🏞83)─4─徳川幕府は、北方領土と蝦夷地を守る為に東北諸藩に出兵を命じた。フェートン号事件。天草崩れ。1800年~No.352 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 レオポルト・フォン・ランケ「大国とは自らの意思によって自国の進路を決められる国の事である」(『強国論』)
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 7世紀から17世紀までは、イスラム教が世界の多くの地域を支配する時代であった。
 イスラム帝国は、西は北アフリカの大西洋岸から東はインドネシアまで、北は中央アジアから南はインド洋諸島まで、陸地と海洋を支配していた。
 ヨーロッパが創った戦争と平和の「万国公法」は、西洋キリスト教世界という限られた地域でしか通用しなかった。
 地球の支配者が、イスラム教アラブ人からキリスト教白人に代わったのは、辺境の貧しいヨーロッパ人が新大陸を発見し、南北アメリカ大陸を無主地として強奪してからである。
 日本人も北アメリカ大陸に渡ったが地球儀的発想がなかった為に、アメリカ西海岸に新たな領土を獲得し、勢力圏拡大の拠点としての日本人町を築きこうとはしなかった。
 そこが、同じ狭い辺境に閉じ込められて生きる日本人と西洋人の違いであった。
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 昌平坂学問所では、旗本は御家人を「イカ」(お目見え以下の意味)と馬鹿にし、御家人は旗本を「タコ」(上に上がる事ばかり考えるの意)を軽蔑した。
 旗本と御家人は、日頃から仲が悪かった。
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 イギリスは、植民地インド経営で、19世紀だけでインド人2,000万人以上を餓死させた。
 イギリスの植民地支配は、人民の愚民化と貧困化で、反英派や独立派は徹底的に弾圧し、インド人に密告・誣告を奨励して告発されたインド人は冤罪であっても女子供でも容赦なく叛逆罪として処刑した。
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 アフリカからカリブや南北アメリカ大陸諸国に送りだされた黒人奴隷の総数は、1,250万人以上であった。
 奴隷船では、航海中に健康状態が調べ、商売品にならない体力の無い虚弱体質者、病人、航海で衰弱した者、暴力的に反抗する気の荒い者は排除して海に捨て、奴隷の消耗率は6人に1人といわれていた。
 アメリカは、黒人奴隷の過酷な使役の上に造られた。
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 1800年頃 江戸の町人は、家庭の事情や仕事の觥合などで頻繁に住まいを移動していた。
 転出者の多い長屋では、1年間で半数近くの住人が入れ替わり、隣近所の付き合いは深くなく、無関心に近かった。
 貧しい者は、娘を女郎に売ったり豪商や豪農等の資産家の妾に差し出していた。
 娘が売られるのは貧しいだけではなく、家族を顧みず働きもせず酒や博打(現代で言えばカジノ)で多額の借金をつくる駄目な親のせいもある。
 性善説的に、親が親心で子供を大事に育てるとは限らない。
 人は、怠け者である為にあくせく働かなくても大金を得られるのであれば借金をしても博打(カジノ)をし、自分勝手であるが故に家族の食費さえも飲み代に替えて酔っ払っう。
 自然災害多発地帯に生きる日本人とは、恩知らずで、気紛れで、偽善で、尊大で、傲慢で、臆病で、怒りっぽくて、自分勝手で、強欲で、厚かましく、スケベで、思慮が足らず浅はかで、「どうしようもない人間」である。
 日本の男は、「飲み、打つ、買う」が男の甲斐性として家族を泣かせていた。
 江戸の町は「喧嘩と火事が華」として、喧嘩が絶えず、放火が多かった。
 地方では、人さらい(婦女子誘拐)が天狗の神隠しとして語り継がれていたが、その実は人身売買であった。
 人身売買される娘は貧乏長屋ではごく普通の風景であり、お互いが貧しいのだから同情しても助けようもない、女郎になるのも娘の定めとして無関心になるしかない。
 娘の身の上の不幸に同情して心を痛めてもどうにもならない以上は、お互いに深い関係を築かない事である。
 絆や繋がりを深めれば深める程に自由に物が言えなくなり、気軽に相談できる相手がいなくなり、生き辛くなり、悩みは大きくなり、苦しみが増ました。
 空気が重くなるや、犯罪が急増し、自殺者も増える。
 町人達は、人間関係を断ち切るように転居を繰り返していた。
 江戸・大阪・京・長崎へと、自由に移動していた。
