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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本列島は、自然豊かであると同時に、雑多な自然災害、疫病、飢饉・餓死、大火が複合的に多発する悲惨で苛酷な居住環境にあった。
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江戸は、「壁に耳あり障子に目あり」の油断も好きもない厳しい監視社会であり、えげつないほどに薄情で冷淡で非情なブラック社会であった。
日本人ほど信用できない人間はいない。
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日本人が御上(天皇・朝廷、将軍・幕府、大名・藩)の言う事に素直に従うには、明らかな理由があった。
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昔の金持ち・お大尽、地主、庄屋・名主は、現代の富裕層、資産家・資本家、株保有者・土地所有者、企業家・経営者とは全然違う。
貧富の格差は、昔と現代とは違っていた。
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1836・37年 天保の大飢饉。
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2020年7月29日 読売新聞「文化 歴史
疫病流行 江戸の緊急給付 迅速
銀や米、5~12日で
積立金や町人自治組織の力
疫病流行による江戸での給付
| 対象数 | 給付総額 |理由|
1802年|28万8,441人|銀7万3,094貫文|風邪|
03年| 4万1,020人|銀6万3,573貫文|風疹|
21年|29万6,987人|銀7万5,035貫文|風邪|
32年|30万6,038人|米1万1,467石 |風邪|
51年|38万1,740人|米1万4,215石 |風邪・米価高騰|
58年|52万3,076人|米2万3,917石 |コレラ|
鈴木浩三
江戸時代の日本はたびたび感染症に襲われた。天然痘や麻疹(はしか)のほか、19世紀頃からは、インフルエンザとみられる『風邪』の流行が目立つようになった。
感染症の大流行や災害などの際には、江戸に住む、行商人や日当で生活する職人など、当時『其日稼(そのひかせぎ)』と呼ばれた人々に対して、銭や米が緊急的に配られた。この給付は『御救(おすくい)』と呼ばれた。
疫病流行に限っても、別表のように、頻繁に給付されている。人口100万といわれる江戸で、武士をのぞくと人口は60万人ほど。そのうちの半数が対象となっている。これほど対象が多いにもかかわらず、1802年のインフルエンザ流行では、3月17日に給付を決めてからわずか12日で配布を終えた。21年には、2月28日の決定で、実質5日で給付を完了している。
このスピードの背景には、安定した財源と、必要とする人々の情報を正確に把握できる仕組みがあった。
財源となる『七部積金(しちぶつみきん)』は、18世紀後半の天明の大飢饉で、其日稼らによる大規模な打壊(うちこわ)しが江戸で発生したことを受けて、1791年に創設された。江戸の町人(地主)が毎年約2万5,900両を拠出し、幕府も基金として2万両を出資した。今でいうファンドに相当し、疫病、飢饉や災害時の緊急的な給付『御救』に備えて備蓄し、ふだんは地主向けの低利融資などで運用されていた。
こうした給付や運用を担う組織『江戸町会所(まちかいしょ)』は、幕府の監督下ではあったが、武士ではなく、有力商人である『勘定所御用達』10人や、町人たちの代表『肝煎(きもいり)名主』6人が実質的に運用した。
当時の江戸の『町』は、人別改({にんべつあらため}住民の管理)、防火・消防、市区町村税に似た都市の維持管理費『町入用(まちにゅうよう)』の徴収のほか、簡単な民事訴訟や祭礼まで行い、現代の市区町村よりも大きな権限を持つ自治組織だった。平常時から、町組織を代表する名主や、その配下に位置づけられた大家(おおや)などを通じて町内の住民たちの家族構成や職業、収入状況などをきめ細かく把握していた。だからこそ、いざというときに銭や米をすばやく給付することができたのだ。
町の上部には、武士である南北町奉行2人と、その配下の330人の与力・同心たちがいたが、彼らだけでは、とても数十万人の都市住民の暮らしを把握できない。
