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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の歴史において、臣下に殺された天皇が存在する。
第20代安康天皇は、即位3年8月9日に皇后の連れ子である眉輪(まよわ)王に暗殺された。
第32代崇峻天皇は、蘇我馬子の命を受けた 半島系渡来人の東漢駒(やまとのあやのこま)に暗殺された。
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昔の日本と現代の日本人とは別人である。
現代の日本人は、史実に基づいた歴史が嫌いで、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない。
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昭和天皇は、日本の闇に蠢く勢力を恐れ、右翼・軍部のクーデターを警戒し、内戦が起きないように大日本帝国憲法を遵守して慎重に行動していた。
2・26事件の決起将校達と賛同右翼は、昭和天皇が昭和維新の要望書を受け入れなければ強制退位させる秘めた計画を持っていた。
軍隊の中に暴力的共産主義人民革命を目指すマルクス主義者が浸透していた。
保守派や右翼・右派にとって天皇は神ではなく、人であり、操り人形であり、便利な道具に過ぎなかった。
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明治28(1895)年 平安神宮創建。祭神として第50代桓武天皇を祀る。
昭和15(1940)年 第121代孝明天皇を平安神宮の祭神に加える。
昭和51(1976)年1月6日 過激派マルクス主義者による宗教テロ。新左翼活動家加藤三郎は平安神宮を放火して本殿・内拝殿など9棟を焼失させた。
マルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論で反天皇派として、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させようとしている。
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日本人共産主義テロリストは、大正時代頃からキリスト教系テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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2021年5月号 WiLL「歴史の足音 中村彰彦
孝明天皇毒殺説を支持する新研究の登場
慶応2年(1866)12月25日、かぞえ36歳で不意に崩御した孝明天皇の死因については、痘瘡({とうそう}天然痘)による病死説と毒殺説とが死の直前からおこなわれている。毒殺説は、天皇の痘瘡を病んだことを否定するものではない。病んだ天皇が回復しつつあることに気づいた何者かが薬湯を運ぶ役目の女官に命じ、その薬湯に無味無臭の砒素を仕込んで弑逆(しいぎゃく)させた、と考えるのだ。
……」
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6月号 WiLL「歴史の足音 中村彰彦
孝明天皇の崩御と岩倉具視の関係は
雑な手つきで書かれた、事実誤認や都合の悪い事実をあえて無視した論文を粗論という。私が原口清の孝明天皇病死説を粗論として批判した『孝明天皇は「病死」したのか』59枚と『孝明天皇毒殺説の進展』55枚を書いたのは平成22年(2010)のことで、初出は講談社から『小説現代』の別冊として刊行されていた『KENZAN!』の11号と12号。のちにこれら拙論2編は『孝明天皇は「病死」したのか』を総タイトルとし、『幕末維新史の定説を斬る』に収録された(2011年、講談社刊。2015年、講談社文庫に収録)。
拙論は孝明天皇病死説(痘瘡による病死説)と毒殺説(砒素による弑逆説)を比較検討した結果、病死説論者が支持する原口清の論文があまり粗論であることもひとつの理由として毒殺説を支持するという結論になった。
先月号の本欄で紹介した医学博士橋本博雄さんの論文『孝明天皇と痘瘡』は、すべての痘瘡のタイプを分析し、天皇の症状はどのタイプにも属さない、として病死説を退ける画期的なものであった。医学的見地に裏打ちされた橋本論文の登場により、左記の引用文のふくまれる論考はこれまで合格点とされてきはしたが、もはや落第点の粗論としか見られなくなったわけである。
『(孝明天皇の)死因が悪性の天然痘であったことは、病理学的に検討した結果明白になった。毒殺説は岩倉具視の(王政復古の)構想を深く検討しない上に、当時の朝廷内外の政治状況を正確に把握しないでなされた、まったくの妄説である』(原口清『孝明天皇は毒殺されたのか』、同『孝明天皇と岩倉具視』)。
『原口清氏が明らかにしたように、同天皇の死は出血性痘瘡による病死であった』(『孝明天皇の死因について』)、(家近良樹『西郷隆盛』ミネルヴァ書房、2017)。
さて、上記の拙論中に示したように、慶応2年(1866)12月25日、痘瘡にかさぶたが出来て食欲も復活した回復期に急死した孝明天皇について、死の直後に御所の女官たちの口から毒殺説が流されていた。
『此度{このたび}御痘{おとう」全ク実疱({じつほう}本当の疱瘡)ニハ不被為在{あらせられず}、(なにものかが)悪瘡発生之毒ヲ献{けんじ}候』(『中山忠能日記』慶応3年正月4日の項、園家の老女浜浦からの来信)
イギリス人外交官アーネスト・サトウもミカドは毒殺されたのだと回想しているが、この毒殺説を肯定し、下手人を岩倉具視一派と初めて公の場で発言したのは京都の医学博士佐伯理一郎。時に昭和15年(1940)7月、大阪の学士会クラブでひらかれた例会でのことで、その弟子筋の中野操の証言がある。
『岩倉具視が、女官に出ている姪(?)をして天皇に一服毒を盛らしたのである。公武合体論の弱気の天皇が居られては日本革新の邪魔になるというので犠牲の血祭りにあげたのであるが、自分は或る事情え洛東鹿ヶ谷霊鑑寺(れいかんじ)の尼僧となつた当の女性から直接その真相をきいたから間違いはない』(『佐伯先生の事ども』、『日本医事新報』第1533号)
