✿348)─1・A─西欧列強の植民地獲得戦争。遊女や丁稚を含む500万人と犬も牛も伊勢神宮へ御陰参りに出掛けた。アヘン戦争。1840年〜No.739No.740@      

伊勢神宮ひとり歩き

伊勢神宮ひとり歩き

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・
 伊勢銘菓の「関の戸」を売る深川屋の売り上げは、前年の5割増し。「1日2万人が押しかけ、道を横断する事もできない。振る舞いのお握りを配るのが大変だった」
 日本民族日本人は、祖先神・氏神信仰から、皇室の祖先神を祀る伊勢神宮への想い入れは特別であった。
 宿屋は、大名行列以外は、ほとんどが伊勢参り客であった。
 旅籠は、伊勢参り客を、伊勢音頭で出迎え、そして伊勢音頭で送り出した。
 伊勢神宮を崇敬しない日本人は、日本人ではなかった。
 3月頃 阿波地方から始まった御陰参りは、伊勢神宮の御札が空から降ってきたという噂が広まるや、各地から約500万人(総人口約3,200万人)の人々が伊勢神宮に参詣した。
 「老いも若きも、子供も孫を引き連れ、中には家を閉じて抜け参りに出かけた者が多く、下女も台所や井戸端での仕事をそのままにいて着の身着のまま飛び出る者もいた」
 江戸時代の五街道は、女性一人、子供一人でも、伊勢神宮を目指したが犯罪に巻き込まれる事はなかった。
 大名行列が行き来する街道や脇街道は、治安が守られていた。
 庶民は、大名行列が来ても土下座をせず、脇により立ってやり過ごした。
 大名が、他藩の庶民が土下座をしないからと言って、問答無用として切り捨てる事はまずあり得なかった。
 無礼を働かないのに切り捨て御免などしたら、幕府から処罰を受け、身は切腹、藩は取り潰された。
 幕府は、法度・御状・掟に違反した罪で大名家を取り潰し、領地を召し上げた。
 店の主人や夫は、御陰参りに出かける女房や奉公人を止める事は出来なかった。
 特に、東海道を旅をする庶民の数は半端ではなかった。
 旅費を持たない旅人は、柄杓一本を手にして、伊勢の大御神の御威光を借りてお恵みを強要し、乞われた者は伊勢の大御神の祟りを恐れて金銭や食べ物を与えた。
 金銭をせびりながら御陰参りをする庶民を、サムライでも止める事が出来なかった。
 御陰参りは、天下御免で、安い宿屋に泊まりながら旅を続けた。
 宿場は、旅人で病人が出れば無料で治療し、元気になってから送り出した。
 日本の信仰心は、お祭り騒ぎに近い祀りであり、その熱気はサムライよりも百姓や町人など身分の低い庶民に強かった。
 江戸から伊勢までは、約456キロで、途中の悪天候を入れて往復約1ヶ月の日数がかった。
 庶民の女房は、従順に亭主にかしずいている様に見せながら「へそくり」にはげみ、亭主を仕事に送り出してから、数人の女房は金を出し合い食べ物を持って近場の寺社仏閣に出かけて日頃の鬱憤を晴らしていた。
 江戸時代の日本社会は、建て前では「亭主関白」であったが本音では「カカァ天下」で、男よりも女の方が強かった。
 大坂商人など一部の豪商や豪農は、碌でもない放蕩息子より娘を大事にし、優秀な養子をとった。例えそれが、身分低い丁稚上がりでも能力があれば問題にはしなかった。
 ただし、武士の家や一部の商家はそうではなかった。
 貝原益軒「生家にあっては父に従い、夫の家に嫁いでは夫に従い、夫死してのちは子に従え」『女大学』三従の教え。
 サムライにとって、日ごろ抑圧されていた庶民は祟りをなす恐れがある神であった為に、なるべく「触らぬ」ように放置した。
 幕府や諸藩は、天災で飢饉が発生するや、百姓一揆や打ち壊しで暴れる恐れのある貧民者をとりあえず救済した。
 ただし、酒や博打で田畑を借金の抵当で失い女房や娘を売り飛ばして小作人に転落し者は、自己責任と家族連帯責任で見捨てた。
 明治になってから、江戸時代までの家族関係や地域の人間関係が激変した。
