🏞55)─2─ロンドン大火。北方大戦争。シャクシャインの叛乱。『大日本史』と皇国史観・尊王攘夷論。1666年~No.239No.240No.241 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 キリスト教ユダヤ教は、絶対神の摂理に反するとして同性愛を禁じていた。
 日本では、同性愛文化(ゲイ、レズ)が盛んで、男色は公然と行われていた。
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 1666年 オランダ人ヘンドリック・ハメルら数人は、船が済州島沖で難破して朝鮮に流れ着き、12年間の長きに渡って囚われていたが、日本の交渉で救出された。日本は、彼等を長崎から帰国させた。
 ハメルは、12年間、虐待を受けた恨みもあって、李氏朝鮮の非人道的社会事情を辛辣に書き記した。
 「彼等は、盗んだり、嘘をつき、騙す傾向が強いから、彼等を信用してはならない。他人に損害を与える事を手柄と考え、恥とみなさない」(『朝鮮幽囚記』)
 崔基鎬「ハメルは国民の半分以上が奴隷であり、王に反抗した者は、一族全員が根絶されたと、記録している。……(P.194)
 李朝では国は、国王と王を囲む特権階級である両班のためにのみ、存在していた。民は徹底的に搾取されるだけの対象だった。
 儒教は中国においても、朝鮮でも、貪欲な利己主義の表面を飾るものとして用いられていた。……(P.224)」(『日韓併合の真実』)
 9月1日 ロンドン大火。中世都市ロンドンは、パン屋から出火した火で4日間にわたって燃え続け、ロンドン市内の85%(1万3,200戸)を焼失した。
 死者は、記録では5人のみと少なかった。
 火災の被害が拡大したのは、木造建築が多かった事とシティの地主達が破壊消防に強く反対したからである。
 ブラッドワース市長は、シティの有力者からの圧力に気おされ、延焼を防ぐ為の民家の取り壊し命令を実行できず焼失地域を広げた。
 ロンドン再建として建設規制の為に1667年に再建法を制定し、家屋は全て煉瓦造または石造として木造建築を禁止した。
 延焼を防ぐ為に、狭かった道幅を広めた。
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 朝鮮を良く言う白人は、極、極、ほんの極少数しかいなかった。
 そもそも、日本とは違って、完全な鎖国状態であった為に外国人が訪れた事がない。
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 1668年 ニュートンは、反射型望遠鏡を製作した。
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 1669年 鋳物師・萩原祐佐は、幕府の命によって真鍮製の踏絵を20枚作成した。
 長崎奉行所は、毎年正月の4〜9日にキリシタン改めえお行った。
 役人は、各家庭を回って踏絵を行った。
 花街・丸山町では8日に一大催しとして行われ、町衆が着飾った遊女達が行う踏絵を見物に押しかけていた。
 町衆は、西洋の様な異端審問や魔女狩りのようにキリシタン狩りを宗教的憎悪で見に来たのではなく、脳天気に華やいだ祭り騒ぎを楽しんだに過ぎない。
 そこは、宗教的な、暗さも、陰険さも、陰湿さも存在しない。
 アッケラカンとした祭り騒ぎがあったに過ぎない。
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 1669〜71年 シャクシャインの叛乱。松前藩では、国内産業が発達して商品が出回るや蝦夷地の物産が売れなくなり、財政は逼迫した。
 松前藩は、物々交換を誤魔化して暴利をえ、不服を言うアイヌ人にを懲らしめた。
 アイヌ人達は、堪えに堪えたが遂に堪えきれずに全道で叛乱を起こした。
 蝦夷地の酋長シャクシャインは、松前藩の不正交易に激怒して、石狩地方以外のアイヌ人を大集結して反乱を起こした。
 幕府は、アイヌ人の叛乱が長期化すると清国がアイヌ人を支援する恐れがあるとして、早期に鎮圧するべく津軽藩に次いで秋田・南部の両藩に出兵を命じた。
 最も恐れたのは、キリスト教宣教師が清国軍の軍事力を利用して蝦夷地に上陸し、アイヌ人に布教して蝦夷地にキリシタン国家を建設する事であった。
 松前藩は、失政を問われて改易になる事を恐れて、和議を申し込んだ。
 シャクシャインは、長期化すると食糧などが不足して不利になるとして和議を受け入れた。
 松前藩は、和議の祝宴にシャクシャインを誘い出して謀殺し、アイヌ人に大弾圧を加えた。生き残ったアイヌ人には、絶対服従を誓わせ、武器を取り上げた。
 アイヌ人の叛乱に懲りた松前藩は、アイヌ人との交易を商人に請け負わせ、運上金を受け取った。 
 商人は、アイヌ人を奴隷の如く扱き使い、絞れるだけ徹底的に絞り上げた。