 他人・余所者が絶えず出入りする事で、しがらみとしての空気の淀みがなくなり、排他性や同一性が弱まって多様性が増して地域が活性化する。
 自分と自分の家族が生きるに精一杯な時代、住人の絆や繋がりは稀薄であった。
 自分は自分、他人は他人。
 人は、一人で生まれ、一人で死んで行く。
 落語などの長屋話は、現実には存在しない。
 江戸、大阪、京など都市の非人、エタ、乞食などが棲みつく貧民窟・部落は、地方で暮らせなくなった貧困者とその家族の出入りが目まぐるしい程に行われていた。
 農村漁村は先祖代々そこに根付いて住んでいるだけに、ムラ人の間では息苦し程の深い絆と繋がりが存在していた。
 「和」という、空気である。
 ムラにおいては、「和」を乱す事は一切許されなかった。
 「しがらみ」「ふれあい」という息苦しい人間関係を煩わしく思う日本人は、お互い助け合うという人の情を嫌い、地域的な絆を断ち切るように、根無し草のような町人生活に憧れた。
 人間の生き方として、他人を助けない者は、助けられる事を拒否する。
 自分の財産を取られない為に、他人の財産を取らない。
 自分が騙されたくないから、他人を騙さない。
 自分が傷付けられたくないから、他人を傷付けない。
 自分が殺されたくないから、他人を殺さない。
 自分が金を借りられたくないから、他人に金を借りない。
 自分の物を盗られたくないから、他人の物を盗らない。
 情けは、他人の為ではなく、自分の為に行った。
 自分が儲かりたいから、他人を儲けさせる。
 日本風土には、くだらない精神論は存在しない。
 自分で考え、自分で判断し、自分で行動し、自分で結果の責任を取る。
 年貢を納める百姓は土地に縛られて不自由であったが、税金を納めない町人は他人からの干渉を拒絶する自由があった。
 町人は、職を持っても住宅を持たず、生涯にわたって一ヵ所には定住しなかった。
 親は、自分の借金が返せないから、困って娘を女郎や妾に売った。 
 江戸時代。御上の助けを期待できない以上、人々は綺麗事を言って現状からを逸らさず、自己責任で現状に身を置いて非情に生きていた。
 家族は、生きて生活する為の金が欲しいから、労働力にならない娘を売り、働きもせず無駄飯を喰うだけの老人を捨てた。
 老人を介護し、娘を庇えば、家族全員が飢え死にするか一家心中するしかなかった。
 気の小さい日本人は、薄情な自分を誤魔化し、非常な社会から逃避する為に、落語や講談、歌舞伎や浄瑠璃などの人情話を好んだ。
 それ故に、町人・百姓の庶民文化が発達して、中国・朝鮮あるいは西洋の下層民階級に比べて比べて偽りなく明るい。
 その違いは、日本は素のままで生きる神道・仏教を崇拝し、西洋は厳格で禁欲なキリスト教を信仰し、中国・朝鮮は面子で虚勢な儒教を信奉したからである。
 日本人が憧れる人物は、歌人西行法師や俳人松尾芭蕉のような、世俗な権力や権威や財産を打ち捨て、豪壮な邸宅に定住せず、乞食のように漂泊の旅を続けて草葉の陰で孤独に一生を終える旅人であった。
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 日本は、中国や朝鮮とは違って数多くの滑稽本が出版され、庶民は日常としてそうした本を貸本で借りて読んでいた。
 庶民は、滑稽本を読んで笑い、人情本を読んで泣いた。
 感情豊かに、喜怒哀楽を表に出して素直に生きていた。
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 江戸時代。日本には、武士道などはなかった。
 何故なら。総人口の8割以上が百姓か町人であり、百姓や町人には武士道など無縁であった。
 百姓や町人が、武士の真似事をして剣術をやったとしても一銭の得にもならなかったからである。
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 老舗料亭の和食は、料金が高く一般の庶民では食べる事ができなかったが、一生に一度はそうした贅沢な料理を食べたいと思っていた。
 食べ物の質を落として値下げをしてくれたら食べに行ったかと言えば、決して食べはしなかった。
 本物を知る食通の日本人は、お金以上の価値がある事を知っていただけに、客に媚を売る料亭や板前を軽蔑した。
 そうした金儲けの為に誤魔化そうとするさもしさをを嫌い、妥協なき本物のみを愛した。
 日本の食を初めとする全ての文化は、こうして生まれた。
 数百年以上続く老舗は、本物志向の「粋」な日本人によって贔屓されてきた。
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 主君を持った武士は二本刺しであるが、主君を持たないサムライや博打打ち・ヤクザ同様に一本差しであった。
 一本差しは、脱藩浪人であった。
