🌏21)─1─神道勢力は内紛で衰退した。国学勢力は、教養として大学の学問に閉じ込められた。1879年~No.68No.69 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1879年 東京招魂社を靖国神社に改称し、内務省陸軍省海軍省の管理とした。
 本殿は神道形式としたが、拝殿前は無宗教として如何なる宗教宗派の祈りも認めた。
 7月3日 来日中のグラント元大統領、東京に入る。 
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 1880年代末 明治政府は、外国の侵略から日本を守る為に日本人をまとめるべく和製漢字として新語の「民族」を作り、大和民族あるいは日本民族という概念を教育で教えた。
 松本芳夫「天孫民族の由来を論ずる場合、まず神話を拠り所となす」「国譲りを契機として、天孫民族の由来が発足する」(『日本の民族』)
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 1880年 神道界で、神道事務局神殿の祭神をめぐって激しい教理論争が起こった。
 伊勢神宮宮司の田中頼庸ら伊勢派のは、事務局神殿の祭神に造化三神天之御中主神高御産巣日神神産巣日神)と天照大神の四柱を祀る事を主張した。
 千家尊福を中心とした出雲派は、「幽顕一如」を掲げ、祭神を大国主大神を加えた五柱を祀るべきだとして反対した。
 伊勢派幹部は、神学論争で宗教界が混乱する事は好ましくないとして、明治天皇の勅裁を仰いで伊勢派の主張通りに神道事務局神殿は宮中三殿の遙拝殿とする事で決定させた。
 出雲派は、敗北した。
 政府は、不毛な神学論争を目の当たりにして、復古神道的な教説で教義体系統一する事は混乱を誘うのみであると痛感した。
 多神教的な日本では、一神教的な西洋の様に唯一絶対神で信仰を統制する事は不可能と認識した。
 福羽美静ら津和野派国学者は、神武創業の精神によって天皇を中心とする強力な君主国家を築く為に祭政一致を具現化するべく、天皇神道を司る一種の教主的な存在つまり古事記日本書紀等の記述を根拠とする神の裔・祭祀王と位置づけた。
 国民を新たに教導する指標として、神仏儒合同で「三条ノ教則」が設定された。
 「敬神愛国の旨を体すべきこと」
 「天地人道を明らかにすべきこと」
 「皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと」
 そして、天皇は「神孫だから現人神と称し奉る」とする内容が含まれていた。
 政府は、日本の霊界や精神世界がキリスト教流入によって崩壊する事を防げ為に、天皇を現人神と祭り上げる事を容認し、神道組織の整備と強化を推し進めた。
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 1881年 自由民権運動の盛り上がりによって、全国で数十本の憲法草案の私案が発表された。
 千葉卓三郎は、天皇主権を否定しより人民に権利を持たせる革新的な五日市憲法を起草した。
 過激な自由民権運動家は、日本を不幸にする諸悪の根源は天皇制度にあるとして、天皇制度を廃絶してアメリカのような人民主権の共和制を採用すべく活動していた。
 年末 フランス海軍士官アンリ・リビエールは、上官の許可を得ずに独断でベトナム阮朝軍が守るハノイ砦を軍事占領した。
 阮朝は、フランスの侵略と警戒して、宗主国である清国に救援を要請した。
 清国は、敵対していた中国南部の軍閥劉永副と対仏攻守盟約を結び、黒旗軍フランス軍と戦うときは軍事支援を行うと約束した。
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 1882年 明治天皇は、洋学盛んな世の中であっても日本の心を忘れず、子供達に道徳を教えるべく、儒学者元田永孚に子供の為の教訓書「幼学綱要」の編纂を命じた。
