✾314)315)316)─1─明暦の大火。江戸の人口約50万人中10万人が焼け死んだ。被害を減らす高度な防災都市計画。1657年〜No.641No.642No.643No.644No.645/@             

保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主 (中公文庫)

保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主 (中公文庫)

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 日本人は、自然災害多発地帯で、紙と木の防火性に弱い貧弱・貧相な住宅に住んでいた。
 その為に、日本列島には99.9%安全で安心できる所は存在しなかった。
 日本民族日本人は、危険な所に住んでいた。
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 江戸の町は、3年に一回のわりで大火に襲われていた。
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 江戸の大火が、日本人の生き方、覚悟を生みだした。
 江戸町人は、大火のたびに助け合い、災に一丸となって立ち向かい、幾度焼け出されても素早く復興し町を発展させていった。
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 幕府は、江戸の町を大火に耐える強い町作りを行った。
 まず考えたのは、「火事は発生する」であった。
 次に考えたのは、火事を大火にしない工夫、そして大火になっても犠牲者を減らす工夫であった。
 江戸は、世界でも珍しい減災都市に生まれ変わった。
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 自然災害多発地帯で逃げ出せない島国日本で生きて行くには、お互いが一歩下がって相手に配慮し気を遣う、私利私欲・我欲・借金を極力おさえた低欲望社会を作るしかなかった。
 自然災害が少く逃げ出せる地域では、自分のモノは自分のモノ、他人のモノも自分のモノといった、欲望をむき出しにした強欲社会が生まれていた。
 天災では、人がお互いに信用し助け合わなければ生きられなかった。
 人災では、人を信用せず互いに殺し合い相手のモノを奪わないと生きられなかった。
 性善説社会では、お互いに信用し合っている為に、感情を表に出さなくても、言葉にして気持ちを伝えなくても、身体を使って表現しなくとも、お互いの顔を見ればわかり合えた。
 性悪説社会では、お互いに信用していない為に、作り笑いをし、心にない美辞麗句を並べ、大袈裟な手振り身振りで表現した。
 性善説では欺す方が悪いが、性悪説では欺される方が悪い。
 お人好しの日本人は、すぐ人を信用する為に欺され被害を受ける。
 日本はにげだせない天災地帯にあり、中国や朝鮮は逃げ出せる人災地域にあった。
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 自然災害多発地帯で生きるには、性善説で、お人好しとなって、欺されても。嘘をつかず。偽らず、正直に、素直になり、人を心底から信じ切るしか事であった。
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 江戸幕府は、大名と地元とのつながりを裁ち切り、大名の財力を削る為に強制的に国替えを命じていた。
 各大名は、幕府の命令に抵抗して反乱を起こすわけにも行かず、イヤイヤ、全ての家臣・郎党を従えて新たな領地に移り住んだ。
 幕府は、公儀の裁定への不平不満から百姓に重税を課し町人から賄賂を取って意趣返し的に悪政を行い藩内が乱れ一揆が頻発すれば、大名の失政を咎め領地を取り上げて取り潰し、悪質で反省の態度が見られなければ切腹を命じた。
 大名は、幕府に取り潰しや切腹大義名分を与えない、見ず知らずの新しい領地での政に(まつりごと)に取り組んだ。
 新たな領民の信頼関係を築く事に心を砕き、財政を維持する為に年貢や冥加金を増やす為に全力を挙げた。
 有能な若者であれば、武士・足軽、百姓・町人などの身分に関係なく、年数を決めて江戸、京、長崎に遊学させ、新しい知識や技術を公費で学ばせた。
 帰国した彼らは、停滞・沈滞した田舎に江戸、京、長崎の新たな風を吹き込み、その刺激で地域を豊にする殖産興業の変革をもたらした。
 参勤交代を行う時は、特産品を泊まった本陣で見せびらかせながら地元の特産品や名品を探って参考にした。
 領民の意識を変える為に、お伊勢参りなど全国の有名な神社仏閣や温泉地・景勝地への旅行を許した。
 目先の金儲けより長期的な利益を求め、地域に役立つ人材育成に公費を費やした。
 領民が勝手に他領に流出しないように、逃げ出しかくなるような締め付けを緩めて、住み続ければ豊かになれるという魅力的な田舎造りにあの手この手と手を尽くした。
 江戸時代は、移住の時代ではなく、移動の時代であった。
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 明暦の大火。
 太陰暦・明暦3年1月18日〜20日(太陽暦・1657年3月2日〜4日)。