 昭和から平成に世が移るにつれて、昔ながらの日本社会は姿を消した。
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 ウィーン大学のリンハルト博士は、『手を使った三つ巴の「ジャンケン」は江戸末期の日本で生まれ、発展した』と提唱した。
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 1840年代・化政文化における農民の日記「昔。この村には無筆(読み書きの出来ない)者が多かった。今では、その様な事を言っても、誰も本当の事だとは思わない程である。もっとも、老人にはまだ無筆も人もいるが。以前、たいへん博学な寺の住職が隠居した後に、儒教の書物などを教授する事があったが、そのころは村の人々に余裕がなかった為か、学ぶ事は流行しなかった。しかし、そのうちに素読儒教書などを声に出して読む事)が流行し、奉公人まで学ぶようになった。さらに現在では、学問、俳諧、和歌、狂歌、生け花、茶の湯、書画などを心がける人が多い。この村では、誠に天地白黒ほどの変化が生まれたが、この村だけではなく世間一般に同じ状況である」
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 1840年 アヘン戦争。イギリスは、莫大な利益を得る為にアヘン戦争を起した。清国を分割し、中国を植民地化する為に無理難題を押し付けた。
 キリスト教徒白人は、宗教的人種差別から異教徒中国人を薄汚い「犬」と罵り、奴隷の如く重労働を強要した。
 欧州は、白人優位の宗教的選民思想に基づく階級意識を、アジア・アフリカで普遍的価値観として押し付けた。
 清国(総人口約4億1,000万人)は、腐敗し堕落していた為に、人種差別的絶対価値観を打破する気迫なく、奴隷的境遇を受け入れた。
 極一部の中国人のみが民族主義に目覚め、民族解放に為に武器をとって蜂起し、暴力を持って抵抗運動を始めた。
 そこには、非暴力無抵抗は存在しない。それを唱える者は、独立した人間としての権利を放棄した奴隷か、悪巧みを企む犯罪者のみであった。
 ただし、インドで非暴力無抵抗主義を唱えたガンジーのみは、世界的に偉大な指導者であった。だが、残念な事に自国民に暗殺された。
 権利や自由は、戦争で勝ち取る。それが、世界常識であった。
 アヘン王サッスーンは、バクダッド出身のイラクユダヤ人商人で、イギリスに渡ってロスチャイルドとの関係を深め、英国東インド会社の交易事業を引き継いだ。香港や上海の秘密結社と共謀し、インド産アヘンと中国人奴隷を主力商品として資産を増やした。
 彼等は、宗教的人種差別を容認していた。
 イギリス軍は、清国軍を撃破する為に漢族独立派を利用したが、香港を手に入れ、アヘン貿易を再開するや、清国との関係修復を行った。
 漢族は、満州族清王朝から独立して漢族の帝国を再建する為にイギリス軍に協力した。
 清国軍の敗北は、漢族がイギリス軍に味方したからである。
 何時の時代でも。強大な軍隊は、内部の裏切り者の為に敗北した。
 イギリス軍は、嘘・偽りを恥とも思わない漢族の親英派帝国樹立より清国を信用し、友好の証しとして、味方した漢族を清国官憲に引き渡した。
 清国は、漢族独立派の多くを逮捕し、陰惨な方法で拷問にかけ、猟奇的な手段で処刑した。
 漢族は、同胞意識よりも自分の利益を優先する民族性ゆえに、同胞が残忍な刑で処刑されるのを面白い趣向と喜んで見物した。
 追求を逃れた漢族独立派は、捲土重来を期し、華僑となって東南アジアやアメリカに渡った。
 湖南軍は、広東軍を救援に出動したが、イギリス軍と戦わずに広州市を襲い、略奪目的で虐殺と放火を行った。
 広東軍は、市民を守る為に、湖南軍を攻撃した。
 同様に、中国人兵士と中国人兵士が戦う事態が各地で発生していた。
 清国軍の軍紀紊乱ゆえに、負けるべくして負けた。
 これ以降、清国の腐敗堕落はさらに悪化していった