1854年、2度目に来航したアメリカのペリーに、幕府の交渉責任者となった大学頭、林復斎は『人命を第一に重んじることでは日本は万国に勝っており、それゆえ300年近く太平が続いているのだ!』と啖呵(たんか)を切っている(『墨夷(ぼくい)応接録』)。
武士たちの治世者としての自信は、実務能力と自治にたけた町人たちの実績によって裏付けられていたのである。
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すずき・こうぞう 経済史家。1960年、東京都生まれ。著書に『江戸の風評被害』など。」
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幕府が行った被災者救済は、身分・階層・階級による差別や依怙贔屓はなく、同じ人として士農工商から賤民(非人・穢多)・部落民まで別け隔てせず平等・公平・公正に行われた。
幕府が掲げたのは日本儒教(論語儒教)の「天下万民」であった。
日本儒教は、中国・朝鮮の中華儒教とは違う。
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NHK 知恵泉
「江戸の危機管理II」(前編)
天下泰平とされる江戸時代、実は度々災厄に見舞われている。そのとき人々はどう動いたか。江戸時代の危機管理を探るシリーズ第二弾。前編は徳川吉宗の疫病対策に着目する。財政の立て直し「享保の改革」で知られる吉宗は、麻疹の流行、飢饉による疫病のまん延に苦しめられた治世下で医療改革にも乗り出している。そのとき大きな役割を果たしたのがデータの収集と情報の伝達方法、被害を拡大させないためにとった吉宗の知恵を探る。
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「江戸の危機管理II」(後編)
天下泰平とされる江戸時代、実は度々災厄にあっている。江戸時代の危機管理を探る第二弾、後編は幕末に人々を悩ませたはしかとコレラを前に、格闘した人たちから、その知恵を考える。有史以来、人々を悩ませたはしか。そして開国を機に海外から入り大流行したコレラ。この時期は、それまでの日本の医療体制では解決できない感染症の“パンデミック”が相次いだ。この難問に医師はどう対処したか?その後の日本に残した知恵にも迫る
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防災情報新聞
○幕府、飢饉対策で御救小屋つくる、天保の大飢饉深刻化、幕藩体制が招いた慢性的飢餓、
30年後体制は崩壊し明治維新成る(180年前)[改訂]
1837年4月10日(天保8年3月6日)
この頃、江戸では米の値段が高騰し、庶民は購入することが出来ず、飢えて行き倒れや路頭に迷う者が多くなっていた。天保の大飢饉である。
幕府はこの状況に際し、前年1836年12月(天保7年10月)神田佐久間町に御救小屋を建て、江戸生まれの困窮者を収容していたが、この日代官たちに命じて、各街道の江戸への入り口である、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)、内藤新宿(甲州街道)に御救小屋を建て、農村から江戸に出て来た困窮者を直ちに収容するよう命じた。
天保の大飢饉は、30年(文政13年)、31年(天保2年)の米の不作から端を発する。翌32年(同3年)も全国的な冷夏によって3年連続の不作となった上、翌33年(同4年)は春から異常な天候で暑さが続いたが夏になると一転して長雨が続き、寒さに震え農村では冷害に見舞われる。特に東北と関東では米をはじめ農作物の大凶作で、米価が高騰して庶民の生活を圧迫、飢えによる病人や餓死者が多く出るという大飢饉となった。
翌34年(同5年)は比較的に天候が順調だったが、農村でも前年の大飢饉で病人や餓死者が多く出て、労働力が回復することなく生産力は低下したままだった。そこへ翌35年8月(同6年7月)の台風による洪水が襲いかかる。
台風は中国、四国から近畿、中部、関東及び東北を縦断、せっかく育った稲を根こそぎ倒すなど各地に大被害を与えた。そして、とどめは翌36年(同7年)の冷害と暴風雨による全国的な被害である。
この2年は1833年(天保4年)の時と異なり全国的な大凶作となっている。当然のように翌37年(同8年)にかけて米価は大暴騰し、都市部では米確保のため食料品以外の購買力も落ち、それら生産地では米価の暴騰の上、売上収入減という二重の大不況となった。そのため例外的な地域のない全国的な大飢饉状態が続き、多量の餓死者を出すに及んだ。
