🌏17)─1─国家神道とは、西洋の宗教・精神面での侵略から日本を守る為の宗教改革であった。1872年~No.55No.56No.57 @ 

旧題名・「ユダヤ民族と日本民族は同族か? 天皇の祖先はユダヤ人か?」
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本軍の医療。
 華族の重責。
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 近代的新生日本が、天皇家を中心とした皇室神道を国教に引き上げたのは、普遍宗教の一神教キリスト教に対抗する為ではなく、宗教・精神面の侵略から日本を守る為であった。
 キリスト教による宗教・精神の侵略から祖国日本を守る為に、急いで宗教改革を行ったのである。
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 国学者は、神国日本を欧米列強の植民地とせず、日本民族日本人を白人の奴隷としない為には、日本書紀古事記に基ずく神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)という国體を守るしかないとして全力を上げていた。
 無宗教儀礼国家神道をめぐる、仏教勢力と神道国学勢力と儒教勢力の表面に現れない闘争。
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 フランスが植民地大国となったのは、普仏戦争(1870〜71年)でドイツ帝国に敗北してヨーロッパでの発展が閉ざされ、その飽くなき膨張欲を海外に求めたからである。
 フランスの植民地拡大は、日本に向かって東へと広がり始めた。
 日本の安全保障上の脅威に、新たな強敵の出現であった。
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 明治維新によって仏教的精神支配が崩壊するや、押さえ付けられていた儒学者は、新政府に対して政治支配理論としての「忠君愛国」を提言した。
 良い家柄で出世する門閥を重視するサムライ階級を没落させ、身分に関係なく高度な学問を身に付けた者を採用するという科挙に近い官吏登用試験を導入させた。
 人柄ではなく試験の点数が、人物判定基準となった。
 明治維新は、表向きは西洋化に見えたが、本質は儒教化であった。
 日本は、硬直した儒教化によって保守的となり、新しもの好きで移り気でむらっ気な庶民的な融通無碍な柔軟性を失った。
 儒教的日本は、儒教理念が盛り込まれた大日本帝国憲法(1890年)の制定に伴う立憲君主制で誕生した。
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 国家神道は、明治政府がキリスト教に対抗する為に創設したのではなく、仏教勢力が神道勢力を封じめ日本の霊界を支配する為に呪詛をかけて作った無宗教儀式である。
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 アルボムツレ・スマナサーラス長老「葬式仏教は本来の仏教の姿ではない、仏教は生きている人に有効に働く理論と実践を持っている」
 「言葉だけの気休めではなくて、練習を積めばスキルとして身に付けられるものである」
 本当の仏教は、高額な報酬を貰って死者を成仏させ供養する教えではないし、人を恐怖や不安にさせて教団に入会させ寄進させる教えでもない。
 自分を高める、実生活に役立つ教えである。
 実践を伴わなければ、空念仏で意味がない。
 お釈迦様「私の見出したダルマ(法)は、世の中の流れに逆らうものである」
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 福沢諭吉「人は平等と云うが、実際は違う。現実には賢愚、貧富、貴賎の雲泥の差がある。その差を縮めたければ学問をせよ。難しい仕事をする医者、学者、政府の役人や、大商人、大百姓は身分が重く貴いが、それは学問の力があるからだ。
 無学な者は貧人となり、下人になるしかない」(『学問のすゝめ』)
