🏯25)26)─1─幕府や大名は、改革の為に庶民を俄武士に取り立てたが、改革に失敗すと責任を押し付けて切腹を命じた。~No.46No.47No.48No.49 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 禅を精神の支えとする剣術の極意とは、人の強さは腕力ではなく人間力であると。
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 徳川幕府は、才能ある百姓や町人をサムライに取り立て町奉行勘定奉行外国奉行の要職に抜擢しが、失政や不正があれば問答無用で切腹などの厳罰を命じた。
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 庶民から成り上がり武士に対する、世襲武士階級によるイジメ・嫌がらせそして妨害。
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 サムライは、身分制度の最高位にあり、身分卑しき下層階級の百姓や町人が無礼な振る舞いをすれば、体面を守る為に「無礼討ち」や「切り捨てご免」の特権が認められていたという。
 現代の日本史は、事実を調べ尽くした上で、子供達に日本の身分制度こそが日本を不幸に導いた諸悪の根源であると教えている。
 特権が認められた分、百姓町人に対して乱暴狼藉を行うなど素行が悪かったり、人の弱味に付け込んで賄賂を取って不正を働き横領を行って私腹を肥やしたり、弱い者イジメなど武士にあるまじき不名誉な行為を行ったり、人間以下の下品下劣な行為を行えば、容赦なく切腹させられた。
 サムライには、一切、言い訳は許させなかった。
 切腹させられる時は、如何なる正当な理由があろうとも、申し開きは許されず問答無用に「上意」で腹を切った。
 たとえ、申し開きができて正しさが証明されても、疑われたこと自体が身から出た不始末として、やはり強制的に切腹させられた。
 「武士道とは、死ぬ事と見付けたり」
 狼狽えて弁解し、見苦しく言い訳できるのは、身分が低い百姓や町人だけであった。
 ゆえに、命乞いが許され、正当な理由で助かる百姓や町人には武士道はなかった。
 百姓や町人は、見苦しく泣き叫び、媚び諂い卑屈になっても、体面を気にせず生きる事が許された。
 百姓や町人は、世渡りが上手で、したたかに、抜け目なく、財を貯め込んで豪勢に生活していた。
 サムライは、総人口の5%に過ぎず、減る事はあっても、決して増える事がなかった。
 日本人の85%は、武士道に無関係であった。
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 江戸時代の日本は、中国や韓国・朝鮮の様に排他的儒教価値観が希薄だあった為に、家系を重要視したが血縁関係に縛られる事が少なかった。
 つまり、無能な縁故・身内よりも有能な他人を重用した。
 だが、中国や朝鮮の様な儒教による官吏登用試験である科挙を採用しなかった為に、庶民の生き血を吸って肥え太る貪官汚吏は蔓延らなかった。
 サムライ社会は、それほど血縁にこだわらなかったし、身内だからと言って依怙贔屓はしなかった。だが、冷徹に薄情になれななかったぶん、身贔屓で庇う事はままあった。
 但し、人間の情として、血縁者や、同郷出身者に目をかけたのは確かであった。
 日本人の脆弱な情緒は、人間不信の中国人や韓国・朝鮮人の冷酷と強靱と不寛容の源である観念的合理性を嫌った為に、日本人特有のお人好しと脆さと弱さの基となった。
 ゆえに、日本人は、何があろうとも、何が起ころうとも、自己責任で、先祖の神々に誓って「人」そのものを信じ切った。
 裏切られ、騙さ、殺されようとも、信用した相手を一途で信じ切った。
 自己責任で自己決断を行う自立したサムライ日本人は、言い訳をせず、自己弁明をせず、責任を他人に転嫁せず、全ての事を引き受けて、潔く、アッサリと、辞世の句を詠む余裕を持って切腹して果てた。
 現代日本人とサムライ日本人は、別人の日本人である。
 現代日本人は、国際化する事でサムライ日本人ではなく、儒教価値観の中国人や韓国・朝鮮人に近づいている。
 現代日本人は、東アジア共同体の一員として生きようとしている。
 サムライ日本人と中国人や韓国・朝鮮人は、同じアジアで生活していても異質な人間である。
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 出生定かでない下級武士は、家柄を超え、上司のコネと永年の滅私奉公で、老中や若年寄京都所司代などの要職に就任した。
