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・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族日本人の心は、醜く、悍ましいほどに汚れ穢れている。
現代日本人は、愚かしいほどの狐禅である。
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日本世界を、不昧因果が何となくで覆っていた。
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日本列島を支配しているのは、必然でも奇跡ではなくただの偶然である。
人は納得し安心する為に、ただの偶然ではなく何らかの必然あるいは奇跡であると考え、何らかの貴い使命があると思いこもうとしている。
そんなものは、有りもしない馬鹿げた話である。
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日本民族日本人は、春夏秋冬の四季のように生まれ、四季と共に生き、四季のように死んでいく。
日本民族日本人とは、自然のうつろいを素直に生きる素朴な民であった。
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日本文明と中華文明とは異質であり、日本文化と中国文化・朝鮮文化とも完全に別物である。
人間性において、日本民族日本人は中華人である漢族系中国人や韓国人・朝鮮人とは違う。
日本民族日本人は、合理的現実社会を生きている。
中華人である漢族系中国人や朝鮮人は、論理的観念社会で生きていた。
・ ・ ・
2018年10月号 新潮45「反・幸福論 佐伯啓思
89 道元の説く『ありのまま』とは
ブッダは『この世は苦なり』と断じている。ゆえに仏教とは苦界からいかに逃れるかの哲学である。そこを道元はどう捉えたのか。
道元の『空華』
昔から一度は、道元を読んでみたいと思っていた。実は、以前に『現成公案』や『有時』など『正法眼蔵』のよく知られた部分を読んではみたものの、まったく歯が立たず、そのままになっていたのだが、最近またいくつかの巻を読んでみた。とても理解できたとはいえないにしても、かなり面白いと思った。全巻読んだというわけでもなく、精読というわけでもなく、ほとんどつまみ食い(つまみ読み)状態なので、理解も何もないものだが、なるほどと思ったことも事実である。
もとより、私の『なるほど』が道元の真意を的確に把握しているかどうかも判然とはしないし、道元の文章は、われわれが普通にいう論理で理解されるようなものでもない。そもそも扱っている問題が、論理やロゴス、つまり分別知では把握できない、そのもっと先に、あるいはそのもっと手前にある、いわば無分別の知へと読者を誘うものである以上、『わかった』と『わからない』かなどという判定さえも無意味に思えてくる。『わかった』といっても『わからない』といっても、それ自体が分別知の世界に身を置くことになってしまうだろう。そういうところに道元の多くの講話や文章の難解さも面白さもある。
ただ、わかっているのか、わかっていないのかがわからないにもかかわらず、私のような厚かましいつまみ食い者にさえも、何やらただならぬ論の気配や深遠さを垣間見させてくれるというのは、そのたいへんな文章力によるだけではなく、そこに、われわれが漠然と感じている何か、つまり日本文化の根底に触れる何かがあるからではなかろうか。
道元論やその解釈などは、その筋の研究者にお任せするとして、つまみ食いの食い逃げというわけにもいかず、前回に引き続き今回も少し道元に導かれるままに書いてみたい。
まずは『正法眼蔵』のなかの『空華』の巻を見てみたい。ここで道元は次のようなことを言っています。
釈迦牟尼は『翳(えい)人(目がかすんだ人)は空中にありもしない虚の華を(空中華=空華)を見ているようなものだ。眼病を取り除けば、空中の華は消えてしまう』といっている。だがこの言葉を正確に理解したものは誰もいない。
普通、それはこう理解されている。この現実は仮象であって、華(花)も仮象、つまり幻影であり、われわれはその幻影の花の姿を、あたかも存在するかのように見ている。しかし真理は『空』(あるいは『無』)にある。この世界の実相は『空』であるのだから、仏道を学んで真知をえれば、目のかすみもとれて、虚の華は消え、『空』なる実相が知られるはずだ。普通はこのように理解している。そして彼らは、『空華』(虚の華)を、あたかも、大気(空)のなかに浮かぶ雲のようなものであって、風に吹かれて東へ西へ、上へ下へとただよっているだけだ、と思っている。
