🎑31)─1─言霊文化と口承(こうしょう)文学。和歌・短歌。~No.801 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 『国史大辞典』「『万葉集』は実質的には欽明天皇時代(629〜41)から淳仁天皇天平宝字3年まで、約130年間の長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌(ぶつそくせきか)など4千5百首余りを収録する歌集である。文学史的には口誦の歌謡から記載の抒情歌の生み出された原初期の作品の集成であって、天皇・皇后をはじめ皇族や貴族・大宮人とともに階層的に低い一般民衆の歌まで含むので、古代の人々の持っていた勃興的な意欲的なエネルギーに触れることができる」
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 905(〜914)年 紀貫之は、『古今和歌集』で和歌の始まりは、須佐之男命(すさのおのみこと)と櫛名田比姫(くしなだひめ)との結婚した際の一首であると記した。
 和歌は、夫婦・男女の恋歌から始まった。
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 毛利元就「目に見えない鬼神をも従え、猛々しい武士の心をも慰めるのに和歌に勝るものはない。和歌の道に疎いのは血の通わぬ木石と同じだ。『大和歌』と書いて『ことのは』と読む。『和』とはすなわち穏やかな威光の事である。お互いに睦み合い仲良く暮らすのには和歌ほど役立つものはない。この国に生を受けながら和歌を詠まないのは、神の思し召しに背いていると言っても過言ではない」
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 田中優子(法政大学総長)「歌われる文学は、日本の場合、さらに広い範囲に及んでいる……記紀歌謡というジャンルは、『古事記』『日本書紀』の中で歌われる歌謡をさしている。『万葉集』『古今和歌集』その他の多くの歌の集は、まさに抑揚とリズムをもった歌なのであった。しかもそこから無数の物語が生まれた……『太平記』や『平家物語』も琵琶を伴奏とする叙事詩であり、近松浄瑠璃は三味線に語りを乗せて超絶の文学となった」(『江戸から見ると』)
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 永田和宏「歌の究極は、挽歌と相聞歌だと言われるんですが、どちらも本質は同じなんです。自分の気持ちを相手に届けたい。それが、生きている恋人の場合でもあれば、亡くなった人の場合もあるというだけ。自分の心と相手の心を、一生懸命考えるから、みんな違う恋の歌になる。だから面白い」
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 2018年10月7日号 サンデー毎日「歌鏡  田中章義
  又あふと思ふ心をしるべにて
     道なき世にも出づる旅かな  坂本龍馬
 『短歌は国語の教科書で習うもの』──現代では多くの人がそう思っているかもしれない。けれどもけれども本当にそうだろうか。千数百年にわたって連綿と詠み継がれてきた理由は、『教科書に載っているから』ではない。戦国武将たちが人生の最期に詠み遺(のこ)した31文字の遺訓。幕末の志士たちが命懸けで立ち上がった、後世に託するものとしての31文字にバトン。亡き人を弔い、時空を超えた幸せを希(こいねが)って詠んだ挽歌。天地(あめつち)への感謝の捧(ささ)げものとしての歌。教科書では習うことのない歌にこそ和歌の神髄もあるのではないか。
 掲出歌は、不平等条約改正に辣腕(らつわん)をふるった明治の政治家・陸奥宗光が称(たた)えた男の歌だ。陸奥宗光が、『近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高さ、その他人を誘説、感得するの能に富める、同時の人よく彼の右に出るものあらざりき』と語った人物──それが坂本龍馬なのだった。
 国学者の娘だった祖母の影響で坂本家では龍馬の父も歌を詠んだ。妻も歌を詠んだ龍馬の手紙に和歌が登場するのは驚くべきことではない。『藤の花今をさかりと咲きつれど船いそがれて見返りもせず』といった歌も龍馬は詠んでいた。立場の違う人の意見にも耳を傾け、よいところはどんどん吸収した柔軟さ。誰もが無理だと思うことにも果敢に挑んだ実行力。大局的な視座。そして何より、世を思い、人々を思った心の大きさとあたたかさ。どんなに『道なき世』だったとしても、自らが歩む足あとで道を生み出そうとしたのが龍馬だった。掲出歌は妻に贈った和歌だ。また会いたい人がいる幸せ。また会おうと語り合う仲間がいる歓(よろこ)び。
