🏞60)─1─松尾芭蕉は政変に巻き込まれない為に逃亡した。『蛙飛びこむ水の音』の謎。~No.258No.259 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年7月23日号 週刊朝日「コンセント抜いたか  嵐山光三郎
 古池や蛙飛びこむ水の音
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 ヨシ子さんは『きのうのこと』のように話す。田圃の用水が流れてきて古池にたまる。古池の鯉が、池に張った金網の上を這うカボチャを食べた。水面下からカボチャの実を吸うように囓るので、紙風船みたいな空洞カボチャになった。
 古池は鯉、田圃は蛙という取りあわせだが、芭蕉のおかげで『古池や』とくれば『蛙飛びこむ水の音』となりました。
 貞享3(1686)年春、深川の第二次芭蕉庵で芭蕉の句『古池や・・・』を巻頭において、蕉門(しょうもん)による20番勝負『蛙合(かわずあわせ)』が興行された。句合(くあわせ)は歌合(うたあわせ)の俳句版で、持ちよった句の勝ち負けをきわめた。蛙を兼題として芭蕉ほか40名が句を提供した。
 これが薄い半紙本となって芭蕉の名を天下に知らしめた。ときに芭蕉は43歳で、8年後に51歳で没する。この句で注目するところは、鳴く蛙でなく、飛ぶ蛙をつかまえ、『水の音』を発見した一点にある。
 句が詠まれたのは深川ですから、私はたびたび芭蕉庵の跡を訪れ、隅田川や小名水川沿いを歩いて廻ったが、蛙が飛びこむ音を聴くことはなかった。蛙は池の端からするり、と音をたてずに水中に入っていく。芭蕉の『水の音』は幻聴であり、それを句にしたてるために弟子40人を集めて句合興行をした。
 巷間伝えられる芭蕉伝は『日本橋喧騒から逃れてひとり枯淡(こたん)な侘(わび)、寂(さび)の境地を求めた』、というきれいごとだが、後世の人が勝手に『美化』した。
 芭蕉は逃げたんですよ。さあ、これからというときに政変がおこった。
 芭蕉がここまできた背景には藤堂家のうしろだてがある。藤堂家の江戸詰めは藤堂高久(高虎の孫)で大老酒井忠清の女婿(じょせい)である。11歳で4代将軍になった家綱は処理しなければならない用件がおこると忠清に丸投げして『左様(そう)せい』というだけであったから『左様せい様』といわれた。忠清の思うまま。俳諧武家の教養として推奨されたので、宗匠は新時代の文人旗手であった。伊賀上野の無足人の子として生まれた芭蕉は、藤堂新七郎家のうしろだてを得て江戸に出て、ようやく名が売れたときに、忠清が失脚した。
 5代将軍綱吉の母は京都の八百屋の娘で通称お玉という。13歳のとき公家六条家の娘お万にやとわれ、大奥へ入り、家光の目にとまって寵(ちょう)を受けた。江戸時代のシンデレラ姫だが、それまでの徳川4代すべてが直系であった。
 綱吉は小男(一説では身長124センチ)で極度のマザコンだった。酒井忠清を憎むことは徹底していて、大老解任の翌年に忠清が死ぬと藤堂高久に『自殺か病死か調べてこい』と命じた。
 自殺(切腹死)ならばお家とりつぶしとなる。高久が『病死にまちがいありません』と答えると、『墓を掘りおこして死骸を踏みくだいてこい』とまで厳命した。綱吉は愛憎ともに極端な性格で、この話は江戸中ひろく知れわたった。
 綱吉による酒井忠清がらみの粛清の嵐あ吹き、藤堂家ゆかりの下っ端の芭蕉も『桃青門弟独吟二十歌仙』が刊行されたばかりで目立っている。このまま日本橋俳諧宗匠をつづければ、目をつけられる。難を避けるために剃髪して出家を装(よそ)うことにした。
 逃げるさきは弟子杉風(さんぷう)が知りあいの伊奈代官家の深川の長屋だった。杉風が扱う川魚は利根川、荒川や隅田川でとれ、その地域は伊奈代官家の管轄である。
 ほとぼりがさめた6年後、貞享3(1686)年春、第二次芭蕉庵で『蛙合』興行となった。
 それまで『鳴く蛙』は詠まれたが『飛ぶ蛙』は芭蕉の創作である。
 綱吉は『生類憐れみの令』を出し、鳥肉、えび、貝を食べてはいけない。犬を傷つければ大罪で、猫、猪、鹿、雀を殺してはいけない。金魚は池に放った。腕に止まった蚊を手で打った者は島流しとなった。犬公方と呼ばれた。