しかしそれは違っている。そんなのは外道の理解である。彼らは物事の存在の法則(諸法)というものを知らない。この世の存在は、すべて地・水・火・風といった要素が仮に結合してできているのであり、その結合を生み出す諸法によって、この物的世界(器世間)は、あるべきようにある(住法位)のだ。そのことを知らないで、彼らは『ただ眼病だから虚の華を見てしまっているだけだ』といっている。それは間違いだ、と道元はいう。
私なども、仏教の基本的な世界観は、何よりも、この世界の現実を一種の仮象、すなわち虚構と見破り、その実相は『空』や『無』である、と喝破するところにあると考えてしまう。しかしそれは間違いだと道元はいうのである。
どうしてか。そもそも、眼病者の見ている虚の華は虚妄であって、それとは別に実相があると思うのが間違っている。空華が『妄法』(虚妄)であるというのなら、華を妄法であるという意識もまた妄法であろう。もし眼病のかすみ目で華を見ることがさとりそのものだとすれば、華は確かにそのものであって、すべてがありのままの存在だということになる。もしもそれが迷いであれば、すべては迷いのもとにあることになる。もしもかすみ目の見ているものが生滅を超えているなら、空華もまたせいめつを超えている。もしも華をあるがままにある(諸法実相)というなら、かすみ目の見る花がその実相である。このようにいう。
かなり手ごわいといわねばなるまい。道元の述べていることを理解するのは容易ではない。たとえば、『空中の華』などというと、われわれはつい、この世の物質的現象はすべて幻だ、実相は『空』である、といううたくなる。自我やら欲望やらに囚われて、われわれは、この世の『色』(すべての物質的現象)を実在だと思ってしまう。しかるに実相はそうではない。そこに確かな物質的な存在があるわけではない。確かなものはどこにもない、という意味で実相は『空』である。まあ、おおよそこのようにいいたくなるのではなかろうあ。
しかし、道元は、それは間違っているというのだ。
『色』を離れて『空』があるのではない。『色』が煩悩に囚われ色眼鏡(かすみ目)だから、それをとればよい、というのではない。『空中の華』もまた『虚の華』としてある、という。眼病者は眼病者としてあるのだ。すべての存在が本性空で因縁生起で現れているだけだということは、われわれが見るものは常に仮象なのである。眼病でなければ、空華さえも見ることはできない。空華であろうと華は見える。虚の華でも華である。しかもそれを見るのは眼病者だからなのである。かすみ目でなければそもそも華を見ることもないのだ。
従って、かすみ目を治せばよい、ということにもならない。しかしまた、かすみ目であるという自覚なしに真実の華を見ていると思いこんでいるだけでは、ただ虚の世界に生きることになろう。それはひたすら苦海に住することになるだろう。
生死を超えた〝存在〟
ではどうすればよいか。さしあたって人はかすみ目で華を見るほかないのだが、少なくともそのことは知らなければならない。だが、それはどうして知られるのか。そこに発心がでてくる。発心は、何かの機縁で生み出されるもので、自分で意図して生み出すものではない。機縁もまた因縁生起なのである。そして発心が生まれれば仏道の修行がそれに続くだろう。
発心をうむ機縁についてはまた後に述べるとして、さしあたって大事なことは次のことである。なぜ華は虚であるかといえば、すべての物質的存在の法は、地・水・火・風といった諸要素の偶然の結合によって成り立っているからであって、だからこそ、華は空華なのである。そこにこそあらゆる存在の法がある、かすみ目で華を見るからこそ、その本質にある『空』を知ることもできるのである。
ここで道元は続けて次のようなたとえを述べている。
『空』とは一本の草のようなものだ。そこに華が咲く。もとは華がなくとも時節が到来すれば華は咲く。梅は時節になれば梅の華を咲かせ、桃も時節がくれば桃の華を咲かせる。空華もまた同じであって、『空』の草木に時節がくれば空の華が咲く。『本無華なりとも、今有華なり』。もともと華がなくても、いま華は咲く、という。時節到来すれば、空の中に華が咲くのである。
