🏞95)─3─大塩平八郎の乱。檄文で窮民救済の正当性を天皇の神徳に求めた。新たな皇国史観の目覚め。1836年~No.365 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 幕府は正統な朱子学を正学とした、在野の儒学者は異端の陽明学を学んだ。
 庶民は、幕府の政治権力に平伏し、仏教寺院の宗教権威に生活を支配されていた。
 非人・エタ・乞食などの賤民は、天皇の神徳にすがっていた。
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 天保の大飢饉は、冷害や台風の大被害による凶作が3年続き、餓死者は20万人〜30万人に達していた。
 1836(天保7)年 京や大阪にも天保の飢饉の深刻な影響が及び、貧困層に餓死者が続出した。
 米商人や豪商達は、高騰した米を買い占めて暴利を得ていた。
 大阪町奉行所は、幕府の命に従い、大量の米を飢餓民の為に放出せず江戸を廻送した。
 大坂町奉行所元与力で儒教陽明学大塩平八郎は、窮民救済の為に蔵書金620両を売り払った。
 2月19日 大塩平八郎は、門弟や賛同庶民ら総勢300人を動員して、窮民救済と幕政批判の為に武装蜂起したが敗北して自刀した。
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 大塩平八郎は、窮民救済の旗を掲げて蜂起するに当たり、天皇の神徳と徳川家康の仁政を檄文に書き記した。
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 幕府は、正学・朱子学と将軍の権力の正当性を守る為に、大塩平八郎が掲げた天皇の神徳と異端・陽明学を否定するべく、大塩の残党を徹底的に弾圧した。
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 非人・エタ・乞食など穢れた最下層民は、天皇の神徳に救いを求め、天皇を崇敬し信奉した。
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 大塩平八郎檄文
 島本仲道著「青天霹靂史」(明治20年8月刊)所載の本文は次の通り。
 四海困窮すれば天禄永く終らん。小人に国家を治めしむれば災害並み至ると、昔の聖人深く天下後世人の君人の臣たる者を御戒めくだされおき候故に、東照神君も鰥寡孤独に於てはあはれみを加ふべく候。これ、仁政の基と仰せくだされおき侯。然るに、この二百四五十年太平の間に追々、上たる人驕奢とて奢りを極め、大切の政事に携り候。諸役人ども賄賂を公に授受して贈り貰い致し、奥向女中の●(「タ」+「寅」)縁を以て道徳仁義もなき拙き身分にて立身重き役に経上り、一人一家を肥し候工夫のみに智術を運らし、その領分知行所の民百姓どもにに過分の用金を申し付け、これまで年貢諸役の甚しきに苦しむ上、右の通り無体の儀を申し渡し、追々入用かさみ候故に四海困窮と相成り候に付き、人々上を怨みるものなき様に成り行き候えども、江戸表より諸国一同右の風儀に落ち入り、天子は足利家以来別けて御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひ候に付き、下民の怨み何方へ告愬とてつげ訴る方なき様に乱れ候に付き、人々の怨み天に通じ、年々地震火災山も崩れ水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成り候。これ皆天より深く御誡めの有難き御告に候へども、一向に上たる人々心も附かず、なお小人奸者の輩が太切の政を執行ひ、唯、下を悩し金米を取立る手段ばかりに相掛かり、実に以て小前百姓どもの難儀を吾等如きもの草の陰より常々悲察候へども、湯王武王の勢位なく孔子孟子の道徳もなければ徒に蟄居致し候処、この節米価弥高直に相成り、大阪の奉行並びに諸役人ども万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を致し、江戸へ廻し米をいたし、天子御在所の京都へは廻し米の世話も致さゞるのみならず、五升壱斗位の米を買ひに下り候者どもは召捕りなどいたし、実に昔し葛伯といふ大名その農人の弁当を持ち運び候小児をころし候も同様、言語同断何れの土地にても人民は徳川家支配の者に相違なき処、かくの如き隔てを附け候は全く奉行等の不仁にて、その上勝手我が儘の触書等を度々差出し、大阪市中遊民ばかりを太切に心得候は、前々も申す通り道徳仁義を存せす拙き身分にて甚だ以て厚かましき不届の至り。