この間の状況を当時の記録書「豊後立石史談」は伝えている。“天保二、三年ごろより、とかく気候不順、秋収穫少なく、天保四年に至りては、夏半ば頃より霖雨数十日、暑熱を覚えず。六月、大洪水。八月、又暴風にて田畑の損害、人家の倒壊、その他被害少なからず。庶民飢渇に苦しむ者ますます多きを加え、かくて(天保)四年の飢饉より中二年を隔てて同七年(36年)夏は気候いよいよ不純にて六、七月に至るも冷気を催し、人皆冬衣を着る““果たして天下の大飢饉となりて、五穀実らず蔬菜果物の類も一として生色無かりき。されば人々は草根・木の芽の類より牛馬犬猫鶏の類まで食い尽くし”“甚だしきは愛子の屍をさえ食む者あるなど” と。
この当時、飢えた人々は、江戸、大坂、京都など大都市へと救いを求めた。しかしようやくたどり着いても、ここも米あれど、値段は益々高く、人々は路頭に迷い行き倒れとなったのである。
幕府が江戸に御救小屋を造ったこの1か月前に起きた大塩平八郎の乱は、大飢饉に対する大坂町奉行の不正な対応に対する武装一揆だった。しかしこの蜂起は例外ではなく、一揆をはじめ不正蓄財をしている富商や米穀商の大店に対する打ち壊しが各地で頻発した。
天保の初年度から続く飢餓状態を当時“7年飢渇”と呼んだが、その間の全国の餓死者は数十万人にのぼったと見られている。この全国的な大飢饉に対し、各藩ではそれぞれ米穀を貯蔵して放出するなど対策を立てたが、それはあくまでも自藩の領内だけのものであり、一方幕府には調整機能はなく、逆に飢饉でありながらも、諸国に江戸への回米(米の輸送)を強要したので、いっそう全国的な米価の高騰を招き、慢性的な飢餓状態を現出させた。
これはそれまでの幕藩体制(幕府と諸藩による政治・経済体制)が招いた危機的な状態で、天保の大飢饉によってその体制は崩壊を早め、明治維新が成るのはわずか30年後のことである。
(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1837(天保7)843頁:流浪の民に寝食支給、江戸4宿に御救小屋設置」、「大塩平八郎の乱おこる、奉行の飢饉対策に抗議」、小倉一德編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅵ 豪雪災害・冷害・干害>4 冷害・干害・飢饉の事例>569頁~571頁:天保の飢饉」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>天保七年 639頁:◎天保の飢饉」。参照:2015年8月の周年災害〈上巻〉「天保6年仙台藩領大洪水など中国から東北へ台風通過」、2017年3月の周年災害「大坂天保8年の大火『大塩焼:大塩平八郎の乱』」)
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ウィキペディア
仁杉五郎左衛門(ひとすぎ ごろうざえもん、?-天保13年1月10日(1842年2月19日))は江戸時代の文化から天保期にかけての南町奉行所与力。本名幸生(ゆきなり)。後に幸信(ゆきのぶ)と改名した。駿河国駿東郡仁杉(ひとすぎ)村を発祥の地とする後北条家の家臣・仁杉伊賀守幸通(ゆきみち)から数えて9代目。
人物
天保時代には年番方与力に就任し、天保7年ごろに起きた天保飢饉に苦しむ江戸市民のために各地から米を買い集め、市内に開設したお救い小屋で粥を提供し、飢民を救済することに奔走した。5年後の天保12年(1841年)、このお救い米買付に不正があったと旗本小普請支配(前勘定奉行)の矢部定謙が老中首座水野忠邦に告発した。
この時期、南町奉行は筒井政憲だったが、閑職に左遷されていた矢部が返り咲きを狙い、筒井の責任としてこの事件を告発したのである。4月28日、矢部は首尾よく筒井の後任の南町奉行の座に着いた。そして五郎左衛門は同年10月に投獄(伝馬町牢屋敷揚座敷)された。不正とは米業者からの賂、付け届けの類であるが、この当時の習慣から大きく逸脱したものではなく、あまりに片手落ちの処分としている後世の学者もある。
念願の奉行の座についた矢部であったが 就任後のこの事件の処理が適当でなかったと目付鳥居忠耀が老中水野に告発した。水野とは江戸町政について対立関係にあったこともあり、矢部は就任8ヵ月の12月21日に罷免された。そしてその7日後の28日に鳥居が奉行の座についた。
その後水野の意を受けて天保改革という名の下に圧政を推進する。お救い米買付不正事件は幕閣の権力争いの具にされた感がある。
五郎左衛門は投獄の3ヵ月後、天保13年正月10日に獄死している。獄死後の3月21日、評定所で「存命ならば死罪」の判決を受け、二人の男子は三宅島、八丈島へ遠島となり、ここに幕府草創時から続いた与力仁杉家は断絶となった。