こうして空の中に咲く華は様々な色をもち、ほとんど尽きることがない。その空華が開いたり落ちたりするのを見て人は春や秋を知る。華が咲けば春であり、春であれば華は咲く。そして華に様々な色があるように、春や秋にも様々な色がある。
確かに、現象としていえば、華は咲いたと散ったりするであろう。咲いた時には華は『有り』、それが散った時には華は『無い』。われわれは通常そのようにいう。しかし、ひとたび、それを『空』の次元でみれば、それは『有る』とも『無い』ともいえないであろう。有るといえば有るし、無いといえば無い。そもそもが『空』だからである。
だから、『空』の上においてみれば、『華』は不生不滅なのであって、当然ながらそれは生まれもしなければ死にもしない。つまり、『空華』は生滅を超えていることになる。
そのことを忘れて、われわれは、『空』において華を見ずに、ただ物的現象として視界にはいる華だけを見るから、華は咲いてこの世に生まれ、やがて散ってこの世から去ってゆくなどという。しかしそうではなく、華が生じてまた滅するのも、それが『空』にあるからであり、『空』に咲くからである。
さてそうなると、これはただ華に限られたことではなく、人も含めてあらゆるこの世の存在の在り方を示しているといってもよかろう。華を人に置き換えてみればよい。人も、それをひとつの物理的実体だとみれば、この世に生まれ出ては死んでゆく。そこに生死を論じることになる。しかし、人も四大五蘊(ごうん)の仮和合だとみて、本性空とみれば、生も死もなくなるであろう。人を『空』のなかで見れば、人そのものが有りとも無ともいえる虚の存在であるのだあら、この意味で、人は生死を超えている。不生不滅である。かくて『空華』とは、まさしくすべての存在の態様にほかならないといえるだろう。
そこで道元はいう。『涅槃、生死是空華』。涅槃も生死も空華である、と。涅槃とはさとりを開いた仏の境地であり、生死とはこの世における人間そのものであるとして、ではどうして涅槃も生死も空華だというのか。ここで道元は次のようなたとえを持ってくる。
空華の根や枝や花などは、すべて空華の華がひらく状態である。空華は必ず空なる果を結び、空なる種をもたらす。そこで空華をすべての世界とみれば、この世界(三界)は空華の花開いた世界である。それは、空に咲いた華であるがゆえに、諸法のあるがままの姿、つまり『諸法実相』にほかならないのだ。空に咲いたがゆえに、それはありのままの華の姿(諸法華相)ということになる。難解といえば難解であるが、きわめて理路整然としているともいえるのではなかろうか。いや、あまりに論理的であるがゆえに理解しがたいというべきではないか。『空の上に咲く華』は虚妄の華である。しかし虚妄だからといって、その『虚』を消去すれば実相が顕現するかといえばそうではない。『空』はあくまで虚妄の華(空華)により、それに即して知るほかなく、そうと知ればまた、空の上に咲いた華を、もはや実相だとか虚妄だとか分別することもできまい。それはただ華そのものというほかなかろう。
ここまでくると、もはや空華は眼病者が見る虚妄だといっても仕方ないのであって、虚妄お実相もない、虚妄は虚妄として、それが実相になるのである。虚の華は虚の華として、まさにそこに咲くのである。ここに『空即是色』がでてくる。しかも大事なことに、『色即是空』であるがゆえにまた『空即是色』でなければならないのだ。あるいは、鈴木大拙の『即非の論理』に従っていえば、『華は華でないがゆえに華である』ということになるであろう。
つまり、虚の華であれ、華がなければ、そもそも虚であることを知る手立てもない。華を通して『空』を思う知る。しかし『空』を思い知ったからといって華が消えるわけではない。ただ華の見方が変わるのである。いやもっと正確には、華と対面するわれわれの『こころ』が変わる。『空』を知った『こころ』が見る華は、いわば華そのものとなって現れてくるであろう。華は華として『現成』するのである。
ここで、われわれは『華において空をみる』(色即是空)といってよいが、そのゆえにまた『空において華をみる』(空即是色)のである。そしてこの両者が切り離されずに一体であることを知った時に、華は、時がくれば自然に咲くということにもなる。
それを道元は、達磨大師の述べた『一華五葉を開き、結果自然に成る』という言葉の注解においてこう述べた。華は時至れば開き果を結ぶ。百の草も様々な樹木も、時節を守り、その時になれば(有時)、果をもたらす。それは自然にそう成る(自然成)のだ。人が意図的に華を咲かせるわけでもなく、華のなかにそういう遺伝子のような種子がプログラムされているわけでもなく、ただただ因縁生起によって、それは自然に成る。
