⚔53)─1─宣教師は、殉教を説きそして逃亡した。徳川光圀と朱舜水。1651年~No.230No.231No.232 @ ⑯ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 宣教師は、絶対神の福音を広げるべく逃げたが、日本人キリシタンには隣人愛の信仰から殉教を強要した。
 宣教師は、日本人キリシタン達に信仰を捨て生きるより殉教して永遠の命を得る事を勧め、そして逃亡した。
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 キリシタンは、宣教師の教えに従って、絶対神の為に処刑される事は名誉であるとして歓迎した。
 宗教心の稀薄な日本人にとって、命を捨ててまで貫く宗教が理解できず、信仰の為に死を強要する宗教が恐ろしかった。
 日本人にとって宗教とは、悩みを解決させ生きる道しるべと信じるが故に、死を正当化して命ずる宗教を偽宗教と嫌った。
 日本人は、生きる事に執着する為に、助けてくれるとあれば平気で改宗した。
 日本人の宗教観は、苦しみのこの世で生きる為の祈りであった。
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 江戸時代は、土葬が主におこなわれ、火葬は少数であった。
 江戸の町では、年間約2万人が死亡したが死者の埋葬する場所は限られていた。
 日本の死者供養は、両墓制を採用し、死者は棺桶と共に檀家寺の共同埋葬地に埋められ、それとは別にお参りする墓を用意した。
 神道色に強い日本では、霊魂を重視して遺骨や遺品には執着しなかったが、さりとて遺骨を粗末に扱わず個人の尊厳を損なわない洋に丁重に扱った。
 日本人と・中国人及び朝鮮人とは、ここが異なる。
 西洋に於いても、庶民は共同墓地に埋葬された。
 モーツアルトも、共同墓地に埋葬された。
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 中世期キリスト教会は、排他的狂信制が強かっただけに、改宗した日本に祖先を神として祀る民族宗教を信仰する日本民族日本人を留めておく気はなかった。
 宣教師達は、絶対神の隣人愛信仰で、生まれ変わった日本を邪悪な天皇を中心とした民族宗教から解放し、愛に満ちた神の王国に改善する事を誓った。
 中世キリスト教会は、布教活動を神聖な使命とし、唯一の絶対神の神性を守る為に各地の民族宗教を滅ぼしていた。
 キリスト教会には、日本人への思いは欠片もなかった。
 ゆえに、異教徒日本人は古代から受け継いだ「祖先神信仰」を守る為に、キリスト教を弾圧した。
 民族の信仰を守る為のキリスト教弾圧が、「悪」とされた。
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 新渡戸稲造『武士道』「武士道の道徳的教義は中国の経書より以前からあった民族的本能」
 武士道は、日本固有の日本風禅と神道が融合して完成した精神論である。
 禅の起源は、中国でも朝鮮でもなく、遙か彼方のインドである。
 禅は、中国を経由して日本に伝来した仏教で、朝鮮とは縁もゆかりもない。
 サムライは、心身の鍛練の為に武士道精神を体得し、己を捨て、志の為に死ぬ覚悟をした。
 武士道とは、大義を貫く為に、死に対する心構えをする事である。
 それが、切腹の作法である。
 日本は、武士、サムライ、武者である。
 朝鮮は、武臣である。
 中国は、武官である。 
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 刀工は、日本刀の職人としての自負から、幾ら大金を積まれても嫌なサムライには藩の重役であっても日本刀をつくらなかった。
 日本の職人は、中国や朝鮮とは違って、その地位は見せ掛けの社会的身分よりは遙かに高かった。
 日本人が物作りとして大事にした事は、優秀な技術者・職人を尊敬した事である。
 上は天皇や将軍から下は百姓や町人に至るまで、全ての日本人が腕のいい職人には敬意を払っていた。 
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*将軍家を守る幕藩体制の成立
 幕府の武断政策として、政情不安を招きかねない大名や旗本の言動には特に目を光らせ、数多くの大名家や旗本家を取り潰した為に多くの浪人(失業軍人)が巷に溢れた。
