関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本国にとって、蝦夷地(北海道)・北方領土は鬼門の守りであった。
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日本の存立は、如何なる犠牲を払っても蝦夷地(北海道)・北方領土(4島)を死守する事であった。
外国勢力に蝦夷地(北海道)・北方領土を奪われると、日本は滅びる。
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水戸学は、合理的論理的実践的実学であり、思想・イデオロギーを伴っていた。
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2018年4月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
33 徳川斉昭の和魂洋才
『天保の改革』は、藤田幽谷や会沢正志斎などの水戸学イデオローグの議論の実践だった。
水戸藩の構造問題
徳川斉昭が水戸藩主の座に就いたのは1829(文政12)年である。翌年に元号は天保に改まる。斉昭は、彼を擁立してくれた水戸藩の下士を中心とする人々の期待に応えるべく、藩政の大胆な改革を欲した。『天保の改革』である。そう言うと一般の日本史では、幕府の老中、水野忠邦の行った幕政改革を指すと相場は決まっているが、水戸では徳川斉昭の藩政改革を『天保の改革』と呼ぶ。そこには斉昭を奉じた水戸学者たちのアイデアが積極的に取り込まれた。
斉昭が真っ先に改革しようとしたのは農政である。その象徴が『三雑穀切返しの法』を廃する宣言であった。
『三雑穀切返しの法』とは、水戸の初代藩主、徳川頼房から続く『水戸の悪法の代表』である。水戸学の雄、藤田幽谷は主著のひとつ『勧農或問(かんのうわくもん)』で、その廃止を主張していた。『勧農或問』は1799(寛政11)年の作。斉昭が藩主になったとき、既に幽谷はこの世の人ではなかったが、斉昭は『勧農或問』の実践を『天保の改革』の目玉にしたかったようだ。
『勧農或問』は言う。『有司の仕方悪しきにより、大に民心を損ふものは、三雑穀の切返しより甚だしきはなし』。三雑穀とは大豆と稗(ひえ)と荏胡麻(えごま)を指す。荏胡麻からは油を搾った。大豆は水戸だと納豆のイメージがあるだろうが、水戸でよく納豆を食するようになったのは近代以降のことかと思われる。
……
八代将軍吉宗の頃の享保11(1726)年、幕府に提出した水戸藩の公式統計によれば、藩の人口は31万8,475人で、うち男性は17万6,132人であった。ところが寛政10(1798)年、藩の人口は22万9,239人、うち男性は12万2,243人だという。階級で言うと全体の9割5分は農民と推定されている。武士も町人も何千人かずつということになる。
これらの統計が正しければ、約70年で水戸藩の人口は、農民を中心に3割も減っていることになる。江戸時代は人口の面では停滞期と考えられているが、水戸藩に関していえば停滞どころでなく激しい人口減少が起きている。疫病が流行したり飢饉で大量に餓死したといった異常事態が、水戸にだけあったというわけでもない。結局、人口が余所に流出しているのであろう。幽谷は、水戸藩の実質農業生産高も、徳川光圀の時代に比すると寛政期にはやはり3割減じている、『勧農或問』で試算している。苛政ゆえに人々は故郷を捨て、水戸は壊れつつある。そう言っても決して大袈裟ではない。かなりの惨状、もはや末期症状の体である。
斉昭の『グラスノスチ』
藤田幽谷は早急な対策を訴える。『三雑穀切返しの法』の廃止を始めとして、農民の税負担の軽減を主張する。そうすれば短期的には税収は当然ながら減ずるだろうが、人口と労働意欲・生産力の回復をはかるには、民に多様なりとも余裕を持たせる以外に手はあるまい。徳川斉昭は、この幽谷の提言を、遅まきながら実行に移そうとしたのだろう。もっとも実のところは、斉昭は肝心要の『三雑穀切返しの法』をすぐにやめると言いながら、ほんとうに廃止するまでには、藩主就任から10年以上もかかったのだが。相変わず先立つものには苦労をし、公約をなかなか実行できなかった。とはいえ、税制改革には手をつけていったし、農民層に期待を持たせ、やる気を起こさせることには、いちおう成功したのだろう。
