落書(らくしょ)日本史―戦乱と泰平のパロディ (旺文社文庫)
- 作者:紀田 順一郎
- 出版社/メーカー: 旺文社
- 発売日: 1986/11
- メディア: 文庫
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
アンドレ・マルロー「日本人は、一瞬の中に永遠を凍結する事ができる唯一の民族だ」
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庶民にとって反知性主義・反教養主義は褒め言葉。
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教養ある男性は、中国や朝鮮の男性同様に漢詩を読み、万葉仮名による和歌を詠んでいた。
日本の女性は、万葉仮名と平仮名で和歌を詠み、平仮名で日記や随筆や物語を書いていた。
日本の名も無き身分卑しい庶民も、万葉仮名で和歌を詠んでいた。
日本の女性や庶民は、世界の如何なる国々の女性や民衆・人民に比べても詩作という特異な才能を持っていた。
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2018年10月号 新潮45「掌のうた
俳句 医師にさらす胸は恋など忘れいし 須田優子
選・解説 小澤實
診察のために医師に触れさせている胸は、かつて人を恋う思いを籠められる場所でもあるはずであった。しかし、闘病している今は、恋のことなど忘れてしまっていた。
自身の身体、胸を詠んで、恋を忘れたことを告白する。しかし、これは恋が実は消え失せていないことも告げている。季語は含まれていない。無季の句である。俳句に新しみをもたらそうとしての無季の試みではなかろう。自らの存在と向き合って、必死に詠おうとして、季語を入れることがかなわなくなっているのではないか。季語とは、季節を現すことばであるが、そこに生命を込められている。それゆえ、季語がふくまれていない掲出句には、どこか死が匂うのである。
作者須田優子は昭和5年生まれ、32年に心臓麻痺で没している。享年28。俳句は吉田未下灰(みかい)主宰の『やまびこ』に所属。未灰は石原八束主宰『秋』の同人であった。掲出句は優子の死後、弟寛伯が編んで『やまびこ叢書』として刊行した句集『白炎』(昭和33年)所載。平成28年にこの原本の復刻がなされ、鬣(たてがみ)の会による『風の花冠文庫』に収録された。引用はこの復刻本による。
昭和26年作から収録句が始まる。『思慕の念断ちがたく今日も野分吹く』。恋しく懐かしむ思いを断ち切りにくく、今日も台風の暴風が吹くのである。恋愛の対象への思いがかなり激しい。野分の風と取り合わせている。そして、翌々年28年には、『我が恋に似て山茶花(さざんか)の紅うすく』そして、掲出句『医師にさらす』が現れる。山茶花の紅の薄い花びらにことよせられる恋とは、病のために告白もすることもなく終わった片恋であろうか。
昭和30年には、心臓病の不治を宣告された。そして、次の句がある。『秋夜ふと触れし乳房の冷えいたり』。さらに翌年にも『秋雲や臥(ね)て軽きもの乳房二つ』がある。乳房が繰返し詠まれる。人を愛することもなく、子に乳を与えることもない乳房が、即物的に捉えられた。
死の年、32年に次の句がある。『人恋えばひらりひらりと夜の金魚』。夜の水槽にいる金魚は、尾が長いもの。ひらりひらりと身を動かす。その動きと遠い人をいきいきと恋う思いとが響き合って、なんと同じ動きになっている。
近代俳句において、恋を詠んだ俳人はもとより多くはない。その中で活動期間も短く、残した句も少ないが、須田優子を逸することはできない。ここまで『恋』ということばをたいせつに思って生きた俳人はいないのではないか。命の輝きとしての『恋』ということばを書ききった人はいないのではなかろうか」
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2019年2月8日号 週刊朝日「司馬遼太郎と明治
『坂の上の雲』の時代
明治は鉄道の時代でもある。鉄道の発達で人々の行動圏が広がっていく。正岡子規も鉄道を利用して帰省し、寄り道を楽しんだ。
文=本誌・村井重俊 写真=小林修
子規の旅『坂の上の雲』
……
子規の人生は35年でしかない。
晩年は脊椎カリエスのため、苦しい病床に7年もいた。背中にいくつもの穴が開き。包帯を取り換えるときに泣き叫んだ。
〈そういう悲運のなかにあり、嘆くこともなかった〉
自分の命はだいたいこれぐらいなのだと冷静に分析し、それほどの悲愴感もなかった。
〈町を歩いていて小遣いがなくなってきて、あと25円ぐらいしか残っていない。その25円で何ができるか。それが子規にとって肝心でした〉
俳句や短歌の革新、散文をつくりあげることを子規は選ぶ。
〈命との競争でやるべきことをすべてやった。人間として、正岡子規ほど勇気のある人はちょっといないのではないかと、私は思うのです〉
子規は『写生』の大切さを主張した人でもある。物をありのままに見ることが『写生』だが、江戸時代にはなかったものだと子規はいう。
司馬さんは子規の言葉を紹介しつつ、思いを補足する。
〈『・・・われわれは物をありのままに見ることが、きわめて少ない民族だ。だから日本はだめなんだ』
身を震わすような革命の精神で思った言葉が写生なのです〉
〈自分の観念にフィルターを、目玉に霧をかけ、物を見ようとしない。そういう文化が長く続いてきた社会であります〉
写生の精神があれば日本の文芸、日本人の精神、日本文化は立派なものになると子規は考えた。
〈日本文化における深刻な劣等性を思い、それを解決する方法として写生を提示した〉
