🏞61)─1─「生類憐れみの令」は世界史的人類史的に画期的な人道的弱者救済の法であった。~No.260No.261 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川綱吉は、「生類憐れみの令」で捨て子、捨て老人、捨て病人、捨て旅人の救済を命じた。
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 徳川綱吉時代以前は、町中で侍達と町奴達が斬り合って暴れたり、夜な夜な辻斬りや強盗が横行する荒れた時代であった。
 綱吉は、侍達や町奴達から命を軽視する殺伐とした心を奪う為に儒教朱子学を広めた。
 これ以降、武士の特権とされた切り捨て御免は停止され、私闘は禁止された。
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 武士の生き方が強引に変えられ、表面は「武」で内面は「文」とされた。
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 儒教は、武士階層だけではなく庶民(百姓・町人)階層の間にも広められた。
 中華(中国や朝鮮)では、小人など賤しい階級には儒学は理解できないとされ教えられなかった。
 儒教社会は、日本で完成されたが、中華では存在しなかった。
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 徳川綱吉朱子学による儒教改革は、庶民を官僚に登用する科挙を採用しなかった為に不完全に終わった。
 だが、庶民が武士になる道は開かれていた。
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 中華世界の儒教朱子学は、科挙に合格して任官する為の受験勉強用の教科書であって、道徳を社会に広める教えではなかった。
 つまり、科挙を目指す読書人のみが独占していた教養であった。
 そして、儒教が説く社会とは、読書人などの教養人の社会であった。
 儒教制度とは、教養ある聖人君主と教養のない小人を分ける厳格な身分制度である。
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 清王朝では、満州族モンゴル族チベット族が支配階級で漢族は奴隷的な被支配階級であった。
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 赤穂浪士による忠臣蔵は、朱子学が社会の規律となる過程で起きた。
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 老いた親を捨てる姥捨山は、生類憐れみの令の以前にはあったが以降はなかった。
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 平和な徳川時代は、この時から始まった。
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 2015年2月9日「日刊SPA! 徳川綱吉はただの“犬バカ”ではなかった。「生類憐みの令」が発布された本当の理由   吉留哲也
 近年、歴史が見直されてきており、「学校で習った歴史と事実は違うのでは」ということがある。例えば、聖徳太子の実在に疑問符がつけられたり、鎌倉幕府の成立した年が1192年ではなく1185年と改められてきている。もしかすると、将来そうなるかもしれない例を1つ紹介しよう。徳川5代将軍・綱吉である。
 多くの読者が綱吉と聞けば、真っ先に犬公方(お犬様)を連想し、生類憐みの令を思い浮かべるのではないだろうか。この法令は殺生を禁止するために1687年に発布されたのだが、それは「行き過ぎた動物保護法であり、そのために庶民は大変に苦労した」という認識が一般的だろう。綱吉は“犬バカ”将軍のイメージが広まっている。
 実際、映画『大奥 〜永遠〜[右衛門佐・綱吉篇]』(男女逆転の時代劇。菅野美穂が綱吉を演じ、共演した堺雅人と結婚するきっかけとなった作品)の公式サイトで徳川綱吉についての説明を確認すると、『悪法・生類憐みの令を布いた犬公方としても有名』とある。
 しかし、作家で評論家でもある岬龍一郎氏は近著『日本人のDNAを創った20人』(育鵬社)で、こう語っている。
 「この“生類憐みの令”が発布された理由にはその時代背景も考慮する必要がある。当時はまだ戦国の気風が色濃く残っていた時代で、加えて病人や牛馬などを山野に捨てたり、旅先の宿で旅人が病気になると病人を追い出したり、見捨てたりするといったことが普通に行われていたのである」
 こういった当時の人々の悪習に対し、綱吉は大変憐れんだのだそうだ。そこで綱吉は生類憐みの令によって人間を捨てることを禁じ、貧しさのために犬や牛を飼育できなくなった者達には、役人に届け出るようにと通達したのだという。
 しかし、当時の人々は困惑し、法の目をかいくぐる人間が後をたたず、なかなか浸透しなかったのだそうだ。結局、生類憐みの令は6代将軍・家宣の代に撤廃されたのだが、この後も幕府は老人や捨て子の禁止といった人間に対する法令はそのまま継続したという。さらに、意味もなく動物や人を殺めることは悪であるという思想も継続して人心に残っていったのだそうだ。岬氏はこう続ける。
 「もしも、綱吉によって生類憐みの令が出されなければ、その後も姥捨て山や捨て子の悪習は改善されることはなかっただろうし、命あるものを慈しむといった精神は生まれなかった。そして、この精神は時代を経て現代の日本人の根底にも流れており、他国の国々の人と比べ、優しい民族であることにたどり着く」
 実は綱吉は、今日の日本人の心に道徳を植えつけた為政者だったというのが史実だそうだ。
 また、あまり語られることはないが、綱吉の治世はそもそも“英邁な将軍”と高い評価を得ていたという。しかし、生類憐みの令が大きな一因となり、今日の悪名高き将軍へと評価を落としていったのだそうだ。
 「綱吉はただの犬公方ではない。自身が悪役を買って出ることで、民心が儒教的思想へと自然と流れることを知っていた」(岬氏)
 もしかしたら近い将来、日本人の綱吉像が“犬バカ”から“名君”に大逆転する日がくるかもしれない。 <取材・文/吉留哲也>」
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 ケンぺルの記録(『廻国奇観』1712年 エンゲルベルト・ケンぺル著)
 日本の様子を見聞し、綱吉とも謁見したこともあるケンぺル、彼は綱吉に対してこう褒め称えています。
 「今、この国を統治している徳川綱吉は卓越した君主である・・彼のもとで全国民が完全に調和して生活している。生活習慣や芸術、道徳の点でこの国の民は、他のあらゆる国の人々を凌駕している」
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 茨城大学 准教授 磯田道史
 「綱吉ほど虚像と実像が違う・・綱吉は悪い人のように思われているけど実は凄い事をした人物で日本の歴史、日本人の習慣なんかにとっても決して悪 い事をしていません。なんで130もの法律を出さなきゃいけなかったかというと・・最初の段階では生きもの、生命を大切にしなさいという道徳として発するんですが・・次第に役人たちが自分の有能さをアピールする為にエスカレートしてしまったのです」
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 大妻女子大学 ボダルト・ベイリー教授 
 「生類憐みの令とは、犬の令だけでなくて弱者への憐みの問題です・・綱吉は現代と同じように福祉の社会を作るのが大切と思ったのです。今は当然と 思う福祉の社会を綱吉は17世紀に、すでに大切と思っていた。
 最近の研究では綱吉が将軍になって2年後に出されたこの1条こそ生類憐みの令の始まりだと言われます。
 天和2(1682)年 忠孝に励み、夫婦・兄弟・親戚が仲よくし、召使いまで憐れみなさい
 人間も含めた全ての生き物を憐み大切にする・・これが生類憐みの令の本来の目的だったのです。
 綱吉から官僚制度が進んだんですから、その官僚制度の高い発展によって日本は他のアジアの国と違い近代化が早かった・・綱吉は15代の将軍の中で一番よい将軍だと考えています」
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 ウィキペディア
 生類憐みの令(生類憐令)は、江戸時代の元禄期に第5代将軍徳川綱吉によって制定された殺生を禁止した多数のお触れ(法令)のことである。
 「生類憐みの令」は、1本の成文法ではなく、135回も出された複数のお触れを総称する。何度も発せられたのは出しても守られなかったためである。24年間で処罰された事件は72件。犬、猫、鳥、魚類、貝類、虫類などにまで及んだ(犬ばかりに限らず、惣じて生類、人々慈悲の心を本といたし、あはれみ候儀肝要の事)ため、「天下の悪法」とも言われる。

