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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
仏教の法力は、人を呪い殺す事もできるが、人の病を癒やして助ける事もできる。
歴史上で有名な看病禅師は、玄昉(げんぼう)と道鏡である。
玄昉は、聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させた。
道鏡は、孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍(かたわら)に寄り添い看病し治療した。
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妙薬とは、病を治して人を助けるが、同時に毒として人を殺す。
仏教が優れているのは、助け・殺すという二面性を持っていたからである。
人を助ける一面性しか持たないのは、無力であり、役に立たないし、偽物である。
毒を盛った宗教をどう使うかは、信仰する人次第である。
問題は、宗教ではなく人間である。
宗教を犯罪に悪用する者が、偽預言者、悪徳教祖、宗教系テロリストである。
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ユダヤ教の聖書。
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反宗教無神論の共産主義者(マルクス主義者)は、人としても信用できない。
宗教と共産主義を比べた時、共産主義の方が宗教よりも遙かに多くの人を虐殺している。
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2019年6月9日号 サンデー毎日「読んでたどる歴史 本郷和人
『仏像の光と闇』 宮澤やすみ 水王舎
仏像は呪力で敵を滅ぼす兵器でもあっかのか
仏像とは仏教の『仏さま』の姿を造形したものである。仏さまは私たち衆生を救ってくれる、慈悲深い超越者である。だから仏像を解説する本は、仏さまの種類や特徴を説きながら、いかにそれが美しくすばらしい存在かを教えてくれる。
本書はまったく違う。『呪い』をキーワードとして、仏さまを語る。本書によれば、仏様とは呪力によって対抗者に打撃を与え、はては滅ぼしてしまう装置である。テクノロジーとは無縁であった過去において、それは最新鋭の兵器であった。
そうかなるほど、と納得せざるを得ない。ぼくが研究している鎌倉時代中期以降、承久の乱で敗北を喫した朝廷は軍事力を幕府に取り上げられた。それでも、自己の利益の伸長を企てる寺社の暴力集団(僧兵や神人{じにん})は、遠慮会釈(えんりょえしゃく)なく朝廷に攻撃を仕掛けてくる。このとき朝廷はどう対処したか。仏に祈るのだ。高僧を呼び集め、仏像や仏画を置き、壇を組む。護摩を焚(た)き、経典を読咒(どくじゅ)する。
古代から仏教の理念と言えば『鎮護国家』。だからぼくは、非常時には法を修して、『平和が回復しますように』と祈りを捧(ささ)げるのだと思っていた。甘い!朝廷は法会を催して仏像の『呪い』パワーを具現化し、向かってくる敵を積極的に討伐しようとしたのだ!
仏像は仏教だけでなく、日本に存在した天つ神、国つ神とも融合し、敵を打ち倒すパワー、加えて現世利益の能力を獲得していった。たとえばインドの破壊神マハーカーラあ出雲の大国主、三輪の大物主、日吉の大己貴(おおなむち)と同体となった結果、福の神『大黒さま』になった。本書はこのような仏の変容を時間軸にそって語り尽くす。まさに『光と闇』。仏像の本当の姿を知りたければ必読である。」
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ウィキペディア
慈訓(じくん・じきん、持統天皇5年(691年)- 宝亀8年(777年))は、奈良時代の奈良興福寺の僧。俗姓は船氏。河内国の出身。
興福寺の玄昉、元興寺の良敏に法相唯識を学び、審祥から華厳を学んだ。740年(天平12年)審祥による華厳経の法会では副講師をつとめ、同14年(742年)には講師となった。755年(天平勝宝7年)には宮中講師となる。翌756年(天平勝宝8年)聖武天皇が病気となった際、良弁・安寛とともに看病禅師・華厳講師をつとめ、その功により少僧都に任じられた。藤原仲麻呂政権下では仏教政策の中心者として活躍し、760年(天平宝字4年)良弁らとともに僧位制度の改正を奏上している。その後道鏡が現れると763年(天平宝字7年)僧綱を解任されたが、道鏡が失脚した770年(宝亀元年)には少僧都に復帰している。
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良辨(ろうべん、りょうべん、持統天皇3年(689年) - 宝亀4年閏11月24日(774年1月10日))は、奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山。通称を金鐘行者といった。
鷲にさらわる嬰児の頃。国会図書館所蔵・土佐光起『執金剛神縁起』絵巻より
持統3年(689年)、相模国の柒部氏の出身である。鎌倉生まれと言われ、義淵に師事した。別伝によれば、近江国の百済氏の出身、又は、福井県小浜市下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる。東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み[2]、後に全国を探し歩いた母と30年後、再会したとの伝承もある。しかし現在では別人ではないかとされているなど、史実であるかは定かでない。ただし、幼少より義淵に師事して法相唯識を学んだのは事実である。
さらに慈訓について学び、華厳宗の奥義を受ける。東山 (奈良県生駒市)に隠棲し、自ら彫刻した執金剛神像を安置して、日々鍛錬して修行にはげみ、金鐘行者の異名をえたところ、聖武天皇の耳にとまり、羂索院を賜り、これがのちに改名されて金鐘寺となった。
天平12年(740年)、『華厳経 』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定。天平17年(745年)に律師となる。天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となった。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階(三色十三階制)を改めるよう奏上した。聖武天皇の看病禅師も務めている。
近江志賀の石山寺の建立に関わったことも『石山寺縁起絵巻』や、『元亨釈書』にくわし。
宝亀4年(773年)には、 僧正に任命され、その年の閏11月24日没。東大寺開山堂には「良弁僧正坐像」(国宝)が安置されている。伊勢原市の大山寺の開基とも言われる。
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看病禅師 かんびょうぜんじ
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■病人に寄り添い、看病から祈祷までする僧侶を、看病禅師とか看病僧と呼びました。
■奈良時代に活躍しました。
■看病禅師は、名称の変化とともに、加持祈祷に専念する役職へと変わります。
僧侶が看護師だった?