こう述べてくれば、道元が言っていることは、実は、われわれの修行そのものである、と理解できるであろう。それは、実は、われわれのさとりの在り方そのものなのである。空華が自然に花を開き、果実を結ぶのは、仏道そのものだといってよい。空華を知ることは、この世界の実相を知ること、つまり仏道そのものであり、しかも、われわれ自身さえも空華のごとき存在であるほかない。われわれ自身も『空』のなかにあって虚の華を咲かせているのではないか。しかし、因縁生起によって時節が至れば、われわれも自然に発心しさとりへ向かうのである。その意味で、空華とは、仏道のたとえそのものといってよいであろう。
苦行の果てに
繰り返すが、ここで道元は、さとりとは、ただこの世界の実相を抽象的な『空』として捉えるだけではだめだ、といっているのである。そこには、小乗仏教への批判もあったのであろう。修行は山にこもりただ空や無を観ずる自己満足ではなく、日々の行のなかで山河草木や衆生とともにある。なぜなら、さとりとは、ただ修行者が独力で諸法無常、一切皆空の境地に至ることではなく、山河草木すべてと共鳴しつつさとることだからである。
この『山河草木とともにさとる』との文言は、いささか奇矯な響きを持つとしても、大乗仏教の要を示している。全世界の一切が修行者の全身である、というこの考えは、『正法眼蔵』を通して語られるのであって、たとえば『法性』の巻には次のようなことが書かれている。
外道のなかには、法性というと、われわれが現実にこの目で見たり聞いたりしている十万世界や三界がぴたりとなくなって、そこに、いわば霧が晴れたように法性というものが現れてくるとでも思っている者がいる。しかしそうではない。法性と森羅万象は別物ではない。同じであるとか異なっているとかいう論議そのものがおかしいのだ。
あるいは『唯仏与仏』の巻には次のようにある。『山河大地と人間は同時に生まれた』と古仏がいうように、修行は、この大地のことごとく(尽大地)とともに行じるものであり、一切の衆生(尽衆生)とともになすべきである。発心から成道に至るまで、あらゆる大地、あらゆる衆生とともに修行し、しかもともにさとるのである。
『弁道話』の巻には次のように見える。この十万法界の土地も草木も牆壁(しょうへき)も瓦礫もすべてが仏事を行じるがゆえに、それが引き起こす風や水の利益に与るものはみな、不可思議な仏の教化されてさとりに至る。またその火や水を使い、それらとともに住むものも、お互いに無窮の仏徳をそなえ、それが、この世界全体へと拡散してゆくのだ。
要するに、仏道とは、人事を離れ、世間から脱し、教典の世界に埋没して独力でさとりに達するものではない。現実のこの世界のなかにあって、国土大地山河草木のあらゆる存在とともにあって日々修行を積むことなのである。
まさしく『現成公案』の巻にこう書かれていた。『自己を運びて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり』と。自力でこの世のすべての真理を掴もうとするのは間違いである。逆にこの世の万物が自己に真理を証してくれる、という。山河草木のすべてに寄り添うことで自我が滅却しなければならない。『自己をわするるというは万法に証せらるるなり』である。森羅万象すべてに教導されることが自我を捨てることとなり、それこそが仏道を習うことであった。
道元の語り口にも乗せられて、たいへんに魅力的な深遠な話を聞かされた気にもなってくるのだが、それにしても、大地や草木、さらには牆壁(しょうへき)や瓦礫などと同時にさとる、というのはどういうことなのであろうか。独行・苦行の果てにようやくさとりに達するということは可能かもしれないが、どうして道元は、山河草木といった森羅万象とともにさとる、などというのであろうか。
その答えは、前回にも述べたように、仏教の基本的な考えが『縁起・無自性・空』にあるからだ。森羅万象は相互に関連しあっている。この関係はあくまで因縁によって決まる。だから、我などという実体もなければ、今ここにある山という実体もない。すべて遷移し流転する。『山水経』の巻に『青山常運歩』という、これまた聞き慣れない言い方がでてきて、『山は常に歩いている』という。この一見、異常な言い回しも、山といえども、固定実在としてそこに存するのではなく、常にあらゆるものの相依関係によって成り立っているとすれば、これもあながち無意味な言い回しともいえなくなってくる。
