⚔52)─4─江戸時代の平和と繁栄は中国・朝鮮と国交を開かなかったから。徳川家光の死。1645年~No.226No.227No.228No.229 @ 

本当は恐ろしい江戸時代 (SB新書)

本当は恐ろしい江戸時代 (SB新書)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国は、日本とは違って地獄であった。
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 江戸時代の平和と繁栄は、中国・朝鮮と民間交易をしても国交を開かなかったからである。
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 国體として、万世一系男系天皇(直系長子相続)制度は続く。
 天皇中心の国體を崩壊させようとする日本民族日本人は誰もいなかったし、寧ろ、祭祀王・天皇は命を犠牲にしても守り抜こうという民族的気概は受け継がれた。
 日本民族は、天孫降臨の日本神話を心の拠り所としていた。
 神の裔・天皇の神性とは、民族の絆の依り代であった。
 日本民族天皇は一心同体であり、天皇を切り離した所に日本民族は存在しない。
 日本国籍を否定する地球市民日本人は、天皇を否定する。
 地球市民日本人と日本国籍日本人は、別人の日本人として、絆もつながりもなく、縁もゆかりもない。
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 中華(中国・朝鮮)の正統儒教は、人が生きるにあたって主君への「忠」より親への「孝」が大事であるから、子は親への孝と祖先への祭祀の為に霊廟を大切にする事を強調している。
 日本儒教は異端として、親への孝よりも主君への忠を優先するべきだと説いている。 
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 第110代後光明天皇
 南明は、日本軍と戦ってその戦闘能力の高く評価していたので、日本に援軍要請の使者を送った。
 何とか援軍を得る為に、面子も見栄もかなぐり捨て、恥も外聞もなく卑屈な書簡を送り続けた。
 徳川幕府は、平虜候・鄭芝龍の書簡に「日本国王」ではなく「正京皇帝」と書かれている事に面食らった。
 総兵官・崔芝『華夷変態』「お互いに密接な関係を作り、主君の仇を討ちたく思います。……我が軍には丈夫な兜がなく、戦う度に兵力を損耗します。日本の兜は世界中が羨む物であり、弓矢を防ぐこと金や石の様です。伏してお願い申し上げます。……できれば交易をして、兜200個ほど我が軍の精鋭に配り、堂々と敵軍を撃ち破りたいと考えています。もし勝利する事ができれば、皆日本の大きな恩得に感謝するでしょう」
 南明国皇帝は狼狽して、中華思想による大国意識をかなぐり捨て、中国史では可が考えられないような内容の書簡を日本に送っていた。
 徳川幕府は、援軍を派遣するかどうかを協議したが、結論が出るまでの急場凌ぎとして僅かな兵と軍需物資を送った。
 板倉重宗は、密命を受けて、動員兵力と兵糧等の軍需物資の見積もりを計算した。
 紀州徳川家など一部では、大陸出兵を切望した。
 徳川幕府は、国政よりも内戦を優先すべきとして消極的であり、腐敗堕落で自滅しかけている明国を無理して救済しても結果は同じであるとの認識で一致していた。
 南京が陥落して南明は滅んだ。
 幕府は、援軍を送る件は沙汰止みとなった。
 多くの明国人が日本に亡命し、幕府は亡命者に敬意を払って相応しい対応をした。
 その中に、インゲン豆を伝えた隠元禅師もいた。
 清国軍は、明国軍とともに戦った日本人部隊「鉄人」「倭銃隊」の戦闘能力の高さに脅威を感じ、日本に対して慎重な対応をした。
 『落栗物語』「先手の兵は体には鉄で作られた鎧に豹の紋を描いたのを着用し、顔には恐ろしい面をかぶり、斬馬刀という長い刀を持って敵の馬の足を切断して戦った。これを鉄人と呼んで清兵軍は大いに恐れた」
 清国は、日本の軍事力を警戒したが尚武の気魄を高く評価したが、朝鮮に低い待遇を与え軽蔑して小間使いのように扱き使った。
 朝鮮は、面子を保つ為に、公文書では徳川将軍を朝鮮国王より格下の日本大君と記しが、影では野蛮人の族長として「倭酋」と蔑称で呼び捨てにした。