 寺院と神社の宗教行事での対立を避けるべく役割を分担させた。
 内務省は、凶事である葬儀は仏教寺院が行う宗教儀式として、神宮・官国幣社の神官は関与してはならいとしたが冠婚や七五三や各種の宮参りなど吉事は奨励した。
 神社は、祭祀儀礼を中心とし、独自の教説を有する教団は教派神道として独立させた。
 実入りの多い葬儀と墓地管理は、僧侶に任せ、神宮・官国幣社の神官が関与する事を禁止した。
 神社は、収入の少ない冠婚や地鎮祭などの祭祀儀礼を中心とされた為に、収入を増やすべくあらゆる努力を始めた。
 有力神社以外の大半の神社は、仏教寺院やキリスト教会に比べて収入が乏しく貧乏であった。
 神道は、仏教やキリスト教などの宗教の様な信者・信徒を持っていない。
 神社には、祖先を神と祀る氏子とその神を敬愛する崇敬者のみが存在している。
 参拝者は、神社の神を信仰する信者でも信徒でもない。
 なぜなら。神社には、教義も経典も戒律もないし、祀られている祖先神は生前はごく平凡な人であっただけに霊験はなく奇跡を起こす霊力も全くない。
 神道とは、それだけの宗教である。
 清国は、北ベトナム防衛の為に、雲南省など南部地域で遠征軍を組織してトンキン周囲に軍事拠点を築き、フランス軍と対峙させた。
 清国駐在フランス大使フレデリック・ブレーは、両国の戦争を回避するべく、11月と12月に李鴻章と交渉してトンキンを両国で二分化する休戦協定を結んだ。
 当事者である阮朝は、蚊帳の外に置かれ、宗主国清国に裏切られて領土を失った。
 井上馨外務卿は、欧米列強と不平等条約改正の予備会談を開催した。
 明治天皇は、日本の国力では世界的軍事帝国のロシア帝国と真面に戦っては勝てない事を知っていただけに、戦争を避け平和的な友好関係を築く事に腐心していた。 有栖川宮熾仁親王は、明治天皇の名代として、アレクサンドル3世の戴冠式に参列し、3,500点の木版画を献上した。
 ヨーロッパの芸術家の間では、金銀をふんだんに使用しない素朴で大胆な絵柄の浮世絵や蒔絵などが関心を持たれ、日本文化が一大ブームとなっていた。
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 福沢諭吉は、伝統的皇室を守り、立憲君主制こそ日本が採用すべき政体であるとして『帝室論』を発表した。
 「方今(ほうこん)、世の民権論者も帝室を尊崇すると言い、また実に尊崇するの意ならんといえども、その語気真実の至情に出るものの如くならず、唯、公然と口を開き、帝室は尊きが故に之を尊ぶと云うのみにして、その功徳の社会に達する由縁を語らず、人民の安寧は帝室の緩和力に依頼するの理由を述べず、その殺風景なる様は、家の子供が継母に対して、いやしくも我々の母なるが故に孝養を尽すは勿論の事なりと公言する者に彷彿たり。しかのみならず、主権云々についても何か議論がましく喋々と述べ立て、また或いはその論者の党類と称する者の中には随分過激な徒もなきに非ず。およそ政党に免れるべからざることなれども、保守論者の流れより之を見れば、猜疑なきを得ず。彼等は口に甘き言を唱れども、内心ははなはだ危険なる者なり」
 「帝室は政治社外のものなり」
 「国会の政府は二様の政党相争うて、火の如く、水の如く、盛夏の如く、厳冬の如くならんと雖も、帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し」
 「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり」
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 1883年 日本政府は、文明開化として、日本の政治・経済から社会・風俗まで西洋化する為に欧化主義政策を採用して、鹿鳴館を建設した。