いや、本当は、まさしく無意味なことを述べているのであって、分別世界を超えた無分別な世界を道元は指し示そうとしている。この無分別で無意味な世界とは、存在の実相が『縁起・無自性・空』によってのみ理解しえる、つまりは『一切皆空』であると知ることにほかならないであろう。この叡智さえ確保すれば、山なるものの実在か虚妄かさえ論じるに足らず、『空』とともに山はあるというだけのことである。歩くといえば山は歩くのだ。
すべて『空』
かくて、すべてのものが相依しあうという世界構造は、『縁起・無自性・空』によって、この世界のあらゆる存在を、そのまま『仏性』となすであろう。あらゆる存在が『仏性』なるものをもっているのではない。何か『魂』や『霊』や『さとりの種子』といったような『仏性』をもっているのではない。すべての存在は、相依しあいながら『空の中』で、まさに己の在り方で現にそこにあり、そのような在り方を『仏性』という。とすれば、修行とは、一切皆空とさとりきることで、この世のすべての存在を、そのままのありようで受けとめ、その世界のなかに、自我を消滅させてゆくことにほかならない。
この『そのままでのありよう』、『自然のままでのありよう』といったことは道元にとってとりわけ重要な意味をもっているが、私がその点に関心を持つのは、そこにこそ道元の『日本的』(あるいは東アジア的)とでもいいたくなるある傾きが示されているように思うからだ。
たとえば『恁麼(いんも)』の巻で、彼はこういうことをいっている。ちなみに『恁麼』とは『ありのまま』という意味である。
われわれはこの十万世界におけるただの調度に過ぎない。なぜなら、われわれの身も心もこの世界にあって、決して思い通りにはならないし、私であって私ではないからだ。だいたいこの身体さえも私のものとはいいがたい。いのちはすぐに過ぎ去り、紅顔の容貌もあっという間に衰えて昔の面影もなくなる。過ぎ去ったものに再び会うことはかなわず、こころもまたたえずうつろって落ち着かない。
そうだとすれば、人が地につまずいて倒れた時、自分がつまずいて倒れたなどと考えてはならない。それをありのままに地によって倒されたと思えば、また地によって起きることができるであろう。自分が起きるのではなく、地によって起きるのであって、地によらずには起きることはできないのだ。それを自力で大悟しなければなどと考えてはならない。さとりにつまずくも、迷いにつまずくも、同様のことで、地によって倒れたものは地によって起きるのだ。
倒れるも起きるもともに地面とともにあると道元はいう。地面の上に私が立っているのではない。いわば地面に上に立たされている。いや、地面とともにある。仏道とは、発心・修行・正覚・涅槃という一連のプロセスだとしても、その主体は『私』ではない。それは『私』が自力で大悟するような性格のものではないのである。
われわれがこの十万世界のただひとつの調度に過ぎないとすれば、仏道とは、この十万世界のすべての存在とともにさとりを求めるものなのであって、その時、この『求めるこころ』が発心であり、発心はすでにさとりの一歩だ、と道元は述べる。『たとえ一瞬であっても発心し修行するものは即心是仏である』とさえいう。さとりは修行の果てにやってくるのではなく、この世界のなかで日常の生活を行じることであり、修行そのものがさとりである。『修証一等』というわけである。
『発菩提心』の巻において道元は次のようなことをいっている。
善行を行う人が、食べ物や衣服や医薬などを三宝に供養すると、三宝の功徳が、自身だけでなく妻子の身の上にも及び、それはすぐれた仏道精進になっている。ひとつの小さなこと(一塵)に発したものがひとつの心(一心)を動かし、それが発心したとき、仏性が芽生える。そして草木や牆壁(しょうへき)とともに誠実に修行すれば、ついに得度できる。なぜなら、人の身心(四大五蘊)と草木とは同じものだからである。人とは、四大五蘊の仮和合によって成り立っている。それは、すべてのものごとが因縁の相互作用のなかで成立するからである。とすれば、人も山河草木も同じだ、といっているのだ。すべてが仏性なのであり、『山河草木、悉有仏性』なのである。
さてもう一度、『恁麼(いんも)』の巻に戻ると、道元はさらにこうも述べている。