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  日本政府は、近代化を目指すに当たって有能な外交官や軍人を欧米列強に派遣する事に決めた。
 欧米列強の上流階級が主宰する社交界に出席して羞じない教養と見劣りしない身分を有しているのは、華族となった旧大名達であった。
 旧大名達は欧米駐在公使に任命され、夫人同伴で海を渡った。
 旧大名と夫人は、欧米の文化教養も欧米のマナーも知らなかったし、まして欧米語も話せなかった。
 日本を代表する役目という重責を全うする為に、赴任地に赴くまでの船上で全てを学び、短い時間で国を代表する外交官とその夫人へと見事に変身した。
 赴任先が1ヵ国で終わるわけではなかったから、如何なる国に行っても良い様に数カ国語の外国語を習得した。
 「日本人は外国語を覚えるのが下手である」というのは嘘で、それは覚えるのが下手な日本人の見苦しい言い訳に過ぎない。
 外交官に向かない華族は、軍人、学者、技術者となって積極的に欧米列強に留学して新しい知識を学び、各国の上流階級や指導者との交流を深めた。
 華族とは、特権を認められた支配層ではなかった。
 後に、旧下級武士や庶民でも功績をあげ名をあげた者は華族に任じられた。
 日本の華族は、世界の貴族とは違っていた。
 日本が中国や朝鮮とは違って近代化に成功したのは、華族の努力の賜であった。
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 1872年 神祇省が廃止され、新たに教部省と大教院が設置された。
 国民に国教である皇室神道を教導するべく、神の裔・天皇を奉戴する事を命じる「三条ノ教則」が布告された。
 民間信仰禁止政策。神霊の憑依やそれによって託宣を得る行為、性神信仰などが低俗なものや迷信として否定され、多くの民俗行事が禁止された。
 出雲神道系などの信仰が偏狭な解釈により大きく後退した。
 また、神社の祭神も、その土地で古来からまつられていた神々ではなく、『古事記』、『日本書紀』などの皇統譜につながる神々に変更されたものが多い。
 地域での伝承が途絶えた場合にはその神社の古来の祭神が不明になってしまっている場合がある。
 修験道廃止令。各地の霊山を歩き回る修験道の開祖、山伏の元祖は、役の行者である。修験者や山伏は、アニミズム多神教の神々に呪術を唱えながら、山に籠もり、滝に打たれ、山野を駆け巡っていた。
 知的エリートは、一神教的価値観を日本に根付かせる為に、日本の非科学的な多神教的発想を廃棄しようとした。
 神が住むとされた神聖な山嶺は、神を信じない無神論者の登山家によって切り開かれ、ゴミは捨てられて汚され、自然は無惨に踏み荒らされた。
 政府は、主要輸出品である生糸の品質を向上させる為に、官営模範工場として富岡製糸を開業した。
 応募で集まった士族の妻女210名に、職業訓練を受けさせ、日本の製糸業界発展の指導者とした。
 後に地獄の様な製糸女工の哀話を生み出す、製糸業界は外貨獲得の国策として始められた。
 国学者は、天孫降臨神話に基ずく神の裔・天皇の神性を守る為に、迷信や呪いなどの神秘主義に基ずいた発想は人心を不安に陥れ惑わす邪教であるとして廃棄を訴えた。
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 明治新政府は、世俗化している宗教界に対して「肉食妻帯勝手たるべし」という通達を行い、僧侶は教義・戒律・定めに縛られる事なく妻子を持ち肉を食い酒を飲む事を許した。
 浄土真宗以外は。戒律で妻帯は禁止されていた。
 だが。僧侶とて男である以上は、愛欲は断ち切れなかった為に隠れて稚児(小坊主)を相手にする男色に走っていた。
 それでも若い女性の肉体を求める性欲が断ち切れない僧侶は、遊郭にこっそりと通って遊女を抱いた。
 女性を抱いた事が発覚した僧侶は、「女犯」の罪を犯したとして咎められ、罰せられた。 この通達によって、僧侶は妻子が持てるようになった事を内心で喜んだ。
 尼僧は、僧侶に比べて戒律を厳格に守り、夫をとらず独身を通した。
 キリスト教は、日本の節操なき曖昧さを最も嫌った。
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 1月13日 アダムス代理公使は、副島外務卿に対して、伊万里キリシタン逮捕事件の真相を究明した。