農民だけではない。斉昭を藩主に擁立することに尽くしたのは、主に水戸藩の下士たちだった。下層の侍だった。彼らに藩政への参加と責任を意識をより強く持たせたい。斉昭の思想である。下を精神的に上に帰一させ、総力を出させる。農民に対しても武家に対しても考え方としては一貫している。斉昭は、たとえ足軽でも、上輩・上司に遠慮なく、藩政の問題点について藩主に書面で直接意見することを求めた。ソ連末期におけるゴルバチョフのグラスノスチのようなものと少し似ている。風通しをよくして下から盛り上げる。やりようによっては危ないが、斉昭の場合は功を奏し、藩政の活性化に寄与したようである。
こうした改革の試みと一体になったのは、倹約の徹底である。農民の税負担の軽減をはかれば、その分、武家が質素にするしかない。倹約は会沢正志斎の『新論』が説いていたことでもある。藩主斉昭自身が険(けわ)しい暮らしに徹した。粗食に耐え、着物は粗悪品も辞さない。宴会も原則禁止。武士だけでなく町人にも課した。三味線音楽もやめさせた。贅沢は敵というだけではない。儒学には礼楽思想がセットになっている。正しい音楽が世に行われれば、世は道徳化するという考え方。正しい音楽で穏和で感情を鎮静させる退屈なくらいな音楽のことと、しばしば考えられてきた。その立場からすると、三味線は響きが柔弱に過ぎて駄目だということになる。儒学に立脚する水戸学の道理にも適っていた。
また斉昭は、藩外の品物を水戸で買って消費することを歓迎しなかった。食料も衣料も工業製品も、藩内の生産物で賄うことを理想とした。藩外の品物は商人の手と足が介在して持ち込まれ、価格にはマージンが乗ってくる。国と国だろうが、藩と藩だろうが、江戸と藩だろうが、『輸入』は必ず割高になる理屈で、自藩の富を流出させる。『輸出』も生産力が不十分な『持たざる藩』にとっては藩内で消費すべき必需品の流出につながる恐れと不可分だから、かりに金銭上の利得をもたらしたとしても、安全保障上、良策とは言えない。斉昭が西洋諸国に対して日本の開国を拒否するのと同じ論理が働いている。
はて、新藩主斉昭がそうした企てを重ねたのは、水戸藩の財政を立て直そうとしてのことだろうか。もちろんそうには違いない。だが平時における単なる財政改善の策というのとは、動機も次元も根本的に違っていた。斉昭にとっては、文政年間も天保年間も非常時もしくは準非常時なのである。藤田幽谷も『勧農或問』を素直に農民の暮らしのためにしたためたのではない。北から迫るロシアの脅威に備えて軍事予算を捻出しなければならない。それで頭が一杯なのが1799年の幽谷であった。
何しろ水戸藩は天皇と将軍の国を率先して死守する歴史的使命を課せられた特別な藩。経済的余裕の有無にかかわずやるときはやらねばならない。水戸学はそのための実学である。可及的すみやかに富国強兵を図らねば使命を果たせないのならば、農本主義の時代には勧業は勧農に尽きてくる。水戸学者は平時なら『大日本史』の執筆と編纂に励んでおればよいふぁ、非常時には生産力増強理論の案出に努めねばならない。農業振興こそ国防の礎。それで『勧農或問』になる。
藤田幽谷の愛弟子、会沢正志斎の『新論』における倹約の主張も、倹約を美徳とするから出てくるのではない。これもまた実学だる。武士が華美を捨て都市生活をやめて倹約し、国防の最前線である本土の海岸地域や蝦夷地にじかに住み、屯田兵になって自給自足生活を送れば、最大効率で実働戦力が保てるという実学的要求に従ってこその、険約の主張である。
徳川斉昭は彼らの理論に忠実に振る舞おうとした。倹約と財政緊縮を熱烈に実践しだした。水戸藩内の上士を中心とする、水戸学的発想に従えず、そこまでの対外的危機意識をまだ抱けぬ人々の顰蹙(ひんしゅく)を買った。そうした真っ最中の1833(天保4)年、斉昭は幕府の許可を得て、定府の決まりの江戸を離れ、水戸にお国に入りし、そこでいきなり険約政策と明らかに背反(はいはん)すると見える鹿狩りを、藩士を大量動員し、水戸近傍(きんぼう)の山中で行った。