 上司や同僚による、成り上がり者への嫉妬は陰険であった。
 成り上がり者への嫌がらせやイジメは陰湿であり、愛想を振りまかない付き合い辛い相手の足を絶えず引っ張り、役向きに一度でも失敗すれば弁護せず、庇う事なく失脚させ、家禄を没収して追放した。
 サムライになった百姓と町人は、異例の出世を遂げて、江戸町奉行勘定奉行などの現場に近い役職に就いた。
 虐げられている庶民は、サムライとなった百姓や町人を軽蔑した。
 サムライとなった事で、傲慢になって約束を破り、権力を笠に着て不正を働き私腹を肥やせば、容赦なく御上に訴えて財産を没収して切腹させた。
 大名や旗本・御家人切腹させられた者は多く、取り潰された武士の家も数多くあった。
 日本の社会は、人間関係が重視される社会である。
 人と違う事をすると除け者にされる為に、人に嫌われない様に細心の注意を払い、人の顔色を覗って神経を磨り減らした。
 命が幾つあっても保たない為に、一刻も早く責任ある地位を辞め、30歳代で家督を15歳の子供に譲って一線から退いた。
 サムライの希望は、命のあるうちに若くして引退し、余生を自分の趣味で悠々自適に楽しく過ごす事であった。
 出世せず、田畑を耕すほどの貧困生活であっても、主君の勘気に触れて上意討ちされたり切腹を命じられるよりもましであった。
「武士道というは死ぬ事と見付けたり」
 サムライ日本には、欧米の様なマルクス主義史観での階級差別階級闘争は存在しなかった。
 富による社会格差は、明治以降の事であり、現代日本で深刻となった。
 江戸文化は、好奇心旺盛な隠居やかみさん達によって作られ、情熱溢れる口うるさい老人や鬼の様な山の神によって熟成した。
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2,徳川幕府や各大名は、財政不足の上に人材不足に困っていた。
 徳川家康は、島国的に、「所得の低いも者に権力を与え、財力のある者の権限を減らす」という独創的な支配体制を敷いた。身分高き大身の旗本では庶民の苦労が分からないので、庶民の生活感覚のある地位の低い小録の旗本に、政治を任せた。家柄や血筋だけを頼りとして努力しない無能者は、権限を与えると社会の害になるとして、権限のない名誉職に就けた。欲を出して嫌がれば、容赦なく辞任させて無役の回し、それでも不平を言えば隠居させ屋敷に押し込めとした。大陸の様に人材が豊富でない以上、有用な者を使い、無用な者は邪魔になるとして一線から遠ざけた。
 そして、社会を安定させる為に、武士が富を持たない様に強制的に散財させ、幕府への不満を抱かせない為に庶民に蓄財を奨励した。
 日本の身分制度とは、帰属する出自で社会的役割が決定すると言った、大陸的な絶対不変の閉鎖的なものではなかった。
 日本の上下関係とは、中国的に固定されたものではなく、天皇制度の下で流動的であった。
 人材が不足していた為に、身分にこだわるゆとりはなかったのである。
 儒教的価値観に基づく上下関係はではない為に、士農工商の身分は神道的職業感覚から自由に変更が可能であった。
 故に、小作人や水呑百姓は自由のない農奴や奴婢ではなかく、奴隷の様に売買される事はなかった。
 人間以下として嫌われたエタや非人も、朝鮮の白丁や芸人や巫女とは違って、条件が揃えば普通の町人や百姓に戻る事が出来た。
 とにかく、日本は島国であっただけに、儒教的価値観で身分に囚われる以前に、人材が不足していたのである。
 故に、百姓町人でも、才能があり、人一倍努力する者は、サムライに取り立てた。
 サムライになる事を嫌がれば、その知恵を借りる為に、礼を尽くして話を聞きに出向いた。
 将軍に呼ばれれば、上下を着て服装を整えて江戸城に登城したが、百姓・町人の身分はそのままであった。幕臣は、将軍の家臣であるだけに、相手が身分が低くとも主君の客として礼を尽くした。
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 大名は、領地50石くらいで家臣1名を召し抱えていた。
 5万石の大名であれば、家臣は約1,000人であった。
 家臣には、養う家族と家柄で雇っている下男下女などの郎等がいた。
 その総数は、5,000人以上であった。
 家臣団は消費専門で生産者ではなかった為に、家臣団に生活必需品を売る生産者(百姓・職人)と仲介業としての商人などの庶民団がいた。
 家臣団にとっては、主君である大名が不祥事・不始末を起こして幕府に咎められ、藩がお取り潰しとなり、お家が廃絶になると、職を失い家族もろとも路頭に迷う事になった。