 後年。新井白石は、朝鮮国王と徳川将軍は対等であるとして「日本国王」の称号を使うように改めた。
 江戸時代のサムライは、外国語を話せなかったが、外交交渉能力は優れていた。
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 対して、朝鮮には、秀吉の侵略から救った恩を仇で返した裏切り者として憎み呪った。
 明王朝からすれば、朝鮮は憎き忘恩の徒であった。
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 台湾の国性爺・鄭成功は、長崎平戸生まれの縁故を頼って、日本に軍事支援を要請した。
 だが、日本側は鄭成功が海賊上がりである事に訝って支援を拒否した。
 徳川家光は、水戸藩徳川光圀らの要請に従って、清国討伐の派兵決断した。
 幕閣は、秀吉の唐入りの失敗を前例として、大陸と直接的な関係を持つ事は日本の破滅につながるとして猛反対した。
 強権を持つ独裁者でない将軍は、家臣らの猛反対で大陸侵攻を断念し、明朝復興の為の如何なる支援も断った。
 日本は、中国や朝鮮などの内政に関与しない事を国是として、大陸進攻を断念した。
 日本は、新たな支配者である清国に対して、明朝遺王勢力を利用して大陸に侵略する意志の無い事を示した。
 清国は、モンゴル帝国の正統なる後継者をもって正統化している為に、元寇の失敗を教訓としてサムライ・日本を刺激する気はなかった。
 朝鮮は、大明国の伝統文化を正しく継承しているという自負を持ち、臣下として清国に忠誠を誓いながら、内心では徳のない野蛮人と軽蔑していた。面従腹背は、古代からの朝鮮人の性格である。
 その頃、琉球国王は、国王に即位した事に対する謝恩使を江戸に派遣していた。
 揚子江流域では、打ち続く戦乱に絶望した貧民や被災民の間で、死後の救済を求めてキリスト教に改宗する者が急増していた。
 儒教学者など知識人は、今を生きる現世での救済を放棄して、死後の救済を保証するキリスト教をまやかしの邪教と攻撃した。
 だが、貧民や下級役人は、自己保身で現状を改善しようとしない儒教学者をウソつきの偽善者と憎み、綺麗事しか言わない儒教学者の言葉を信用しなかった。
 儒教価値観の朝鮮は、中華帝国の正統な王朝は漢族の明国と見なし、満州族の清国を教養なき蛮族が建国した王朝と軽蔑した。そして、明国滅亡した以上、中華文明の正統な後継者は朝鮮であると自負した。
 中国が華夷秩序による中華主義を唱えていたと同様に、朝鮮の自国を中心にした小中華主義を採用していた。それは、宗主国と属国という朝貢冊封体制である。
 日本は、中国や朝鮮とは別個の独自と路線して、中国皇帝と対等関係にある神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を中心とした八紘一宇思想を採用していた。
 ゆえに、両者は「皇」や「勅」といった朝鮮王家では使わない神聖文字を使用した。
 中国のおいて日本刀の評価は高く、優れた名刀は宝刀ととして珍重され、名だたる文人の間では日本刀は詩作の題材になっていたという。
 日本刀の評価が上がったのは、元のフビライの頃からといわれ、技術と美術で不動の地位を得たのは秀吉の朝鮮出兵といわれている。
 中国の武官や武芸者は、孫子の「敵を知らずば百戦危うからず」を教訓として、日本に勝つ為に日本刀や日本武術を積極的に研究し、朝鮮に日本の探索を命じた。
 戚継光「日本刀は倭寇が中国を侵略してから初めて見た。彼等はこれを持って、稲妻のように身を躍らして前進すれば、我が兵卒はその勢いに恐れおののくだけである。日本兵の動作は機敏であり、その刀は長い。我が軍の剣では短く接近できず、槍などの長い武器では機敏ではない為、柄ごと一刀両断されてしまう」
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 清朝は、モンゴルの正統な後継者として帝国を築いていた。
 偉大なる皇帝フビライの二度による侵攻を撃退した日本に対して、武力で国を守ったその勇気に尊敬の念を抱き、武力を恐れない日本に敬意を払い、日本との戦争を避けた。