 1月31日 警察当局は、外交上の大問題に発展する事を恐れ、事件を有耶無耶にしてキリシタン全員を釈放した。
 3月14日 日本政府は、宗教問題に関する外圧を緩和させる為に、改宗者の帰村を認めると布告した。
 約1,000人が改宗を誓って帰村したが、帰村後にその多くが宣教師の教導によって改心もどしを行って隣人愛の信仰を取り戻した。
 宣教師は、日本の要望を無視して、密かに布教活動を再開した。
 日本側は、その事実を掴みながら、外圧を恐れ、事なかれ主義的に黙認した。
 各地の仏教勢力は、キリスト教以外の宗教を攻撃して布教活動を続ける傲慢なる宣教師を憎いんだが、政府側の自制の要請でキリスト教排斥運動を控えた。
 12月31日(明治5年12月2日) 明治政府は、翌日から太陰暦を改め太陽暦グレゴリオ暦)を採用し、1873(年明治6年)1月1日とした為、明治5年は12月3日から12月30日までの28日間が存在しない。
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 1873年 大教院神殿が、何者かによって放火されて全焼した為に、御神体芝東照宮に移した。
 欧米列強は、バチカンの要請を受けて、日本政府に対して「信教の自由」の原則を受け入れて即時キリスト教禁止令の廃止を迫った。
 弱小国日本は、ロシア帝国の侵略から祖国を守る為に、欧米列強の協力を必要として外圧に屈し「国内法遵守の原則」を後退させた。
 キリスト教会は、日本人が御上の権威・御威光に弱い事につけ込み、全国での布教活動を開始するべく多くの政治家や軍人や官僚の改宗を行った。
 ちなみに、「信教の自由」とは、普遍宗教に認められた権利であり、民族中心宗教には認められていない権利でる。
 事実、「信仰の自由」の名目で多くの民族宗教が地球上から消滅させられた。
 国家・民族を改宗させる為には、将来ある子供を効果的に洗脳する事であった。
 そこで、子供をキリスト教に馴染ませる為に、日本の民族宗教的生活習慣を排除するべく欧米風の近代的教育運動を推し進めた。
 その核心は、語学であった。
 普遍宗教の排他的絶対教義で、民族中心神話的神事を非文明的行為として軽蔑し、神代から受け継いだ神の裔・天皇の神性を野蛮な因襲として完全否定した。
 キリスト教的絶対価値観で、日本を近代化させる為には神の裔・天皇キリスト教に改宗させ、最終的には非日本人を天皇に即位させる事である。
 つまり、「分割して統治する」というインド方式による日本支配計画であった。
歴史的に根強い反天皇反日本感情を持つ朝鮮では、日本に対抗する為に改宗者が続出した。
 イギリスのヴィクトリア女王は、1877年にインド皇帝を兼ね、インドをイギリス化する為に英語を公用語とした。
 天皇即位の条件を、「公」としての血筋や血統重視ではなく、ローマ教皇の様な「個」としての篤い信仰心に変更する事であった。
 だが。中世からローマ教皇選挙は、個人の信仰心や人としての能力・資質ではなく、個人の金と地位をめぐ野望と諸国の思惑による陰謀で動くことが多かった。
 ヨーロッパの上流社会は、豪華絢爛とした華やかさの陰で、尽きることのない欲望による陰謀と暗殺が横行する底知れない謀略社会であった。
 大陸人は、人が持つ底知れないどす黒い暗黒面に恐怖して、人智を越えた存在として、完全無欠の善を持つ絶対神の慰めを求めて信仰した。
 反宗教無神論者は、人間の内に秘めた全ての欲望を解き放して生きる事を理想とし、マルクス主義を完全な正義として信奉して、地上に〜イズムという地獄を創造した。
 共産主義の行く先々で、宗教や民族に関係ない大虐殺が起きた。
 日本のキリスト教化は、神の裔・天皇の神性を守ろうとした日本民族日本人の祖先神・氏神信仰によって、またしても失敗に終わった。
 最大の壁は、日本文明及び伝統文化を支えた、複雑な感情を表現できる情緒豊かな民族言語の「日本語」である。
 欧米列強は、神話に基ずく神の裔・天皇を中心とした多元的な相対的価値観にこだわる日本を認めず、一元的な絶対価値観を植え付けるべく孤立化政策を共同で採用した。
 反日朝鮮人と日本人キリスト教徒は、神の裔・天皇の神性を悪魔的邪悪として憎悪し、日本民族の「心」「魂」「命」の拠り所である祖先神・氏神信仰の神社への敬意を「信仰の自由」を理由にして拒絶した。