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江戸時代を支えていたのは、徳川幕府の全国的金銀銅本位貨幣制度、諸藩発行の地域限定紙幣の藩札、両替商の手形や米問屋の米手形などの民間業界内信用札などであった。
それは、間接的にオランダ・アムステルダム金融界と繋がっていた。
その金融基本政策を立案し実行したのが徳川家康であった。
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江戸時代の被災対策や被災民救済策の基本方針の原形を作ったのが徳川吉宗であった。
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江戸時代。諸大名は、御公儀(幕府)の施政を真似、他藩の施策に横並びし、領地経営を行っていたが、慢性的藩政赤字(財政赤字)を解消する為の地場産業を興し他藩に差別化を図る商業活動を積極的に行っていた。
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徳川幕府は、悪政や失政で百姓一揆を引き起こし統治能力をなくした大名は改易し、藩を取り潰した。
仕えるし主君や藩を失った武士達は、家禄という安定した収入を失い浪人という極貧生活に陥り、仕事にありつけなければ最悪の場合には妻や娘を女郎に売って大金を得て生きた。
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御救(読み)おすくい
おすくい ‥すくひ
精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙 (「お」は接頭語)
① 「救うこと」をいう尊敬語。御救済。
※禁令考‐前集・第五・巻四八・享保八年(1723)正月「火事に逢候度々、幾度にても妻子共御救可レ被二下置一候事」
② 「おすくいまい(御救米)」の略。
※随筆・一話一言(1779‐1820頃)補遺「御救渡り方一人前玄米一升、小麦五合、大麦二升、都て五日分」
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
世界大百科事典内の御救の言及
【七分積金】より
…この結果,七分積金を基礎とする江戸の都市改革は,都市下層社会に対する一個の〈社会政策〉を軸として展開することになった。 江戸町会所の第1の機能は,江戸町方全体の社倉=備荒貯穀として,飢饉や災害時における窮民への独自の〈御救(おすくい)〉を実施することにあった。向柳原をはじめ深川新大橋向や小菅などに60棟以上の籾蔵が建設されていき,文化・文政(1804‐30)期には13万~17万石,幕末には数十万石規模の籾が貯蔵されたのである。…
※「御救」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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御救米(読み)おすくいまい
おすくいまい おすくひ‥
精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙 江戸時代、飢饉、災害などの被災者を救済するための応急施米。おすくい。
※財政経済史料‐二・財政・賑恤・災害救済・宝暦五年(1755)四月日「居宅不レ残致二類焼一候に付、願之通御救米被レ下候間」
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
世界大百科事典内の御救米の言及
【救米】より
…江戸時代の困窮民に対する救恤(きゆうじゆつ)策の一つ。多くは飢饉,火災,水害などの災害時,罹災窮民のいっそうの困窮化を防ぐため,幕府,領主などによって与えられる救助米を指し,人々はこれを敬して御救米と称した。これに対して,民間で行われる救済の救助米は合力米,施行米と称される場合が多い。…
※「御救米」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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救小屋(読み)すくいごや
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