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 庶民の間で武芸への関心が強まり、特に百姓が剣術の猛稽古を行い各流派で免許皆伝の腕前にまでに上達した。
 そうした百姓剣豪が、新たな流派を起こして剣術道場を開き、大名はもちろん武士や町人などの多くの門弟を取って教えた。
・柳剛流‥‥岡田惣右衛門…武蔵国葛飾郡惣新田村の百姓。
・北進一刀流玄武館‥‥千葉周作仙台藩領の馬医。
神道無念流‥‥福井兵右衛門…下野国都賀郡藤葉村の百姓。
・甲源一刀流‥‥逸見太四郎…武蔵国秩父郡子鹿野村の名主。
神道無念流練兵館‥‥斉藤弥九郎…越中国射水郡生寺村の百姓。
 全国に1,000を超える剣術流派があり、先祖代々武士が継承する流派があったが、それ以上に百姓や町人が始めた奇抜な流派が存在していた。
 幕末動乱で活躍した勤皇の志士は、半数以上が百姓や町人による剣客で、世に郷士と呼ばれていた。
 志或る者は、身分に関係なく、勤皇の志士として天皇親政の神国日本を築こうとした。
 佐幕派として活躍した新撰組などの諸隊の浪士も、その多くが百姓や町人などの剣客達であった。
 坂下門外の変で、老中安藤信正を襲撃した浪士25名中半数が百姓や町人上がりの剣客であった。
 清河八郎庄内藩豪農)が集めた浪士隊232人中半数以上が、やはり百姓や町人の剣客であった。
 新選組近藤勇土方歳三もまた、百姓であった。
 幕府や各藩との連絡や情報交換をおこなっていたのが、下級藩士であった。
 幕末や明治維新は、こうした下級武士や百姓・町人の剣客達によって動いていた。
 明治新政府の高官は、彼等の中で政治力や交渉力や戦略・戦術に優れた者がなった。
 日清戦争日露戦争が勝てたのは、武士パワーではなく庶民パワーであった。
 武士で活躍したのは、下士郷士などの下級武士であった。
 上士である上級武士は、祖先から続いている俸禄という安定した生活を崩壊させる明治維新には、興味がないか、反対であった。
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 西洋では、貴族や資産家などの上流階級の子弟がノブレス・オブリージュ(高貴な者に伴う義務)で革命を指導した。
 日本は、西洋に比べて幾分かは平等社会で、流動性ある階層社会であっても硬直した階級社会ではなかった。
 百姓や町人でも、高度な技能や卓越した特技を持ってコツコツと頑張れば報われる社会であった。
 西洋では、生まれ育った階級が全てを決め、上流階級は落ちぶれても上流階級であり、下級階級はどうあがいても報われる事なく下級階級のままであった。
 日本は寛容な国であり、西洋は不寛容な国である。
 日本は、世界に例のない特殊な国である。
 日本は西洋を理解しようとするが、西洋は日本を理解しない。
 日本の強みは、器用に西洋を真似て西洋になろうとするのではなく、愚直に日本を守りながら西洋を取り入れて消化する事にある。
 つまり、和魂洋才であって、洋魂洋才ではない。
 その事が分からない日本人が、日本の特殊性や独自性を捨て、西洋礼賛で白痴となって浮かれ騒ぐ。
 日本は長期的展望を持って人材を育てるが、西洋は短期的思考で利益を生み出す。
 ゆえに、日本はもの作りの技術立国となり、メイド・イン・ジャパンを作り上げた。
 日本は大名も百姓・町人も、分け隔てなく同じ席につき、同じ食べ物を食べてきた。
 西洋は、如何に優秀であっても異質をハッキリと上下関係で区別し、異分子を同化させる事なくモザイク的に社会を構成してきた。
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 白人奴隷商人達は、アフリカ人などの有色人種を奴隷として売買し、船で輸送中に死亡した者はもちろん病気を発症した者や衰弱した者は商品価値がないとして生きたまま海に捨てた。
 ポルトガル人はブラジルでコーヒー栽培をする為に、イギリス人はアメリカ南部で綿花栽培の為に、アフリカから黒人を攫ってきて奴隷とした。
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 1800年 朝鮮の第22代正祖が崩御し、純祖が即位するや民族特有の血生臭い党争を激化させた。
 上は王族から下は両班まで、総人口の3割以上が儒教教義の文言に関する愚にも付かない事で血を流す派閥抗争を繰り返し、7割近い貧困に喘ぐ庶民を救済せず餓死するに任せた。
 厳格な正統派儒教は、現実の現状社会を完全否定し古代社会を理想として寸分たがわず再現すべきであると教えていた。
 民族病である「火病」は、正統派儒教によって発病し、治療不能なほどに悪化したと言える。