 江戸の町方は約28万5,800人で、武士も同数で、江戸の総人口は約50万人前後であった。
 江戸の三大火の筆頭に上げられ、日本史上でも最大級の大火災であった。
 世界史的にも、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられている。
 外堀以内の市街地の60%を焼き尽くし、江戸城も類焼して天守閣を含む多数の大名屋敷が焼失した。
 焼失した大名は160家で大名屋敷500余邸、旗本・御家人608家で屋敷770邸、寺院350寺、橋60ヵ所、町屋400余町り、戸数4万8,000戸におよんだ。
 死者は、3万から10万人であった。
 幕府は、火災に強い町造りを計画的に推し進め、江戸復興を最優先として無用の長物となっている江戸城天守の再建を断念した。
 防災に強い都市造りとして、小道が入り組み橋が少ない戦争の為の町から、延焼を防ぐ広小路(上野広小路)や避難しやすいように碁盤の目のような道と大小の橋(両国橋や永代橋など)をかけて平和の為の町に作り変えた。
 庶民の被害を少なくする為に、隅田川東岸の深川や吉祥寺や下連雀などに市街地を拡大して、庶民に郊外への移住を勧めた。
 現代東京の基礎は、この時定められた。
 この時代。日本人は、土地所有に関心がなく、持ち家に拘らなかった。
 日本の土地神話とは1945年以降の新しいもので、庶民は根無し草のように一定の所に住む事を嫌い自由気ままに絶えず生活の場を移動させていた。
 幕府や大名達は、庶民に過去帳による檀家制度や町屋における人別帳を厳格に義務付けていたが、それは移動の自由を奪い土地に縛り付ける為ではなく、あくまでも管理の為であって監視する為ではなかった。
 サムライのみが移動の自由がなく、一生涯、臨戦態勢を維持する事が強要され、自由意志で領外に出る事も住宅の転居も許されなかった。
 百姓は、祖先からの田畑があったが、正当な理由がれば他領への住み替えができた。
 この時の幕府による強権的計画復興が前例となり、江戸時代を通じて模範として大名達は横並び的に真似をした。
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 1669年 アルノルドス・モンタヌスは、明暦に大火を『東インド会社遣日使節紀行』に書き記した。
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 前年11月から、江戸に雨が降っていなかった為に町は乾燥しきっていた。
 諸大名は、幕府の命令で、江戸に屋敷を構え家族を住まわせ、身の回りの世話や公務を執り行うサムライを常駐させた。
 消費するだけの大量のサムライが江戸に住む事になるや、彼等の生活を支える為の商工業者が住み着き、その商工業者をさせる為に職人達がさらに移り住んだ。
 人口は急増し、江戸は無計画に煩雑に拡大した。
 幕府は、江戸は冬期に乾燥し晴天が続くという気候上から火災が多いとして、防火・消火体制を整えたが、それは貧弱な備えであった。
 大名火消制度として、16大名で4組(1組の定員は420名)を編成したが、大名の負担が重いとして10大名3隊に縮小した。
 町屋の防火・消火は、町人の自主努力に任せ、幕府は手を出さなかった。
 租税の義務は、田畑を持っている百姓に
 あったが、借家暮らしの町人にはなかった。
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 江戸時代、結核が流行していた。
 結核は着物によって感染すると考えられていた。
 良家の娘(16)が恋の病にふせて死亡し、その娘が着ていた紫縮緬を古着屋で購入した娘(16)も翌年同じ日に死亡した。
 古着を購入した3人目の娘も、翌年の同じ日に死亡した。
 三家は、不思議な因縁に驚いて問題の振り袖を本妙寺で焼き捨てようとした。
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 大火の原因は、本妙寺失火説や幕府放火説など幾つかあったがハッキリしない。
 1回目の出火。18日未の刻(午後2時頃) 本郷丸山の本妙寺から出火した炎は、辰の刻(午前8時頃)から吹く強い北西風に煽られ、神田から京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで達した。
 小伝馬町の牢獄に炎が迫った際。牢屋奉行石出帯刀吉深は、罪人を見捨てて焼き殺すには忍びないとして、大火から無事逃げおおせた暁には必ず出頭するように申し伝えた上で、独断で罪人達を一時的に解き放つ「切り放ち」を実行した。
「大火から逃げおおせた暁には必ずここに戻ってくるように。さすれば死罪の者も含め、私の命に替えても必ずやその義理に報いて見せよう。もしもこの機に乗じて雲隠れする者が有れば、私自らが雲の果てまで追い詰めて、その者のみならず一族郎党全てを成敗する」
 霊巌寺では、炎に追い詰められた1万人近くの避難民が焼け死んだ。
 浅草橋では、脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざした為に、逃げ場を失った2万人以上が炎に巻かれ焼け死んだ。
 鎮火後。解き放たれた百数十人の囚人は、石出吉深に感謝し、恩に報いる為に約束通り出頭して、そのまま逃亡する者はいなかった。