ある仏者が別の者に、風鈴がなるのを聞いてこう問うた。『あれは風がなるのか、それとも風鈴がなるのか』と。問われた者は答えた。『風がなるのでもなく、風鈴がなるのでもなく、わがこころがなる』と。では『こころとは何か』と問われて、仏者は答えた。『ともに寂静(じゃくじょう)であるからだ』と。
この話を聞いて、次のように解釈する者がいる。『風がなるのでも風鈴がなるのでもなく、わがこころが、その音を聞いているのだ』と。だが、これは間違いだ。ここでいわれているのは、すべてがことごとく『寂静』であり『無為』であり『三昧(さんまい)』である、ということだ。ひとつのものが寂静であれば、すべてが寂静なのである。風が吹くのも、また鈴がなるのもすべて寂静なのである。こころもまた寂静なのである。ここで『ありのままのありよう(恁麼)』をあれこれといじくるのではなく、ただ風がなっている、鈴がなっている、なるものがなっている、というべきである。ただ『あるがままのものがある(恁麼)』なのだ。
確かにいかにも禅問答風で、わかりよい話ではなかろう。しかし、禅仏教のひとつの境地が、あるがままのものをあるがままに見、聞き、味わうをよしとすることを知っているわれわれにとって、さほど理解しがたいことでもないだろう。人間は自然や世界のうちにあり、自然や世界のもろもろの存在と繋がっているから、人がさとりに至るとき、すべての存在がさとることになる。もう少し砕けた言い方をすれば、われわれの『こころ』が世界をそのように見るのである。端的にいえば、『山河大地、日月星辰、それはこころである』(『心身学道』)ということになるであろう。
日本の中世仏教にあっては、本覚思想はきわめて重要な意味をもっていた。すべての衆生は本来的にさとりをえる可能性を有する、というこの思想は、衆生の救済を唱える大乗仏教にとってはひとつの要であるが、それが拡張されて生きとし生けるものとなり、さらには山河大地草木、つまり自然そのものへと拡大される。確かに、すべての存在が相関しているという因縁説をとれば、この拡張も理の当然ともいえよう。
道元は、本覚思想を受け止めつつも、『すべての存在が仏性をもつ』とはいわずに、『すべての存在は仏性である』と読み替えた。そうすることで、われわれがさとりへ至ろうとする発心や修行を、山河大地草木という自然そのものとの共鳴関係へと拡張したわけである。修行は、一瞬一瞬のその刹那に、花をめで、風の音を聞き、月を見、さらに庭を清め、茶をすするという日常の平凡な行為と一体化する。自然のなかに自我を没し、日々の行為のなかに自我を捨てることが修行であり、それがさとりでもある。『修証一等』である。こうした自然との一体化、日常平生の行なくして仏道はないのである。生死を去る、生滅を離れるとは、この果てしない修行のなかで『自己をはなるる』ことにほかならない。このように『自己をはなるる』時、すべての存在は、その存在の本来の姿を現す。
そして存在の本来の姿とは何か。それは『無常』にほかならない。この世に常なるものはなく、すべてが生滅を繰り返す。諸行は無常であるほかない。したがって、山河大地草木すべて『ありのままにある』とはこの世は『無常』、ということになろう。であれば仏道とはせんじ詰めるところ何であろうか。それはただ『無常』を知る、ということになる。だから、道元は『無常とはすなわち仏性である』といい、また『草木叢林の無常な姿、すなわちそれが仏性である』(『仏性』の巻)というのである」
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日本仏教は、中国仏教や朝鮮仏教とは全くの別の異端派仏教である。
日本は、外は仏教、内は神道の表裏がある二面性国家であった。
中国・朝鮮は、仏教を弾圧した儒教の表裏がない一面性国家であった。
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日本仏教が憧れたのは、中国仏教や朝鮮仏教ではなく、オリエント文化(古代のギリシャ・ペルシャ・エジプト)の影響を受けたガンダーラ文化に染まったインドの原始仏教である。
日本人が最高の高僧と崇めるのは、中国人ではない唐人僧の玄奘三蔵と鑑真和上の二人である。
東大寺の大仏開眼供養をおこなったのは、唐僧(中国人僧)ではなく新羅僧(朝鮮人僧)でもなくインド人僧であった。
唐は、伝統的陸禁・海禁政策で中国人が国外に出る事を禁止していた。