 1842年 南京条約。清国は、欧州列国との外交交渉がわからない為に、友好国であるロシア帝国の助言を得ていた。
 中国人は、西洋人を「洋鬼子」と教養なき獣と軽蔑していたが、アヘン戦争に負けるや、節操なく掌を返した様に「洋大人」と煽てて媚びへつらった。その鬱憤を、虫けらの様に嫌悪する日本に向けた。
 「倭」とは、日本人を「醜い小人」と蔑視する人種差別用語である。
 中国語には、人を汚く罵る差別用語が大量に存在する。
 イギリスは、アヘン戦争に勝利し香港島の割譲と上海・広州などを開港させたが、イギリス製品は中国人にとって魅力がなかった為に全く売れなかった。
 宣教師等は、文明を知らない未開の中国に文明を伝え、真理を知らず迷える中国人の間に隣人愛信仰を広め救い出そうと、という崇高な使命を抱いて中国大陸に上陸した。
 清朝は、キリスト教を禁教としていたが、イギリス軍の武力を背景にして布教する宣教師を取り締まる事は、イギリスとの紛争の種になるとして、開港地のみであれば黙認した。
 身分低い漢族の通訳官は、布教活動をする宣教師等に付いて行動するにしたがって感化されて、洗礼を受けた。
 中国人商人や苦力らは、改宗してキリスト教徒になるとイギリスやフランスの関係を利用して得がえられると信じ、先を争って洗礼を受けた。
 現世利得信仰に強い中国人にとって、宗教は信じるもではなく金儲けの為に利用するものであった。
 漢族の間に、キリスト教徒が急増した。
 宣教師は、平和的な布教活動を心がけた。
 中国人キリスト教徒は、信仰の証として儒教や迷信的土着宗教を攻撃して宗教間対立を引き起こした。
 さらに。敬虔な中国人キリスト教徒は、中国に神の王国を建設するという使命から、内陸や華北に移動して活発に宗教活動を繰り返した。
 地元の地主や農民等の信仰を集めていた土着宗教は、排他的なキリスト教の拡大に危機感を持ち、そして攻撃した。
 清朝や地元行政府も、宗教秘密結社白蓮教徒の乱(1796〜1805年)の記憶がまだ新しいだけに、中国人の心身を蝕むアヘン同様に宗教対立で秩序を破壊するキリスト教の蔓延を警戒した。
 中国人キリスト教徒は、自己防衛的に秘密結社をつくり、他宗教からの攻撃に備えて武装化していった。
 満州族支配下で虐げられていた客家キリスト教徒は、犯罪組織の秘密結社と同盟関係を持って一大勢力に発展した。
 キリスト教に改宗した苦力や小作人などの貧困農民は、生活改善を求めて暴動を起こした。
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 1840年頃から フランスは、ベトナム南部を軍事占領し統合して仏領コーチシナを形成し、インドシナ半島全域を植民地化する重要拠点とした。
 フランス政府は、イギリスのアヘン貿易を真似して華僑の秘密結社と結託して暴利を得るべく、アヘン産地である雲南北ベトナムを結ぶ輸送路整備を計画した。
 北ベトナムと中国南部を支配する劉永福の軍閥黒旗軍は、アヘン密売の上納金を増やす為に法外な通行料を要求した。
 フランスの開発計画は頓挫して失敗した。
 1842年 フランスは、タヒチとの間で保護領とする条約を強要し、1880年に正式に植民地ではなく領土に組み込んだ。
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 1841年 水戸藩第9代藩主徳川斉昭は、総合大学的な藩校「弘道館」を開設し、藩士やその子弟に儒学、数学、天文学、医学、武術など多岐に亘る学問を学ばせ文武両道の修行を行わせた。
 1842年 水戸斉昭は、「民と偕(とも)に楽しみたい」として「偕楽園」を開園した。
 昌平坂学問所は、アヘン戦争を調べて『鴉片(アヘン)始末』を出版しイギリスの蛮行を天下に知らせた。
 『孫子』「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず」