 石出吉深は、罪人達は法を犯した罪人ではあるが、大変に義理深い者達であると評価して死罪も含めた罪一等を減ずるように上申した。
 「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れである。このような者達をみすみす死罪とする事は長ずれば必ずや国の損失となる」
 幕府は、「罪は憎めども人は憎まず」として、正直者は法を犯して犯罪を行ったとしても改心して真っ当な人間になると信じて減刑を行った。
 これ以降。如何なる極悪非道な人間であっても人として信じ切るとして、緊急時における「解き放ち」が制度化された。
 2回目の出火。19日巳の刻(午前10時頃) 小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所から出火した。
 飯田橋から九段一体に延焼し、午前11時頃には江戸城天守閣、本丸、二の丸が炎上して鎮火した。
 将軍・徳川家綱や幕閣・保科正之らは、西の丸に避難した。
 大奥女中らは、表御殿の様子がわからず出口を見失っていた。
 老中・松平信綱は、機転を利かせ、畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印としてから、大奥御殿に入って「将軍家は西の丸に渡御された故、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知した。
 西の丸にも火の粉が飛んでくるようになった為に、右往左往する幕閣の中には家綱を城外に避難する事を検討した。
 陣頭指揮を執った保科正之は、将軍城外避難の意見に対して御大将が居城を出る事は負け戦であるとし、「西の丸が焼け落ちたら、屋敷の焼け跡に陣屋を立てればよい」として江戸城に踏み留まるべきだと一喝して鎮めた。
 途中から風向きが変わり、西丸は焼失をまぬがれ醜態を晒さずに済んだ。
 家宝よりも人の命を優先し、持ち出せない家宝は打ち捨てるように命じた。
 保科正之らも屋敷を焼失し、家族を大火の中に置いていたが、家族を助けに行かず鎮火と避難者救済に当たっていた。
 消火の装備や技術は未整備で、破壊消防に頼らざるを得ない状況であった。
 川や運河が多く、橋が少ない為に、自然鎮火を待つ以外に手がなかった。
 橋が少ない事や外敵に備えた防壁は、火災から逃げる人々の避難を困難にさせていた。 3回目の出火。19日申の刻(午後4時頃) 麹町5丁目の在家より出火した。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至り、翌20日の午前8時頃にようやす全てが鎮火した。
 燃える物がなくなり、大火は自然鎮火した。
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 幕閣。親藩保科正之会津藩主)。大老酒井忠勝(若狭小浜藩)。老中・ 松平信綱川越藩主)、阿部忠秋(忍藩主)、酒井雅楽頭忠清(上野厩橋藩主)。
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 幕閣は、火元となった本妙寺の僧侶を厳罰に処すべきだと言い立てた。
 保科正之は一喝して、「備えずして罰するは不可」といってお構いなしにした。
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 保科正之松平信綱は、焼け野となった江戸の町の復興と同時に火災に強い街造りに取り組んだ。
 保科正之は、江戸復興にあたり防災に強い町造りとして、川越大火の経験を持つ松平信綱に江戸復興計画を任せた。
 「松平殿は、すでに川越の大火後みごとな復興計画を実行された。その経験を生かして今度の江戸を復興していただきたい」
 保科正之は、指揮命令系統をハッキリさせる為に慣例となっていた合議制を一時停止して、江戸復興と被災民救済の権限を老中首座・松平信綱に与えた。
 松平信綱は、川越の城下町を不燃都市として“古い建物と新しい建物との自然に融合する街並み”として再建した経験を江戸復興に生かした。
 保科正之松平信綱らは、徳川幕府がさらに繁栄する為には、人と物が自由に行き交う豊かで、庶民が安心して住める江戸の町を目指した。
 それは、戦の為の町から平和な町への江戸の大改造であった。
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 被災地・江戸の食べ物を確保する為に、近郊近在に親戚縁者のいる町民に対して江戸退去を促した。
 殆どの町人は、自宅を持たない借家暮らしであった為に、何処へでも自由に引っ越していた。
 江戸時代の庶民は、根無し草的な生活をしていて、土地はもちろん家に対する愛着は持っていなかった。
 庶民は、土地を持たない事で税を取られることがなかった。
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 2月1日(3月15日) 保科正之の次男で嫡男である保科正頼は、病弱であったが三田の会津藩邸の消火の指揮を行ったが、その時に患った風邪が悪化して死去した。
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 幕閣は、「焼け落ちた江戸城天守閣をどうするか」で揉めた。