傍点部分は誤りで、正しくは孝明天皇の後宮に入り、右衛門掌侍(うえもんしょうじ)と呼ばれて皇女寿満宮(すまのみや)と理宮({ただのみや}ともに早世)を産んだ岩倉の実妹堀河紀子(もとこ)のこと。ただし岩倉と堀河紀子は皇女の将軍家茂との婚礼を推進したことから尊攘過激派に命を狙われ、文久2年(1862)9月以降は岩倉村と鹿ヶ谷に別れて幽居(ゆうきょ)していた。
だから具視・紀子兄妹が直接天皇に一服盛りたてまつることは不可能だが、御所に奉公していてリモート・コントロール出来る者に市販の石見銀山猫いらず(亜砒酸)を買わせ、無味無臭のこの猛毒を天皇の食事か薬湯に投じさせることは可能である。幸い、岩倉具視の養子具綱は慶応元年閏5月1日に天皇の近習(きんじゅう)を命じられ、15日には実子の周丸({かねまる}のちの具定)が兒({ちご}召し使い)として御所に上がるよう命じられていた。
しかし、なぜそこまでして岩倉は天皇弑逆を謀ったのか。そう首をひねりたくなる向きは、慶応2年8月30日、岩倉と王政復古の志をおなじゅうする義兄の中御門経之、大原重徳ら22人の公卿たちが御所に列参した意味を考えていただきたい。列参とは参内を命じられていない公卿たちが列をなしてあらわれ、天皇を突き上げる行為のこと。この日の22人の公卿たちの要求は、次の3点であった。
第一に、諸藩をただちに召集すること。第二に、文久2年以来幽閉されている公卿たちを赦免すること。第三に幕軍の敗北におわりつつある長州追討戦を中止させること。
第一と第二は、雄藩連合による新政体を作ろうという岩倉の構想。第二は、これも岩倉自身が自由の身となって朝廷改革をも進めるための布石である。
しかし、天皇の反応は岩倉の読み筋ないものであった。天皇は激怒してすべての要求を拒否。10月17日に22人の不敬を咎め、中御門経之と大原重徳は閉門、ほかは差し控えと通達した。その余波を喰らった岩倉は、すでに幽閉5年目だというのに、赦免の目が消え、このままでは幕末史を動かそうという野心も持ち腐れになってしまうのは明白、という危機を迎えた。
その焦りが天皇への殺意に変わっていった、とするのが毒殺説。事実、天皇崩御によって勅勘の身ではなくなった岩倉は、表舞台に躍り出て維新政府樹立の立役者となるのであった。」
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ウィキペディア
孝明天皇(1831年7月22日〈天保2年6月14日〉 - 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)は、日本の第121代天皇(在位:1846年3月10日〈弘化3年2月13日〉‐ 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)。諱は統仁(おさひと)。称号は煕宮(ひろのみや)。
仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。一世一元の詔発布前(日本における一世一元の制制定以前)の最後の天皇。また、生涯を通じて平安京内で過ごした最後の天皇でもある。
毒殺説
孝明天皇は前述の通り悪性の痔(肛門脱)に長年悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の『中山忠能日記』にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)」との感想が記されている。なお、御所を警護していた江戸幕府による声明は無く、孝明天皇の没後に即位した明治天皇の摂政には、徳川慶喜の従兄弟である二条斉敬が就任した為、幕府上層部では毒殺説が唱えられることは無かった。
その後、明治維新を経て、皇室に関する疑惑やスキャンダルの公言はタブーとなり、学術的に孝明天皇の死因を論ずることも長く封印された。一方で1909年(明治42年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇殺害をあげるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。また1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している。ただし、堀河紀子は1862年(文久2年)には霊鑑寺に出家しており、孝明天皇が没した年には御所にいなかった。
第二次世界大戦後に、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、変死説が論壇に出てくるようになった。最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した歴史学者・禰津正志(ねずまさし)である。禰津は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も戦前の佐伯説と同様に、岩倉首謀・堀河実行説を唱えた。
次いで1975年(昭和50年)から1977年(同52年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した伊良子光孝は、断定こそ避けているものの、禰津と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した。
孝明天皇暗殺説を唱えるものの一部(鹿島曻など)はさらに睦仁親王暗殺説を唱えることがある。即ち明治天皇は睦仁親王に成り代わって即位した別人(大室寅之祐)であるという説である(天皇すり替え説を参照)。当初この論を主張した鹿島の説では大室は南朝の末裔であるとされ、いくつかの根拠が挙げられたが、陰謀論の域を出ていない。
すり替え論の論議が進むと、鹿島のあずかり知らぬままに根拠の希薄なまま大室は長州(山口県)の田布施地区出身であるなど唱えられ、説は迷走を続けている(この説の根拠としてはフルベッキ群像写真に明治天皇が写っているという説がある)。
毒殺説に対する反論
1989年(平成元年)から1990年(同2年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清が2つの論文を発表する。
「孝明天皇の死因について」、「孝明天皇は毒殺されたのか」というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、
12月19日(新暦1月24日)までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わっていくこと