鹿狩りは普通に考えれば、鷹狩りなどと同じく、将軍や大名の贅沢な娯楽である。質素を重んずるのとは正反対の行動と指弾されても仕方ない。だが斉昭はもちろん違った理屈に基づいて行動していた。鹿狩りとみせかけての言わば陸軍大演習のつもりだった。国防強化と総動員体制作りのために冗費(じょうひ)節約と民心の掌握に努める。そうして軍事に大胆に集中して予算を投入する。斉昭が実際にやったことだった。
だが、水戸藩の構造を改革し、『三雑穀の切返しの法』をやめると宣言するくらいのことで、斉昭と彼を支える水戸の学者たちの大望が果たせるはずもない。水戸の欲する軍事力は水戸藩領の自衛力にとどまらない。江戸を固め、天皇を守り、皇国全体を維持する。そのためには西洋への大遠征や先制攻撃も可能としなければならない。積極的な国防体制は、対外攻撃能力も可能な水準に達しなければ完成しない。そして究極の目標は世界制覇。会沢正志斎が斉昭の藩主就任前から主張していることである。水戸藩は日本でも核心的武力を保有して、その理想の実現のために寄与せねばならない。
しかるに現実の水戸は貧しすぎる。小さすぎる。藩政改革だけでは如何ともしがたい。斉昭は1834(天保5)年の秋、幕閣に対して赤裸々で大胆な運動を始めた。知恵袋は、会沢正志斎、青山延于、藤田東湖らの水戸学者である。
まず斉昭は幕府へ、水戸藩に蝦夷地を開拓させるようにと請願した。水戸学は、立原翠軒や木村謙次以来、ロシアの脅威を研究し、対露情報を蓄積してきた。北方の脅威を意識することで、水戸の学問もたちまち歴史学から非常時対応の実学へと変質し、その思想を実践するべく登場した藩主が徳川斉昭である。今こそ北方警固は水戸藩に任せられるべきだ。だが純粋に警固だけを請け負う財力が水戸藩には無い。だから開拓も併せてさせて貰う。要するに屯田兵である。水戸の屯田兵に蝦夷地を任せよ。そういうことである。
続いてすぐに斉昭は、水戸藩本領の増封運動も始めた。12万石の加増を求めた。藩財政の破綻を防ぐにはもはや領地拡大しかないと幕府に訴えた。ターゲットは常陸国の水戸藩領から外れた海岸よりの南側、鹿島と行方である。水戸藩は元が35万石なので加増が認められれば47万石。同じ御三家の尾張徳川家は61万石で、紀州徳川家は55万石。届かないがだいぶん近付きはする。御三家の格に実態が少し見合ってくる。それに鹿島は海防の要衝。江戸を西洋諸国の海軍から護るために、水戸の学者たちは鹿島に海防要塞を築きたかったのだ。
斉昭は、幕府に矢継ぎ早に出したこの不穏とも言える要求を、けっこう実現可能ではないかと考えていたようである。幕閣首脳にも賄賂を贈るなどして、まじめにアプローチした。しかし、常軌を逸していると警戒されただけで終わったようである。
斉昭は、水戸学的教養に裏付けられた自らの痛切な危機意識と、幕府や、水戸藩内でもまさかすぐに西洋諸国の圧力が顕在化するとは考えない『常識的な勢力』とのあいだに、目まいのするほどの齟齬(そご)を感じたろう。
『岩戸隠れ』の成功
斉昭は激しく苛立ちながらも、幕府への要求のレベルを取りあえず大幅に下げることにした。水戸藩が成立当初から慢性的な財政危機に陥り続けている主因は、藩主の『江戸定府』という他藩にない事情から生まれる高負担である。だったら『江戸定府』を廃するか緩めてもらえないか。
そこで、藤田幽谷の子の藤田東湖が、斉昭に奇策を授けた。『斉昭の岩戸隠れ』である。天照大神が高天原の治まらなさ加減につむじを曲げて天の岩戸の奥に引きこもってしまう。天照大神は太陽神もしくは太陽そのものであるので、世界は暗黒に包まれる。それで神々は困り、天照大神の気持ちを重んじなければと、改めて思うようになる。これは天照大神の権威を改めて確認するための革命のようなものであったのだろう。この神話の筋に倣って、藤田東湖は主君に水戸藩の江戸屋敷に引きこもらせた。皇国と水戸を重ね合わせて演出するのは水戸学者の得意中の得意である。斉昭の苛立ちはそれほど深い。ここまでやれば、みなも気付くだろう。
斉昭は江戸城に行かなくなった。藩政にも指示を与えなくなった。隠居をほのめかした。この『岩戸隠れ』は成果をえたようである。『江戸定府』をせずともよいとまさかいきなりはならなかったが、水戸藩主の長期帰国は認められやすくなった。藩内でも斉昭の急進的な改革や大胆な発想に異を唱える者が表向きは減った。