 朝鮮王朝は、何時の時代でも、中国帝国同様に、正統派儒教の排他的理想社会を実現させるべく権謀術数の陰謀をめぐらして陰惨な流血事件を繰り返していた。
 地方役人も、儒教理念を掲げながら不正や横領を繰り返し、納税できない貧民から暴力的に税を取り立てた。生きている人間はもとより、生まれたばかりの乳児や死亡した者にも課税し、滞納すれば厳罰の原則で逮捕し陰惨な拷問にかけて無理やり納税させた。それでも納税できなければ、猟奇的方法で処刑した。
 朝鮮半島は、中国大陸同様に「生き地獄」と言える惨状であった。
 儒教各派は、無益な党争を続けた自分の非を絶対に認めず、理想社会を無秩序にした責任をキリスト教に押し付けた。キリスト教は、人身御供として徹底的に弾圧された。
 朝鮮人は、日本人の様な事なかれ的曖昧さを嫌う為に、キリシタン弾圧は眼を背けたくなる様な熾烈を極めた。
 世に恐れられた、辛酉教獄である。
 潜伏する宣教師らは、悪政に苦しみ貧困に喘ぐ民衆の間で、隣人愛の福音を説き死後の魂の救済と天国での永遠の命を保証した。
 日々の生活にある貧民の多くが、現実を無視した幻想的理想社会を掲げる儒教に絶望し、隣人愛の福音による魂の救済を求め、永遠の命を与えてくれる絶対神への信仰に目覚めて洗礼を受けた。
 彼等が期待したのは、救世主の再臨と絶対神の奇跡であった。
 神道的日本人には、救世主信仰や絶対神の奇跡は理解できなかった。せいぜい、信じたとしても祖先神の御利益や恵み程度であった。
 度々、キリシタン弾圧が行われたが、弾圧が行われるたびに信者を増やしていった。
 宗教は、悲惨な現実社会でもがき苦しみ絶望した人々が多いほど布教活動に成功したが、平和で、安定し、満ち足りた社会では新たな信者を獲得できない。
 韓流時代劇の90%近くは捏造された架空話であり、作り手の思い込みが大半で史実に関係ない。
 だが。それは日本でも同じで、日本の時代劇の50%近くは作者の創作である。
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 1800年頃。数人の神父が、非人道的弾圧で苦しむ日本のキリシタンを支援し、邪教国日本を神の愛でキリスト教化する為に琉球に上陸し、日本への密航の機会を覗っていた。
 パリ外国宣教会の神父は、インドシナ各地で、伝統的民族宗教を守ろうとする異教徒の弾圧や攻撃にあって殉教していた。教会は、インドシナで殉教した宣教師の遺骨や遺品を納め、拷問に使われた道具を陳列して、広く布教活動を知らせると共に財政支援を求めた。
 カトリック教徒のフランス人は、宗教的人種差別主義が強いだけに、崇高なる普遍宗教を拒否し、敬虔なる信仰で神聖な布教活動を行う宣教師を殺害する、異教地インドシナに対する憎悪をかきたて、絶対神への信仰の証しとして復讐を誓った。
 キリスト教西洋列強の植民地獲得競争は、同時に中世キリスト教会と異教徒との宗教戦争でもあった。
 中世キリスト教会は、原罪を認め悔い改めて改宗した者のみを救済し、絶対神の隣人愛信仰を拒否し異教の神への信仰を貫く者を完全排除した。
 異教徒は、身に覚えのない原罪を押し付けられる事がどうしても理解できなかし、そのわけの分からない原罪で罪人と糾弾される事に腹を立てた。
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 町人の伊能忠敬(56歳)は、幕府の命を受け、日本の観測を開始した。
 幕府は、手当として22両を払った。
 伊能忠敬は、不足分の約150両を自腹を切った。
 17年間で10回の観測旅行を行い、経費は1万両かかり、幕府は2割程度を支給し、伊能忠敬は8割を私財を投じた。
 観測は1816年に終了し、伊能忠敬は72歳になっていた。
 イギリス海軍の測量艦隊は、日本人の測量技術では真面な地図を作成でないと軽蔑していたが、伊能忠敬が西洋式測量道具を使わずに作成した地図に驚愕し、新たな地図を作成する必要はないとして測量を中止した。
 日本人は、西洋語を話さなくても、西洋に負けないだけの実力があった。
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 清国は、乾隆帝の後期から衰退し始めた。
 琉球は、清国の衰退と共に朝貢貿易も激減して財政赤字となり、薩摩から借金をする様になった。
 1801年 琉球王・尚温は、琉球独自の学問として国学を創めようとした。
 久米村人は、国学としての漢学を守る為に猛反対した。
 尚温は、19歳で急死した。一説に、毒殺説がある。
 久米村人は、以前同様に琉球を支配した。
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 1801年 志筑忠雄は、祖法・鎖国策に従って対外貿易の縮小を進める松平定信を支持する『鎖国論』を幕府に提出した。