 その最たるものが、靖国神社参拝拒否である。
 普遍宗教を信仰するキリスト教徒は、2600年間、日本民族日本人(愛国心と忠誠心を持った日本国籍者)が大事に受け継いできた民族中心宗教としての「情緒」(心情・情感・感情)に、理解を示す事なく不寛容にも土足で踏みにじったのである。
 自分の事しか考えない不寛容な日本人は、日本民族としての「絆」を断ち切り、日本国籍を嫌い、日本人が持っていた「相手に敬意を払う」という伝統的素養を愚の骨頂であるとして捨てた。
 「個」という強靭的精神を信奉する絶対的価値観の彼等は、多種多様性を守ろうとする情緒的でひ弱な日本人を嫌悪した。
 プロテスタンティズムアメリカ系キリスト教会も、250年以上の永きに渡りキリスト教を排除している背教者日本人の人格を否定した。天皇信奉者日本人を、強制的に改宗させ、民族中心主義の日本精神を捨て、国際的普遍主義のキリスシタン精神を根付かせる為の強硬策を、政府に求めた。
 神道的日本人は、欧米列強のキリスト教的植民地化を憂えて神の裔・天皇を中心とした神懸かり的軍国主義国家を目指すべく、殖産興業と富国強兵の両政策を採用して、武力を背景にして周辺地域を国家防衛の為に勢力下に組み込んだ。
 反日朝鮮人キリスト教徒日本人は、激しく抵抗し、異教徒の天皇を暗殺するというテロ行為に走った。
 精神的に国家を防衛する為に、1890年に教育勅語渙発して天皇を現人神として崇拝する臣民倫理を基礎にした、神道的国家意識を国民に押し付けた。
 キリスト教徒日本人は、地上に「神の王国」を建設する為にローマ教皇キリスト教会に絶対服従を誓い、天皇と国家への忠誠を拒否し、皇室を転覆し「神ながらの道」を破壊する為に陰謀に加担した。不寛容な彼等は、神社そのものを認めない。
 キリスト教会は、天皇に無知を自覚させて土下座させる為に、国體破壊と神道解体を神聖な使命としていた。
 歴史的事実として、異教国家日本は滅ぼされ、現人神・天皇天皇を守ろうとした臣民日本人は「聖なる火」で焼き殺される運命にあった。
 日本を「絶対神の天罰」で焦土とする強い意志は、太平洋戦争で現実化された。
 だが、天皇を戦犯で処刑する事も、皇室を改宗させるという最終目的も失敗した。
 2月24日 欧米諸国を視察旅行中の岩倉具視は、諸外国で日本のキリスト教弾圧が知れ渡り、世論で反日感情が異常に盛り上がりっているとの報告を本国に送っていた。
 日本政府は、これ以上の外圧をまねく事は避けるべきであると判断して、キリシタン禁制の高札を撤去する事を決定した。
 国学者等は、キリスト教会が神の裔・天皇の神性を容認すると表明するまでは、キリスト教を解禁するべきではないとの慎重論を主張した。
 仏教勢力も、伝統的国内法を盾にしてキリスト教の禁止を要求した。
 11月9日 イギリス公使は、日本の国内法を無視して、個人の「信仰の自由」は近代国家の条件であるとして強く抗議した。
 日本政府は、外圧に窮して、キリシタンを弾圧しないと再度約束した。
 非白人国家日本には、白人の欧米列強有利の国際ルールに対抗して、自国の権利と利益を国内法で守り、道義を持って乗り切るだけの外交能力がなかった。
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 1874年 明治天皇は、江戸改め東京に行幸し、江戸城を新たな住まいと定め、朝敵・平将門を祀る神田明神を親拝した。
 神田明神社は、平将門を摂社に移し、主神に皇室系のスクナビコナノミコトを祀った。
 これ以降。東京の神社で天皇が親拝するのは、東京招魂社(靖国神社の前身)と神田明神の二社のみと定められた。
 日本を霊的に支配しているのは、天皇に逆らい敗れ、恨み辛みを抱えて非業の死を遂げた朝敵であった。
 内務大丞の土林友孝は、東京招魂社に、ペリー来航以降戊辰の役以前に落命した勤皇の志士も合祀するように建白書を提出した。
 太政官は、天皇と国に忠義を尽くして戦死した者を祀る事を認めた。
 この後、佐賀の乱台湾出兵西南戦争などで政府軍兵士として戦死した者を合祀した。
 現代に於いて、こうした慰霊行為は好戦的な戦争讃美行為として反日的日本人や中国、韓国・北朝鮮アメリカなどの世界から非難されている。