 刈谷藩主松平定政(能登入道不伯)は、路頭に迷って困窮している浪人達が不憫であり、失業者を放置する事は天下の動乱の元になると憂いて、2万石の領地や居宅を幕府に返上し浪人救済に当てる様に願い出た。
 幕閣は、むしろ「狂気の沙汰」として松平定政の所領を没収し、定政を永蟄居とし本家筋の次兄・松平定行にお預けとした。
 1651年 由井正雪の乱。
 幕府の支配はまだ盤石ではなく、徳川に敵対して取り潰された大名や法度違反などの罪科で改易された大名の旧臣らは、食い詰め浪人となって御政道に不満を抱いていた。
 会津藩保科正之は、不逞な浪人を作らない為にも、今後はむやみに大名家や旗本家を取り潰さない事とした。
 江戸時代には、個人の自由が保証された開放的なヨーロッパとは違って、個人の自由が抑圧された暗く息苦しくなる様な卑屈な面があった。
 日本人は、底抜けの明るさを持ったヨーロッパ人に比べて、朗らかさの少ない陰気で陰鬱な性格を持っていた。
 シャム(タイ)やルソン(フィリピン)などには、自由な別天地を求めた多くの日本人キリシタン達が日本人町を造って活躍していた。
 ローマ教皇インノケンティウス10世は、イエズス会の圧力に屈して、儒教における祖先崇拝が単なる民間宗教なら許可すると容認した。
 儒教における祖先崇拝とは、論理的でない神・仏・神秘などを世を惑わず罪悪として完全否定するがゆえに、祖先を聖人君主として弔う事であって、神として信仰する事ではない。
 パリ外国教会、ドミニコ会フランシスコ会などのカトリック諸派は、一斉に、イエズス会が十字架のキリスト像を隠して孔子像や仏像などの偶像崇拝を許していると攻撃した。
 パスカルなどの知識人も、イエズス会批判に参加した。
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 1654年 備前国岡山で洪水と大飢饉が発生した。
 陽明学者の熊沢蕃山は、藩主の命で、被災民の救済と被災地の復興、農民支援や治水事業、藩政の諸改革を行った。
 「憂き事の尚この上に積もれかし限りある身の力試さん」
 (どんな辛い事でも己を磨く糧として、主君の為、万民の為、社会の為に歩み往く道のり)
 官学の朱子学を信奉する家老達は、主君の意に反して蕃山を批判して藩から放逐した。 
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 1655年 薩摩藩は、清国が琉球王国冊封使を派遣すると言う情報を幕府に伝え、受け入れるべきか、拒否して追い払うべきかの指示を仰いだ。
 幕府は、清国との戦争を避ける為に、弁髪や衣装などの満州人の風俗を強要されない限り、清国の間接支配を受け入れる様に返答した。
 当時の日本は、中国にも朝鮮にも興味はなかったし、両国と親しく付き合う気はなかった。
 この頃。朝鮮は、家綱の将軍就任を祝う事を名目として通信使を派遣し、日本事情を清国に報告した。
 1657年 大村藩の郡崩れ。411名のキリシタンが殉教した。
 幕府は、キリシタン弾圧の手を緩めなかった。
 オランダは、同じキリスト教徒ながら、密入国している宣教師の隠れ家を密告した。
 江戸時代の日本人は、節操のないオランダ人を嫌い、隣人愛を説くキリシタンの欺瞞を嫌悪していた。
 1月18日 明暦の大火で、江戸の町人10万7,000人以上が犠牲となる。
 保科正之酒井忠勝松平信綱、安部忠秋ら幕閣は、幕藩体制の安泰の為には人心の掌握が重要として、江戸城天守閣再建や家宝の保全よりも、大火後の庶民の救済と江戸の防火都市化に全力をあげた。
 「備えずして罰するは不可」
 保科正之は、名君とされ、質素倹約の藩政と領民思いの施政は他藩の手本となった。
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 7月18日 町奴・幡随院長兵衛が、旗本奴・水野十郎左兵衞に殺害された。
 義侠心の厚い庶民は、弱い者イジメをする強者を懲らしめる事生きがいとし、虐げられる弱者を助け励まし慰める事を無上の喜びとした。
 男気のある一人前の或る男は、女や子供を泣かせる事、男の恥とした。
 伊達男は、泣き言を言わないし、見苦しい言い訳もせず、どんなに苦しく辛くても粋がって笑って過ごしていた。
 いなせな男は、決して弱音を吐かず、愚痴を言わず、他人の品格を否定する様な悪口を言わなかった。