且つ三都の内、大阪の金持ども年来諸大名へ貸し付け候利得の金銀並に扶持米を莫大に掠め取り、未曽有の有福に暮し、町人の身を以て大名の家老用人格等に取り用いられ、又は自己の田畑新田等を夥しく所持、何に不足なく暮し、この節の天災天罰を見なから畏も致さず、餓死の貧人乞食をも敢て救はず、その身は膏梁の味とて結構の物を喰ひ、妾宅等へ入り込み、或は揚尾茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、この難渋の時節に絹服を纒ひ候。河原者を妓女と共に迎へ、平生同様に遊楽に耽り候は何等の事かな。紂王長夜の酒盛も同じ事、その所の奉行諸役人手に握り居り候政を以て右の者どもを取り締り、下民を救ひ候儀出来かたく、日に堂島相場はかりをいじり事いたし実に禄盗にて、決して天道聖人の御心に叶ひ難く御赦しなき事に候。蟄居の我等もはや堪忍成りかたく、湯武の勢孔孟の徳はなけれども天下の為と存じ、血族の禍を犯し、この度有志の者と申合せ、下民を悩し苦め候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長し居り候大阪市中金持の町人どもを誅戮に及ひ申しべく候間、右の者ども穴蔵に貯え置き候金銀銭等、諸蔵屋敷内に隠し置き候俵米それぞれ分散配当いたし遣し候間、摂河泉播の内田畑所持致さゞる者たとえ所持いたし候えども、父母妻子家内の養い方出来かたき程の難渋者へは右金米等取り分け遣し候間、いつにても大阪市中に騒動起り候と聞き伝へ候はゞ、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向ひ馳せ参るべく候右の面々へ金米を分け遣しべく申し候。鉅橋鹿台の金粟を下民へ与えくだされ候遺意にて、当時の饑饉難儀を相救い遣し、もし又その内器量才力等有のものはそれぞれ取り立て、無道の者どもを征伐いたし候。軍役にも使うべく申し候。必ず一揆蜂起の企とは違ひ、追々年貢諸役に至る迄軽く致し、都て中興神武帝御政道の通り寛仁大度の取扱いに致し遣し、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改め、質素に立戻り、四海万民いつ迄も天恩を難有存し、父母妻子を被養、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遺し、尭舜天照皇大神の時代に復しがたくとも中興の気象に恢復とて立戻しべく申し候。この書付村々一々知らせたく候へども、多の事に付き最寄の人家多き大村の神殿へ張り附け置き候間、大阪より廻し有の番人どもに知らせざる様に心掛け、早々村々へ相触れべく申し、万一番人ども眼附け大坂四ケ所の奸人どもへ注進致し候様子に候はゞ、遠慮なく面々申合せ番人を残らず打ち殺しべく申し候。もし右騒動相起り候と承りながら疑惑いたし馳せ参り申さず又は遅参に及び候はゞ、金持の米金は皆火中の灰に相成り、天下の宝を取り失ひべく申し候間、跡にて我等を恨み宝を捨る無道者と陰言を致さず致様致すべく候。その為め一同に触れ知らせ候。尤も是まて地頭村方にある年貢等に拘はり候諸帳簿記録類は都て引き破り、焼き捨るべく申し候。これ往々深慮ある事に候、人民を困窮為致申さゞる積りに候。乍去この度の一挙当朝の平将門明智光秀漢土の劉裕朱全忠の謀反に類し候と申者是非これ有る道理に候へども、我等一同心中に天下国家を簒盗致し候欲念より起し候事には更に之なく、日月星辰の神鑑にある事にて詰る所は湯武漢高祖明太祖民を吊ひ君を誅し天討を執行候誠心のみに候。もし疑しく覚へ候はゞ、我等の所業終る処を爾等眼を開て看よ。但し、この書附に前の者へは道場坊或は医者等より篤と読み聞せべく申し候。もし庄屋年寄眼前の禍を畏れ一己に隠し候はゞ追て急度その罪可行候。