 佐賀の乱
 不平士族の反乱に参加したサムライには、いろんな考えを持ったサムライがいた。
 新政府樹立の為に戦った割に恩賞が少なく、然るべき役職を貰えず栄達でず、貧困生活を強いられている事への不満を抱く、旧倒幕派のサムライ達。
 薩長出身者と阿諛追従する転向組が権力を独占している薩長藩閥政治への不満を抱く、土肥派など在野の反政府派サムライ達。
 国内では庶民の困窮を無視して西洋化を急ぎ、国外では西洋列強の真似をして朝鮮や清国に対して恫喝外交を行っている、道義なき政府への義憤を抱くサムライ達。
 そうしたサムライ達が、政府高官達の無軌道な政策や賄賂や不正に塗れた腐敗を正さねば日本は滅びると信じて反乱を起こした。
 西郷隆盛江藤新平前原一誠らは、日本を正しい方向に修正する為に、明治天皇を再度奉じて維新をやり直すべきだと訴えて、「第2の維新」を起こした。
 日本の将来を真剣に考える「志」を持ったサムライと自分の事しか考えない私利私欲の「志」なきサムライが、反乱を起こしたのである。
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 1875年 旧幕臣薩長に遺恨を持つ者は、西洋に倣って新聞雑誌を販売し、新政府批判の言論活動を行っていた。
 新政府は、御政道を激しく批判する新聞雑誌を取り締まる法律を作った。
 旧幕府系新聞雑誌は、国家権力に対してペンで抵抗した。
 浄土真宗四派は、欧州諸国の様に政教分離は文明開化には欠かせないとして、神道の国教化を進めようと知り大教院を離脱した。
 国学者は、神社中心の体制を強化するべく神道事務局を設立した。
 太政官は、神道と仏教の宗教対立が国家の基盤を弱体化さ、祭祀王・天皇の権威を貶める恐れがあるとして、所移管する教部省に合同布教を中止する様に通達した。
 そして、宗教の混乱を避ける為に国家神道無宗教を推し進め、神宮以下の神社祭式を定めた。
 明治新政府は、ロシア人が多数派となった樺太を諦め、北方防衛の為に失職した武士を開拓民として北海道に入植させた。
 北海道をロシア帝国に奪われない為に、現地に住んでいたアイヌ人を未開の土人と決め付け権利を踏みにじり、大量の日本人を入植させた。
 何時の時代でも、どの地域でも、その土地を奪う為には多数派になる必要があって、現地住民人口以上の同胞を平和的に入植させた。
 新たに入植した人間が、元から住んでいた人間よりも多くなった所でその土地を奪った。
 先祖からその土地に住んでいる者にとって、新たに移り住むの者が意図的に数を増やし始めた時、気を付けねば土地はおろか命まで奪われる恐れがあった。 
 日本は、北海道と北方領土を守る為に、地元にアイヌ人以上の人数を入植させ多数派を占めた。
 もし、その暴挙に出なければ、北海道と北方領土樺太同様にロシア帝国に奪われいた。
 つまり、日露戦争は何れは起きる運命にあった。
 日本は、ロシア帝国と戦う為に軍国主義化した。
 だが、この軍国主義政策は戦争犯罪とされた。
 5月2日 日本とロシア帝国は、国境線画定の一環として千島樺太交換条約(サンクトペテルブルグ条約)を結んだ。
 同条約は、両国で不満の声が起きた。
 これまで「ウルップ以北の千島はロシア領、樺太は日露国境未確定」となっていたものを、樺太の全権利をロシア帝国に渡す代わりに、ウルップ島以北の千島も日本領とされた。この条約により、1855年条約の国境線条項は失効した。
 同条約を国際法に基ずく正式な条約とする為に、フランス語で正文が書かれた。
 だが、日本語訳を作成するさい訳文は不正確で、国後島択捉島が千島列島に含まれないとの解釈がありえた。
 イギリスは、北太平洋海域からロシア軍艦を排除する為に、日本人が多く住む樺太を放棄する様に日本政府に圧力をかけた。
 「もし樺太固執しロシアと戦争になれば、北海道まで占領されかねない」
 弱小国日本には、ロシア帝国軍はもちろんイギリス海軍と戦うだけの軍事力はなく、やむなくイギリスの勧告を受け入れて日本領樺太を放棄した。
 この後、千島列島は日本領となり、樺太はロシア領となった。
 ロシア国籍となった樺太アイヌ人(自称・エンチゥ)は、人種差別主義のロシア人によって悲惨な境遇に追い込まれ、貧困生活を強いられ多くの者が餓死した。彼等は、日本領への復帰を希望した。