 実体が知れないように、蝦夷地に渡ってくる和人を警戒した。
 幕府は、裁定を下した。アイヌ人と和人が混在するといざこざの原因になるとして、蝦夷地はアイヌ人の持ち島と認め、和人は松前藩の許可なくアイヌ人の地に入る事を禁じた。 
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 1672年 会津藩保科正之は、藩政改革を行い、家訓を残して生涯を終えた。
 会津藩は、皇室を尊重しながらも、徳川宗家への忠義を優先した。
 水戸の第二代藩主・徳川光圀は、幕府お抱え儒学者朱子学林羅山一門の史書『本朝通鑑』(1662年)に対抗して『大日本史』の編纂を始めた。
 『本朝通鑑』が天皇の祖先は中国から来たと書いてあるのに対して、『大日本史』は皇室中心とした日本独自の歴史書であった。
 盲目的天皇礼賛の史書ではなく、中華の道徳価値観で悪い天皇には容赦なく厳しく批判している。
 さらに、歴代の天皇の伝記「本紀」だけではなく、「列伝」として皇后・皇女さらには主だった臣下の伝記まで公平に取り上げていた。
 忠臣の鏡として南朝方の楠木正成を取り上げた為に、「三種の神器」を護持していた南朝を正統と認め北朝を傍流とした。
 正統な南朝が途絶えて、傍流の北朝が始まったという、中華思想易姓革命が起きた事になる。
 前期水戸学は、南朝方の忠臣を持ち上げる事で、万世一系男系天皇(直系長子相続)の皇室を守るはずが放伐による王朝交替論を受け入れるという、矛盾に陥った。
 鎖国状態の日本では、外国との接触が少く、外国人に対して日本人であると言う事を意識する必要がなかった為に、国家の分裂をはらんだ皇室の正統性を考える事なくなんとなく曖昧に受け入れて有耶無耶にして納得した。
 徳川光圀は、中華文化の『詩経』に対抗して、国学者にして歌人でもある僧契沖に『万葉集』の編纂を命じた。
 『大日本史』が、正統派儒教朱子学)の影響を強く受け、司馬遷の『史記』を手本として編纂された為に、歴代天皇の業績やは儒教の「徳思想」で評価され、道徳的天皇像で人間性が語られていた。
 そして。儒教の「怪力乱神」を廃する合理主義から、無神論的に伝承や神話などを正史から排除した。
 但し。皇室の正統性を保持する為に、「三種の神器」にまつわる天孫降臨神話を別扱いとして排除しなかった。
 内部矛盾をはらんだ前期水戸学は、徳川光圀が死亡した1700年に一応終わったとされている。
 『大日本史』の編纂は、その後も続けられ、全397巻と目録5巻が完成したのは、1906(明治39)年であった。
 太平の世の中となり、戦がなくなるやサムライの価値観も大きく変わった。
 サムライは、戦での手柄で家禄をあげ出世するという欲望がなくなり、家を嗣ぎ、孫子の代に家を存続させる事を第一とした。
 優秀な我が子ならば家督を譲ったが、家を潰すような分別無き者であれば廃嫡して、他人の子供を養子に迎えた。
 家名存続には、血筋などこだわらなかった。
 藩・大名家に於いても同様で、家来達は、御家・藩を潰しかねない欲望の強い大名は強制的に隠退させ、操りやすい幼い子供を若殿に据えた。
 天皇家・皇室以外の、上は将軍、大名から下は百姓、町人まで血筋にはこだわらなかった。
 御家の正統性を維持する為に直系長子相続にこだわったが、それが男系であろうと女系であろうと気にはしなかった。
 身代を博打などで食い潰す碌でもない息子は追放し、優秀な上に温和しく操作しやすい若者を娘の婿にして家督を譲った。
 日本には、中国や朝鮮のように男系至上主義的血縁意識は希薄であった。
 サムライの忠誠の対象は、建前的においては主君・大名であったが、本音は藩・御家であった。
 賢い大名は、家臣の忠誠が君主か御家に向いているかを確か得て、政務を取っていた。
 ムラ意識の強い日本人は、同じ土地で苦楽を共にするという共同体意識から、一族という血縁より赤の他人という地縁を大事にした。
 その中心に存在したのが、男ではなく、女であった。
 2月3日 浄瑠璃坂の仇討ち。
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 1673年 イギリスは日本との通商復活を要求したが、幕府はオランダの反英的書簡を信じて拒否した。
 イギリスは、小国日本よりも大きな富を持つ大国インドを支配する戦略に変更し、危険が多く利益の薄い日本への商船派遣を中止した。
 神の絶対真理を信仰するキリスト教徒らには、生きる為の日本的な「嘘も方便」という自己欺瞞的曖昧さは通用せず、「命の尊厳」よりも「神への信仰」を優先した。
 それは、八百万の神々でも防ぎ様もなく多発する天災に、人として生きている限り一生苦しみ続ける過酷な日本の風土に比べて、絶対神の恩寵で災害が少なく人力で改造可能な穏やかな自然に生きる西洋の風土との違いから来る。