   天保八丁酉年月日
  奉天命致天討候  某  摂河泉播村々庄屋年寄百姓並に小前百姓共へ
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「大日本思想全集第16巻」(昭和6年、先進社内同刊行会)
 四海困窮致候者永禄永くたへん、小人に国家を治しめば災害並び至と、昔の聖人深く天下後世、人の君、人の臣たる者を御戒術置候故、東照神君も「鰥寡孤独におゐて、尤あはれみを加ふべく候、是仁政の基」と被仰置侯。然るに、茲二百四五十年太平の間、追々上たる者、驕奢とて、おごりを極、大切の政事に携候諸役人共、賄賂を公に、授受とて、贈貰いたし、奥向女中の周縁を以、道徳仁義存もなき拙き身分にて、立身重き役に経上り、壱人一家を肥し候工夫而已に智術を運らし、其領分知行所の民百姓共に過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しきに苦む上、右之通、無体の儀を申渡、追々入用かさみ候故、四海困究と相成候に付、人々上を怨ざるものなきよふに成行候得共、江戸表より諸国一同、右之風儀に落入、
 天子は、足利家以来、別て御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひ候に付、下民の怨何方え、告愬とて、つげ訴ふる方なきやふに乱候に付、人々の怨天に通じ、年々、地震、火災、山も崩れ水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候、是皆天より深く御誠の有がたき御告に候へども、一向上たる人々心も付ず、猶、小人奸者の輩大切之政事執行、唯下を悩し金米を取立る手段計に相懸り、実以、小前百姓共の難儀を、吾等如きもの、草の陰より常々察、怨候得ども、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒に蟄居いたし候処、此節米価弥高直に相成、大阪の奉行並諸役人、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸之廻し米をいたし、
 天子御在所の京都にては、廻米の世話も不致而已ならず、五升壱斗位の米を買に下り候もの共召捕などいたし、実に昔葛伯といふ大名、その農人の弁当を持運び候小児を殺候も同様、言語道断、何れの土地にても人民は、徳川家支配の者に相違なき処、如此隔を付候は、全奉行等の不仁にて其上勝手我儘の触れ等を差出、大阪市中遊民計を大切に心得候は、前にも申通り、道徳仁義を不在拙き身分にて、甚以、厚かましき不届の至、且三都の内、大阪の金持共、年来諸大名へ貸付候利徳の金銀並扶持米を莫大に掠取、未曾有之有福に暮し、町人の身を以、大名の家へ用人格等に被取用、又は自己の田畑新田等を夥敷所持、何に不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏も不致、餓死の貧人乞食を敢て不救、其身は膏梁の味とて、結構の物を食ひ、妾宅等へ入込、我は揚尾茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、此の難渋の時節に絹服をまとひ候かわら者を妓女と共に迎ひ、平生同様に遊楽に耽候は、何等の事哉、紂王長夜の酒盛も同事、其所之奉行諸役人、手に握居候政を以、右の者共を取締、下民を救ひ候も難出来、日々堂島相場計をいじり事いたし、実に禄盗に而、決而天道聖人の御心に難叶、御赦しなき事と、蟄居の我等、もはや堪忍難成、湯武之勢、孔孟之徳はなけれども、天下之為と存、血族の禍を犯し、此度有志のものと申合、下民を苦しめ候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大阪市中金持の町人共を誅戮におよび可申候間、右之者共穴蔵に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内に置候俸米、夫々分散配当いたし遣候間、摂河泉播之内、田畑所持不致もの、たとへば所持いたし候とも父母妻子家内の養ひ方難出来程之難渋ものえは、右金米等取分ち遣候間、いつにても、大阪市中に騒動起り候と聞伝へ候はゞ、里数を不厭、一刻も早く、大阪へ向馳参べく候、面々え右金米を分遣し可申候、鉅橋鹿台の金粟を下民え被与候趣意に而、当時の饑饉難儀を相救遣し、若又其内器量才力等有之ものは、夫々取立、無道之者共を征伐いたし候軍役にも遣ひ可申候。