 1802(〜09)年十返舎一九 『東海道中膝栗毛
 弥次さんは、色が黒くて目が三角で、口が大きくて髭だらけで、胸先から腹中にタムシがべったりの、醜い不潔な男で、女にだらしない駄目男。
 喜多さんは、旅役者の男娼。
 弥次喜多は、江戸に駈け落ちし、運直しとお伊勢参りに旅立つ。
 庶民の間で流行した江戸文学は、不義密通による心中モノの他に醜男の卑猥話や色恋沙汰の痴話が大半であった。
 男尊女卑の儒教思想が社会を支配しだすと、国産み・神産みという日本古来の性愛観はねじ曲げられ、自由恋愛は制限され、情欲や心中の物語は禁止された。
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 1804年 文化露寇事件。
 ロシアのレザノフは、長崎に来航するが追い返された腹いせに、部下に北海道北部での海賊行為を命じた。
 ロシア人は、日本人やアイヌ人に対して乱暴狼藉を働き、商人や猟師を惨殺した。
 ロシア帝国江戸幕府による北辺紛争。
 幕府は、アイヌ人の土地である蝦夷地(北方領土と北海道)をロシア帝国の侵略から護る為に、東北諸藩に出兵を命じた。
 択捉島国後島色丹島歯舞群島北方領土は、日本の固有な領土であった。
 フリーズ海峡を挟んだウルップ島から北はロシア領で、千島アイヌのハリストス(キリスト)正教への改宗が進んでいた。
 徳川将軍は、徳川家の為という我欲を捨て、ロシア帝国の侵略から日本を守ろうとした。
 朝廷は幕府に事件の子細を尋ね、幕府はロシア軍艦の蝦夷地襲撃事件を報告した。
 幕府は、ロシア帝国の南下に備えてアイヌの同化を急ぎ、北方探索を再開した。
 ナポレオンは、フランス革命の理念を裏切って皇帝に即位し、戦火をヨーロッパ全体に拡大した。その結果、ナポレオン皇帝の個人的野望の為に数百万人が戦火で死亡した。
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 心ある日本人は、ロシアの侵略から神国日本を守る国防意識を高め、蝦夷探索の旅に出た。
 当時の日本人は、現代の日本人と違って祖国日本を外国の侵略から守る為ならば武器を取って戦う決意を持ち、祖国防衛の為に死んでも本望と覚悟した。
 現代の日本人に比べて当時の日本人は、武士・サムライであった。
 だが、死を覚悟したのは武士・サムライだけではなく、百姓・町人ら庶民も同様であった。
 ロシアが北方領土を荒らし回った事は、日本全国の庶民でも知っていた。
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 幕末の原動力となった天皇中心の尊王攘夷は、この事件で目覚めて日本全国に広がり、日本人というナショナリズムを生んだ。
 好奇心旺盛な若者達は、偏狭な排他主義者ではなく、むしろ相手を知りたいとの好奇心から蘭学を通じて世界情勢を知ろうとした。
 外敵からの侵略に危機感を抱く者は、急いで日本を戦争が出来る国にすべきであると焦りだした。
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 悪名高い、極東のナショナリストの誕生である。
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 10月13日 華岡清州は、世界で初めて全身麻酔を用いた乳癌摘出手術手術を成功させた。華岡家は、楠木正成の一族であったが、紀伊国名手荘西野山村に移り住み村内の丘陵を開拓して平山姓を名乗った。農業を生業とする傍らで、村医として村人の治療を行っていた。華岡姓にかえてからは、村医を専業とした。
 日本の医療は、如何にして患者の苦痛を除去して、速やかに治療するかに重点を置いていた。
 医は仁術を金科玉条として、地位名誉に関係なく、貧富に関係なく、全ての人を平等に治療する事を専念した。
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 1805年 天草崩れ。天領・天草で隠れキリシタンが5,205人いる事が判明するや、幕府はあまりの多さに困惑して有耶無耶な処分で決着した。
 家の中や人里離れた秘所での家族や少人数での信仰は、事勿れ主義的に見て見ぬ振りをした。だが、人里に表れて信仰を公言したり、抗議の宗教政策に逆らって布教活動するときは弾圧した。
 とにかく、他宗教を一切認めない不寛容にして排他的なキリスト教を嫌った。
 庄屋・上田家の祖先は、信州の真田家の家臣であった。
 鈴木神社。祭神は、代官の鈴木重成とその兄・正三、子の重辰。
 鈴木重成は、島原の乱キリシタンの反乱ではあるが、天草の騒動は百姓一揆と区別して寛容策をとった。