 欧州の広大な大地は、日本の起伏の激しく天災の絶えない苛酷な狭い土地とは違って、重労働の要らないなだらかでのどかな牧歌的田園地帯であった。
 日本では、神に必死に祈ったところで天災がやむ事はなかったし、別の天災が発生して人々を苦しめた。神に祈っても仕方がないのは分かっていても、祈らずにはいられなかった。それが、日本人のいい加減な信仰心である。
 欧州では、神に祈れば、奇跡が起こって災害は遠ざかり平穏な生活がもどった。ゆえに、絶対神への揺るぎない信仰心が生まれた。
 大らかで陽気な気質の欧米人と比べて、せせこましく陰気な日本人の気質は、この過酷な自然環境による。
 ゆえに、日本人は理解されず、世界から嫌われる。
 儒教的教養の薄い極一般の庶民にとって、祭祀王の万世一系男系天皇(直系長子相続)は神ではないかもしれないが、恵みや御利益を授けてくださる「神の最も近い高貴な人」「神のような神聖な人」であった。
 同時に、神の裔として怒ると全てを破壊し奪う怨霊となると恐れおののいた。
 日本民族日本人の無意識下の基層・古層には、非科学的なアニミズムとして、大自然を数多くの神々の集合体とし、そこに恵みをもたらす和魂と災いをもたらす荒魂が混在していると思い込んだいた。
 その雑多な神々と人を仲介するのが、シャマン的霊力を持つ神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)と信仰した。
 ゆえに、神にも等しい天皇が恨みを抱くと鬼と化し、世にも恐ろしい怨霊となってあらゆる災いをもたらすと恐れた。
 多神教的発想で、大自然を荒れ狂わせる鬼・怨霊と化した天皇・皇族の御魂を鎮められるのは、霊力のある天皇しかないとして祭祀を願った。
 そして、誰に命令されるとなく、自主的に、各地に神社や社を建て、丁重に荒魂を祀って一心に祈った。
 如何なる荒行苦行を積んだ高僧であれ、古今東西の真理を見極めた名僧であれ、あるいは市井の中の生き神・生き仏といえども、正統な皇位にある神の裔・天皇に勝る者はないとされた。
 ゆえに、皇室の血を濃く受け継がない女系天皇は即位できなかった。
 天皇制度とは、政治的な制度ではなく、宗教的な制度であり、科学的合理的なものではなく、精神的情緒的なものであった。
 日本民族日本人が、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を絶やさず守って来たのはその為である。
 日本が、大陸的な普遍的原則で変わらないのは、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)が存在するからである。
 もし、女系化して神性を消滅させ、俗的に政治化したとき、縄文時代から守り受け継いだ基層・古層は消滅し、日本文明・日本文化といった独自の日本的なものは完全破壊される。
 これが、非科学的非合理的として嫌われている、日本の伝統的陰鬱な迷信である。
 百姓・町人は、飢饉や天災が起きるとたびに、祭祀王・天皇の霊力で神の荒魂が鎮まり和魂に戻るようにと、京の御所周囲を巡ってお祈りをした。
 周期的に伊勢参りが流行して、百姓・町人は一生に一度は伊勢神宮まで旅をした。
 平均的に、毎年約50万人が参宮したと云われている。
 それ以外の神社仏閣への参詣も盛んに行われていた。 
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)と日本民族は、一体であり、切り離す事は出来ない。
 日本人が、ナショナリズムを捨てて日本民族である事を止めたとき、天皇との関係は消滅する。
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 1674年 徳川幕府は、豊臣家所縁の城や建物を壊した。
 伏見山(木幡山)の伏見城も取り壊し跡地に桃の子を植えた為に、桃の名所となった。 この後、伏見山は桃山と呼ばれるようになった。
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 吉良上野介は、生涯で数度しか領地を訪れていなかったが、高家筆頭の激務の傍ら、領地を豊かにし領民の暮らし向きが良くなるように水害防止の堤防作り、石高の新田開墾、現金収入の塩田開発などに心血を注いでいた。
 大名や大身旗本などの領主は、領国の収益を挙げるべく、地域産業の育成の為に特産品・名産品の開発と大坂、京、江戸などの都市市場での売る込みに力を入れていた。
 日本の経済力は、中央ではなく地方にあり、底力は辺境の山村漁村の集落にあった。
 つまり。日本力の実体は、何ら特性のないごく普通に存在する平凡なムラの潜在的な力であった。
 日本とは、ローカルなムラである。




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