🏞59)─2─赤穂浪士の討ち入り。『元禄御畳奉行の日記』。曽根崎心中。1700年〜No.251No.252No.253 @ 

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 『元禄御畳奉行の日記』。下級武士が、スケベ根性で浮気をして本妻に隠れて妾を囲った。その事を知った本妻は、嫉妬して飯や身の回りの支度をしなくなった。下級武士は、妾の所に転がり込んで飯を食べさせて貰った。妾は、下級武士と喧嘩するや飯など一切の支度をしなくなった。
 下級武士は、気が弱かった為に、世をはかなんで切腹して死んだ。
 農耕民族は、狩猟民族ほどの闘争心も競争心もなく、決して忘れず追い詰めるという執念深さもない。やり遂げるという根気強さはあっても、同時に直ぐ諦めてしまう淡泊さを持っている。
 特に、男はだらしなく隙あらばずるけて休み、酒を飲んで歌って踊って笑い転げて浮かれ騒ごうとする。
 日本の男は、見た目とは違って弱く、無我夢中になって土や物をいじったりして何かを作るのが好きで、命を賭けて戦う事に恐怖した。
 日本の男どもがだらしない分、日本の女性は強く逞しかった。
 日本の女性は、体力しか自慢できない男を煽てて働かせて給金を入れさせ、男に僅かなカネと質素な食事を食べさせていた。
 日本社会は、建て前として亭主関白であったが本音はカカ天下で、女性の方が強かった。
 落語世界が、日本の実体である。
 それは、男尊女卑の儒教社会とは正反対の社会であった。
 時々の将軍や大名は、武を忘れひ弱に軟弱化した武士を男として鍛える直すべく、死ぬほどの厳しい軍事教練を強制し、寝る暇がないほどに儒教を叩き込んだ。
 儒教を収得しない者は、出世させなかった。
 出世する気がない者は、家柄を理由にして文武修業をサボり、同じ様な仲間とつるんでは酒を飲みながら上司の悪口をついて憂さを晴らしていた。
 日本社会は、死を賭けた権力闘争や正当論争が熾烈な朝鮮あるいは虐殺や略奪が日常茶飯事の中国とは異質な、男が逞しくない弱々しい女性上位の社会であった。
 戦いのない平和な時代では、男はますます女よりも弱くなり、与えられた仕事こなすだけの無気力となり、武芸や武士道を忘れ芸事や女遊びにうつつをぬかして遊びほうけた。
 尚武の武士道精神は、その為に必要とされた。
 だが。武士道精神が叩き込まれたのは、全人口の5%のみだけであった。
 武士道精神を体得して生涯を武士らしく貫いたサムライは、全人口の1%いたかは甚だ疑問である。
 武士道が日本を代表する精神・心というのは、真っ赤な嘘である。
 日本は、儒教的武士社会ではなく、神道及び仏教的百姓・町人社会であった。
 日本人は、神や仏に囲まれながら、神や仏と共に生きていた。
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 子供から大人になる為の元服は、武士の特権的神聖な儀式であり、百姓や町人は行わなかった。
 大人と認められたサムライの子は、全責任を負う事が義務が課せられ、切腹する作法が教えられた。
 不祥事を起こせば、見苦しいわけをせず、サムライとして潔く切腹して果てる事が強要された。
 身の潔白を晴らす為の切腹を臆病になって忌避する者は、サムライの資格は無いとされ、武士の社会から追放された。
 責任と義務の為に命を捨てる覚悟が無い者は、サムライとは認められなかった。
 サムライに求められた責任と義務とは、主君への忠と親への孝であった。
 サムライの忠と孝は、儒教価値観の中国や朝鮮の忠と孝とは本質的に異なる。
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 元禄・宝永小氷期
 1690年から寒冷化して、1720年まで続いた。全国的な飢饉が襲って大凶作となって、多大なる犠牲者を出した。
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 1701年 ザクセン侯は、ヨーロッパで中国茶による喫茶が普及した事きに、中国磁器を真似てマイセンでの彩色磁器の生産を本格化させた。
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 1702年12月14日 赤穂浪士の討ち入り。荻生狙来「以後、天下の法は立つべからず」。翌03年2月 大石内蔵助切腹