江戸時代、飢饉(ききん)・水難・火災などの天災に際し、困窮民を救済する目的で建てられた施設。同様な施設は、すでに1421年(応永28)室町幕府の将軍足利義持(あしかがよしもち)によって京都五条河原に建てられた例などが知られる。江戸時代には、小屋の規模が数千人を収容するほど大きくなり、幕府をはじめ寺社や個人によっても建てられた。江戸の場合、1742年(寛保2)の隅田(すみだ)川の洪水では新大橋西詰や両国橋際に、1836、37年(天保7、8)の飢饉では神田佐久間(さくま)町一丁目地先などに、1855年(安政2)の大地震では幕府による浅草雷門(かみなりもん)前はじめ5か所と上野輪王寺宮(りんのうじのみや)による救小屋が設置され、被災民を収容して食糧を与えた。施行米(せぎょうまい)など救援物資は、江戸の町会所や豪商などから供出させることもあった。また、救小屋では、収容民を稼ぎに出して賃金を取りまとめ、出所する際に復興資金として渡すことも行っている。1866年(慶応2)の江戸市中の打毀(うちこわし)では、蜂起(ほうき)した民衆が救小屋の設置を要求した。[馬場 章]
『南和男著『幕末江戸社会の研究』(1978・吉川弘文館) ▽南和男著『江戸の社会構造』(1969・塙書房)』
[参照項目] | 飢饉
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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ウィキペディア
救小屋(すくいごや)とは、江戸時代に地震・火災・洪水・飢饉などの天災の際に、被害にあった人々を救助するために、幕府や藩などが立てた公的な救済施設(小屋)のことである。御救小屋(おすくいこや)ともいう。
概要
地方の諸藩でも盛んに作られたが、地方から逃散した人々などが集まる江戸や大坂などの都市部では、特に大規模な収容施設となった。地方からの都市への流入者の増加は、犯罪の増加に直結することから、江戸市中では治安の維持を目的に町奉行所が管理していた。これら施設では宿泊施設のほか、米の支給や職の斡旋を行なわれた。
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日本人は、心温かく、困っている人に手を差し伸べて助ける、とはウソである。
日本人は、心冷たく、薄情で、冷淡で、冷血で、困っている人を助けるどころか関わり合いたくない為に見物人・野次馬となり傍観者として離れて見ているだけである。
その傾向は、現代日本人に強い。
その証拠が、イジメ、意地悪、嫌がらせなどで、最悪、相手を死に追い込む現実である。
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江戸時代は過酷で残酷な超現実的ブラック社会であったが、人々は、幕府も大名も、武士も庶民(百姓や町人)も、世の中を少しでも住みやすくする為に頑張っていた。
それが、「世の為、人の為」や「滅私奉公」であり、「分を弁える」、「身の程を知る」、「足るを知る」という日本民族日本人の生き方である。
人に必要なのは「寝て一畳、立って座って半畳」という思想である。
自己責任。自力救済。自助努力。
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現代の日本人と昔の日本人は、別人のような日本人である。
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江戸時代の日本には、キリスト教もマルクス主義的も入り込む余地はなかった。
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日本には、哲学や思想はあっても主義主張(イデオロギー)はなかったし、必要としなかった。
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「日本人は歴史が好き」はウソである。
現代日本人が好きなのは、興味がある奇想天外な時代劇であって事実に基づいた地味な歴史ではない。
特に、マルクス主義者や反天皇反日的日本人は日本民族中心史を無価値或いは犯罪的であるとして完全否定している。
その証拠が、「江戸時代中期後半、田沼意次時代から始まったロシアの日本侵略という危機が日清戦争、日露戦争、韓国併合で解消された」という事実が歴史から消されている。
歴史力がない日本人とは、グローバルな高学歴出身知的エリートに多い。
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