必一揆蜂起の企とは違ひ、追々年貢諸役に至る迄軽くいたし、都て中興神武帝御政道之通、寛仁大度の取扱にいたし遣、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改、質素に立戻り、四海万民、いつ迄も、天恩を難有存、父母妻子をも養、生前之地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遺し、尭舜、天照皇太神之時代に復し難くとも、中興の気象に、恢復とて、立戻し可申候。
 此書付、村々一々しらせ度候得共、多数之事に付、最寄之人家多き大村之神殿え張付置候間、大阪より廻有之番人共にしらせざる様に心懸け、早々村々え相触可申、万一番人共眼付、大阪四ケ所の奸人共え注進致候様子に候はゞ、遠慮なく、面々申合、番人を不残打殺可申候。若右騒動起り候と乍承、疑惑いたし、馳参不申、又は遅参に及候はゞ、金持の金は皆火中の灰に相成、天下の宝を取失可申候間、跡に而我等を恨み、宝を捨る無道者と陰言を不致様可致候、其為一同へ触しらせ候。尤是まで地頭村方にある年貢等にかゝわり候諸記録帳面類は都て引破焼捨可申候是往々深き慮ある事にて、人民を困窮為致不申積に候。乍去、此度の一挙、常朝平将門明智光秀、漢土之劉裕朱全忠之謀叛に類し候と申者も是非有之道理に候得共、我等一同、心中に天下国家を簒盗いたし候欲念より起し候事には更無之、日月星辰之神鑑にある事にて、詰る所は、湯武、漢高祖、明太祖、民を吊、君を誅し、天討を執行候誠心而已にて、若疑しく覚候はゞ、我等の所業終候処を、爾等眼を開て看。但し、此書付、小前之者へは、道場坊主或医師等より、篤と読聞せ可申候。若庄屋年寄眼前の禍を畏、一己に隠し候はゞ、追て急度其罪可行候。奉天命致天討候。
 天保八丁酉年 月 日  某
 摂河泉播村々
  庄屋年寄百姓並小前百姓共え
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 原文 
 四海困窮せば、天禄永絶えん、小人に国家を治しめば、災害並到ると、昔の聖人深く天下後世の、人の君、人の臣たる者を誠め被置候故、東照神君も、鰥寡(かんか)孤独におゐて尤憐を加へ候は 仁政の基と被仰候し、然る処、此二百四五十年、大平の間に追々上たる人、驕奢を公に授受して、贈貰ひ致し、奥向女中の因縁を以て、道徳仁義もなき拙き自分として、立身重役に歴上り、一人一家を肥し候工夫のみに心運し、其領分知行の民百姓共に、過分の入用金申附、是迄年貢諸役に甚敷苦む上、右の通無体の儀申渡、追々入用かさみ候故、四海困窮に相成侯に付、人々上を怨ざる若無き様に成行候得共、江戸表より諸国一同右之風儀に落入、天子は足利家以来、別て御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひに付、平民の怨み何方へ告訴とて、告訴る方なき様乱れ候に付、人々の怨気天に通じ、年々地震火災、山も崩れ水も溢れしより外、種々様々、天災流行、遂に五穀飢僅に相成、是皆天より深く御誡の難有御告に候得共、一向上たる人心も得す、猶小人奸那の輩、大切の政事を執行ひ、天下を悩め、金米を取立候手段計に相懸り、実に以小前百姓の難儀を、我等如き草の陰より察し悲み候得共、湯王武王の勢位もなく孔子孟子の道徳も無ければ、徒に塾居致し候処、此節は米価愈高直に相成、大坂之奉行、并諸役人共万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を致し、江戸へは廻来之世話致し、天子御