 『思い』はかつて『思ひ』と表記され、『思火』と掛詞(かけことば)にされた。長く受け継がれた和歌には百年でも千年でも消えることのない『思ひ』の燈火(ともしび)が点(とも)り続ける。菅原道真宮本武蔵毛利元就伊達政宗上杉鷹山二宮尊徳吉田松陰土方歳三も田中正義も大事にした和歌。日本は今一度、先人が求めた『歌道』を取り戻す必要があるのではないか。和歌によって歴史を映そうとする『歌鏡』の試みはまだまだ始まったばかり。短歌は国語の教科書で習うものというイメージを今後も打破していきたい」
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 和歌=大和心=相手を思う和の心=天皇の大御心=御製。
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 天皇制度とは、民族の伝統文化と分かつ事ができない一体である。
 和歌が存在する限り、天皇家・皇室は安泰であり、天皇・皇族は存続する。
 西洋キリスト教文明のポエムも中華儒教文明の漢詩も、知的エリートに受け入れたが、庶民はなじめなかった。
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 日本の近代的詩歌・童謡や演歌・歌謡曲は、西洋キリスト教文明のポエムの影響を受けたが根底に流れているのは言霊の和歌であった。
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 和歌とは、日本民族が独占する定型の詩歌文化ではなく、定型を守れば誰でも、人種民族、身分、階級に関係なく自由に心の赴くままに詠む事ができる。
 必要なのは、和歌を詠みたいという、穢れなき、純粋で素朴な「心」のみである。
 心を穏やかにして、山川草木すべてと共鳴する事である。
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 日本文化とは、1/fゆらぎ文化、マイナス・イオン文化で、花鳥風月と虫の音、苔と良い菌である。
 日本文化は、日本国語である。
 和歌は、日本国語である。
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 ポエムは「天」で、ゆるしである。
 漢詩は「人」で、やすらぎである。
 和歌は「地」で、いやしである。
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 和歌の源流は、天皇家・皇室によって正統と認められた日本中心神話・天孫降臨神話である。
 和歌の原書は、『万葉集』である。
 和歌から分派して身分に関係なく庶民間で進化した俳句などは、深く辿れば天皇の大御心に行きつく。
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 万葉集で最も心して読むべきは、教養のない身分の低い人々が詠んだ東歌や防人の歌である。
 現代日本には、地方・ローカルで詠まれた東歌や防人の歌は残っていない。
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 天皇の大御心とは、男系の血と肉体で、唯一の祖先神である女神・天照大神に繋がる心・志・気概・精神である。
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 日本人の歌好きは、神代の「歌垣(うたがき)文化」に起源を持つと言われている。
 歌垣文化は、中国南部奥地に住む少数民族の習俗にも残っている。
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 日本の文明・文化は、漢族の黄河文明の強い影響を受けた朝鮮文化とは違い、少数民族揚子江文明の流れを色濃く受け継いでいる。
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 2018年9月10月号 SAPIO「御製 最も人間的でのびやかな和歌を詠まれた昭和天皇、その心を受け継ぐ今上天皇
 平成の次の時代になっても天皇がよき歌人であられることを願う。
 古来日本人は、わずか31音の定型詩・和歌での心の中にある『まことの思い』を詠んできた。その伝統の核に、天皇がいる。宮内庁御用掛として昭和天皇今上天皇や皇族方の和歌の御相談役を務めた岡野弘彦氏が、『歌人としての天皇』を語る。
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 岡野弘彦
 この世の始めの時、中空にかかった天の浮橋で、男女2体の祖神がこんな言葉を語り合った。
 『あなにやし えをとこを』(ああ、なんとすばらしい男でしょう)