 日本男子の、男の中の男は、弱い者イジメはしないし、むしろ弱い者の味方をし、弱い者を助け留為に強い相手に喧嘩を売った。
 「強きを挫き、弱きを助ける」。それが、日本男児であった。
 弱い者をイジメそして自殺に追い込む現代の日本人とは、全く違う日本人である。
 保科正之は、天下泰平を維持する為に、町人に乱暴狼藉をはたらく旗本御家人を懲らしめる必要を痛切に感じた。
 町民に対して、無法な武士は許さない事を示す為に水野に閉門を命じた。
 しばらくしてから、特権意識で思い上がった武士を震え上がらせる為に水野を切腹させた。
 法秩序をもって治安を守る為に、武士には民百姓を虐げる特権などなく、如何に名誉・体面・面目を守る為とは言え「切り捨て御免」や「無礼討ち」は許さない事を知らしめた。
 この後、戦いを本職とする武士はいなくなり、刀を算盤をにかえ才能・能力で忠義を示す事が求められた。
 だが、軟弱となり武芸を疎かにする事は許さなかった。
 刀は、武士の魂として、精神の象徴とされた。
 だが、刀を人前で抜くことは禁止され、抜けば罰せられ、人を傷付ければ厳罰に処された。
 私的に人を殺せば、被害者が身分低い者であろうとも、加害者が身分高い者で合っても罰を受けた。軽くて閉門か蟄居、悪くすると遠島、最悪は切腹に処せられた。
 100万人都市江戸は、南北町奉行所合わせて12名の同心が見回りをしていた。
 同心には、数人の岡っ引きがついて犯罪を警戒し、そして事件の解決に当たっていた。
 町内は、町役人・自警団が自信番に詰めて犯罪や事件の監視を行っていた。
 町の治安は、幕府や大名が担当するのではなく、町人自ら取り締まっていた。
 町人が解決できない問題や訴訟を、町奉行所が公権力で解決した。
 その為に、町人は幕府や大名に税を納めず、橋や街道など町内の諸経費は町人が全て負担した。
 町屋の事は、町人が全責任を持って取り仕切っていた。
 幕府や大名は、豪商らによって意図的に諸物価が高騰させられ、米の価格が投機的に低下落される事を恐れていた。
 百姓の収入が減ると百姓一揆は起きると警戒し、米商人らに適正価格での売買を行うように機嫌をとりながら依頼し続けた。
 米商人ら豪商は、大名に高利で金を貸し、年貢米を投機的に買い込んでいた。
 結果として、武士は権力を持っていたが貧乏であり、町人は権力に守られていなかったが金持ちであった。
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 1658年 キリスト教会が支配するヨーロッパ社会は、聖書より古い歴史を持つ非キリスト教世界が東洋にある事を、イエズス会士マルティニの『中国史』で知った。
 キリスト教価値観以外に知的な存在はないと教えられてきたヨーロッパ人には、そうではない事を知って衝撃を受け、天地創造の神学への疑問を抱き、キリスト教の絶対的宗教権威を疑い始めた。
 イエズス会士による中国思想の書籍が数多く翻訳されて出版されるや、ヨーロッパ思想はキリスト教価値観から解放され、別の価値観による自由思想や啓蒙思想が生まれた。
 同時に。中国には、民衆が参加する民主主義がなく、隣人愛に根ざした人道もなく、権力者が法を私物化して人を虫ケラの如く殺害していると、伝えていた。
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 朱舜水(しゅしゅんすい。1600〜1682)は、実学を重んじる明末の著名な儒学者であった。
 1659年に、明王朝が清国の侵略で滅亡し、明の忠臣であった漢族が打算と功利から祖国を裏切り北方の異民族・満州族を新たな天子として受け入れた事に絶望した。
 中国では、正義が失われ、王道は滅び、古の聖人君主の遺徳は廃れ、正道を説く儒学の教えも地に墜ちた。
 異民族の支配され隷属する中国は、世界の中心として中華を名乗るに相応しき王土ではなくなった。
 もし、中華を名乗る資格があるとすれば、異民族の下僕となった朝鮮ではなく、自らの手で異民族の侵略を撃ち払った日本だけである、として日本に亡命した。 
 そして、日本の軍事力を借りて中華正統王朝・明国を再興する事を切望した。
 水戸藩主・徳川光圀は、朱舜水から尊皇攘夷論を教えられ、天帝の中華思想華夷秩序を再興させる必要をする痛感し、幕府に清国殲滅明国復興すべしとの大陸侵略策を献策した。