斉昭は『岩戸隠れ』によって勢いを得た。『新論』の国防思想の具体化にも本格着手する。蝦夷地も鹿島も水戸藩にくれないのなら、とりあえず領内でやるしかない。1836(天保7)年、斉昭は現在の日立市助川に助川城と呼ばれる海防のための要塞を築いた。1824(文政7)年に英国捕鯨船の乗務員が上陸してきて大騒動がまき起こった大津浜からも遠くない。山野辺義観を長とする士卒200名が助川城勤務を命じられた。
助川には町があったわけではない。僻地の純然たる軍事要塞に、200人の侍が常駐した。土着化して兵農一体となって、ついには自給自足することが期待された。『新論』の屯田兵構想がついに実践されたのである。天下泰平の江戸時代の長年の常識を破る試みである。むろん助川城1ヵ所でよいという話ではない。斉昭と水戸の学者たちは日本中の海岸に海防要塞を至急築くべきだと考えていた。特に蝦夷地は要塞だらけにすべきである。その先駆けとしてのとりあえずの助川城ということだ。英清間の阿片戦争の起こる4年前のことである。
ところで、助川城は戦国乱世からのいわゆる日本式の城郭とは違っている。水戸学の木村謙次や会沢正志斎は、西洋の軍事科学技術の優位を認め、西洋諸国の日本侵攻を食い止めて、さらに逆襲するには、敵の科学技術をそのままわがものにせねばならないと早くから考えていた。そして、その目的は日本の現状を保ったままでも、長崎経由の西洋知識と日本の旧来の科学技術力を結合させれば可能とも思っていた。天保の頃はまだそうである。
徳川斉昭は、この点でも水戸学思想の忠実な実践者だった。彼は藩主就任3年目の1831(天保2)年、蘭学者の青地林宗や幡崎鼎の軍事科学書を蒐集(しゅうしゅう)・翻訳させ、また西洋式の要塞や砲術陣地の図面の写しを作らせた。1933(天保4)年には鹿狩りをする一方、領内の海岸を自ら検分して、海防要塞建設の適地を早くも探し始めていた。その実りが助川城であり、あるいは助川城に少し先んじて建設された那珂湊の砲台である。助川城の大砲の配置等々には、オランダの兵書から取り入れた知識が反映されている。それは西洋式要塞を模範として作られたと言ってよいだろう。
尊王攘夷の実現のためには『夷』に学ばなくてはならない。徳川斉昭の目指したのは和魂洋才の道であった。」
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ウィキペディア
屯田兵は、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊である。1874年(明治7年)に制度が設けられ、翌年から実施、1904年(明治37年)に廃止された。
軌跡
屯田兵の開始
屯田制を北海道に実施するという考えは、明治初年から様々な方面に生まれていた。そのおそらく最初のものは、徳川家の遺臣を移して北方警備と開墾に従事させようとする榎本武揚の考えで、彼はこの計画を掲げて新政府と箱館戦争を戦った。
政府内の提案としては、明治3年11月(1870年12月 - 1871年1月)に開拓使が行なったものがはじめである。ついで西郷隆盛が1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて士族による北方警備と開拓を主唱した。西郷は計画の実現をみることなく下野したが、彼の影響で開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官に屯田制を建議した。樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且守るときは、開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」というものであった。黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合旧松前藩と東北諸藩の貧窮士族を想定していた。