 その為に家臣団は、主君・大名が名君である事を好まず、才気走って栄達して老中など幕府の役職に就く事に反対であった。
 家臣団にとっての名君とは、聡明でない事で、多少の浪費をして遊ぶ呆けても、元気と長生きと子宝に恵まれている事であった。
 日本が理想とするリーダーとは、そうした無能に近いリーダーであった。
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 各大名は、屋敷前に捨てられていた赤児を引き取り、家臣の養子とした。
 捨て子を拾った者は、責任を持って面倒を見る義務があった。もし、粗末に扱って死なせたら、世間の非難が集中した。
 日本は島国なだけに子供を宝として大事にし、子供を一人前にするのが大人の責任とされていた。
 大名は、育てた子の氏も素姓も分からないが、才能があれば家臣として役職を与えた。上司や同僚の、差別や偏見に耐え、嫌がらせや妬みにへこたれず努力すれば、重要な仕事に就けて出世させた。
 狭い日本は、誰かが見ていて、誰かが手を差し伸べてくれる社会である。
 だが、運・不運はいつの時代でも付きものであった。それでも、やるべき事は愚痴らず手を抜かず、きちりとするのがサムライであった。
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 江戸中期の随筆家で俳人の神沢杜口(1710〜95年)は、御家人や下級武士から才能・才覚で勘定奉行大目付町奉行に大出世した者、百姓や町人や漁師などの身分低き者が金銭で武士となり異例の出世した者の話しを、多く書き残した。
 ムラの名主や組頭は、江戸初期は世襲制で特権階級であったが、中期以降はムラ人の推薦か入れ札で選ばれていた。村政の監査役である百姓代も、長百姓や本百姓の中から選ばれていた。
西川如見「一生主君におそれ仕へて心の暇なく名利を第一として人の目をおどろかし、厳めしき振る舞いをたのしみとせんよりは、ただ此町人こそ楽しけん」
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 室町時代までの武士は、血筋がはっきりとした、由緒正しい家柄であった。
 江戸時代のサムライの大半は、身分卑しき半農半武士の子孫であった。
 身分卑しい百姓・町人は、御上のご意向に従ってサムライに服従していたが、祖先は山賊か盗賊の類と馬鹿にしていた。
 威張り腐り、傲慢で気位が高いだけの武士を、生産しない「穀潰し」と陰口を叩いて軽蔑していた。
 1821年 上野国前橋藩百姓一揆。林八右衛門「然レバ上御一人ヨリ下万民二至ルマデ、人ハ人ト云宇ニ別ツハナカルベシ」
 1853年 陸奥国の三閉伊一揆。「百姓共カラカラと打ち笑ひ、汝等百姓などと軽しめるは心得違いなり、百姓の事を能く承れ、士農工商天下の遊民、源平籐橘の四姓を離れず、天下の諸民皆百姓なり、其命を養う故に農民ばかりを百姓と云うなり、汝等も百姓に養うなり。此の道理も知らずして百姓はいと罵るは不届者なり」
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 朝鮮を侵略し朝鮮人を殺しまくったサムライや、キリスト教を弾圧しキリシタンを大虐殺したサムライを、日本人は英雄・英傑と讃え神として各地の神社に祀った。
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 西洋諸国は、数十万人の大軍を手足の如く指図する豊臣秀吉徳川家康を皇帝と恐れ、その皇帝が支配する日本を軍事的文化的経済的な世界帝国と認めた。
 日本を帝国と認めたのは、秀吉の朝鮮出兵であった。
 朝鮮出兵が日本を救い、朝鮮侵略がなければ日本は滅亡していた。
 朝鮮出兵を否定する日本人は、日本国の滅亡と日本民族の死滅を願う日本人である。
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 日本人の反宗教無神論者と敬虔なキリスト教徒は、全ての事を十分理解した上で、日本の全ての神を否定する。
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 遠藤周作「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗でもその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる」(『沈黙』)