 島原の乱に参加したが命辛々逃げ帰った島民には寛大で、その罪を問わず、天草の復興の為に村のまとめ役に取り立てた。
 幕府に対して天草の石高は4万2,000石ではなくその半分の2万1,000石であると報告し、重税の取り消しを求めた。
 幕府は、1659年に、島民を苦しめていた重税を軽減するべく石高を2万1,000石であると認めた。
 粼津諏訪神社隠れキリシタン達は、神社で日本の神を参拝をする振りをしてキリスト教絶対神に祈りを捧げた。
 毎年3月頃に踏み絵の儀式が行われ、隠れキリシタンの大半が絵を踏んだ。
 キリシタン取り締まりの役人は、絵を踏めばよしとし、隠れてキリスト教の礼拝を行ってもウソの言い訳に筋が通っていればそれ以上の詮索をせず放免とした。
 多神教の日本人にとって、宗教取り締まりは面倒くさく煩わしい為に、自分に実害をなさず不利益をもたらさない限り深入りする気はなかった。
 日本人は、宗教や信仰に寛大・寛容であったのではなく、関わり合う事が面倒くさく煩わしいと辟易していただけである。
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 1806年 丙寅の大火。
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 1807年 ドン・マヌエル・アルバレース・エスブリエーラ(スペインの旅行者)「犯罪者を以て植民させる事は、イギリスのシステムの一つである」(『ロンドン通信』)
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 1808年 目付の鳥居耀蔵(大学頭林述斎の子)は、儒学隆盛の為に、モリソン号事件で御政道を非難する洋学者を調査して、告発した。世にいう、蛮社の獄である。
 幕府は、国際折衝が増えることを考慮して、幕吏である長崎の和蘭通詞にフランス語や英語の習得を命じた。幕府は、2年後に10巻からなる英和辞書を出版し、ほどなくしてフランス語の語学辞書も出版した。
 「敵知らずんば、百戦危うからず」の譬えから、西洋を毛嫌いして遠ざけるのではなく、むしろ積極的に相手を知る為に洋学の研究に力を入れた。
 だが、如何に西学にかぶれても、天皇を中心とした民族であるという本質を見失わず、天皇心神話(日本中心民族神話)の原点を大事に守った。
 フランスは、スペインの内戦に干渉して侵略した。
 南アメリカ諸国は、宗主国スペインが弱体化して植民地支配が弱まった隙を見て独立した。
 ロシア軍は、フィンランドを侵略してスウェーデン軍を撃破し、フィンランド全域を制圧した。
 ロシア皇帝は、自治公国を樹立し大公を兼任して、ロシア帝国に併合した。
 ロシア帝国は、当然の権利として、新領土フィンランド公国で過酷な統治を行った。
 フィンランド人は、ロシア帝国の圧政とロシア人の横暴に激怒して、民族意識に目覚めて密かに独立運動を始めた。
 民族独立運動の象徴である、民族的叙事詩「カレワラ」が1835年に発行された。
 8月15日 イギリス軍艦フェートン号侵入事件。長崎奉行松平康英は、イギリス船を打ち払う事なく長崎を立ち去るまで手を打たなかった事に恥じて切腹した。
 サムライは、自分の名誉以上に、公職にありながら国の名誉を穢し威厳を貶めた事に恥じて自決した。
 サムライにとって、自分の命よりも国の名誉の方が重かったがゆえに、国の名誉を守る為に命を捨てた。
 自分の命が捨てられない者は「臆病者」「卑怯者」「未熟者」と軽蔑され、真のサムライとは認められなかった。
 サムライは、口先だけで実行できない者を最も嫌った。
 「日本の恥辱と相成り候事……一身の恥辱は兎も角も、此場に至りて天下の御恥辱を異国へあらはし候段、不調法の仕合に御座候」
 この武士道精神は、まがりなりにも1945年8月15日までは日本に存在し、それ以降の日本からは消え去った。
 戦後日本には、見せ掛けの偽武士道は存在するが、本当の武士道はなく、サムライもいない。
 幕府は、イギリスが新たな脅威となると判断して、その対応の為にイギリス研究を始め、外交交渉に英語は必要になるとして英語辞書の編纂を始めた。
 日本初の英語辞書『諳厄利亜(アンゲリア)語林大成』を完成させた。
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 ウィキペディア
 フェートン号事件は、文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。
 事件の経過