 そして、日本刀と鎧甲冑という日本の武力に脅威を感じ、日本を独立国と認めた。その待遇は、属国化した朝鮮とは雲泥の差があった。
 清国は、自分が生き残る為ならばかっての主君を平気で裏切った朝鮮人を軽蔑し、自分の命しか大事にしない朝鮮人を蔑んだ。
 清国は、武器を捨て、強者におべっかを使いごまをすり媚び諂う朝鮮王朝を品性の乏しい卑しい国とし、搾取できるモノは当然の権利として奪った。
 清国の、戦いを恐れない「武」の日本と平和を好む「文」の朝鮮の対応は、全く違ったものであった。
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 1645年〜1715年 太陽の黒点が減少して太陽活動が低下するや、地球はマウンダー極小期という小氷期に突入した。
 ロンドンのテムズ川は、半年近く氷結した。
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 1645年 ローマ教皇インノケンティウス10世は、反イエズス会派のフランシスコ会ドミニコ会らの告発を受けて、「儒教の祖先崇拝が迷信なら、否定する」と伝えた。
 明国残党の諸王国は、異民族の侵略と中国人同士の内戦で滅亡した。
 中国の総人口は、1393年の明時代で6,100万人であったが、1661年の清時代では2,460万人に激減していた。
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 宮本武蔵没。「われ、事において後悔せず」
 「構えあって構えなし」
 「あれになろう。これになろうと焦るよりは、自らを富士山の様に動じないものにつくりあげよ。世間には媚びず、世間から仰がれる様になれば、己の値打ちは自ずと周囲が決めてくれる」
 「神を尊ぶが、神に頼らず」
 「乾坤をそのまま庭と見るときは 我は天地の外にこそ住め」
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 1646年 琉球は、清国の属国であるとして、屈辱的礼式とされる三跪九叩頭の礼を採用した。
 琉球羽地朝秀は、大陸の久米村人に琉球が占領されるとの危機感から琉球人は和人(日本人)とは同祖であると主張した。
 琉球語は、中国語ではなく日本古語ににていた。
 四川大虐殺。
 張献忠軍は、肥沃な穀倉地帯である四川省に攻め入り、重慶を占領して、官吏全員と古俗を生きたまま焼き殺し、降伏した3万7,000人以上の兵士と民衆を惨殺した。
 張献忠は、成都に入城して、大西王朝を樹立した。
 四川守備隊の士官と家族が集められ、15歳以上の者が虐殺された。
 大西王国は、虐殺する事に快感を覚え、徳のある僧侶数万人と教養ある賢人1万7,000人を虐殺した。
 反宗教無神論の張献忠は、四川仏教界を根絶やしにする為に僧侶や尼僧を皆殺し、全ての仏教寺院を破壊した。
 儒教は、仏教を徹底的に弾圧した。
 抵抗する者は、「草殺」と称して容赦なく惨殺し、それが女子供でも容赦しなかった。 
 四川の総人口は、1578年時点で約310万2,000人いたが、1685年には約1万8,000人に激減した。
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 枢機卿は、中国の典礼問題で信仰が危機に瀕しているとして、宗教聖省教令を出した。
 教会には必ずキリスト像を掲げ、十字架の秘跡を教え、隣人愛の福音のみを広める事を命じた。
 天帝や孔子、釈迦や仏像を、十字架やキリスト像と同様に拝む事を禁じた。
 儒教や仏教の教えを、唯一の隣人愛の福音と同じであるとする事も禁止した。
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 中国人は、仲間を家族の様に大事にするが、仲間でない者は虫けらの様に惨殺した。
 自分の面子が潰されると判断するや激怒して復讐し、面子を取り戻す為に相手を皆殺しにした。
 女も子供も容赦しなかった。
 人としての、良心や情は存在しない。
 味方は助けて恩恵を与え、敵は容赦なく根絶やしにした。
 味方でも敵でもない者は、人の形をした家畜であった。
 日本人と中国人は正反対で、日本人は性善説を信じて生き、中国人は性悪説で生きていた。