12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること
中山慶子の12月23日(新暦1月28日)付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を発表する医師たちが、実は天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること
などから、医師たちによる「御容態書」の、特に20日(新暦1月25日)以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けた。
また原口は別に記した論文の中で、諸史料の分析から岩倉が慶応2年12月(新暦の1867年1月から2月)の段階では「倒(討)幕」の意思を持っていなかったこと、孝明天皇の崩御が岩倉の中央政界復帰に直接結びついていないことなどを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。
原口説が発表された後、毒殺説を唱える歴史学者の石井孝がこれに反駁したことにより、原口と石井の間で激しい論争が展開されたが、両者とも「物的証拠」がなく決着には至っていない。
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人物事典 幕末維新風雲伝
西郷隆盛、大久保利通など時代を駆け抜けた英雄・偉人たちの人物伝 jpreki.com
孝明天皇暗殺説
僅か35歳で急死した孝明天皇の死因は、天然痘と診断されたが、その死因については急すぎる事から暗殺説もある。
実際に孝明天皇は長年、悪性の痔(脱肛)に悩まされていたが、それ以外においては至って壮健であった。
1866年12月11日から風邪気味であった孝明天皇は、12日に発熱すると以後回復の兆しなく、16日からは天然痘を疑って、15名の医師団による治療が24時間体制で行われた。
その結果、24日までは順調に回復する傾向にあり、25日の昼もちょっと食欲が出たとある。
その後、急に悪化して血便を何度も洩らして苦しみ、午後23時過ぎに崩御されたのである。
このように回復傾向であったのにも関わらず、急激に悪化し崩御されたことから、ヒ素による毒殺と見る説もあり、岩倉具視と大久保利通が黒幕だとする見方もある。
また、典型的な脚気で、ビタミンB1欠乏により全身がだるくなり、急激に心肺停止を引き起こしたとも考えられる。
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明治維新・日本の近代化・軍国主義化は、ロシアの武力侵略とキリスト教の宗教侵略から神国日本を如何に守るかという、切羽詰まった究極の構造改革であった。
構造改革という「時代のうねり」は、社会の下層部、身分・階級の下級層から自然発生的に起こり、国を守る戦争は「絶対に負ける」と嫌う反戦平和志向の武士体制を崩壊させた。
幕末・明治の偽善者は、邪悪な外国勢力(外敵には中国や朝鮮も含まれる)の侵略から母国日本と日本民族を護る為ならば、幾万の日本人を殺す事はやむを得ないとし、その犠牲に天皇・皇族・宮家を加えるのも仕方がないと割り切っていた。
それが本当の「天皇を中心とした国體の護持」であり、それが日本民族・日本国が秘めた真の覚悟であった。
大正期に、日本を滅ぼす外国勢力として加わったのがイデオロギー侵略のソ連・中国共産党のマルクス・レーニン主義=共産主義・社会主義であった。
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日本にキリスト教やマルクス主義・共産主義が根付き支持者を増やせなかったのはこの為である。
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中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として金儲けしていた。
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近現代においても、共産主義テロリスト、狂信的キリスト教テロリスト、マルクス主義過激派、反体制派無政府主義者らは昭和天皇や皇族を惨殺するべくつけ狙っていた。
現代日本では、外国の反天皇反日勢力の息の掛かった日本人よる「神殺し・仏殺し」が静か進行している。
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儒教は、王朝を別姓の王朝に取り換える易姓革命と皇帝を取り換える放伐・禅譲を正当行為と認めている。
儒教における正統性とは、数十年から数百年の限定期間のみで成立し、そのため千年以上続く普遍の価値観ではない。
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日本民族は石器人・縄文人を祖先とし、日本天皇は弥生人を祖先としている。
日本民族は、乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
日本民族は、日本天皇、ヤマト大王を死を覚悟して護ってきた。
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帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、自分の為に働き、時には日本国に反乱を起こしていた。
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皇室に近い権力と権威を持った公家・上級武士(将軍や大名)・仏教僧にとって、目の前に座っている天皇・皇族・宮家は神ではなく「唯の人」であり、建前で象徴として奉っても、本音では便利な道具であり操り人形と見下していた。
皇室より遠かった下級武士、賤民(非人・穢多)、部落民、芸能の民、異能の民、異形の民にとって、天皇は「現人神」であり、皇族・宮家は神の家族であった、ゆえに皇室への念いが強かっただけに熱烈的狂信的な勤皇派・尊皇派となり命を捨てて戦った。
両者の中間にいた中級武士や裕福庶民(豪商や豪農)にとって、安定した平穏な自分の生活、自分の家禄、自分の家業が大事で、天皇・皇室などにはそれほどの関心もなければ興味もなかった。
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