 幕府は、西洋との戦争に発展する事を恐れて異国船打払令を停止し、
 8月 幕府は、アヘン戦争で清国がイギリスに敗北し屈辱的な条約を押し付けられたとの情報をオランダから得て、西洋の情報を分析した。
 西洋との戦争を避ける為に異国船打払令を停止し、人道的見地から薪水給与令を発した。
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 1844年にフランスの宣教師が、1846年にイギリスのバーナード・ジャン・ベッテルハイムなどが来琉した。
 宣教師らは、本国の軍隊の力を背景として布教活動を許可するよう王府に圧力を掛けた。
 王府は、軍事力をちらつかせて脅迫してくる宣教師への対応に苦慮し、やむなく護国寺などへの居住を許可したが、布教活動には様々な制限を加えることで対抗した。
 ベッテルハイムは、滞在中琉球方言を修得し、新約聖書福音書のいくつかを翻訳して「琉球聖書」を作成して、後に香港で出版した。
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 1845年4月 アメリカのマンハタン号は、浦賀湊に入港して、浦賀奉行所に日本人漂流民を引き渡した。
 7月2日 開国勧告の長崎着文。オランダ国王ウィレム2世は、江戸幕府に対して欧州情勢を知らせると共に、速やかに鎖国策を止めて開国する様に勧告した。
 9月 老中首座に就任した阿部正弘は、アヘン戦争の情報を踏まえて今後の外交・国防問題について、薩摩藩島津斉彬水戸藩徳川斉昭など諸大名に幅広く意見を求めた。国難に際して、位が高く家柄が良いだけで無能な者を廃し、川路聖謨井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震などを有能な士を登用した。
 国際情勢が理解できない頑迷固陋の保守層からの反発を警戒しながら、緩やかな限定的開国の為の体制改造を慎重に進めた。
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 1846年 アメリ東インド隊司令ジェームズ・ビドルが、2隻の帆船で相模国浦賀に来航して通商を求めた。
 阿部正弘は、開国は時期尚早として、国是である鎖国を理由にして拒絶した。
 日本は、中国や朝鮮とは全く違う外交を行おうとしていた。
 江戸幕府は、オランダを通じて新興国アメリカの国力に付いての報告を受けていた。
 アメリカは、イギリス、フランス、ロシア帝国などの大国に比べて小国で、アヘン戦争の様な侵略戦争を行えるだけの軍事力がなかった。
 フランスのルヴェリエとイギリスのJ・C・アダムスは、天王星のふらつきはその近くにある巨大な天体の重力の影響ではないかと推測し、未知の天体の位置を推測した。
 イギリス人のチャリス、アダムスのイギリチームとドイツ人のガレ、ルヴェリエのフランスチームは、先取権を賭け、競争で探索を始めた。
 ガレは、自分が先に未知の天体・天王星を観測しと思い込んだが、すでにチャリスが観測していた。
 だが。チャリスは、新惑星発見の発見の榮誉をガレに譲った。
 1848年 ラゴダ号事件。
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 1849年 ホリス・リード「世界史のあらゆる変化や革命に神の手を跡づける」
 「我々は現代の二大海洋国民(英米)に与えられた驚くべき神の手に驚嘆せざるを得ない。かっては全東洋に宗教、学問、および文明を与えてきたインドのような国も、今やアングロ・サクソンの手中に落ちいらなければならなかった」(『歴史における神の手』)
 4月 アメリカ軍艦プレブル号は、長崎に来航した。
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 中国人は、一部のキリスト教宣教師が「隣人愛の信仰」を説きながら、白人商人と結託してアヘンの密売で儲けている事に激怒していた。