太政官は黒田の提案に賛成し、1874年(明治7年)に屯田兵例則を定めた。1875年(明治8年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が開始された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
屯田兵
中国屯田制にならって平時農耕に従事し,戦時に兵務に従事する辺境防備の農兵。明治維新以後,北海道開拓のため派遣されたものに対して特に用いられた。ロシアの南下政策に対抗するため,開拓使次官黒田清隆は,士族授産と現地警備力の増強を兼ねて開拓民を士族から募集することを建白し,裁可された。 1874年10月屯田兵例則が発布され,札幌近郊の琴似村を中心に東北地方から965人が徴募され,翌年移住した。90年以降,陸軍省が経費を支出し,4万人に上る兵員が開拓に従事した。 96年には第7師団の管轄下に入ったが,1903年に廃止された。
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2018年4月14日 産経ニュース「「開拓の父」佐賀藩出身の開拓判官、島義勇 札幌で顕彰祭 佐賀県の山口祥義知事「地元でも偉業伝えたい」
北海道神宮で開かれた島義勇の顕彰祭=14日午前、札幌市中央区(杉浦美香撮影)
「北海道開拓の父」と呼ばれる佐賀藩出身の開拓判官、島義勇(よしたけ、1822〜74年)の顕彰祭が14日、札幌市中央区の北海道神宮で行われ、市民や佐賀県の山口祥義知事や佐賀市の秀島敏行市長ら約220人が参加した。
島は幕末、佐賀藩主の鍋島直正の命で蝦夷や樺太を探検調査。明治2(1869)年、開拓判官となり、札幌の碁盤の目状の区画を構想し都市整備の基盤を築いた。
札幌では開拓の先覚者として慕われ、北海道神宮と市役所に像があり、慰霊祭が神宮で毎年開かれているが、地元の佐賀では佐賀の乱で斬首になったこともあり、あまり顧みられてこなかった。
山口知事は「札幌に比べ顧みられてこなかったが、11月には佐賀城公園に島の銅像も建立する。偉業を県民に伝えていきたい」と述べ、「今年は明治維新150年という記念の年。開催中の肥前さが幕末維新博覧会でも紹介しており、銅像もできる。札幌の方にも来ていただきたい」とアピールした。
島のひ孫にあたる富山富美子さん(92)は「札幌の方にこうして慕われていることはとてもありがたい」と話していた。」
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日本民族が日本国で生き残る為には、縄文人の子孫である蝦夷地アイヌ人を吸収する以外に手立てがなかった。
ロシアに吸収された樺太アイヌ人と千島アイヌ人は消滅した。
日本国が存続するには、蝦夷地アイヌ人を味方に付ける必要があった。
決して、日本の敵にしない事、ロシアに味方させない事であった。
もし、蝦夷地アイヌ人がロシアの支援で日本からの独立を目指せば、日本はアイヌ独立運動を止める事はできず、蝦夷地(北海道)・北方領土はロシアに併吞されロシア領になっていた。
それは同時に、蝦夷地アイヌ人の消滅を意味する。
日本の存続の鍵は、蝦夷地アイヌ人をどうやって日本民族日本人に吸収し同化するかであった。
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反日的外国勢力は、アイヌ人を日本国内の少数民族として、日本人から差別と迫害を受けていると訴え、中には日本からの独立運動を支援している。
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現代において、ロシアは日本領土・北方四島を国際法違法で軍事占領している。
外国資本が、過疎化が進む北海道の土地を買い漁っている。
反天皇反日的日本人は、日本の不利益を承知で外国勢力を支援している。
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現代日本のグローバル志向の学者・科学者、研究者・技術者などの高学歴出身知的エリートは、世界中から最先端の科学・化学の知識や技術の情報を好きなだけ集め、地球上を自由に移動して優れた人物と会って意見交換しても、水戸から一歩も出た事のないローカル志向の水戸学者の方が遙かに優れていた。