子規が明治に指摘したことが、平成日本にもそのまま通じる。子規がすごいのか、日本がだめなのか。
司馬さんはしみじみ語った。
〈子規を長く生かし、ほうぼうを歩き回らせたかったですね〉
知らない土地でさまざま出会いがあり、子規は驚き、喜び、大食し、ひょっとしたら恋もしただろう。外国にも行かせてあげたかった。さらにおもしろい文学者になったかもしれない。
もともと子規は旅が大好きな人でもあった」
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庶民は、将来への計画もなく、未来への夢もなく、その日暮らし的にちゃらんぽらんな生活を積み重ねていた。
訳の分からない屁理屈をこねしかめっ面をしている糞真面目な儒学者や知識人を、茶化しからかっい笑っていた。
庶民でも、短詩系の俳句、川柳、短歌、都々逸などを自由な発想で詩作して楽しでいた。
不真面目に生きていた庶民は、流行り物的な御利益があるといわれるお札やお守りは買って飾るが、権威や権力には関心も興味もなく畏まって頭を下げたが媚びへつらう事はしなかった。
自分に都合の良い所をだけをつまみ出し、自分の思いつく範囲で適当に解釈して納得した。
東アジアで中華思想が教養・知識・知性であるなら、日本の庶民は最も遠くにあって縁がなかった。
中華思想を一字一句忠実に守り、社会の根幹としていたのは朝鮮である。
現代風に言えば、朝鮮は知性主義・教養主義であり、日本は反知性主義・反教養主義であった。
庶民文化とは、いい加減で不真面目な反知性主義・反教養主義である。
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江戸文化・江戸文学とは、現代のオタクや根暗で陰気なネット接続者の様に一人書斎に籠もって自己陶酔的に浸りきる偏屈ではなく、茶道・連歌の座・俳句及び川柳の会・花見の宴などの様な同好の士が車座でお互いの想像力を出し合い競い合って楽しむ開放的な嗜みであった。
江戸文化・江戸文学には、ネット接続による思考停止した現代日本の都市文化とは異なり、高度で洗練された教養による奇抜な発想力と豊かな表現力が求められていた。
江戸文化・江戸文学にとって重要なのは、自分の想いを分かりやすい言葉で発信する能力であった。
日本語は、微細な想いを伝えるに最も適した言葉であった。
江戸文化・江戸文学を支えたのは、百姓や町人などの身分低い庶民であった為に、座や会や宴は平等と公平が大原則で、身分や地位に関係なく、女や子供でも自由に参加できた。
男子禁制の、お女だけの会も存在していた。
人に嫌われる乞食や貧民であっても、俳句や川柳を詠んで楽しんでいた。
『万葉集』には、詠み人が分からない庶民の歌が数多く、天皇や貴族の歌と同列に扱われて収められている。
名もなき地位の低い卑しい者の和歌であっても、素人も玄人も万人が認めるほどの秀作であれば、大名や公家はおろか、将軍や天皇にも伝えられて絶賛された。
江戸の文化サロンは、王侯貴族などの特権階級や富豪・地主などの富裕層の趣味娯楽ではなく、庶民が粗末な日々の生活の中で「粋」や「雅」を希求した道楽であった。
日本の中間層・中流層は、こうした百姓や町人の庶民で、世界的に類がないほどに厚い層である。
日本の庶民は、御上ごもっともとして、御上に楯突かず命じられるままに従ったとされるが、それは嘘である。
世界における権力への抵抗は、民衆による暴動や内戦、暴行や放火、殺人や強姦であった。
日本では、法秩序が崩壊し治安が悪化して無法地帯するといった世界常識的抵抗運動は起きなかったが、静かな抵抗として和歌や川柳による「落首」が張り出された。
心ある権力者は、落首を見て庶民の気持ちをくんで改善できるところは改めた。
庶民の抵抗は、世界では犯罪的「暴力」であったが、日本では表現豊かな「落首」であった。
御政道や権力者を辛らつに批判する「落首」を書くには、古典に通じた高度な教養が必要であった。
庶民は、興味本位で瓦版を読み、憂さ晴らしで辻講釈を聞き、権力者を風刺し批判する落首を見て、世の中を茶化して川柳を詠んだ。
豊臣秀吉は、聚楽第の門に貼られた「おごれる者久しからず」の落首に対して、「おごらずとも久しからず」と書き足して答えた。
何時の権力者も、御政道を批判する落首を禁止し、作者を厳しく取り締まったが、その実は逆に、落首は庶民の声として「とんち」の効いた秀作を面白がって詠んでいた。
江戸時代の言論統制とは、暴動を煽り世の中を乱すアジ演説に対する禁止した。
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百姓や町人は、御上を信用していなかった。
読み書きソロバンを習ったのは、社会の為でも他人の為でもなく、あくまでも自分の為、少しでも金を稼ぎたかったからである。
庶民には、自利自愛が強く、利他他愛の心は少なかった。
日本人の偽らざる本心として、自分が可愛いだけに、いざとなったら自分より弱い他人を平気で踏みつけて自分一人が助かろうとする。
日本人の本性は、薄情である。
日本人の心には、キリスト教の慈愛の心や博愛の精神はない。
日本精神文化には、ヒューマニズムやボランティアは存在しない。
太平洋戦争時。敗走する日本軍兵士が自分一人が助かりたいが為に、助けてくれた現地人を虐殺したり、民間人を集団自決に追い込んだのは、あり得る事であった。
日本人は、滅私奉公や自己犠牲のサムライの子孫ではなく、自分一人が可愛いエゴイズムの塊である庶民の子孫であった。
自分の醜さを隠したい日本人ほど、狂言を並べ立て、自分はサムライの子孫で武士道精神があり潔いと吹聴している。
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