 日本人と中国人は、似ているところがなく、わかり合える事もなく、幾ら話し合っても平行線をたどるだけであった。
 ゆえに。徳川幕府は、中国とは正式な国交を開かなかった。
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 1647年 張献忠は、四川で300万人近くの人間を大虐殺し、奪う物がなくなり、食べれなくなや、新たな土地に向けて移動しようとした。
 部下の中には、食べ物がなくなった為に、空腹に堪えかねて中国人を食べたとも言われている。
 女や子供が狙われた。
 中国人とは、漢族の事である。
 清国軍は、殺人鬼・張献忠の残虐行為が知れ渡った時、民衆を助ける天軍として四川に攻め込み、張献忠軍を皆殺しにし、張献忠を捕らえて首を刎ねた。
 清国は少数民族として、中国人に反乱の意思を削ぐ為に、各地で虐殺と掠奪を行って恐怖を植え付けた。
 儒教中華思想に基ずく、『史記』や『明書』の様な正統な歴史書としての完全なる『清書』は存在しない。
 中国は、地獄である。
 中国とは、恐ろしい世界である。
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 ポルトガルマカオは、東アジア最大の大砲生産地として、植民地拡大を続けるオランダやイギリスにも大砲を売っていた。
 ポルトガルは、マカオの軍需生産を維持する為に、日本から大量の銅を購入するべく使節を長崎に派遣した。
 日本とオランダ間で行われていた銅交易は、マカオの武器製造の為であった。
 1648年 清の順治帝は、揚子江流域で旧明朝の復活する勢力が多い事に手を焼いていた。政治判断として、貧民や下級役人の間で教勢を拡大しているキリスト教会を味方に付けるべく宣教師を重用した。
 儒教学者は、天帝が支配する中華を世界の中心とすべく、絶対神が支配する西洋を地球の中心とみなすキリスト教徒を攻撃し、皇帝に邪教排斥を訴えた。
 イエズス会宣教師は、柔軟に対応し、キリスト教の教義を押し付ける事なく、まず清国の利益になる様に行動して皇帝の信用を勝ち取る事に腐心した。
 だが、清朝儒教倫理を帝国維持の基本とした以上は、キリスト教弾圧は避けられない運命にあった。
 仏教徒は、弥勒仏がこの世に下生して釈尊の救済に洩れた衆生を済度すという信仰を持ち、中華皇帝に頼らず、儒教を信ぜず、そしてキリスト教の救済を否定した。
 歴代王朝は、弥勒信仰者が反乱を繰り返した為に、仏教を危険宗教として弾圧していた。
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 1645年〜1715年 太陽の活動が減少するマウンダー極小期に入り、地球の平均気温が低下して寒冷化し、各地で凶作に見舞われた。
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 1648〜49年 コッサクは、ポーランドユダヤ人を虐殺した。キリスト教徒による、ユダヤ教徒などの異教徒や異端者への虐殺が繰り返されていた。
 キリスト教世界では、絶対神の隣人愛の恩寵と恵みが得られるのは、キリスト教徒のみであって、異教徒や異端者は地獄に落とされ救いのない責め苦が待っているとされた。
 魂の救済を受ける為に、異教の神を信じた事を悔い改め、絶対神への信仰を誓い、絶対神の定めた戒律による正しい道を歩むように布教した。
 日本の民族中心宗教を守って来た日本民族日本人には、キリスト教が説く愛の信仰が理解できなかった。
 ゆえに、キリスト教会は、日本に神の大国を築く為に、天皇神話という宗教的土壌を完全破壊しようとした。
 つまり、祖先を神とする信仰を邪悪な悪魔教として地上から完全消滅しようとした。
 1648(18〜)年 宗教戦争であったドイツの30年戦争が終結したが、内戦で600万人以上が犠牲となった。
 陰惨な宗教戦争は、1789年のフランス革命まで続き、夥しい量の血が「絶対神の御名」によって流された。
 ヨーロッパ全土で行われていた異端者審問や魔女狩りなどの宗教裁判は、16世紀半ばから18世紀まで行われていた。キリスト教価値観を疑う啓蒙思想が普及する事によって、キリスト教によるおぞましい狂気は沈静化した。