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韓国のごく一部の寺院は、対馬など日本の寺院から盗まれた仏像・仏具・教典・経文などを盗難品と知りながら購入し、国際法に従って返還要請をする日本の寺院を完全無視している。
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世界はおろか日本人が抱いている、「日本民族日本人とは高尚な精神と高貴な志を持つ優れた尚武の民族である」とは、嘘である。
つまり、日本民族日本人の武勇とは「張り子の虎」、つまり上辺だけの「見せ掛け」に過ぎない。
ゆえに、武士道などの「精神論」をことさら声高に唱える。
精神論は、強者には必要なく、弱者にこそ必要なのである。
その意味で、精神論があるところは弱者の集まりである。
それ故に、日本民族日本人にあるのは「強者の論理」ではなく「弱者の論理」である。
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日本民族日本人は、目の前にある苦難や困難、逆境や窮地には勇気を持って立ち向かったが、目に見えない感じるだけの恐怖や恐れには怯えるだけであった。
恐怖や恐れに対して、半狂乱となって逃げ出したりせず、かといって克服する為に蛮勇をふるって戦ったりせず、無駄な事は無駄・どうにもならないとしてと諦め、素直に受け入れ、ビクビク・おどおどしながらとにかく命ある限りを生きてきた。
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日本民族日本人にとっての、最大の関心事は命を繋ぐ為の「食べ物を確保する事」で、最優先課題は「食べて命を保つ事」だった。
如何なる信仰よりも、如何なる真理よりも、如何なる信念よりも、まずは命の糧である「食べ物」である。
食べ物を確保する事が縄文時代の生き方である。
腹満ちて、生きていてこその人生、幸福である。
日本民族日本人ほど、飢えの「ひもじさ」「せつなさ」を痛感していた人はいない。
命とは、食べて生きる事である。
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弱者の論理で生きてきた日本の歴史は、強者の論理で勝ち抜いた勝者による西洋の歴史・中華の歴史などの世界の歴史に比べて血生臭くない。
弱者の論理は相対的価値観であり、強者の論理は絶対的価値観である。
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日本民族日本人には、相対的価値観は理解できたが、絶対的価値観は理解できなかった。
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日本民族日本人は、世界的に見て、如何なる人種・民族・部族と比べても弱虫・気弱・ひ弱であった。
その為に、強烈に個性の強く積極的な外来の宗教、哲学、思想、主義主張を、消極的な日本好みに曲解するべく改竄・歪曲・捏造し、変換して受け入れ、どうにも変換できないモノは如何に優れていようとも拒絶して追放した。
道教は日本神道に、仏教を日本仏教に、儒教を日本儒教に、それぞれ軟弱な別モノに変えた。
だが、キリスト教とマルクス主義(共産主義)は日本風に変える事ができなかったが故に拒否した。
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日本民族日本人は、中華化である中国化あるいは朝鮮化を拒絶したように、西洋を受け入れてもキリスト教化とマルクス主義化(共産主義化)を拒否した。
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キリスト教とマルクス主義(共産主義)の共通点は、絶対的価値観に基ずく絶対正義・人民の正義で女性や子供に関係なく容赦なき大虐殺を行う事であった。
唯一をめぐる、正教徒と異教徒・邪教徒、正統派と異端派、革命派と反革命派の、相手を皆殺しにする戦いである。
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日本民族日本人の本性が弱虫・気弱・ひ弱であるがゆえに、血を見るのが嫌で、死体はなおさら見たくもない。
故に、日本神道は血や死体を「穢れ」として忌み嫌った。
弱虫・気弱・ひ弱を隠す為に、あれこれと屁理屈をつくって誤魔化した。