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 白人キリスト教徒は、異教徒中国人を人間以下の獣同様に扱った。
 キリスト教は、排他的一神教として、宗教的人種差別主義を生み出した。
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 1850年 日本の実質GDPは、217億ドル。
 イギリスは、633億ドル。フランスは、580億ドル。スペインは、161億ドル。
 (アンガス・マディソン。2006年に試算。)
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 1851年 ハーマン・メルヴィル、小説『白鯨』を発表した。
 「ゲイ岬出身の老インディアンがこんな事を言っていた。『そうさね、船長は日本の沖合いで足のマストをもがれちまったのさ』」
 「あの二重に閉ざされた国、日本が、もし門戸を開くような事になれば、その功績を称えられるべきは捕鯨船である。それはすでに日本の門戸の近くに来ているのだろう」
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 1851年 吉田松陰は、日本近海に頻繁に出没する外国船に脅威を感じ、外敵の侵略から神国・日本を如何に護るかを苦慮していた。
 特に、北方から南下してくるロシア帝国の侵略を如何に海岸で防ぐかを考える為に、藩の通行手形を得る事なく脱藩行為として、肥後・勤皇派の宮部鼎蔵(みやべていぞう)と東北に旅立った。
 井伊直弼は、藩主であった長兄の井伊直亮兄が36歳で死去した為に彦根藩主になるや、藩金15万両を年貢を納める全ての土民に分け与えた。
 そして、帰国するたびに領内を巡見し、生活に困っている領民や病に苦しむ者に救いの手を差し伸べた。
 日本の大名は、領民に重税を課し圧政を行う暴君ではなく、なるべく税を軽減し庶民の暮らし向きが良くなるように腐心する封建領主であった。
 井伊直弼桜田門外の変尊王攘夷派に国を外国に売る奸賊として暗殺されても、領民は善政を行った慈愛に満ちた名君として慕いその墓を大事に守った。
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 1850年 朝鮮の人口は750万人前後で、日本の様な人口増加はなかった。
 1851(〜64)年 中国で、プロテスタントキリスト教徒は「絶対神への信仰」を守る為に太平天国の乱(信徒300万人以上)を起こした。
 客家出身の洪秀全は、自分はイエスの弟と自称して神聖皇帝を宣言した。
 太平天国軍(キリスト教軍)は、南京を占領するや絶対神への信仰を否定する者を虐殺し、街の至る所に屍体を山と積みあげて、阿鼻叫喚の巷とした。
 清国政府は、騎兵を中心とした正規軍を派遣したが、地元の地理に明るい反乱軍の反撃にあって鎮圧できず、反乱は拡大した。
 太平天国は、勢力を拡大して版図を広げたが、独立心の強い中国人は主導権争いを起こした。
 5名の幹部が、自分こそが本当のイエスの親族であり、自分こそが絶対神の啓示を受けた使徒であると、言い募って聖王を宣言して独立した。
 こうした、自分勝手な解釈によって太平天国は分裂した。
 現代においても。中国や朝鮮において、イエスの生まれからり、イエスの末裔、絶対神の啓示を受けたなどなど、自己満足的に言いふらして新興宗教を立ち上げる怪しげな教祖は後を絶たない。
 中国や朝鮮には、日本の様な万世一系の皇統という思想はなかっただけに、自分勝手に皇帝や国王を自称して不毛の戦いを繰り返し、虐殺をおこなっていた。
 「滅満興漢」のスローガンは、1911年の辛亥革命以降のものであったという。