 蛙という小動物を兼題として『蛙合』は時流に沿ったもので、綱吉への目配りがある。
 『蛙飛びこむ水の音』を見つけた芭蕉は『これだ!』と意気ごんだ、さて、上五(かみご)をどうするかと思案した。飛びこむ蛙とは世間である。
 いろいろ考えて『古池や』とつけた。これは、ただの『古池』ではなく、ふるは『経る』『歴(ふ)る』で、時間がたつという意味である。月日を数える。日数をふる。
 天和元年(芭蕉38歳)の芭蕉の句に、
 世にふるもさらに宗祇(そうぎ)のやどり哉
 がある。時がすぎゆくのは、そこに宗祇翁が宿っているからだよ、という詠嘆(えいたん)である。宗祇は室町末期の連歌師で、みちのくの旅をして『世にふるも更(さら)に時雨(しぐれ)のやどり哉』(時がすぎゆくのは、時雨で雨宿りするようなものだ)がある。時間が経ること、雨が降ることを重ねた吟で、それを念頭において『古池』。ふるさとも『時間が経る里』という意味である。
 ふる池には『月日がたった池』が寄りそっている。時間をかけて再生されていく池。世をふることによって新しい命が生まれてくる。
 老母ヨシ子さんがくりかえす『昔の思い出話』も『ふる池』である。『ふる池』はあらゆる人間の心の奧にひつそりとある池で、そこに蛙がポシャンと音をたてて飛びこむ。池の波紋に幾層もの物語が重なるのですね、きっと。」
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 日本の伝統文化は、中華文化(中国文化、朝鮮文化)とは異質な文化で、韓国文化とは縁もゆかりもない別種の文化である。
 日本文化は、90%朝鮮半島起源の文化とは無縁である。
 故に、日本民族の伝統文化において現代中国や韓国・朝鮮に感謝する事は何もない。
 韓国が、日本文化に対して主張しているウリジナルは全くのウソである。
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 2017年1月29日 産経新聞「「芭蕉忍者説」を検証 三重大・吉丸准教授が起源など解説
 俳人松尾芭蕉(1644〜1694)の愛好家や忍者ファンならずとも広く知られた芭蕉忍者説を考える講演会「芭蕉忍者説の傾向と対策」が28日、伊賀市上野丸之内のハイトピア伊賀で開かれた。三重大の吉丸雄哉准教授(日本近世文学)が、説の起源や信憑性を解説した。
 芭蕉忍者説には、芭蕉が伊賀の無足人(準士分の上層農民)で伊賀者(=忍者)として藤堂藩に雇われていたとする説や、芭蕉が歩いた「奧の細道」の足跡は忍者と思えるような健脚ぶりを示し、東北諸藩の情勢を幕府が芭蕉に探らせる裏の目的があったといった説がある。
 吉丸准教授はこうした説に対し、「芭蕉は無足人の流れをくむが、父の代ではすでに農民で伊賀者とは無関係」「歩く速度は当時の健脚な日本人と変わらない」と指摘。「芭蕉は早くから神格化され逸話の多い人物だが、忍術を使った話が残っていない」とも話し、忍者説を裏付ける痕跡は存在しないと強調した。ただ、「奧の細道」に同行した弟子の曾良(そら)の忍者説については「蓋然性がある」とした。
 また、芭蕉忍者説の起源として、作家の松本清張氏と考古学者の樋口清之氏が共同執筆した『東京の旅』(昭和41年)で特定の秘密任務を帯びた忍者として推測されていることを挙げ、推理小説家、斎藤栄氏の『奧の細道殺人事件』(同45年)や連続テレビ時代劇「隠密・奥の細道」(同63年〜平成元年)などによって広く定着していく過程を明らかにした。
 吉丸准教授は「芭蕉忍者説は証明できない幽霊のような存在。芭蕉は偉大な俳人、世界に誇る詩人であり、忍者をセットにして評価を高めようとするのはおせっかい」と話した。
 講演は、三重大人文学部と上野商工会議所が企画した「忍者・忍術学講座」の第4回で市民ら約90人が聴講。第5回は2月18日午前10時半に同じ会場で、中部大人文学部の岡本聡教授が「芭蕉のネットワークと藤堂家」をテーマに話す。」
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 三重県 環境生活部 文化振興課 文化企画班
 俳句のくに・三重
 松尾芭蕉の生涯 コラム
 変身願望