 古来。日本は、国の内に日本天皇を頂点とする家族主義の「八紘一宇」と、国の外に中華皇帝に対する対等関係での「善隣友邦」と、人心の内に天竺の釈迦を尊ぶ仏教に基づいた慈悲の「隣保扶助」をおいてきた。
 中華思想に基ずく厳格な上下関係の「尊皇攘夷」は、朱舜水によって日本にもたらされた。
 徳川光圀は、尊皇攘夷思想を水戸学の基本理念とした。
 皇国史観愛国心は、この時に生まれた。
 極ほんの僅かな知識人のみが、社会や人を探求する哲学・思想の論理的思索を行って真理を極めようとした。
 圧倒的大多数の人々は、屁理屈を捏ねくり回す思想や哲学を胡散臭く敬遠して興味を示さず、現実の生活を如何に文化的に遊んで楽しく過ごすかのみ狂奔していた。
 1660年 世界が大きく変化しはじめた時、日本では相も変わらずキリシタン弾圧が行われていた。
 豊後崩れで、57名が殉教した。
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 1661年 第111代後西天皇
 濃尾崩れで、756名が殉教した。
 清王朝を樹立した満州族は、中国を軍事占領して中国人(漢族)を支配した。清朝は、モンゴルの元王朝にならって、中国への同化を嫌い、満州人と中国人の結婚を認めず、中国人の満州移住を禁止した。
 満州族皇帝は、中国人を信用しなかった為に、中国人女性を紫禁城の王宮に住まわせも妃の地位を与えず、同じ満州族モンゴル族ウイグル族の女性を妃とした。
 朝鮮人のキーセンと宦官は、宮廷の雑用のみをさせる奴隷身分として強制的に紫禁城に入れた。
 昭和期。満州族は、中国人の反撃に備え、祖法を破って日本皇族の娘と清国皇帝の弟の結婚を認めた。
 上下関係を厳格に強制する正統派儒教を、中国人の支配に利用した。
 官吏登用試験である「科挙」を実施し、在野に埋もれている才能ある優秀な者を役人に採用して中国人を管理させた。
 難関の科挙(官僚登用試験)に合格した者は、美辞麗句で綴られた古典を一字一句間違える事なく暗記したが、現実に即した創意工夫という独創性はなかった。又、由緒ある宗族の裕福な家庭育ちで、働く事なくひたすら古代の漢書のみを暗記に明け暮れ、市井に出る事もなく貧困に喘ぐ庶民生活の実情にも暗かった。
 役職手当の乏しい官吏は、権力を笠に着て庶民から租税を取り立て、それ以外に私腹を肥やす為に搾取の限りを尽くした。
 役人は、庶民の生活が豊かになる事よりも、自分の利益を最優先した。
 儒教世界は、こうした不正を恥じない貪官汚吏が蔓延り社会は荒廃した。
 清王朝は、中国人の不満が満州族支配に向かない様に、強欲な中国人官僚の強奪的搾取を許した。
 時折。満州族皇帝の威徳を天下に示す為に、私腹を肥やす腐敗堕落した中国人官僚を家族諸共に処刑して、不正蓄財した私産を没収した。
 歴代の中華王朝は、帝国の滅亡につながる儒教の「放伐」思想を恐れていただけに、役人が善政を行って庶民の人気者になる事は反逆者になる危険があるとして警戒した。表向き、善政を行て庶民の苦しみ救った官僚を褒め立ていた、名前が忘れられた頃に家族郎等と共に粛清して私産を没収した。
 正史には、善政は全て皇帝の徳として書き記し、極少数の善政を行った官吏の名前を残した。
 その為に。科挙に合格した官吏は、王朝内で生き残る為に、庶民をいたぶり虐待し弾圧して悪政の限りを尽くし不正蓄財する事で保身を図った。
 中国の荒廃は、儒教絶対主義で硬直した高等官吏登用試験「科挙」が原因であった。
 李氏朝鮮も、儒教のみの「科挙」を採用して人間不信の上下従属共生社会となり、人心は荒廃し、横暴な官吏の搾取と残虐な盗賊の強奪で庶民は地獄の様な貧困生活を強いられた。
 日本は、「科挙」の制度を排除したお陰で人間不信に陥る事なく、神道的隣保扶助精神による相互補完共生社会を実現した。
 ゆえに、日本文明は中華文明とは儒教価値観を共有しない異質な文明である。
 当然。日本は、朝鮮とは違って漢字文化圏・漢字使用圏の一員でもない。
 日本文化は、漢字を改良した平仮名や片仮名、さらにはローマ字など多様な文字を複合して使い分けている。
 日本は、日本語・大和言葉を母国語として中国語や朝鮮語公用語とはせず、朝鮮の様に漢籍を中国語で読む事もしなかった。
 日本の知識人は、西洋を知る為に蘭語の習得に力を入れた。
 徳川幕府内の儒学者は、中華思想から蘭語を卑しい蛮族の言葉として弾圧した。