 中国の雑然とした中に安定を見出す価値観がヨーロッパに流入するや、一つの価値観しか認めない不寛容なキリスト教価値観が大きく揺らぎ始めた。
 キリスト教価値観を疑う啓蒙思想や自由思想が普及する事によって、ローマ・カトリック教会プロテスタント教会によるおぞましい狂気は沈静化に向かった。
 神聖な教皇の権威が後退するや、俗世な王侯の権力が増大した。
 王権に逆らい、領主に反旗を翻した農民は、反逆者として処刑された。それが、女子供でも容赦せず虐殺した。
 キリスト教会は、「王権神授説」で、税を払う義務を放棄して反乱を起こした農民の弾圧を「正義」とし、武器を持つ農民を殺す事は「絶対神の御意志」であるとして正当化した。
 王侯貴族は、農民を人とは認めず、虫ケラ以下と見なし、恣意的に殺しても罪には問われなかった。
 高貴な人が乗る馬車が、通行していた身分卑しい庶民を跳ね殺しても罪には問われなかった。
 絶対神は、由緒ある血を引く名門・名家出身者のみを人と認め、誰にも妨げられる事のない完全な自由と、富を無制限に集めてゴージャスな生活を満喫する特権を与えた。
 「人は、絶対神の前では平等である」と説く者は、悪意に満ちたペテン師か、最低のクズ人間であった。
 キリスト教世界であるヨーロッパに比べて非キリスト教世界の日本は、戦乱が少なく、殺戮も少なく、略奪も少なかった。
 さらに、人を動物の様に扱い、人を家畜の様に重労働を科す奴隷の思想はない。
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 1648年 ウェストファリア条約。「他国の内政に干渉しない。他国の宗教・イデオロギー・国内体制の違いを口実として、軍事力を行使してはならない」
 ヨーロッパにおける主権国家の誕生。
 主権国家の重要な条件とは、外交権と貿易権を手にする正統政府を持っている事とされた。
 宗教による戦争の悲惨さに辟易した民衆は、不寛容なキリスト教会による神聖な宗教権威による支配より、欲得の国王による俗世な政治権力の支配を受け入れた。
 軍事力は、宗教権威社会ではキリスト教布教の為に使用されたが、政治権力社会では政治の手段として使用された。
 上流階級の一員であり続けたいという思いの強いキリスト教会は、領民からの租税の徴収を領主に依存していた関係から、政治的に行われる偽善的戦争を祝福した。
 戦争は、領民・国民の生命財産を賭けた王侯貴族の贅沢なゲームと化した。
 王侯貴族の子弟にとっては、怪我はしても死ぬ事の少ない、興奮を駆り立てるスポーツであった。
 王侯貴族や裕福な家庭の者は、戦争に敗れても戦死せず捕虜になった。
 捕虜となった者は、身代金を払って自由の身となった。
 ヨーロッパで、捕虜となる事は不名誉ではなく勇気ある行為とされ、戦死する事は必ずしも名誉として褒められた事ではなかった。
 戦争観や俘虜観は、「生」を大事にするヨーロッパと「死」を恐れない日本では、真逆で異なる。
 敵軍も、大金の身代金が得られる裕福な捕虜を大事に扱った。
 裏返せば、自分が俘虜となった時には、英雄として大事に扱ってもらう為であった。
 捕虜として大事にされたのは、裕福な者に対しての事であって、金のない貧しい庶民の事ではなかった。
 貧しい者が捕虜となれば、人間以下として扱われ、奴隷の如く重労働を強要された。
 金のない無力な者は、家畜の様に虐殺された。
 戦争で犠牲となるのは、何時の時代でも貧しい下層階級であった。
 何処の国でも、王侯貴族や名門・名家の子弟は将校となり、戦死に無縁な戦場で優雅な兵営生活を送っていた。
 貧しい庶民は下士官以下の兵士として、資産があって上流社会でのコネのない者は将校として、不衛生で粗末な兵舎に押し込められ、味も素っ気もない食べ物を食わされ、戦死の危険の高い戦場に立たされた。
 上流社会の一員である将校は、将校待遇を受け、特権を持って優遇され、優先的に解放されて帰国した。
 大陸における戦時捕虜の待遇が良いのには、こうした分けがあった。それは、人道上の理由ではなかったのである。
 生き残れる将校とは、軍人として、戦略戦術の才能が優れていたからではなかった。
 各国の軍隊は、下士官らの不満が軍上層部に向けられるのを避ける為に、占領地で敵国人に対する略奪や暴行や強姦そして殺害さえも許可していた。
