天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)
- 作者:磯田 道史
- 発売日: 2014/11/21
- メディア: 新書
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の被災地・災害地は、西洋や中華(中国・朝鮮)とは全然違う。
被災地・災害地にいた日本の庶民は、西洋の民衆や中華(中国・朝鮮)の小人とは別人のような行動を取っていた。
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真の歴史教育とは、必ず襲ってくる自然災害に対して祖先が生き抜いた術・行動を教訓として子供達に教える事である。
それこそが、魂が籠もった生きた歴史教育である。
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江戸時代の復興力・回復力・再生力は、世界一であった。
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霊峰富士山は、神々が住み集う有り難い信仰の御山ではあるが、同時に大噴火で多くの人命を奪う恐ろしい火の山である。
日本の神は、命を与える和神であり、命を奪う荒神である。
日本人は、神の荒れ狂う荒魂が穏やかな和魂になる様に、ひたすら神の機嫌を取るように祈り、事あるごとに祭りを行った。
霊峰富士山は、信仰の山であった。
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祖先達は、後世への教訓、子孫への伝言として災害記録や生き様日記を残し、被災地に神社や仏閣を建て、忘れないようにする為に石碑を残した。
そして、不運で亡くなった犠牲者を悼み、霊魂を懇ろに弔い、怨霊化させない為に鎮魂祭りを地域的宗教行事として執り行った。
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2017年4月30日 朝日新聞「ザ・コラム 上田俊英
『亡所』の復興 民の執念と代官の慈愛
雲ひとつない早朝の空へと、富士山がそびえていた。4月14日、静岡県小山町。『伊奈神社』は富士登山道の起点のひとつ、須走口(すばしりくち)からほど近い場所にあった。
一隅に侍の銅像が立つ。伊奈半左衛門忠順(ただのぶ。生年不詳、1712年没)。神社はこの江戸中期の関東郡代(代官頭)を祀る。
1707年の11月23日(旧暦)、富士山は大爆発を起こした。『宝永大噴火』である。『焼け石』『焼き砂』と呼ばれる膨大な量の火山灰は、おりからの強い西風に流され、山麓(さんろく)の東側の村々を埋め尽くした。
神社がある旧須走村は火山灰が深さ3メートルにも達し、家屋の半数は焼失。残りも灰に埋まり潰れた。村の状況を記す『村鑑(かがみ)帳』(1771年作成)は、人びとは散り散りになり、村は『亡所(ぼうしょ)』になったと伝える。
亡所とは土地が荒廃し、作物がとれず、人が住めなくなった所のことだ。小川町と、その南の御殿場市、裾野市の一部にわたる御厨(みくり)地域の村々は実際、分厚い火山灰に埋め尽くされ、亡所の際に立たされた。
被災地の大半を抱えた小田原藩の藩主で老中の大久保忠増(ただます)は、被災した村々を幕府に返上する。代わって復興を指揮したのが半左衛門だった。銅像脇の石碑は記す。
『食糧の欠乏になやむ被災民の困窮を見かねた半左衛門は、厳しい幕府の掟(おきて)を破って駿府(現静岡市)の幕府御蔵米を開き餓死寸前の難民に施した』
その真偽は不明だが、半左衛門は復興の道半ばで急死する。被災地では、掟破りの責任をとって切腹したとも伝わる。
◇
劇団前進座の舞台『怒る富士』は、半左衛門の半生を描いた新田次郎の同名の小説が原作だ。1980年初演。劇団は創立85周年を記念し、昨年から全国を巡演した。
最終公演は4月5日、福島市の市民公会堂であった。劇中、半左衛門は御厨地域の被災地を視察し、困窮ぶりに衝撃を受ける。
幕府は被災地の人びとに、自力での『砂除け』(火山灰の除去)を命じた。土地の復興は『自己責任』というのである。
不毛の土地での砂除けは困難を極めた。実際、火山灰の深さが3尺(約90センチ)を超えた39ヶ村が1709年に半左衛門に出した嘆願書は、窮状を次のように伝える。
『蕪(かぶ)、大根はおろか草木の若葉など食料になりそうなものは一切ありません』『餓死者も多く、隣国に働きに出て、こじきに身を落とし、あるいは行き倒れになり、その死骸が送り届けられてくる有り様です』
半左衛門は御厨地域の3万もの被災者を救済しようと、砂除けの資金や米の支給などを幕府の中枢に繰り返し求めた。村々の代表を勘定奉行の荻原重秀の屋敷に連れて行き、直訴させたという史料さえ残る。
舞台の終盤、『御上には、いまなさねばならぬことがいろいろある』などとして救済に動かない側用人の間部詮房(あきふさ)や、老中の大久保忠増らに、半左衛門は訴える。
『死にかけている百姓を救うことは、なさずともよいことでございましょうか』
そんな半左衛門に大久保は言った。
『亡所の百姓どもも、まことに気の毒と思う。しかし、実のところ、何年先になるか、生き返るかどうかもわからぬ土地に、金を捨てるほど公儀にはゆとりはない』
政権とは古来、そうしたものなのだ。
◇
半左衛門の遺志を継ぐかのように、御厨地域の人びとは砂除けを黙々と続けた。そして、大噴火から40年ほどの時を経て、いまの小川町域では28ヶ村のうち、まず9ヶ村がようやく小田原藩に返還された。亡所の危機は、わずかずつ遠のいていった。
復興を可能にしたのは、なにより被災地の民の執念だろう。人びとは幾度となく幕府や藩に救済を訴えた。そして、民の執念を支える半左衛門のような官僚がいた。
早朝の伊奈神社に、参拝に訪れる地元の人びとの姿があった。障害者の就労訓練に携わる男性(48)は『半左衛門は慈愛に満ちた方。真理を重んじ、何をすべきか見極めることができた』。男性は障害者のために何をなすべきか悩んだとき、半左衛門の銅像の前で『自問自答する』と言った。銅像が立つ大地は、いまも『焼け砂』が覆う。
福島県に広がる『帰宅困難区域』は、いままさに亡所の際に立つ。私たちは何をすべきか。皆で自問自答したい」