 『あなにやし えをとめを』(ああ、なんとすばらしい女だろう)
 『古事記』の中、創世の神イザナギイザナミが『原初の歌』を交わして神や国土が生まれる場面である。簡潔だが深い愛情を込めた、細やかな神の言葉から始まった。
 これ以降、言葉は物を産みだし、願いを現実化する力を持った。現在にいたるまで、日本人は心の中にある『まことの思い』を和歌で表現する伝統を持つ。
 こうした古代の言葉が孕む霊的な力を最も濃密に受け継ぐのが天皇の歌の伝統である。
 古の時代、年の初めに天皇が土地の生産を祝福する歌や、活力に富んだ恋の歌を力強く朗々と歌うと、人々をはじめ家畜や穀物が豊かな生産力を持つようになると信じられた。この呪的な力から和歌が生まれ、はるか後世まで、新年の歌会始が恒例行事となった。
 和歌とは、『この表現以外にない』と言葉が動かなくなるまで心を集中し、推敲を深めて詠むものだ。声に出して詠んだ時に心に響いてくる音の流れである『しらべ』と、言葉が持つ意味である『こころ』が交じり合い、31音の中に変化と感動が生まれます。
 天皇の和歌の特色はまず、しらべにあらわれる。
 古代より宮廷では、将来の天子や后になる子女に、伝承の力ある和歌や古代歌謡を歌い聞かせ、若き貴人が内に秘めた『魂』に働きかけて、歌を詠む力が自発的に発現することを導いた。
 内なる魂を充実して持つ者が物心ついた頃から和歌に親しみ、歌い続けることで、おのずから満ちた歌のしらべが生まれた。和歌の伝統の奥に伝わる力は、おのずから身に付くものであり、まろやかであたたかな息ざしのようなものだ。
 残念ながら、このしらべを感じ取る力は、今、日本人から急速に失われている。
 天皇だけがもつ『しらべ』
 近代の天皇にも古代の神の言葉は伝統的に伝わる。
 明治天皇は生涯に10万首にものぼる和歌を詠まれた。文明開化ののち、日本の国力を伸ばそうという思いから、生活の模範、日本人の生きるべき指針を示す気持ちで歌を詠まれた。
 大正天皇は病身で在位は短かったが、抒情的で豊かな和歌を詠まれた。
 最も人間的でのびやかな和歌を詠まれたのは昭和天皇である。戦前は『現人神(あらひとがみ)』として感情をあらわす話し言葉の平易な語彙を持たなかった方(かた)が、戦後には、実に自在に和歌の中で思いを表現しておられる。
 ……
 88年の秋、昭和天皇の病気が重くなって大量の輸血が始まった。当時、陛下は敗戦直後に詠んだ『爆弾にたふれゆく民の上をおもひいくさとめり身はいかならむとも』という歌が、自分の心をあらわす最もよいかたちであるとは思わず、病床でも推敲を重ねられた。
 徳川義寛侍従長から、『病床の陛下が「きちんとしたかたちを決めておきたいとおっしゃっている』と告げられ、天皇の直筆で幾通りも推敲された草稿から私は次の歌を選んだ。
 他者と和する心
 ≪身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて≫
 抒情的な歌ながら、こころ深くあらわれ、しらべがすっと通る。推敲の深まりは心の深
まりであり、昭和天皇は敗戦から43年間、『たふれゆく民』を胸に抱く心を深めていたのだ。
 こうした思いを受け継いだのが今上天皇である。
 戦争で大きな被害を受けた沖縄訪問を望みながら果たせなかった昭和天皇の心を継ぎ、今上天皇は何度も沖縄を訪れた。国内だけでなく、海外で日本兵が戦った地を積極的に訪問し、幾度もの鎮魂の歌を詠まれた。
 ≪沖縄のいくさに失せし人の名を あまねく刻み碑は並み立てリ≫(平成7年)
 ≪あまたなる命の失せし崖の下 海深くして青く棲みたり≫(平成17年)
 加えて、国内では度重なる自然災害の現場を訪れ被災された人々を励まし、その際の情景を数多く詠まれた。
 ≪大いなるまがのいたみ耐へて生くる 人の言葉に心打たるる≫(平成23年)
 ≪幼子の静かに持ち来し折り紙の ゆりの花手に避難所を出づ≫(平成29年)
 いずれも今上天皇の実直な人柄と、民とともに歩かんとする、天皇としての心の深みがおのずから出たお歌である。
 古来、いついかなる時も天皇は歌を詠み、平和への祈りを捧げながら、死者の魂の鎮めをひたすらに心がけてきた。そうした積み重ねが、長い間に鍛えられて凝縮された和歌の言葉とともに染み通り、日本人の心を穏やかにしていく。
 先の戦争中、外国から日本人は好戦的と言われたが、日本人ほど『和する心』を持つ民族は少ないのではないか。日本人には、他者と響き合い、心を交わし合うという、言葉の最も大事な力を結晶させた和歌が根づいている。
 私たちは、古事記の時代から伝わる伝統的な言葉のありようを、次代に受け継いでいく必要がある。平成が終わり次の時代になっても、天皇がよき歌人であられることを切に願う」
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