🕯118)─1─怨霊信仰と日本の物語・民話。かぐや姫。~No.253No.254 @ ㉔

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本神道は、融通無碍で、多様性に富み、奥が深く、裾野が深い。
 日本神道の正統性を証明するのは、天孫降臨神話・日本神話で、高天原の最高女神・天照大神の心と血がを受け継ぐ祭祀王・日本天皇の皇統である。
 日本神道・日本神話・日本天皇は、切り離すことができない三位一体である。
 それが、天皇制度にある。
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 日本の物語である怨霊信仰・日本神話とは、人間だけではなく生きとし生きる生物はもちろん森羅万象すべてが宿す生命・魂・霊魂への慈しみである。
 日本に於ける怖れとは、愛おしく慈しむ事、日本的な心・まごころ・志である。
 心・まごころ・志を体現しているのが、女神・天照大神の直系子孫の万世一系男系天皇(両系直系長子相続)である。
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 御霊信仰・日本神話などの日本の物語は、自然を敬う生命讃歌・命讃歌である。
 そこには、中華や西洋のような理屈はいらない。
 命の源は、太陽を象徴する女神・天照大神である。
 日本の神性は、唯一絶対神男神・父柛ではなく多神寄り合いの女神・母神である。
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 日本天皇は滅ぼされる事なく、天皇家・皇室は断絶する事なく、日本民族日本人によって護られながら現代の今日まで存在してきた。
 日本天皇の正統性は、女神・天照大神の直系子孫の血筋・血統である。
 皇統は、神代から続く血筋・血統のみで受け継がれる。
 日本天皇が神の裔と言われるのはその為である。
 それ故に、マルクス主義共産主義を絶対正義とする反天皇反日的日本人は、戦前から天皇を殺し、天皇家・皇室を断絶させようとしてきた。
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 日本天皇ペルシャ王族の関係。『かぐや姫』物語のモデル。
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 654年 孝徳天皇日本書紀「吐火羅(トカラ)国男2人女2人舎衛(シャーメ)女1人風に被いて日向に流れ来たれり」
 ペルシア語で、「シャーメ」は「王」を意味し、舎衛女とは王の女、つまり王女と言う事である。
 王女の名は、バヌーパルス。
 二人の臣下は、オータムとイラジ。
 吐火羅国は、ササン朝ペルシアの事とされている。
 ササン朝ペルシャは、新興勢力のイスラム教アラブ勢力に亡ぼさた。
 王侯貴族やゾロアスター教拝火教)神官達は、イスラム教アラブ勢力の虐殺から逃げ、ペルシアを離れ、その一部が日本に漂着した。
 657年 斉明天皇。都貨邏(トカラ)国から男2人女2人の4人が来朝した。
 都貨邏人を、堕羅(ダラ)人と呼んだ。
 660年 堕羅人男性と654年に流れ着いた吐火羅国舎衛女(王女)は結婚し、女の子(堕羅の娘)が生まれた。
 675年 天武天皇。15歳になった堕羅女は、天武天皇に成人の報告をする為に母親・舎衛女と共に参内し拝謁した。
 680年 堕羅女は、20歳の若さで急死した。
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 歴史通 2016年5月号「岡田徹のこの一冊 『「かぐや姫」誕生の秘 渡来の王女と〝道真の祟り〟』孫崎紀子
 隣村百済に住む大伴の兄弟が娘の宮中参内の手配を勝手にするが、娘は急死してしまう。迎えに来た一行は怒って、家の主のトカラ人の翁と止めに入ったもう一人を斬ってしまう。その年から天変地異が起こり始め、人々は恐れて祠(ほこら)を建て二人の霊を祭神として祀った、とある。死して神となった二人と、娘のことは『日本書紀』に登場する」 
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 朝廷は、異郷の地で死んだ吐火羅人・都貨邏人・堕羅人の霊魂が怨霊となって祟る事を恐れて、大和国広瀬郡散吉郷に散吉(さるき)神社を建立して祀った。
 ペルシア語で長老を「サルカル」と呼び、日本人はそれを「サルキ」と聞き「散吉」と表記した。
 祭神は、散吉大建命神(サルキオオタツノミコトノカミ)と散吉伊能城神(サルキイノジ〈ギ〉ノカミ)の二柱(ふたはしら)。
 大建はオータム、伊能城はイラジと、音写した。
 朝廷は、異邦人の御霊は霊力が強いと恐れて、701年の神祇令で原則一社一座から外した。
 後に、散吉神社の名は讃岐神社に改められた。
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 ウィキペディア
 讃岐神社(さぬきじんじゃ)は、奈良県北葛城郡広陵町にある神社である。式内社で、旧社格は村社。
 祭神
 現在は、大国魂命若宇加能売命・大物主命を祀るとしている。
 『日本三代実録』元慶7年(883年)12月2日条には「散吉大建命・散吉伊能城神に神階従五位下を授ける」という記述があり、当社の神のこととみられる。
 歴史
 鎮座地名の「三吉」は「みつよし」と読むが、かつては「散吉」と書いて「さぬき」と読んでいた。一帯は讃岐国の斎部氏が移り住んだ地で、讃岐の故郷の神を勧請し創建したものとみられる。延喜式神名帳では「大和国広瀬郡 讃岐神社」と記載され、小社に列格している。
 広瀬川合(現 廣瀬大社)の若宇加乃売命を勧請したことにより、江戸時代までは「広瀬大明神」「南川合明神」と称していた。慶長19年(1611年)正月に火災があり、現在の本殿はそのときに再建されたものである。
 竹取物語との関連
 竹取物語に登場する「竹取の翁」が名を「讃岐造(さぬきのみやつこ)」ということから、これが大和国広瀬郡散吉郷のことであるとして、「竹取物語ゆかりの神社」を称している。


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