 江戸の庶民の「判官贔屓」から、強者の権力や権威を笠に着た振る舞いを嫌い、弱者への嫌がらせや意地悪などに嫌悪した。
 討ち入りの翌日、愛宕下の大目付仙石伯耆守邸は、大石内蔵助赤穂義士を一括で預かったが、上杉家から追っ手が押しかけてくる事を覚悟して屋敷を防備した。
 幕府の命令で赤穂義士を預かる事になった諸大名は、上杉家の襲撃を恐れて多くの家臣を警護に就けた。
 細川家、750人。松山松平家、300人。長府毛利家、200人。岡崎水野家、150人。
 上杉家は、寝ていた藩主の老いた実父を殺害されたが、裁定を幕府に委せた。
 親孝行、武士の体面として、かなわぬまでも親の仇で一太刀浴びせるべきであったが動かなかった。
 本当の武士道はこの時死に、これ以降の武士道は単なる飾りとなった。
 荒木又右衛門の伊賀越え仇討ちや阿部一族の上意討ちの様な、真の意味での武士の世はこの時を以て終わった。
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 1703年(元禄16)年4月 曽根崎心中。大阪で心中事件が起きた。大坂内本町醤油屋平野屋の手代徳兵衛と北の新地の天満屋遊女お初が、曾根崎天神の森で心中した。
 近松門左衛門は、一ヶ月後に世話浄瑠璃として上演し、興業は成功した。
 命を捨てても恋を成就させるという純愛が受け、心中に憧れて次々に心中が流行った。
 御上は、心中を止める為に上演を禁止し、心中者の葬儀はさせないとのお触れを出した。
 若者による心中騒ぎ深刻な社会現象となり、幕府を驚愕させ、政治を翻弄した。
 「此れで、貴方と一緒になれる」
 12月31日 相模湾。元禄関東大地震震源は房総半島野島崎沖、。M8.2程度。
 江戸・小田原を中心に倒壊家屋約2万戸、死者5,000人。
 千葉の九十九里で、大津波が発生して約2,000人が犠牲となった。
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 1704年 教皇クレメンス11世は、たとえ布教の為とはいえ異教徒の民族的儀礼を容認する事は信仰に反すると裁定して、イエズス会の布教活動を禁止した。
 キリスト教は、異教を絶対に許さず、異教徒を全員殲滅する事を「神聖な使命」としていた。
 康煕帝は、民族宗教の伝統的典礼を容認しない不寛容さに激怒して、イエズス会以外の布教活動を禁止し、イエズス会以外の宣教師を中国から追放した。
 キリスト教会の根底を揺るがす典礼問題は、内部告発から起きた。
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 1705(宝永2)年 全国のムラは、伊勢神宮外宮の豊受大御神に豊作祈願するべく、くじ引きで参詣者を決めて送り出した。伊勢神宮への御陰参りである。
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 1707年 赤福本店の創業。伊勢名物「赤福」が生まれた。
 10月28日 関東から九州にいたる太平洋岸の広い範囲で、大地震が起きた。 宝永大地震である。
 津波による死者は、約2万人。
 12月16日 富士山宝永大噴火。火山灰が、江戸まで飛来して数センチ積もった。
 幕府は、復興資金として、諸大名に100石につき2両を差し出させ、50万両(現代の300億円)を集めた。
 だが。幕府は、財政難にあった為に復興資金を他の所に流用し、役人や御用商人らが着服した。
 雨期の大雨で酒匂川が氾濫して、家や田畑が濁流に呑み込まれた。
 伊奈半左衛門と御厨地方の百姓らは、火山礫に埋もれた田畑を天地返して復興させた。
 伊奈神社の祭神、伊奈半左衛門忠順。
 太平洋岸の諸藩も、独自で復興に務めていた。
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 江戸時代。日本全国の火山で、180回を越す噴火が記録に残が残っている。
 日本列島は、世界有数の火山地帯で噴火が絶えず、それに伴う地震も頻発し、その度に甚大な被害が出ていた。


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