 経緯
 発布するに至った経緯には諸説ある。
 徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで発布。当初は「殺生を慎め」という訓令的お触れだった。
 徳川綱吉が丙戌年生まれのため特に犬を保護した。
 横行する捨て子への対策(捨て子これ有り候はば、早速届けるに及ばず、その所の者いたはり置き、直に養ひ候か、または望みの者これ有り候はば、遣はすべく候。急度付け届けるに及ばず候事)。

 状況
 地方では、生類憐みの令の運用はそれほど厳重ではなかったようである。『鸚鵡籠中記』を書いた尾張藩士の朝日重章は魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでの間だけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ「殺生」を重ねていた。大っぴらにさえしなければ、魚釣りぐらいの自由はあったものと思われる。また長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、生類憐みの令はなかなか徹底しなかったとみられている。長崎町年寄は、元禄5年(1692年)および元禄7年(1694年)に、長崎では殺生禁止が徹底していないので今後は下々の者に至るまで遵守せよ、という内容の通達を出しているが、その通達の中でも、長崎にいる唐人とオランダ人については例外として豚や鶏などを食すことを認めていた。

 廃止
 綱吉の死後、正徳の治により宝永6年(1709年)に早速犬小屋の廃止の方針などが公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制も順次廃止された(ただし、牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護などは継続した)。

 歴史上での生類保護政策
 5世紀頃の中国では、大乗仏教偽経『梵網経』の第3に食肉戒より、動物の命を絶つことを理由に、肉食を完全に禁止している。また、北宋徽宗は1102年、犬肉食禁止令を出した。
 7世紀後半から8世紀にかけての律令体制下での日本では、安定した税収の確保を目的とした稲作の促進のために、牛馬など稲作の労働力となる動物の肉食が稲作の妨げと見なされ、これらの肉食の制限もしくは禁止を目的とした法令が散見される。
 『日本書紀』(675年、691年)…ただし、675年の法令は、稲作の期間に当たる4月から9月までのウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリの肉食を禁じたものであり、稲作の害獣と見なされたシカとイノシシの肉食は禁止の対象外であった。
 『続日本紀』(732年から794年の計11回)
 日本と同じく大乗仏教の影響が強かった朝鮮半島においても、高麗時代まで同様の法令が発布されている。
 新羅: 動物殺傷禁止令(529年、711年)
 百済: 殺傷禁止令(狩猟や鷹の飼育も禁止、漁民には、魚網を焼き捨てさせている)(599年)
 高麗: 屠殺禁止令(968年、998年)
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