 戦国の世、戦の時代から「太平」の時代へと時が移り、町民の生活にも豊かさが芽生え始めました。大阪・京都を中心とした元禄文化が生まれたのがこの時代です。この豊かな時代の中で文化が育まれ現在も伝承され続ける「歌舞伎」等が生まれました。役の中で“男性が女性を”“女性が男性”を“演ずる”という文明社会ならではの現象が生まれたのです。文学の世界でも、その作品の中で自分を他の“役柄”“異性”“職業”…に置き換え“演ずる”という事が行われています。 豊かな時代、人々は自分以外の者を演ずる事に憧れを持つのかもしれません。芭蕉たちも、連句の中で他人になりきり句を詠むという事を楽しんでいた様です。
 商人のお墨付き
 この時代、街道整備が進み物流の流れが生まれました。この交通手段の発達により、商人の台頭が見られ始めたのもこの時代です。現在でも活躍する大手銀行等が生まれたのもこの時代です。物流の流れは“お金の流れ”を生み、新たな勢力“商人”が力を持ち始めたのです。そして、この商人たちに一目置かれたのが“芭蕉”なのです。彼ら商人は言葉巧みに商いを展開していくのですが、“言葉使いの達人”である“芭蕉”を崇拝し活動のサポートを行っていたようです。さながら“芭蕉ファンクラブ”といったところでしょうか。
 芭蕉を名乗る
 「松尾芭蕉」を語るとき“「芭蕉」前・「芭蕉」後”という言葉が使われることがあります。1681 年、38 歳の時 門人李下が庵の庭に植えた芭蕉一株によって、芭蕉が庭にある庵の主の意で自らも「芭蕉」を号とするようになりました。そしてこの年の12 月、芭蕉は自分の事を“翁(おきな)”と名乗り始めました。芭蕉の数々の名句は皆さんご存知のところですが、今も語られるその名句、紀行文のほとんどは「松尾芭蕉」を名乗った後の業績なのです。現在の38 歳は仕事もバリバリにこなせる年齢ですが、当時人生50 年の時代から考えると、かなりの高齢と言っても過言ではありません。名前を変えた途端に精力的に旅に出向き、数々の名句を残す。まさに“覚悟を決めた”という感じでしょうか。「芭蕉前」は全く無名だったのに「芭蕉後」に一気に人気者へ。人生何が好転をもたらすかわからないものです。
 ベストセラー生まれる
 書籍分野に革命的な変化をもたらした技術がこの時代におこります。それは“版本”です。今でこそ書籍を印刷する技術はあたりまえのことなのですが、当時は写本からようやく版本の時代に移ろうとするところでした。この技術により多くの書籍を発行することが可能になり、出版文化が華開いたのです。井原西鶴好色一代男』のベストセラーもこの技術の賜物です。工業技術の進化が、文化の後押しをし始めた時代の始まりです。ちなみに海外では1455年グーテンベルクにより初めての活版印刷物『四十二行聖書』が160~180部程度発行されました。まさに、メディア文化が誕生したのです。
 旅への情熱
 現在とは異なり、交通手段の限られていた江戸時代。“旅への情熱・憧れ“は私たちよりも強いものがあったかもしれません。『奥の細道』の序を垣間見ても、旅へのワクワクした気持ちを強く感ずることができます。各所に関所があり、移動時間も今とは比べ様のないほど費やした時代、国内旅行ではありますが 現在の海外旅行以上の価値があったのかもしれません。
 「奥の細道」第2幕
 芭蕉が旅を終え、自分自身の旅路にも幕が降ろされた後、数々の紀行文が生まれました。芭蕉の足跡を巡る旅をする方々が今も数多く居られます。芭蕉が残したその多くの俳句は今も輝きを放ち、私たちを“想像の旅路”へと掻き立てるのでしょう。松尾芭蕉が没して300年以上たちますが、五・七・五で表現された日本の風景は、今も私たちの心に響きをもたらします。十七音で表現される日本独特の文化“俳句”は日本人誰もが楽しむことのできる共通の文化なのでしょう。
 元禄文化化政文化
 江戸時代前期の文化を「元禄文化」、後期を「化政文化」といいます。松尾芭蕉の生きていた時代は元禄文化にあたります。元禄文化は商品経済が発達し、経済力をもった町人を中心としておこりました。華やかで活気に満ちた文化で歌舞伎などで花道、回り舞台など現在も使用され技法もこの時代に発明されたものです。工芸、陶芸も発達し華やかなものが持てはやされ始めたのもこの時代です。 一方、江戸後期の文化「化成文化」は江戸、大阪などの都市部だけでなく全国各地で様々な文化活動が活発に行われた時代でした。『里美八犬伝』『東海道中膝栗毛』や写楽葛飾北斎歌麿といった浮世絵の画家も多く排出されてます。裕福な農民、商人の中には茶道、華道を学ぶ者もいました。交通の発達(街道の整備)により文化、風俗の交流が全国規模でおこりました。
