墳群。古代には大阪湾(奥)から入ってきた使節団に権力を誇示したという=堺市
 全国の古墳約16万基のうち、関西には4割が集中する。3~7世紀のヤマト王権が奈良や大阪に都を築いたのが理由だ。堺市で1月中旬に開かれた「関西古墳サミット」では、各地の文化財関係者らが「古墳への愛」を思う存分に語った。
 「仁徳天皇陵古墳(墳丘長486メートル)の雄大さが、気球から実感できるようになります」。堺市の担当者はイメージ図を示しながら説明した。気球の運行は新型コロナウイルス感染拡大の影響で遅れているが、計画では100メートルほどの高さから、鍵穴形の古墳が一望できるようになる。
 特集・連載:
 THE古墳」
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 世界大百科事典 第2版「古墳文化」の解説
 こふんぶんか【古墳文化
 古墳時代弥生時代に継続する時代である。弥生時代に始まった農耕生活は,比較的はやく,日本の大部分の地域にひろがっていったが,さらに鍬,鎌などの農具に鉄の刃先を使用するようになるまでには,若干の年月が経過した。やがて鉄器の普及などによって耕地の拡張がさかんになり,生産量はしだいに増大していった。古墳時代は,こうした経済力の上昇が,ついにこの国土に国家としての統治形態の出現を導くにいたった時代である。また,国家的統一の進行にともなって,その統治機構のなかに組みこまれていった首長層と,一般の農民とのあいだにみる生活状態の差違が,大きくひらいてきた時代である。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 旺文社日本史事典 三訂版「古墳文化」の解説
 古墳文化 こふんぶんか
 古代国家の形成期における古墳の築造を中心にした文化
弥生時代に始まった農耕や小国家の形成がさらに本格化した時代の文化。前・中・後の3期に区分される。〔前期〈3〜4世紀〉〕 古墳は畿内およびその周辺の台地・丘陵に散在し,埋葬された豪族は司祭者的な性格をもち,副葬品も呪術的な碧玉製品や鏡のような宝器が多い。〔中期〈5世紀〉〕応神・仁徳陵に代表されるように,古墳は濠でとりまかれた壮大な前方後円墳が中心になる。これは大陸の技術の導入による築造術の向上をうかがわせるが,同時に強大な王権を示している。分布もしだいに地方に広がりをみせ,副葬品は呪術的なもののほかに,鉄製の武器や馬具などが多くなる。〔後期〈6〜7世紀〉〕 古墳の規模は小さくなるが前代に比べて量的には激増する(群集墳)。これは大和政権の職務の細分化に伴い,多数の官人が出現し,また有力農民層が現れたためであろう。古墳が広い範囲の人びとにつくられるようになると,古墳自体もそれに適応する変化をみせ,これまでの竪穴式石室に代わって,横穴式石室が採用されるようになった。副葬品は呪術的な製品が一掃され,装身具・須恵器のような生活必需品が多くなった。
 出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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 ・・・ 

 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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 日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇の神性である。
 つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
 近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
 当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
 日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那岐命イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
 八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
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 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
 現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズムジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
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 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
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 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展・進化・進歩の物語、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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 神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
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 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
 つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
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 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
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 数千年前の弥生時代古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
 そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
 反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
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 世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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