 鄭成功は、オランダ人が占領していた台湾を攻略するや、日本に対して明国復興の為の軍事支援を要請した。
 徳川幕府は、日本は国外不干渉政策を盾にして派兵要請を拒絶した。
 日本は、隣国がどうなろうとも自国の平和のみを優先し、中国の民衆が異民族の侵略によって大虐殺されようとも、我関せずで目を反らした。
 清国軍によって、明国人・中国人が大量に虐殺されていた。
 フランスで、アジアの伝道を目的としたパリ外国宣教会が組織された。
 パリ外国宣教会は、殉教を覚悟する多くの神父をインドシナや中国に派遣した。
 イギリス国王チャールズ2世は、インドの富(アヘン・綿花などの原料品)を独占する為に、インド市場に進出した民間会社に独自の軍隊を持たせ、ムガル帝国の内政に干渉して宣戦布告と和平協定締結の特権を付与した。
 ムガル帝国は、イギリスとの利益同盟を結んだ有力な藩王(マハーラージャ)らの離叛で統治能力を失っていた。各地で、藩王らによる内戦や暴動が頻発し、社会は混乱して、秩序と治安は崩壊した。ムガル帝国には、彼等を討伐して秩序を回復する能力はもうなかった。
 キリスト教会は、秩序が崩壊し、無政府化したインド国内で信者を増やしていった。
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 1662年 イギリス船は、長崎出島に入港して貿易の再開を求めた。
 イギリス船は、長崎出島に入港して貿易の再開を求めた。
 徳川幕府は、イギリス国王チャールズ2世とポルトガルのブラガンサ王朝初代国王ジョアン4世の王女カサリンとの結婚を理由にして要求を拒否した。
 チャールズ2世は、1630年に、チャールズ1世と王妃でフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアの次男として生まれた。
 日本は、閉鎖社会を守る為に鎖国政策を祖法として、国内から国際社会を排除して殻に閉じこもった。
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 1663年 清の康煕帝は、琉球に使者を送り、尚質王琉球国中山王に冊封した。琉球は、二重外交として、清国に朝貢使を派遣し、薩摩に年頭の年賀使を送った。
 清国は、琉球に対する日本の支配を認めず、清国の属国とみなしていた。
 諸大名は、敵を殺した功績で領地を拡大してきたが、戦乱がなくなるや褒美がもらえなくなって困窮した。
 幕府は、人の移動と物資の流通を円滑にする為に、街道と航路を整備した。そして、貨幣を支配する為に、全国の金・銀・銅山を天領として開発した。
 諸藩も、独自の貨幣として藩の収入を担保にして藩札を流通させた。未開地を開墾して石高を上げて収入を増やした。
 貨幣の安定と物流の増加によって、商品経済が発展した。
 諸藩は、武士はおろか町人や百姓など全ての領民に対して勉学に勤しむ喜びを目覚めさせ、苦労を厭わず汗水流す勤労を美徳とさせ、貯蓄を奨励し富を蓄える楽しさを覚えさせた。そして、金を使って生活する豊かさも教えた。その為に、領民から必要以上の税を取らないように気を付けた。その結果、藩財政は逼迫した。
 藩は、財政構造の改変と財政の再建に取り組んだ。百姓からの年貢のみに頼る従来の収入を改め、商工業者への課税や献上金艦府賦課の増額をおなった。その為に、地場産業を育成し、技術革新を絶えず行い特産品や名産品を生み出して、販路を拡大した。他藩の商品に負けない為に、工夫を凝らし、消費者受けする新製品を開発して全国に売り込んだ。
 日本経済は、世界経済から閉ざされた孤立した為に、自己努力を行うと共に協力しなければ生きていけなかった。
 1665年 諸宗寺院法度。諸社禰宜神主法度。
 ヨーロッパや中国や朝鮮のように、法を超越した王侯貴族や宗教指導者といった特権を持った上流階級は存在しなかった。日本には、大陸的な上流階級はなかった。
 故に、大名は腫れ物を触るが如く曖昧にして、キリシタンを宗門改めで弾圧をしながら山や森の奥に追いやり、人目から遠ざけて我関せずと有耶無耶にした。
 日本には、大陸的な宗教弾圧も宗教差別もない。ただし、人を貶める様な利益誘導の犯罪的インチキ宗教は拒絶した。



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