 当時の軍規は、自国民に対世の行為は厳しかったが、敵国人に対しては何をしても自由が許されていた。
 それが、女子供でも容赦しなかった。
 それは、大陸世界の戦場で日常的に繰り返されていた事である。
 それが、綺麗事が通じない大陸の現実である。
 中国や朝鮮などの東アジアでも、日常において起きていて珍しい事ではなかった。
 好例は、1900年の義和団事件
 ヨーロッパの戦争は、王侯貴族による、贅沢なゲームであり、優雅なスポーツであった。
 キリスト教会は、全ての戦場の全てのキリスト教陣営に従軍神父を派遣していた。絶対神の福音を説き、全ての事は絶対神に御心から起きている事で有り、全てに意味があると。
 そして、絶対神の御名によって敵を殺せと。
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 ウェストファリア条約。宗教問題から起きた30年戦争の反省から、戦争の原因から宗教問題を切り離し、如何なる敵国であっても相手の宗教を非難し、如何に憎む相手であってもその信仰を批判しない事とした。
 戦争と宗教を切り離すという、一種の政教分離である。
 これは、絶対に冒してはならない普遍の真理とされた。
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 1649年1月30日 クロムウェルは、王に妥協的な長老派を追放して、スコットランド系国王チャールズ1世を処刑した。
 「諸君、神は国王が生きるのを喜び賜わぬのだ」
 同じプロテスタントでありながら、イギリス国教会カルヴァン派ピューリタンとの陰惨な宗教闘争だった。
 宗教が政治と関わりを持つ事は、おぞましい限りであった。
 2月26日 徳川家光が百姓の日常生活を事細かに規制した「慶安御触書」は、実は、1697年に甲斐甲府藩が発布した藩法「百姓身持之覚書」と判明した。
 誤解を招いた原因は、1830年に美濃国岩村藩が幕府の御触書と木版印刷したからである。
 天保年間は大飢饉による百姓一揆が頻発し、諸藩が怒れる百姓を鎮める為に幕府の権威を利用して御触書を広めた。
 幕府も諸藩も、百姓を力で支配し、年貢などで搾取して、富を蓄え贅沢しないように日常生活の細々した事まで規制はしていなかった。
 若し厳しく統制していたら、百姓・町人の笑顔が絶えない屈託のない「粋な庶民文化」は生まれなかった。
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 1651年 徳川家光、死亡。
 ホッブズは、『リヴァイアサン』を出版した。
 西洋は、まだ戦乱の坩堝で暴力と掠奪と虐殺が行われていたが、近代国家に向かって歩み始めていた。
 日本は、外国からの侵略を心配する事がなくなり、外国と余分な交易・交流をしなくても自足して困らない為に、近代国家への進歩が途絶えた。
 日本は、西洋程に宗教の力は強くなかった。
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 日本は、アジア地域にあって、巨大軍事植民地大国・中華帝国の隣国に位置していた。
 サムライ日本人は、漢籍を読み中華帝国の歴史を熟知しるが故に深入りせず、利益・金儲けだの目的で安易に国交を開かず、あえて仲良くしようというつもりもなく、むしろ仮想敵国として侵略される事を警戒心していた。
 サムライ日本は、ミツバチ同様に、祖先から受け継いだ列島の土地を奪われ存続をあやうくされない限り、大陸に介入する気も侵略する意思もなかった。
 その排他性で、近くにある中華文明圏から距離を置き孤立していたが、遠くにある世界の文明・文化・技術への興味が尽きず絶えずオランダを通じて最新情報を仕入れていた。
 日本は、非人間的な中国には関心もなく、中国人に近づきたいとも思わなかった。
 つまり、感心な薄かったのである。


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百姓たちの江戸時代 (ちくまプリマー新書)

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