🏞59)─1─元禄文化。生類憐れみの令とは日本人改造であった。清国兵の台湾大虐殺。セイラム魔女事件。1680年~No.248No.249No.250 @ 

学校では習わない江戸時代 (新潮文庫)

学校では習わない江戸時代 (新潮文庫)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 身分低き百姓・町人は、この世は生きるに値するとして歌い笑い躍って愉快に明るく朗らかに生活していた。
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 江戸は御稲荷さんが多く、京都はお地蔵さんが多かった。
 江戸に多いモノは、伊勢屋(伊勢の商人)、稲荷神社、犬の糞。
 江戸の町人達は、町内ごとに防犯の為と食用の為に犬を大量に放し飼いにしていた。
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 1680年 第五代将軍徳川綱吉(〜1709年)は、命軽視の殺伐とした戦国の気風を残す日本人を改心させるべく、日本を儒教国家に大改造しようとした。
 官学である朱子学が、武士から庶民にまで広められた。
 命至上主義として、武士・サムライも「切り捨て御免」を犯罪とし、間引きや子捨てを罪悪であると教えた。
 徳川の平和は、この時から始まった。
 徳川綱吉は、名君であった。
 だが、武士はおろか庶民まで徳川綱吉を嫌った。
 その傾向は、現代日本にも受け継がれている。
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 勘定奉行荻原重秀は、貨幣の改鋳を行って流通量を増やした。
 稼げば稼ぐほどに、金が懐に入るのだから貯蓄するより消費した方が良いという風潮を作り出した。
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 地獄のような西洋世界。
 スペイン異端審問所は、マドリッドで、スペイン国王カルロス2世と王妃マリー・ルイーズの結婚祝典と同時に異端判決宣告式(アウト・デ・フェ)を開催した。
 異端審問官は、祝典会場で隠れユダヤ教徒を公開で火炙りにして殺害した。
 バチカンは、スペインにおける異端審問の行き過ぎを避難した。
 カトリック教会とプロテスタント各派による異端審問と魔女狩りの恐怖が、ヨーロッパ世界とキリスト教植民地で際限もなく行われていた。
 キリスト教世界は、死と恐怖で支配されていた。
 ヨーロッパは、依然として、悲惨な中世が続いていた。
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 1682年 井原西鶴 『好色一代男
 3月2日 八百屋の娘、お七(15)は、放火の罪として鈴ヶ森で火炙りの刑で処刑された。
 井原西鶴(本名、平山藤五、異名、オランダ西鶴)は、3年後に『好色五人女』の一人として取り上げた。
 お七と吉三の悲恋物語は日本人に受け、浄瑠璃や歌舞伎の人気演目となり、東京・文京区白山の円乗寺にある「八百屋於七地蔵尊」には今も参拝者が絶えない。
 1686年 井原西鶴 『好色一代女』 
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 1683年 徳川綱吉は、新たに武家諸法度を発布し、武士道を弓馬の道から忠孝と礼儀へと転換した。
 天皇への締め付けを緩和して、大嘗祭など途絶えていた幾つかの皇室祭祀を復活させた。
 儒教偏重を避ける為に、神道、仏教、陰陽道を支持して、各地の由緒ある寺社仏閣の修復し、新たに多くの寺社を造営した。
 徳川光圀は、地球儀を幕府に献じた。
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 1683年 第112代霊元天皇。台湾の鄭氏ら明の遺臣等は、日本の軍事援助を得られず、清国軍の攻撃で滅亡した。
 清国兵士は、抵抗する者は女子供に関係なく皆殺しにした。
 清国は、周辺諸国への侵略を続けた。第六代乾隆帝(1735〜95年)による中央アジアイスラム教国ジュンガル帝国占領で、侵略戦争は一様終了した。
 中国人は、「徳」を持って指導する為に、イスラム教徒を弾圧して、儒教価値観「道徳」を強制した。
 中国化を拒否した数百万人のイスラム教徒が、猟奇的に虐殺された。
 中国人は、占領地を中国化する事を「神聖な使命」と確信している。
 イスラム教徒は、中国の「徳」支配に対して絶えず反乱を起こし、報復として中国人を惨殺していた。
 康煕帝は、鄭氏一族の内紛で台湾が混乱したのを好機として遠征軍を送り、内通者の手引きで台湾を征服した。台湾は、その後中国の領土となった。
 徳川幕府が台湾救援に出兵するのではないかと警戒し、長崎で交易する中国人商人の中に密偵を送って日本を監視した。
 中国人密偵は、密かに日本に上陸し、日本人女性と結婚して家庭を持ち、日本の情報を本国に知らせていた。
 康煕帝は、日本は侵略目標の一つであったが、元寇の折に蒙古・高麗連合軍を撃退した日本の軍事力を恐れていた。
 軍事力しか信用しない中国に於いて、恐れるのは相手の軍事力のみで、軍事力を伴わない平和的発言の全ては「真っ赤な嘘」である。
 江戸幕府も、清国商人の中に多数のスパイが忍び込んでいるいただけに、許可無く日本人と中国人が接触しないように厳しく監視していた。
 中国の領土拡大における伝統的戦略とは、侵略する相手国内に内通者・裏切り者を増やし、侵攻した中国軍を手引きさせる事であった。
 サムライは、楽観的な漢学者や儒学者とは違って、南蛮人以上に中国人の腹黒さを感じていた為に、江戸へ呼び出したオランダ人とは違って長崎の唐人屋敷から一歩も外には出さなかった。