 国際派は、日本を国際化し日本人を白人化する為に、欧米人との国際結婚と、キリスト教の国教化と、外国語の公用語化を訴えた。つまりは、民族性を消滅させる為に言語と文化風習の廃止である。
 井上馨「日本人を急速に欧州的国民に変質させ、文明の実を上げる為に、大いに国際結婚を奨励して、混血児を生む事である」
 旧幕臣山岡鉄舟は、賊軍とされた幕府軍戦没者が祀られず慰霊されないのは不憫であるとして、賊軍兵士の霊を弔う為に上野の奥、谷中に臨済宗の禅寺・全生庵を創建した。
 政治家の中で私利私欲・欲得の私心を捨て天皇・皇室、国家、国民に尽くしたいと志す者は、山岡鉄舟の「無私無欲」の哲学に惹かれて座禅に訪れている。
 山本玄峰師は、1945年8月頃、鈴木貫太郎首相の相談役として、「耐が瀧を耐え、忍び難き忍び」を終戦詔勅に加えるように進言した。
 山岡鉄舟「以て死すべくして而(しこう)して死し、以て生くべくして而して生く。之を全生と謂う」─死ぬべくして死に、生きるべくして生きる。これを全生という─
 ベルギーは、コンゴを植民地化した。世界一の資産家であるレオポルド2世は、コンゴで搾取を妨害する反抗勢力を鎮圧する為に、23年間で毎年40万人を虐殺し、2,000万人の人口を900万人までに激減させた。
 フランスで。ジュール・フェリーは、植民地拡大政策を推進して国家と国民に富をもたらすと訴え、国民の絶大なる支持を受けて内閣を組織した。
 人種差別の強いフランス人は、非白人非キリスト教徒を絶対神の隣人愛の対象外とし、絶対神に似せて造られなかった人間ではなく、獣である軽蔑した。白人が、彼等を奴隷として支配する事は絶対神の御意思であると確信していた。
 フランス革命の精神とされる自由と平等と博愛などの人権宣言は、白人だけに認められた権利であり、非白人には認められていない権利であった。
 5月10日 黒旗軍は、ハノイ近郊のコウザイ地区でフランス軍を撃退した。
 阮朝も、民族宗教や土着信仰を守る為に、領地内のキリスト教会を襲撃して宣教師やフランス人居留民を殺害した。 
 フランス政府は、宣教師と自国居留民の保護を名目として遠征軍を派遣する事を決定した。
 キリスト教国欧米列強では、宣教師とキリスト教徒の保護は植民地戦争を起こす為の大義名分となっていた。
 宣教師は、本国の軍事的保護が期待できる為に、原住民の神経を逆なでする様に民族宗教を破壊する布教活動を平然と行っていた。
 その為に。キリスト教会は、各地で絶対真理を広める為に民族宗教と衝突し、宗教紛争を意図的に起こしていた。
 フランスは、清国との戦争に備えて、日本政府に不平等条約改定などを条件にして参戦を要請した。
 日本政府は、不平等条約改正を行う為に欧化政策を採用し、東京日々谷内幸町に鹿鳴館を建設した。
 国論は、外務卿井上馨ら参戦派と伊藤博文西郷従道ら非参戦派に二分されて激論を交わしていた。
 参戦派は、日本を取り巻く国際環境の変化を利用して、開国で失った関税自主権の回復と治外法権規定の撤回を勝ち取る方向に導くべきだと、便乗論を主張した。
 非参戦派は、軍事介入する事は清国との全面戦争に発展する危険があり、それ以上に、他人の弱みにつけ込む様な火事場泥棒は、倫理に背き道義に反するとして猛反対した。
 日本外交は、天皇の名誉と国家の体面を守る為に、「弱きを助け、強きを挫く」の弱者救済の正義を堅持し、「貧しても鈍しない」の痩せ我慢の精神を貫くべきであるとの正論を堅持した。
 日本の軍事行動は、「降り掛かった火の粉は大火傷をしても自力で払う」という自己防衛に徹するべきで、相手の弱みに付け込むべきはないとのあるとした。
 日本が、欧米列強の侵略から日本を守には、清国と李氏朝鮮との協調以外に道がなかった。
 だが。両国は儒教的上下関係を重視して、日本との協調を拒絶した。
 フランスは、日本からの軍事支援を受ける事に失敗した。



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