日本の屁理屈をつくるのに、孔子の儒教は役立たなかったが、釈迦の仏教と老子の道教は役に立った。
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道教は、日本中心神話・天孫降臨神話など日本神話の中に溶け込んだ。
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日本は、国家鎮護の「仏教国家」であった。
儒教が日本に定着したのは、徳川幕府が朱子学(宋学)を官学として強要してからでありった。
日本が儒教国家に改造されたのは、国民道徳の根源を示した「教育勅語」が国民教育を支配した時からである。
それを誤魔化す為に、無宗教の「国家神道」が創られた。
国家神道は、日本神道ではなく朱子学儒教の隠れ蓑、つまり中華儒教の世を騙す仮面であった。
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日本における精神・心を知る、悟とは、心の内に秘めている「よわさ」「もろさ」「はかなさ」「せつなさ」を自覚する事である。
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何故、現実に生きる日本民族日本人が仏教に救いをもためたのか。
それは、死後の救済・死後の安息・死後の永遠の命ではなく、自分の心を支配している「邪(よこしま)」や「穢れ」に恐怖していたからである。
一部の死後の世界に恐怖する自立できない弱虫の日本民族日本人のみが、日本仏教が創作した御仏の世界、極楽浄土という有りもしない架空の世界に逃げ込んだ。
縄文時代から信じられていた死後とは、現実社会とは完全に切り離された死後の世界に旅立つのではなく、古代エジプト同様に現実社会への生まれ変わり、甦りである。
日本仏教は、生まれ変わり・甦りを取り入れて「輪廻転生を繰り返して極楽浄土に至る」という教義を疑う事なく無条件ですんなりと受け入れた。
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大半の日本民族日本人は、死後の世界や永遠の命など信じていない。
死後の世界とは、人格なき魂・霊魂のが生まれ変わる・甦る為の生→死→生の通過点に過ぎない。
死後の世界とは、それ以上でもなく、それ以下でもなく、それゆえに現代日本で流布されているような深い意味など存在しない。
生まれ変わり・甦るのは、血の繋がらない見ず知らず赤の他人ではなく、血の繋がった子孫の中である。
子孫をなくすという事は、生まれ変わり・甦る先をなくす事である。
生まれ変わり・甦り先をなくした魂・霊魂がどうなるかは、日本民族日本人の知識では想像もつかない。
子孫をなくし無縁仏になる事に恐怖した気弱な日本民族日本人は、行き先をなくした哀れな魂・霊魂を救済する為に日本仏教に救いを求め、生まれ変わり・甦りを否定した。
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中世キリスト教も中華儒教も、正統な絶対的価値観を打ち立てる為に、異端を排除すべく数十万人数百万人を女性や子供に関係なく虐殺した。
日本民族日本人は、世界レベルの大虐殺を起こさない為に相対的価値観をもって正統と異端を消し去った。
そして、日本天皇・皇族・天皇制度を採用した。
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日本天皇・皇族・天皇制度は、日本で大虐殺を起こさない為であった。
そして、憎悪、怨念や復讐、報復と言った心の闇を消し去る為に、花鳥風月と虫の音、苔と良い菌の文化で日本を覆い、1/fゆらぎやマイナス・イオンによる融通無碍の曖昧さで日本民族日本人の心・精神を満たした。
あるがまま、そのまま。
自然のままでのありよう。
山河大地草木とともにさとる。
山河大地草木すべてと共鳴する。
日本の自然は、そこに神が宿るのではなく、それ自体が神々であった。
神が宿るとは、神が自然の内から去る事を意味する。
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日本が受け入れたのは、狭い意味での運命論や宿命論ではなく、広い意味での定め論であった。
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