 芭蕉イズム~芭蕉は今も生きている~
 1694年に芭蕉がその俳諧人生に幕を閉じてから現在で3世紀の時が流れました。芭蕉の死後、彼の弟子達により俳諧は引き継がれますが、流行に波がある様に俳諧にも浮き沈みがあった様です。しかし、芭蕉死後 半世紀ほどたつと「与謝蕪村」が誕生し俳諧が再び脚光をあびます。そして、江戸後期には日常の生活感情を俗語を駆使して表現した「小林一茶」が現れ文化の脈絡は引き継がれていきました。明治維新以降、西洋の影響を多大に受け 人々の生活そして文化にも新しい流れが生まれます、その中にあっても松尾芭蕉が作り上げた俳諧は再度注目をあび「芥川龍之介」の『芭蕉雑記』『続芭蕉雑記』で取り上げられています。また正岡子規は評論『芭蕉雑談』の中で芭蕉を批判するのですが、その反響は大きく、「芭蕉」「蕪村」を新たに見直した新派俳句へとつながっていきます。俳句という呼称は子規により提唱されました。このように、芭蕉の偉業は多くの研究者、文学書等 様々な人々の関わりの中 3世紀という時を経ても現代にも引き継がれているのです。そう、「芭蕉は今も生きつづけている」のです。
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 朝日日本歴史人物事典「松尾芭蕉」の解説
 松尾芭蕉
 没年:元禄7.10.12(1694.11.28)
 生年:寛永21(1644)
 江戸前期の俳諧師。正しくは単に芭蕉伊賀国上野(三重県上野市)の人。父は農作を業としながら正式に松尾の姓を有する家柄。幼名は金作。成長して通称を甚七郎,また忠右衛門,藤七郎とも伝え,名を宗房と名乗る。俳号ははじめ宗房,のち桃青。別号,坐興庵・栩々斎・花桃夭・華桃園・泊船堂・芭蕉洞・芭蕉庵・風羅坊など。「芭蕉」「はせを」の号は,はじめ庵号に由来する戯号であり,愛用したけれども,神社・仏閣に奉献するような改まった場合には,晩年に至るまで桃青・芭蕉桃青・武陵芭蕉散人桃青というような署名をした。 若年にして伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将(知行5000石)藤堂新七郎良精家に仕える。身分は料理人であったが,主君の若君藤堂良忠(俳号,蝉吟)と共に俳諧を嗜むことになった。寛文6(1666)年蝉吟の死とともに仕官を退き,俳諧に精進する。延宝初年,30歳代のはじめには江戸に出て上水道工事に携わったりするが,やがて職業的な俳諧師の道を歩む。延宝8(1680)年には『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行するに至り,当代における代表的選者のひとりと目されるようになったが,同年冬に突然江戸市中から退き,深川に草庵を結んで隠逸の生活に入る。すなわち芭蕉庵主の誕生である。生活は,数人の気心の知れた門人・知友によって支えられたらしいが,その緊張感にみちた高雅な句風が,次第に支持層を強固にしていった。貞享1(1684)年以後は,『野ざらし紀行』(1685,86頃),『鹿島詣』(1687),『笈の小文』,『更科紀行』(1688),『奥の細道』などに描きとどめられた種々の旅行を繰り返し,その死もまた,上方旅行の途中の大坂においてであった。その足跡は,陸奥平泉(岩手県平泉町)・出羽象潟(秋田県象潟町)を北端とし,播磨明石(兵庫県明石市)を西端とするが,夢想としての旅はさらに西国筋まで思い描かれていたらしい。 一般に庵住(隠棲)と行脚(旅行)は,一対として出家修行の2形態であり,芭蕉が深川の芭蕉庵を基点としつつも,近江(滋賀県)の幻住庵・無名庵や,山城(京都府)嵯峨の落柿舎(門人去来の別邸),郷里上野の実家屋敷内の草庵など,各地で長期・短期の庵住を営み,そのあいだ,あいだを旅に過ごしたのは,修行者としての実践のかたちを踏んだといえる。