 ロシア帝国は、日本との戦争に備えて、日本に味方する恐れがある千島アイヌ人を強制移住させ千島列島を無人化していた。
 日本は、ロシア帝国の侵略に備えて蝦夷アイヌ人を味方にするべく国民化を進めていた。
 だが。一部の日本人は、アイヌ人を野蛮な土人と軽蔑し差別していた。
 1855年の日露和親条約以来、国後島(1785年以来日本領とみなされた)・択捉島色丹島歯舞群島北方領土は、国際法的に正式な日本固有の領土とされた。
 ソ連・ロシアは、如何なる国際法をも完全無視して、犯罪行為として軍事的に不法占拠している。
 現代の親露派日本は、両国の友好関係と経済協力の為に、二島のみを返還してもらえればいい、金で買い戻せばいい、と主張している。
 彼等には、民族が共有している北方領土への思い入れは微塵もなく、あるのは自分だけの金儲けである。
 それは。日本への「おかげ様」という特別な思いより自分だけの利益を優先する、現代日本人の特徴となっている。
 1876年以降 教部省は、各地にある管理されず放置されている無格社や仏堂は宗教的混乱をもたらすとの理由で整理を開始した。
 地元としては、昔からの信仰対象であっただけに、突然の国の命令に困惑した。
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 1876年〜79年 エルニーニョが発生し、インド、中国、ブラジル、北アフリカその他の国々で飢饉が発生した。中国北部では130万人が、インドでは525万人が餓死した。
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 1876年 廃刀令の公布・俸禄の停止。
 神風連の乱日本陸軍は、ドイツから購入した最新のレントゲン医療機器で、負傷した士官のX線写真を撮影した。
 10月17日 日本、小笠原諸島管理について通告。同島居住外国人の管理で英米に抗議。
 11月 東京大火。日本橋から京橋まで1万戸焼失。
 エルヴィン・フォン・ベルツ「日本人とは驚嘆すべき国民である!今日午後、火災があってから36時間たつかたたぬかに、はや現場ではせいぜい板小屋と称すべき程度のものであるが、1,000戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる」
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 1877年 西南戦争
 鈴木健二(城南国際大学大学院客員教授)「西南戦争の教訓は2つある。
 1つは、政府と軍部の融通がなければ戦争取材ができないという形を作ったこと。融通された記者は当然、見返りとして政府軍よりの記事を書きます。実際、東京日日新聞の福地は木戸考允のコネを利用して軍内部に入り込み、西郷軍を『賊軍』と決めつけ、他紙に先駆けて優勢をスクープし続けました。
 もう一つは、血沸き肉躍るような戦争記事が新聞の売り上げを如実に伸ばす事です。戦争で太る事を知った新聞は西南戦争以降、民衆の戦意を煽る姿勢を強めます
 西欧社会で新聞は権力の不当な干渉や徹底した弾圧と文字通り命を懸けて戦い、長い時間をかけて言論の自由を勝ち取りました。 一方、日本では近代化を急ぐ明治政府が新聞を、『人智発明、開化要用』の道具として、国民国家を形成する手段として用いた。藩に属していた人々を日本の『国民』とする為、ナショナリズムの脅威に新聞が利用されたのです。その点が西欧と決定的に異なる。政府の庇護下で育った日本の新聞にとって、権力から独立した言語の自由は建前にすぎず、体を張って死守すべき権利ではない。
 このため、戦時下では利益を優先して簡単に政府や軍部と一体化し、新聞自ら進軍ラッパを吹き続けたのです」
 陸軍病院は、日本初の、負傷した兵士の脳外科手術や顔面の形成手術を行った。
 陸軍大阪臨時病院は、腕に貫通銃創を負った二人の将校に異なる外科手術を試みた。 
 一人に野戦病院で一般的に行う切断手術を、もう一人には汚染された骨片を摘出する切除術。
 前者は、片腕になった為に中尉のままで予備役となった。
 後者は、後に元帥となり総理大臣となった寺内正毅である。