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日本が中華(中国・朝鮮)と根本的に異なるのは水戸学があったからである。
それ故に、キリスト教史観とマルクス主義(共産主義)史観が支配する現代において天皇中心の皇国史観・国軆史観である水戸学は無価値として歴史の闇に葬られている。
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日本は、開国に当たって阿片戦争で敗れた清国(中国)を教訓としたわけではない。
「日本は清国(中国)に感謝するべきである」という言説は、反日敵日そして反天皇の悪意に満ちたおぞましい恫喝である。
日本人である事を卑下し、醜態をさらすように、みっともなく中国に媚びへつらう必要は何もない。
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江戸時代の日本と中華の中国・朝鮮は、似ても似つかわない国であった。
極東アジアにあっても、日本と中華の中国・朝鮮は一衣帯水の関係でもなく唇と歯の関係・唇歯輔車(しんしほしゃ)の関係でもなかった。
南方系海洋民の日本民族と北方系草原民の中華民族である漢族(中国人)その亜流である朝鮮民族とは、異族であって同族でも何でもない。
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中華儒教の「民は之に由(よ)らしむべし、之を知らしむべからず」は、中国や朝鮮では常識であったが、日本ではありえなかった。
日本の庶民(百姓・町人)は、中国や朝鮮の学問や教養なき小人とは違っていた。
中華儒教的社会は、江戸時代ではなくバブル経済崩壊以降の硬直化した日本である。
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現代日本の高学歴出身知的エリートや知識人・教養人・有識者は、武士やサムライより中国の士大夫・読書人や朝鮮の両班(ヤンバン)に似ている。
同様に、現代日本の金持ち・資産家・富裕層は江戸時代の豪商や豪農などのお大尽とも違う。
そもそも、グローバル化した現代日本人は江戸時代のローカルな日本人と全く異なる。
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幕末は、老中・田沼意次時代のロシア南下に対する警戒から始まった。
ロシアに対する攘夷論は、老中・松平定信時代から水戸藩を中心として日本全土に広まった。
祖国防衛に燃える攘夷論は、下級武士や庶民(百姓・町人)に広まった。
そして、非人・エタなどの賤民や山の民・海の民・川の民などの部落民らが尊皇派・勤皇派として立ち上がった。
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1780年頃あら始まった、ロシアの南下・ロシアの侵略に言及しない日本の歴史は嘘である
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帝政ロシアの目的は、日本との交易と太平洋・アジアへの侵出であって日本侵略ではなかった。
徳川幕府は、ロシアの南下を日本侵略と見なし、蝦夷地(北海道)と北方領土を国防の最前線と判断して、東北諸藩に防衛の為に派兵を命じた。
日本の軍事力は、母国防衛であって海外侵略ではない。
ただし、ロシア(後のソ連)の日本侵略を手助けする周辺諸国(中国と朝鮮)に対しては積極的自衛権を発動し、攻められる前に攻撃して反日・敵日派勢力を排除して、親日・知日派政権を樹立して攻守同盟を結んだ。
日韓併合は、清国とロシアに対する国防戦略として。
満州事変と満州国建国は、ソ連・中国共産党などの共産主義勢力に対する国防戦略として。
中国と朝鮮は、古代から反日派・敵日派であって、親日派・知日派ではなかった。
国際社会は、日本の軍事力を祖国防衛を海外侵略と認定し、日本人の祖国防衛戦を平和と人道に対する罪・戦争犯罪であると断罪している。
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