在所の京都へは、処米の世話いたさゞる而已ならず、五升壹升[ママ]位の米を買下候者共を召補抔致し、実に昔葛伯と云大名、其農人弁当を持参る小児を殺し候も同様、言語同断、何れの土地にても、人民は徳川家御支配の者に無相違処、如此隔を附候者、全く泰行等の不仁にして、其上勝手我侭の触書等を度々差出、大坂市中遊民計を大切に心得候は前にも申通、道徳仁義も不存拙き身故にて、甚以厚か間敷不届の到り、且三都の内、大坂の金持共、年来諸大名へ貸附け候利足金銀并扶持米等莫大に掠取、未曾有之有福に募り、町人の身を以、大名の家老用人之格に被取用、又自己の田畑新等を夥敷所持、何等之無不足暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏もいたさず、餓死貧人乞食共、敢て不救共、身は膏梁の味とて、結構の物を食ひ、妾宅等へ入込、或は揚屋茶屋へ大名家来を誘引参り、高価の酒を湯水を飲も同様に致し、此難渋の時節に絹服を纏ひ、河原者と妓女共に迎ひ、平常同様の遊楽に耽り候者、何等の事に候哉、紂王長夜の酒盛も同事、其所の奉行諸役人、手に握り候政を以、右之者共を取扱、下民を救ひ候儀も難出来、日々堂島の米相場計を致し候事、実に禄盗人にて、決て天道聖人之御心に難叶御扱ひ無き事に候、於是塾居の我等、最早堪忍難成、湯の勢ひ、孔孟の徳はなけれども、無拠天下の為と存じ、血族の禍ひを侵し、此度有志の者と申合、下民を悩し苦しめ候、諸役人共を誅戮致し、引続き奢に長じ居候、大坂市中金持の町人共を誅戮可致候間、右之者共、穴蔵に貯置候、金銀銭並諸蔵屋敷内へ隠置候俵米、夫々分散配当致し遣し候間、摂河泉播之内、田畑所持不致者、縦令所持致候共、父母妻子家内の養方難出来候程の難渋者へは、右金米為取遣候間、何日にても、大坂市中に騒動起り候と聞得候はゞ、里数を厭ず、一刻も早く、大坂へ向け馳参り候面々へ、右米金遺可申候、鉅橋鹿台の粟財を、下民へ被興候御遺意にて、当時の饑饉難儀を相救遣し、若又其内器量才力等有之者には、其々取立不道の者共を、征伐致す軍役に使ひ可申候、必一攘峰起の企とは違ひ、追々年貢諸役に到迄軽致し、都て中興神武帝御政道の通り、寛仁大度の取扱ひ致し、年来蹣奢淫逸の風俗も、一洗に相改め、質素に立戻り四海天思を難有存じ候て、父母妻子を取養ひ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を、眼前に為見遣し、堯舜天照皇太神の時代には復し難けれ共、中興の気象に恢復とて、立戻可申候、此書付、一々村々へ為知度候得共、夥敷事に付、最寄人家多き大村の神殷等へ張置候間、大坂より廻し有之番人共へ、不為知様心掛早々村々へ相触可申候、万一番人共見附、四ヶ所の奸人共へ、注進いたし候様子に候はゞ、無遠慮面々申合せ、番人を不残打殺し可申候、若又大騒動起り候と承りながら、疑惑致し馳参り不申、又は遅参に及候得者、皆金持之米金火中の灰と相成、天下の宝を取失ひ可申候間、跡にて必我等を恨み、宝を捨て候不道若と、陰言不致様、為其一同へ触為知候、尤是迄地頭村方にある、年貢等に拘り候諸記録帳面類は、都て引破り、焼捨可申候、是往々深慮り有事にて、人民を困窮為致不申積に候、乍去此度の一挙、当朝平将門明智光秀、漢土劉裕朱全忠の謀反に類し候と申ものも、是非有之道理に有之候得共、天下国家を纂盗致し候欲念より、おこり候ことには、更に無之候、日月星辰、神鑑有之事にて、詰る処は、湯武、漢高祖、明大祖、民を弔し、天罰を取行ひ候誠心而己にて、若疑敷相覚候得者、我等所業、終る所を爾等篤と限を開きて見よ、尚々、此書付小前之者へは、道場坊主或は医者等より、篤と読為聞可中候、若庄屋年寄眼前之禍を畏れ、一己に隠し候はゞ、追て急度其罪を可行候、
  奉天命致天罰候 摂河泉播村々
 庄屋年寄小前百姓共え
    天保八丁酉年 月 日
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神話の壊滅―大塩平八郎と天道思想

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