 文化5年8月15日(1808年10月4日)、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍フリゲート艦フェートン(フリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員ホウゼンルマン(Dirk Gozeman)とシキンムル(Gerrit Schimmel)の2名を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拉致され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。
 オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ドゥーフは長崎奉行所内に避難し、商館員の生還を願い戦闘回避を勧めた。長崎奉行松平康英は、商館員の生還を約束する一方で、湾内警備を担当する鍋島藩福岡藩(藩主:黒田斉清)の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。ところが長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100名程度しか在番していないことが判明する。松平康英は急遽、薩摩藩熊本藩久留米藩大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。
 翌16日、ペリュー艦長は人質の1人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、松平康英はやむなく要求を受け入れることとしたが、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図ることとした。
 長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。
 17日未明、近隣の大村藩主大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。松平康英は大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちするための作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。
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 1810年頃から 水戸藩領内の漁民は沖合いで異国船を目撃し始めていた。
 最初はインドなどを捕鯨拠点としたイギリスの捕鯨船であったが、次第にアメリカの捕鯨船が増えた。 
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 1811年 幕府は、日本近海に現れる欧州諸国の船舶に対処する為に、洋学を専門に研究する蕃書和解御用掛かりという役職を設けた。
 中国の人口は、周辺地域からの大量の移住者で3億5,861万人に急増した。
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 1814年 ローマ教皇ピウス7世は、反フランス勢力の軍事力を利用してナポレオンに奪われていた教皇領を取り戻し、教会の尖兵であるイエズス会再興を宣言した。
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ウィキペディア
 会津藩の北方警備は、1807年(文化4年)から1809年(文化6年)にかけて、会津藩江戸幕府によって樺太への出兵を命じられ、総勢1,558名が宗谷岬利尻島樺太に駐留した出来事である。会津藩樺太出兵とも呼ばれる。
 東北諸藩への幕命
 江戸時代の鎖国政策の中で、ロシア通商使節のニコライ・レザノフが実力での通商を図ろうとロシア皇帝のエカチェリーナ2世とその跡を継いだパーヴェル1世の許しなく海軍が樺太や北海道の漁村で略奪を行った。そのため幕府は襲撃に備えるよう1807年(文化4年)、秋田藩弘前藩仙台藩などに蝦夷地への出兵と防備を命じた。
 当時会津藩家老の田中玄宰は錬兵と東北諸藩に会津藩の戦力を誇示するため、幕府に会津藩樺太出兵を内願した。1808年(文化5年)、内藤信周(内藤源助)隊長指揮の下、会津藩兵が若松城を出発、宗谷(稚内市)に本陣を置き、台場や見張り台を設置した。番頭梶原景保は利尻島本泊(もとどまり)に派遣され、さらに北原采女(北原光裕)指揮の下、樺太に上陸して本格的な警備陣営を設け、ロシア軍襲撃に備え訓練を重ねた。
 出兵中の問題
 ロシア兵はナポレオン戦争が原因で引き上げたため実際のロシア兵との交戦はなかったが、野菜が摂取できないことによるビタミン不足で水腫病にかかる兵士が多かった。これを問題視した幕府は、当時水腫病に効果があるとされたコーヒーを出兵隊に送ったという。