病院の中でシスターの姿を見かけたら・・・?
シスター=看護師さんのように思えて、違和感を持つ人は少ないでしょう。
では、僧侶の姿を見かけたら・・・
奈良時代、お医者さんと僧侶は切っても切れない関係で、看病禅師という役職がありました。
仏教では、五明ごみょうと呼ばれる五つの分野の学問も学ばれていました。その五明のひとつに医学や薬学があり、お経とともにその最新の知識が日本へ入りました。
もちろんお経の中にも、身体の内部構造を説明した部分や、病気と食事の関係、治療や養生について説かれた部分があります。
看病禅師 かんびょうぜんじ
奈良時代は、皇族のために宮中で病気平癒を祈ることが盛んに行われました。このご祈祷をする僧侶は、医療の知識や呪術的な力を具えた禅の僧侶でした。
医療の功績があった禅師で、文献に初めて登場するのは、法蓮という僧侶です。続日本紀の703年と721年の記述の中に出てきます。
天皇や上皇が病気がちだった8世紀中頃は、看病禅師の活躍が目立ちます。756年には聖武天皇のために、126人もの看病禅師が集められました。
また聖武天皇の看病を、法栄という僧侶が担当医師として行ったことも有名です。法栄は祈ることより医薬の面で優れていたようです。
禅師という言葉が、しだいに看病をする僧侶、の意味を持つようになると、本来の禅師と区別するため、看病禅師という呼び名が生まれました。
看病禅師から護持僧へ
看病禅師は宮廷に近いことから、しだいに政治権力を握り、法王にまで上り詰める者や、天皇の命を操ろうとする者まで登場します。
看病禅師が政治的な力を持つようになると、国家が危うくなる、と考えた桓武天皇は、看病禅師の呼び名を護持僧に改め、制度改革をしました。
平安時代には医療は宮廷医に、僧侶は祈りに専念することになります。
五明 ごみょう
声明 しょうみよう
言語学・文法学。
因明 いんみょう
論理学。
内明 ないみょう
形而上学。日本では宗派や学派の教理学。
医方明 いほうみょ
広い意味での医学。薬学のほか呪術なども含まれる。
工巧明くぎょうみょう
建築・工芸など。
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明治まで日本を支配していたた力は三つあった。
政治権力、宗教権威そして天皇の権威である。
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日本は国難が襲ってくると、敵が現れる前は呪術(じゅじゅつ)・呪力(じゅりょく)・呪いに頼ったより、敵が現れたら武器を取り命を賭けて戦った。
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呪術・呪力・呪いに霊力を与えていたのは、神道ではなく仏教であった。
怨敵退散の呪文は、仏教にあって神道にはない。
憎い相手・敵に対して、呪い殺す、不幸・不運をもたらす、のは仏教であって神道ではない。
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物の怪・幽霊・怨霊・悪霊・呪怨を退治するのは、死を司り、亡者に引導を授け成仏させる仏教であった。
神道は、穢れを祓い清める神力と願いに対するご利益を与える霊験だけで、それ以上の霊力はない。
呪術・呪力において、仏様も方が日本の神様より強力であった。
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本地垂迹(ほんじすいじゃく)説で日本の何となく神と外来の通力(つうりき)の強い仏が混合した時、霊験が空気・空気圧の様に日本を支配した。
明治の神仏分離(廃仏毀釈)で、神道からおどろおどろしい、まがまがしい、得体の知れない呪術・呪力・呪いが穢れとして祓い清められた。
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天皇・皇室・朝廷が頼れるのは、京の町衆、近在の国人(下級武士)、賤民(非人や穢多)、畿内の部落民(山の民・川の民・海の民)達だけであった。
如何なる動乱で京の町が荒れ果て世が乱れても、盗賊が京都御所に押し入って略奪と殺戮を行わなかったのは、世俗的に彼らが守り、神聖的に穢れ信仰が護っていた。
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帰化人は天皇・皇室に忠誠を誓い味方し、渡来人は天皇・皇室に忠誠を拒否して敵対した。
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日本の最高神は、天皇家の祖先神と崇められている女性神・天照大神(伊勢神宮)である。
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