 多くの大名は、焼け落ちた江戸城再建にあたり、幕府権力の象徴である天守閣は常識として速やかに再興すべきだと主張した。
 保科正之は、江戸の復興と民生の安定を何よりも優先する方針を明確にし、「まず民の事を優先に考えるという愛民思想」から貴重な資金を天守閣再建に使うべきではないとの断を下した。
「この平和な世の中で、城の天守閣など必要ない。それよりも夥しい被災者の救済にその費用を充てるべきだ」
 「今のようなときに天守閣を建設するのは庶民の迷惑になる」
 この意見に、多くの大名が賛同した。
 時代は、大きく変わり始めた。
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 江戸市中に積まれた遺骸を早々に埋葬しないと、悪疫や悪疾が蔓延して疫病で生き残った者から新たな犠牲が出る恐れがあった。
 河村屋七左衛門(河村瑞賢)は、保科正之に埋葬の上書を提出した。
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 幕命により、身元不明の遺体を本所牛島新田へ船で運ばれ埋葬し、犠牲者を懇ろに弔う為に万人塚を建て、回向院を開創した。
 両国回向院。江戸三十三箇所観音参りの第4番札所。
 開基、江戸幕府
 宗派、浄土宗。
 正式名、諸宗山 無縁寺 回向院。
 別称、  本所回向院。
 智香寺(小石川伝通院の末寺)の信誉上人が、初代院主となった。
 本尊、阿弥陀如来
 回向院の過去帳では、死者は2万と2人としている。
 保科正之の家臣が埋葬した死者数を検分して、数万人にものぼると報告した。
 この後。江戸を襲った大火や自然災害で犠牲となった、身元不明の水死者・焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬された。
 あらゆる宗門宗派関係なく、人はおろか動物さえも命ある全ての生き物を供養した。
 徳川家綱が死んだ愛馬を供養する為に馬頭観世音菩薩を祀った為に、軍用犬・軍馬慰霊碑や犬猫供養等塔、ペットの墓も多数ある。
した事に由来している。
 出火元であった本妙寺には、明暦の大火供養塔が建立された。
 幕府は、名もなき身分低い者でも手を抜かず、一人一人を丁重に供養した。
 それが、日本の人間観である。
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 お互い様という互助の精神を持つ日本人は、ある意味災害慣れしていた。
 動ける者は、動けない者を助け、怪我人を手当てし、雨風を凌いで寝起きできる場所を自分でこしらえ、生活できるように後片付けをした。
 庶民は、御上が命令し指図する前に、御上に頼る事なく、自分達で仕事を見付けて動いた。
 庶民は、何もせず、他人からの施しを待ってゴロゴロ寝て暮らす事が死ぬほど嫌いであった。
 朝早くから夜遅くまで、死ぬその瞬間まで働くのが、庶民の生き甲斐であった。
 泥に汚れて働く、それに勝る人生がないと確信していた。
 そして、陰気臭くなるのが嫌で、どんなときも笑い朗らかに生きようとした。
 庶民が和気藹々と一緒に盛り上がる為に、死者を弔う為の単純で分かりやすい盆踊りをしたり、死者を祀る為に笛太鼓による賑やかな祭りを行った。
 それが、日本の宗教観、死生観である。
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 幕府は、焼き出され空腹に苦しむ被災民の為に、米倉から焼けた備蓄米を放出して炊き出しを行った。
 江戸の6ヵ所で、1日1,000俵の炊き出しを7日間続け、さらに延長した。
 家屋敷を再建する資金援助を、大名や旗本・御家人だけでなく町人にも対象を拡げて実施した。
 金額は、16万両と巨費に達した。
 幕閣の間からは、「それではご金蔵がカラになってしまう」と反対する声が上がった。 保科正之は、「幕府の貯蓄はこういう時に使って民衆を安堵させるためのもの。いま使わなければ、貯蓄がないのと同然だ」と一喝した。
 幕府は、いざ合戦という時の為に、食糧や軍資金を3年分貯める事を基本方針としていた。
 合戦がなくなった時代では、食糧や軍資金は大災害対策用として備蓄された。
 命を賭けて戦う侍にとって、財政を赤字にする事も、借金を作る事も、命に関わる重大事である為に避けねばならぬ命題であった。
 責任感のない庶民は、そうした気概がない為に、平気で借金をし、返済できなくなれば罪の意識もなく夜逃げをして姿を眩ました。
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 河村瑞賢(40)「己のためではなく、他人のために役立つ仕事をする」
 伊東潤「(河村)瑞賢は仕事をする為に生まれて来た男というか、仕事に対する情熱、熱意が並外れている。当時の平均寿命は40ほどですから、そろそろ楽隠居というときに明暦の大火に見舞われ、三男を失いながらも一番困難な遺骸の処理を見事にやってのけた。それが皆に感謝されるんですよね。特に幕閣からも喜ばれた。
 このとき誰かに喜ばれる事が自分の喜びだと知る。
 その事が瑞賢をその後の難事業に立ち向かわせたんだろうと思います。
 失敗しながらも学んだ事を忘れず次ぎに生かしていくという。当たり前の事ができる人間だけが成功する。まさに瑞賢はそういうキャラクターにしました。