 軍隊病院は、戦争を理由にして将兵に最新で危険な治療法を試し、医学や医療技術の発展に貢献していた。
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 日本軍部は、近代戦に於いては傷病兵を治療する専門職が必要であるとして、軍医の養成と医療機関の充実に力を入れた。
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 明治新政府内の薩長土肥は、藩レベルの政治はできても全国レベルの政治と、国家間の国際外交に慣れていなかった為に、経験豊かな旧幕臣を現場の中級官吏として登用した。
 官吏5,215人中1,755人が、旧幕臣であった。
 国家権力による宗教支配を強化する為に、教部省を廃止して機能を内務省社寺局に移管した。
 仏教側は、国学者神道側の管理強化として警戒した。
 ヴィクトリア女王は、キリスト教徒で非インド人でありながら、インド皇帝を兼ねると宣言してインド帝国を樹立した。
 インドを国際化する為に、公用語を英語とし、上流社会からインド流を排除して全てイギリス風に統一した。
 こうして、インド人はイギリス人の奴隷となった。
 西欧キリスト教文明による、インド・ヒンドゥー文明の支配である。
 「分割して統治する」の原則に従って、インドをイギリスの直轄領と友好的な旧王侯による大小550の藩王国に分割した。
 統一的反英運動の芽を積む為に、身分・民族・部族・宗教・文化・風習などさまざまな対立要因を作り、地域分裂を誘い、お互いに相手を差別し憎悪させる事で流血事件を煽った。
 そして、民族主義者を徹底的に弾圧し、拷問にかけ、処刑した。
 植民地支配を円滑にする為に、厳しい取り締まりの恐怖と待遇改善の安堵を交互に繰り返した。
 欧米諸国は、植民地において、無抵抗で従順な者や気力なく無関心な者には生きる資格を与えたが、抵抗する者や邪魔な者は生きる資格がないとして虐殺した。
 裏切り者のみが、上流階級の仲間として特権を与えられ優遇された。
 イギリスは、ベンガル地方で、徹底した搾取を行い住民の3分の1を餓死に追い込んだ。
 時は、キリスト教による宗教的白人選民主義の差別時代であった。
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 明治10年 大蔵省は、三井物産に対して、パリ万博に出品する美術品を集める様に命じた。
 廃仏毀釈で荒廃した寺院や没落して多額の借金を抱える旧大名家は、先祖伝来の家宝や秘仏を売って現金を手に入れていた。
 西洋礼賛主義者は、日本文化は無価値として、西洋の二束三文の物を購入する為に日本の貴重な美術品を安値で売っていた。
 三井物産の益田孝(号、鈍翁)は、民族の財産が消滅する危機感から、自腹を切り借金をしてまでも美術品の収集に乗り出した。
 「日本の美術を発展せしめるには、其の標本を大切に日本に保存して研究しなければならぬ、其れには、自分の力の及ぶだけは買っておかねばならぬ」
 当事の金持ちは、高度な教養と専門家顔負けの鑑定眼を持ち、民族の遺産を守る為に売り出されていた美術品や芸術品を購入した。
 彼らは、道楽といいながらも、贅沢三昧として買い集めたわけでもなく、私利私欲の為に買い漁ったわけでもなかく、個人的所有欲を満足させる為でもなく、民族の一員として、先祖への感謝と子孫への遺産の為に巨費を投じたのである。
 日本は中国や朝鮮とは違って国内に美術品や芸術品が多数残ったのは、そうした欲得抜きで無駄金を使った金持ちがいたからである。
 そうした金持ちは、明治大正と時代が下るにつれて減少し、現代日本では居るかどうかさえ分からない。
   ・   ・   ・   
 1878年 明治天皇は、国を豊かにし国民の生活に貢献するはずの近代教育が、欲得の強い日本人によって出世や金儲けの手段となりつつある事を憂慮され、教育現場から自己中心的功利主義を排除する為に、道徳を取り入れた教学刷新につおての示唆を行った。

   ・   ・   ・   

神と怨霊

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  • 作者:梅原 猛
  • 発売日: 2008/03/14
  • メディア: 単行本