- 作者:永原 慶二
- 発売日: 2015/08/18
- メディア: 単行本
- 作者:嶋津 義忠
- 発売日: 2015/01/09
- メディア: 単行本
元禄・宝永小氷期。
地球全体が冷えていた。
1690年から寒冷化して、1720年まで続いた。
1701〜1703年 全国的飢饉。全国的な飢饉が襲って大凶作となり飢餓民が溢れ、数多くの餓死者が出た。
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全国での百姓一揆。元禄時代、54件。宝永時代、70件。
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1703年(元禄16)年11月29日 江戸・水戸様火事。両国橋焼失。
12月31日 相模湾。元禄関東大地震震源は房総半島野島崎沖、。M8.2程度。
江戸・小田原を中心に倒壊家屋約2万戸、死者5,000人。
千葉の九十九里で、大津波が発生して約2,000人が犠牲となった。
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1704年1月1日 浅間山噴火。
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1705年12月15日 霧島山噴火。
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1706年10月16日 浅間山噴火。
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1707年2月9日 仙台大火。
10月28日 宝永大地震。関東から九州にいたる太平洋岸の広い範囲で、大地震が起きた。
津波による死者は、約2万人。
12月16日 富士山宝永大噴火。大地震の後に富士山は噴火しやすい。
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1708年3月8日 京都・宝暦の大火。仮御所焼失。
11月28日 浅間山噴火。
12月29日 大坂大火。
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1709年1月4日 阿蘇山噴火。
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1710年3月15日 浅間山噴火。
8月11日 伯耆・美作地震。M6.5
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1711年2月26日 浅間山噴火。
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1721年 総人口、2,606万5,425人。
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自然災害多発地帯の日本では、救済・復興・復旧は被災者が自己責任と自己努力で行うのが原則であった。
他者をあてにできない、他者に依存できない、そうした人情味のない日本では、自分で何とか苦境を切り開いて生き抜くしか術がなかった。
日本には、被災者・困窮者を無条件で助け支援してくれるキリスト教会やボランティア組織はなかった。
自然災害多発地帯の日本とは、救いがない薄情な社会である為に、無気力や気弱では生きていけない苛酷な社会であった。
自然災害多発地帯で生きる鉄則は、家族であろうと他人であろうと、決して、あてにしない、依存しない、頼らない、心を許さない、である。
それ故に、日本人は「諦めの境地」「無常観」「もののあわれ」「精神・根性」「なにくそ・こんちくしょう」を心の支えにしている。
日本で、二元論の絶対価値観で不寛容な儒教・キリスト教・共産主義などが根付かなかったのはこの為である。
自然災害多発地帯の日本は、三元論でしか生きれない。
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伊奈半左衛門忠順の様さサムライ・武士が、現代日本の政治家や官僚・役人に果たしているのだろうか。
東日本大震災の地震津波の被災地や福島第一原子力発電所事故現場では、自己犠牲的な人々が命の危険を覚悟して昼夜兼行で活躍していたが、安全な後方の東京、首相官邸・政治家、霞ヶ関・官僚、マスコミ・知識人にいたかどうか甚だ疑問である。
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日本の武士は、中国や朝鮮の役人(文官・武官)とは違っていた。
サムライという職業人は、日本にはいたが中国や朝鮮には唯の一人も存在しなかった。
同様に、武士道も中国や朝鮮には影も形もなかった。
武士・サムライ・武士道は、中国や朝鮮とは無縁以上に相反する純日本的なものであった。
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人々は、助け合っていた。
いい日本人は1割、悪い日本人は3割、中間の優柔不断で付和雷同する日本人が6割。
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江戸時代の人々は、現代日本人が忘れた逞しさで自然災害多発地帯で生きていた。
江戸時代の庶民は、西洋の民衆や中華の小人に比べも明るく元気で人生を楽しんでいた。
江戸時代の日本人は、目の前の「死」から逃げる事なく、「死」を自覚しながら「生」を大事にしながら一日一日を充実させながら生きていた。
現代の日本人と江戸時代の日本人とは、違う日本人であった。
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- 作者:道史, 磯田
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日本人は災害からどう復興したか: 江戸時代の災害記録に見る「村の力」
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