 逆境を一つずつ乗り越えて行く。その先に成功はある。
 楽な仕事なんてないし、努力せずに何かを成し遂げる事は絶対にできませえん。瑞賢のように自ら陣頭に立ち、あらゆる難事を解決していく事によって人も動くし、大きな成功も得られるんです」
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 速やかな復興を目指すには、物価を安定させる事が急務として、食糧や材木の価格が高騰しないように統制を強化した。
 食糧不足から飢餓が発生させない為に、米価の上限を決め、米の確保を急いだ。
 だが、それでも米相場は高騰した。
 大名のように領国を持たず、庶民のように生計の術を持たない、消費するだけの旗本・御家人達に米価の倍の救済金を渡した。
 幕府は、江戸に米を送って大きな大儲けしようとした地方の商人から、直接、必要数の米を買い付けて被災地に流して米価を下げた。
 保科正之松平信綱らは、被災地での米の需要を減らして飽和状態にするべく、人口統制として、参勤交代で江戸にいる諸大名に帰国命令を出し、国許にいる大名には参勤交代で江戸に来る必要なしと通知した。
 大名は、幕府への忠義として、「いざ鎌倉」と、江戸で一大事が起きれば取る物を取らずに一目散に江戸へ駆けつけようとしたが、それを止めさせた。
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 町人には、百姓と違って租税の義務はなく、働いて稼いだ給金は全て自分の金となった。
 その分、納税する百姓と違って幕府や大名からの救済がないのが当然であった。
 お救い小屋や炊き出しがあったがそれは短期間の事で、自己責任による自力救済が基本であった。
 お救い小屋で、何もせずゴロゴロと寝転んで、食事の時だけ起き上がって食べ、又、無気力にゴロゴロと寝転ぶ。
 そんな家畜のような姿を嫌った。
 家畜ではなく人と自覚する庶民は、早々とお救い小屋を出て行った。
 お救い小屋と炊き出しは権利でも何でもなく、一時しのぎであって長く許される事ではなかった。
 庶民感情に、「甘さ」あるいは「甘え」など持ってはいなかった。
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 日本の庶民は、西洋や中国・朝鮮の虐げられた惨めな民衆とは違っていた。
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 幕府は、租税を取らない庶民に対して、庶民は庶民の知恵と工夫で助け合うべきだとして、冷たく突き放した。
 突き放したのであって、見捨てたわけではなかった。
 庶民の力ではどうしようもない所は、幕府の責任で最善の処置を取った。
 米と材木の供給と相場の安定である。
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 マルクス主義階級闘争は、日本に馴染まないどころか、そもそも存在しなかった。
 また、キリスト教的絶対価値観による救済思想も根付かなかった。
 日本は、世界の常識では理解できないのが当然であった。
 世界の非常識が、日本である。
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 死者数の増加と火災の拡大と消火を妨げた原因は、庶民が避難する際に車輪が付いた長持「車長持」で家財道具を山積みにして運び出そうとしたからだとして、以後、車長持の製造販売が三都で禁止された。
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 明和9(1772)年2月29日 目黒行人坂大火。
 目黒行人坂の大円寺から出火した。
 麻布から江戸城周辺の武家屋敷を焼き尽くし、さらに神田、千住方面にまで広がった。
 死者は、約1万5,000人。
 火事の原因は僧侶の放火で、犯人は火付盗賊改役に捕らえられ、炙りの刑で処刑された。
 放火は、重罪で死刑であった。
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 文化3(1806)年3月4日 丙寅の年丙寅の大火。
 芝・車町の材木屋付近から出火。
 炎は京橋や日本橋を焼き、神田や浅草に燃え広がり、江戸の下町530町を焼き尽くした。
 死者は、約1,200人。
 幕府は、焼け出された被災者を救う為に、御救小屋を建て、人を仮の宿に収容し食事を与えた。






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慈悲の名君 保科正之 (角川選書)

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江戸を造った男

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河村瑞賢―没後三〇〇年

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大欲―小説河村瑞賢

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