「拙者,浮雲無住の境界大望ゆゑ,かくのごとく漂泊いたし候」と書いた芭蕉は,実際に「手に十八の珠」(『野ざらし紀行』)の黄檗禅の数珠をかけて歩いていたらしい。この実践を通じて,心境は鋭く研ぎすまされ,作品は,典雅・高踏を抜け出て,やがて自由闊達な,軽快・余裕の境地に至った。俳諧が根本的に要求されるユーモアの精神を人格的な寛仁の中に位置づけたのである。ふつう芭蕉七部集と呼ぶ書物のうち,『ひさご』,『猿蓑』(1691)以降の集は,日本文学史の上での大きな転換点を具現している。その芸術的達成は,筆跡の上にも現れているが,また『野ざらし紀行画巻』や『旅路の画巻』などの長大な画作を残し,この方面でも素人離れのした才能を示した。<参考文献>大谷篤蔵監修『芭蕉全図譜』,上野洋三『芭蕉論』『芭蕉,旅へ』
(上野洋三)
 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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芭蕉全句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
松尾芭蕉 (物語と史蹟をたずねて)
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 日本民族は、哲学・思想・イデオロギーなどを論理的合理的科学的に書かれた「理知的」な小説ではなく、歴史・宗教・文化・伝統、生活・習慣など身近な現実を「情緒」で包んだ神話・説話・物語、逸話・民話を信じて生きた人々であった。
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 日本の歴史には、各時代の勝利者・支配者・権力者によって都合よく改竄されている為に事実・現実が伝わってはいない。
 つまり、日本の歴史は偽史であって正史ではない。
 特に、1956年、1980年、2010年と、国際社会や近隣諸国の圧力で日本の歴史は醜く歪められ、現代にいたっても正しく書き直されていない。
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 江戸時代の趣味人・表現者は、表面的な見栄えだけを気にして中身のない薄っぺらに満足する現代のマルクス主義・左派系表現者とは違い、高度な教養、人としての品格・品位、そして揺るぎのない信念、何事にも動ぜず怖れぬ覚悟、新しいモノへの尽きる事なき好奇心、古典・伝統を極めたいという求道心があった。
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 江戸時代の趣味人・表現者が目指したのは、権力・権威の御墨付きではなく、大金を出して買ってくれる厳しい目利きの世間の評判と辛辣な庶民の評価に耐える事で、誰からも見向きもされない関心も持たれない独り善がり・自己満足ではなく、日本一飛び抜け卓越したナンバーワンであり、誰にも真似ができない自分だけの独創的なオンリーワンであった。つまり、時空の壁を打ち破っていく事であった。
 江戸庶民文化が伝統的日本文化として現代まで受け継がれてきたのは、この為である。
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 世間・庶民が求めたのは、権力・体制の庇護を受けた御用・お抱えではなく、痩せ我慢で粋がったアウトロー的な在野・市井・場末であった。
 つまり、江戸時代の権威には御上公認官学(朱子学)系と庶民承認私学(諸学)系の2種類があった。
 舞踊でも、武士の嗜みである幽玄の能と庶民の娯楽として弾圧された悪所の歌舞伎があった。
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 御上公認官学(朱子学)は、思想・言論・表現を統制する為に、諸改革で私学(諸学)や蘭学を強権を用いて弾圧していた。
 思想・言論・表現の弾圧といっても、昔の日本と現代の日本ではまったく違う。
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