 地元漢族の名門・名家・名士である地主や商家は、清国の正規軍は当てにならないとして、自分の土地や商売を守る為に金を出し合い、イギリスやフランスから武器を買い込んで自警団・義勇軍を組織した。地元は地元が独自に守り、税金は自警部隊の為に使うとして送金を拒否した。
 反乱の鎮圧に失敗した北京中央政府は、税金徴収権などの諸権限の多くを手放した。
 自警軍は、税収をもとにして軍備を強化して軍閥化していった。
 地方軍の曾国藩李鴻章などの漢族将軍は、太平天国の反乱を鎮圧して政治的発言力を付け、北京中央政界で勢力を付けていった。
 2,000万人以上と言われる匪賊が、各地を荒らし回り、虐殺や略奪を行い、女や子供を強制連行して奴隷として売りさばいた。
 上海の漢族は、満州族の清国支配から解放されるとして、キリストの弟を自称する客家出身の洪秀全が率いる太平天国軍を支持した。
 イギリス香港総督ジョージ・ボンハムは、清国側の要請を受けて、上海を太平天国軍から守る為に軍事支援に乗り出し、外国人租界地に住む住民達で自警団を組織した。
 弱体化した清国には、外国人のみの安全を保護するだけの軍事力はなくなっていた。
 排他的な中国人は、同じ一族でない中国人を虐殺し、外国人を襲っていた。
 「この街(南京)を治めていた総督の身体は四つに裂かれ、市内に通ずる四つの城門に釘で打ち付けられた。太平天国の兵士は、総督の身体から流れ出る血を飲み干した。19歳の総督の娘は広場で裸にされ、磔にされると心臓をえぐられた。捕虜になった清軍の兵士は熱湯の中に投げ込まれた。油を染み込ませた麦藁を巻かれて杭につながれ、生きたまま焼き殺された者もいた」
 ベイヤード・テイラーは、紀行作家として、ニューヨーク・トリビューン紙の依頼でペリー提督の日本遠征艦隊に乗船した。日本に向かう前に、無法地帯として治安が悪化し、最悪の生活環境下にある上海を訪れた。
 中国社会の悲惨さは、外国勢力の侵略ではなく、人間不信の中国人自らが生み出していた宿痾であった。
 キリスト教宣教師達は、中国社会を人間が住める多少でもましな世界に生まれ変わらせるべく努力していたが、成果は上がらないどころか、病的なほど人種差別の強い儒教的中国人から敵視され命の危険にさらされていた。
 中華文明圏・漢字文明圏とは、同じ儒教価値観を共有するが故に、何処も似たり寄ったりの劣悪な社会環境になる宿命にあった。
 テイラー「支那の街ほど嫌悪感を感じさせる所はない。私の描写が如何に気分を害するとしても、旅行作家が仕事に誠実であろうとしたら、見たままを書き留めざるを得ない。読者にはしばらく辛抱して欲しい。……ド・クィンシーは一度もチャイナマンに会った事がないはずだが、彼には千里眼が有ったのかも知れない。彼は、もしチャイナマンと一緒に生活しろと命じられたらおそらく気が触れるだろう、と書いていた。これを読んだ時はちょっと酷すぎる表現ではないかと思ったのだが、今の私はいささかの躊躇なく彼に同意する」
 「広東ではギデオン・ナイ・ジュニア氏に大変お世話になった。彼はアメリカでも絵画に造詣の深い事で知られる貿易商だった。ここでの生活は楽しかったから、もうしばらく滞在を延ばす事も可能だった。それでも支那の地で暮らす夜が来ても、私はこの国を離れる事を残念などと思う事はいささかもなかった。読者の方にも私の心境は想像していただけると思う。私は決してこの国に偏見を持っているわけではない。それでもこの国から一刻も早く立ち去りたいと思わざるを得なかった」
 ド・クィンシーは、イギリスの評論家、小説家で、1822年に『阿片服用者の告白』を出版した。 
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 太平天国の乱を鎮圧した清国は、捕らえた者や降伏した者の中で乱の首謀者全てを、中国の伝統的処刑方法である世にも恐ろしい「凌遅刑(りょうちけい)」で惨殺した。