会津藩は1808年10月から翌年にかけて樺太から帰還した。しかし、帰路の途中に嵐に遭い船が難破、一部は離島天売島、焼尻島へ避難し、51名の死者を出した。現在、宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑が建てられている。また利尻島、焼尻島にも会津藩士の墓がある。
 その後
 この樺太出兵は、その後の間宮林蔵らの北方探検に大きく貢献する事にもなり、幕府の信頼を得た会津藩は1810年に江戸湾(現東京湾)警備を命じられる。
後に宗谷岬の墓に訪れた松平勇雄福島県知事が「たんぽぽや会津藩士の墓はここ」という句を捧げている。
 会津藩樺太出兵を描いた絵巻『会津藩唐太出陣絵巻』が見つかっている。
 2008年は北方警備から200年にあたり、若松城天守で7月4日から8月24日まで「北方警備二百年記念展」が開かれた。
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 極東の小さな島国日本がおこなった対外戦争、米英蘭との太平洋戦争(正式には大東亜戦争)、中ソ英そしてナチス・ドイツとの日中戦争(正式には支那事変)、ロシア赤軍とのシベリア出兵、黄禍論を唱えるドイツとの第一次世界大戦、ロシアとの日露戦争、朝鮮の独立をめぐっての清国(中国)との日清戦争、沖縄領有をめぐる台湾出兵、薩英戦争、馬関戦争などは、江戸時代後期に日本に迫ってきたロシアの侵略が源流である。
 友好国からの軍事支援が得られない孤独な日本は、一国のみで、外国勢力の侵略・攻撃から祖国を守るべく攘夷を決行した。
 軍国日本はおこなった戦争は、母国日本を外国勢力から守る為の攘夷戦争、積極的自衛戦争であった。
 日本は資源もなく人口も少ない貧しい小国であり、攻めてきた外国勢力は全て海外に植民地と強力な軍隊を有する世界的大国であった。
 資源も人間も資本も乏しい日本が作れる軍隊は小規模な軍隊である以上、精神論で少数精鋭の軍隊を作るしかなかった。
 祖国存亡の危機という切羽詰まった状況に追い込まれていた日本は、市民生活を犠牲にして軍国主義化して強力な軍隊を短期間で作り上げた。
 貧しい小国が世界的巨大軍事国と戦う時、それは侵略戦争ではな自衛戦争であり、攻められて守るという消極的自衛戦争ではなく、攻撃の意思(経済制裁や資産凍結など)を見せれば攻められる前に戦争を仕掛ける積極的自衛戦争は許される。
 小国が始める積極的自衛戦争においては、宣戦布告前の先制攻撃、不意打ち、奇襲攻撃、騙し討ちは許される。
 小国の積極的自衛戦争は、大国が行う予防的自衛戦争と異なる。
 大国のおこなう予防的自衛戦争は、近い将来、自国を攻撃しそうな相手を軍事力を強化する前に攻撃してその脅威を取り除く事である。
 もし、日本がおこなった積極的自衛戦争・攘夷戦争が侵略戦争戦争犯罪とするならば、全ての発端であったロシアの日本侵略は西洋論理で正当行為と歴史的裁定を下す事である。
 つまり、小国は、自国に不利益をもたらす大国の理不尽な振る舞いも、自国を滅ぼし領土に組み込もうとも、植民地にして自国民を奴隷にしようとも、非暴力無抵抗に徹しその屈辱を世界正義として甘受するべきだ、と言う事になる。
 全ての原因は、ロシアの日本侵略という「一個の小さな火の粉」であった。
 ロシアが日本侵略の意思があったかなかったかは関係なく、日本が侵略されると危機感を感じた事が重要であった。
 侵略かそうでないかの判断をする権利は、植民地巨大帝国ロシアではなく、前近代小国日本にあった。
 西洋列強が当然の権利として行使た軍艦による砲艦外交は、受ける方にとってそれは侵略行為に見えた。
 武力をもって抵抗する者は侵略とみなし、武力を持って抵抗しない者にとって威圧であって侵略ではなかった。
 侵略には武力で撃退し、威圧には外交交渉で対応するのが、正当な手段であった。
 サムライ・武士はもちろん全ての庶民(エタや非人などの賤民も)は、ロシアの砲艦外交を侵略と見なし、日本に降り掛かってきた「火の粉」を天皇を旗頭とし、天皇を中心にして武力で払いのけただけである。
 だが。その祖国防衛の攘夷戦争に反対する日本人は何時の時代にもいた。
 それが、盲信的西洋礼賛の国際派日本人と天皇制度打倒の共産主義者無政府主義者ら反社会分子であった。
 中国共産党、ロシア人共産主義者反日朝鮮人テロリスト、日本共産党。国家方針や国防計画を決定した革新官僚や軍人官僚に潜り込んだ隠れマルクス主義者、大衆を扇動する為に右翼に成り済ました転向組共産主義者
 日本は、何時の時代でも、国内外に日本を滅ぼそうという反天皇反日勢力がいて、味方となり援軍を送ってくれる国は1ヵ国もなかった。
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