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 明治までの日本には、大陸では当然にあったマルクス主義による階級闘争史観は存在しない。
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 日本人で成りたいと思っても成れないのが、神の裔・天皇である。
 神の裔・天皇は、天孫降臨の日本神話で正統と認められた血筋の一族のみがだれる地位でる。その血統を受け継がない者は、成れなかった。
 そこが、現存する各国の王侯貴族とは全く違うとこである。
 一般的王侯貴族は、絶対神よって選ばれ、絶対神への信仰を誓い、信仰を守ることを契約した少数者である。その地位を保証するのが、政治力・軍事力・財力であった。
 王侯貴族は、特権を認められた俗世の支配階級であった。
 神の裔・天皇に成れるのは、日本神話・神道に連なる者のみである。
 神の裔・天皇は、神に選ばれた特別の人間ではない。
 祖先を神とする、日本民族日本人である。
 日本神話・神道と神の裔・天皇は、不可分の関係にある。
 よって、天孫降臨の日本神話と無縁の血筋の者が政治的宗教的天皇に成った時、日本神道はは消滅する。
 サムライは、その神の裔・天皇を武力を持って守護する戦闘集団である。
 神の裔・天皇が消滅すれば、サムライも消滅する。
 日本民族は、神の裔・天皇の血を仲介として日本神話の神々との「絆」を保っている。
 皇室は、万世一系男系天皇(直系長子相続)で受け継がれてきていた。
 神の裔・天皇は、正真正銘の日本民族日本人であり、中国人でもないし、朝鮮人でもないし、ましてやユダヤ人でもない。
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 百姓町人は、「論語読みの論語知らず」の知ったかぶりして尊大に振る舞うエセ知識人を最も嫌い、常識外れであっても本物の教養を身に付けた燻し銀的博学者を尊敬した。
 庶民は自分には学がない事を知っていたが、他人が知っている事を自分が知らないと認める事を厭がり、耳学問的に上面だけ仕入れ、自己解釈でとんでもない説明を付けて知識をひけらかして自慢していた。
 負けず嫌いな百姓町人は、他人に負けたくないという自意識が強かった為に、知らない事を恥と感じて知ったかぶりをしていた。
 大人達は、子供が知ったか振りをして自慢げに話す事を咎めることなく、無理して背伸びしている事を面白可笑しく聞いて相づちを付き、議論をせず、子供心を傷付けないようにやんわりと本当の事を話した。
 付け焼き刃的な博学の化けの皮が剥がされるや、酒を飲んでバカ騒ぎして誤魔化した。
 周囲の者も、実害が無ければ、墓穴を掘って恥をさらした「あほな奴」と笑い飛ばし、一緒に酒を飲んで騒いで忘れた。
 その意味で、酒を飲まない者を相手を付き合い辛い相手として倦厭した。
 日本の教養は、西洋や中国・朝鮮のように学者や知識人が部屋に籠もって思索にふけって築き上げた高尚なものではなく、舶来の知識が庶民の実生活に飲み込まれて浮かび上がってきた低俗なものであった。
 それ故に、日本には俗世に塗れた知ったかぶりの説教好きな先生はいても、世界的権威を持った大学者も思想家も哲学者もいない。
 無学を自覚する日本人は、面白みや可笑しさもないインテリをあざ笑い小馬鹿にしていた。
 日本のコミニュケーションは、大陸のように意見を異にする相手を理詰めで追い詰めて論破するといった個性重視ではなく、違いは違いのまま曖昧は曖昧のままに白黒ハッキリさせず放置して意見を交換して調整をはかる集団重視であった。
 両者の違いは、大陸国や都市では意見が違い気にくわなければ逃げ出すことができたが、島国やムラでは逃げ出す所がなかった。
 大陸は何処までも続く広い生活空間があったが、島はそれがなかった。
 その分、島空間は大陸空間よりも人間の距離が近すぎるほど近かった。
 故に、島空間と大陸空間での考え方や行動は正反対に近いほどに異なる。
 逃げ出せない島空間では、争わず、揉めないように、人付き合いを賢く工夫するしかない。
 それが、無益に争わないという日本人の島国気質である。
 大人と子供の関係も、知識人も庶民も、全ての関係が島国気質で成り立っている。
 筒井清忠帝京大学教授)「知識人と大衆が分離している欧米と異なり、両者の間がとても近かった」(『日本型「教養」の運命』)




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