 公開の場で、生きながら身体の肉をゆっくりと削ぎ落とし、肉片を見物に訪れた人民に漢方薬として分け与えた。
 漢方薬は、徳の高い天子に叛逆した大悪人の肉は毒に近い悪い肉であるが、「毒をもって毒を制する」の喩えから悪肉ゆえに万病に効く妙薬として珍重した。
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 1851年 オーストラリアで砂金が発見され、ゴールドラッシュが起きた。90年代までに、約100万人がオーストラリア大陸流入した。
 多くの中国人やカナカ族が、炭鉱夫として移住した。
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 清代の人口
 1831年…   ‥3億9,582万人
 1841年…アヘン戦争(1840〜42年) ‥4億1,346万人
 1851年…アロー戦争(1856〜60年) ‥4億3,216万人
 1861年…太平天国の乱(1851〜64年)‥2億6,689万人
 1871年…   ‥2億7,235万人
 (『詳説世界史研究』山川出版社 )  
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 華北では、捻軍の乱が起きていた。
 新疆ウイグルでは、イスラム教が反乱を起こしていた。
 少数民族も、中国からの独立する動きを見せた。
 中国大陸は、戦乱の巷となり、大量の屍が放置され、夥しい血が流された。
 中国大地の下には、死体が埋まっていた、何処を掘っても数万人単位の人骨が出てくる。
 その中のほんの一部が、日中戦争における屍体である。
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 動乱と凶悪犯罪の横行で、社会秩序は崩壊し、約1億人の犠牲者が出た。
 清朝は、腐敗堕落していた為に反乱軍や暴徒を鎮圧する軍事力はなかった。
 中国では宗教がらみの暴動や内戦が絶えなかった為に、歴代王朝は「救世主信仰」を広める仏教やキリスト教イスラム教などの宗教勢力を弾圧した。
 ただし、他者を排除する現世利欲のみの自己満足的宗教は奨励された。
 中国では、自分一人に大金を授けて幸福にさせない神は贋物として破壊した。希望や夢は、一人で楽しむものであって、他人とは分かち合う事はなかった。
 この頃の中国は、深刻な自然破壊が進んでいた為に、各地で甚大な自然災害が起き、大きなもので数千万人、小さくても数百万人が犠牲となっていた。
 正統派儒教的支配階層は、身分低い貧民が塗炭の苦しみに喘ぎ、幾千万人が悶え苦しんで死のうが餓死しようが痛痒を感じる事がなかった。
 それが、上下関係の厳しい排他的身分支配を正当化する正統派儒教である。
 それは、日本の異端派儒教とは正反対であった。
 朝鮮の儒教は、中国と同じ正統派儒教であった。
 中国の属国として、中国を真似ていた儒教国家朝鮮もまた、官吏によるワイロが横行し、社会が堕落し腐敗していた。宮廷は、絶え間ない権力闘争と朋党の争いに明け暮れ、分別のない激情での流血事件が絶えなかった。
 庶民は、世界に類をみない厳しい身分制度で縛られ、世にも恐ろしい刑罰に震え上がっていた。
 朝鮮は、中国同様に法を無視した人治政治の悪政によって地獄の様な状態にあって、姓名を持たない身分低い庶民の暮らしは悲惨を極めていた。
 朝鮮は、完全な鎖国政策を取り、中国人以外の入国を武力で排除していた。
 この後。甘粛省で回教徒の乱や新疆でイスラム教徒の乱などが続発し、弱体化した正規軍にかわって地方軍が鎮圧に動員された。
 漢族将軍等は、軍事力と政治力を付けても、清国皇帝の臣下としてその命令に従っていた。
 イギリスやフランスは、その軍事力に脅威を感じ、「眠れる獅子」として敬意を表していた。


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