 日本は、朝鮮同様に中国とも人間同士の友好などは期待せず、漢方薬や陶器など極一部の商品取引としての交易のみを許していた。
 薩摩藩は、琉球を通じて清国との密貿易を行って大金を稼いでいた。 
 徳川幕府が警戒したのは、キリスト教宣教師の密入国と布教であって、日本人に成り済ました中国人や朝鮮人密偵ではなかった。
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 中国の古典的領土拡大戦略は、滅ぼすべき敵国内に利益や金儲けで内通者(親中国派)を作り、内通者を利用して国内を攪乱して分裂させ、対立を煽って暴動、反乱、内乱、内戦を起こさせて弱体化したところを攻め込むというものであった。
 琉球王国は、清国の侵略を防ぐだけの軍事力がない為に、清国に朝貢使を送って臣下として従属する事を誓った。
 日本は、祭祀王・天皇を中心と独立国を守る為に、清国の属国になる事を拒絶した。
 清国は、臣下の礼を拒否する日本を懲らしめるべく、工作員を清国商人に潜り込ませて日本に送り込んだ。
 江戸幕府は、漢籍を調べて中国の謀略を研究し、中国人を疑い、日本に上陸している清国人の半数がそうした工作員と見なして警戒した。
 当時の日本には、日本を征服しようとする対外勢力に対して天皇と日本を守る為に一枚岩となり、利益や金儲けに目が眩んで日本を売ると言った裏切り者は生まれなかった。
 遊牧民である清国は、フビライの失敗を教訓として、日本侵略を留保し、日本との正式な国交を禁じ中華世界から追放した。
 中国との国交が閉ざし、中国人の上陸を拒絶し事は、日本の幸運であった。
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 満州族は、漢族の王朝を滅ぼして中国を支配するや、漢族の身分を異民族の家庭奴隷(家奴)に落とした。
 中国人=漢族は、朝鮮人同様に、モンゴル族満州族などの異民族の奴隷であった。
 中華帝国の版図は、遊牧民族の異民族王朝時代に広がり、農耕民族の漢族王朝時代は狭くなった。
 中国人は、大陸の民として海を恐れ、海の外に宝があっても自分で取りに行こうという気持ちは微塵もなかった。
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 1687年 生類憐れみの令。野犬を減らす為に、中野の広大な犬小屋を建設した。
 旗本御家人は、太平の世となり、戦国の世の様に刀で立身出世がかなわなくなった鬱憤を晴らすが如く、百姓町民に対して横暴を働き、野犬などを殺して殺していた。
 綱吉は、殺伐としたサムライへの戒めとして生類憐れみの令を発したが、思わぬ弊害を起こして天下の悪法となった。
 いずれにせよサムライは刀を抜く時代ではなくなり、新たに、身分や地位に関係なく武士としてどう生きるかの平等の価値観が必要となった。
 仕官して家を再興できなくとも、「武士らしく生き、武士らしく死ぬ」という気概・志としての「武士道」が、この時から生まれた。
 武士道とは、平和な時代に、身分や地位に関係なく、平等思想として形成された。
 武士道に於いて、上は将軍や大名から下は百姓の百姓仕事や非人の様に人足仕事をする乞食浪人でも、恥を知り、甘えず、卑怯卑劣を嫌い、媚び諂いをせず、卑屈にならず、ひがまず、自分と他人の間合いを計り、自分を捨てても他人の為に義をたて、やって好い事とやってはいけない事を見極め、潔く、爽やか、健やか、純粋な志を持っていれば同じサムライであると認めた。
 武士道は、ヤクザの用心棒や他人から恵んで貰う様な悲惨な生活を送って死に果てようとも、「命」に「志」があれば立派な人性であったという価値観を持たせた。
 恥とは、現実の貧困にあるのではなく、心の貧しさにあるとされた。
 ゆえに、サムライは百姓町人よりも貧しい生活を送っていた。
 「武士は食わねど高楊枝」「ボロを着てても、心は錦」である。
 恥は、法律を犯す・破るといった「罪」以前に、「人として守らねばならない、掟、ルール、決まり事」という生き様を重視した。
 マックス・シューラー「人間は生物学的目標よりも高次元の目標を負っている為に、恥の意識を持つのである」「神と動物は羞恥しない。しかし人間は羞恥する」
 羞恥心を強く持って自分を律する人間だけが、心身共に高貴な身となれる。
 内沼幸男「羞恥とは、我執や没我のあいだを漂う間(ま)の意識である」
 ゆえに。武士道は日本だけのもので、儒教価値観で硬直化した朝鮮や中国には存在しない。
 ジグムント・フロイト「(恥とは) 理想的自己(超自我)と現実的自己(現実自我)との落差の葛藤から生ずるものである」 
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 諸大名は、太平の世になってもなおも戦国時代の蛮勇を引きずり、各領内で人間の所業と思えないような身の毛もよだつ残酷な拷問や陰惨な刑罰を行っていた。
 徳川綱吉は、徳川の御代を明らかにする為に、全国に蔓延している戦国時代の余韻を払拭するべく「生類憐れみの令」で戒めた。
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 綱吉以前の日本では、戦国時代の気分を引き摺っていて、サムライは「切り捨て御免」として百姓や町人の命を軽んじていた。
 サムライの本質は、敵を殺巣す事で出世し加増を受け家名を上げていた。
 サムライは、人を殺す事で名誉を受けていた。
 合戦がなくなり、出世や加増の望みが絶たれた為に、その鬱憤を晴らすべく乱暴狼藉を働き、問答無用の切り捨てや辻斬りを行っていた。
 世の中は、命軽視の無法なサムライがいて殺伐としていた。
 綱吉は、合戦なき太平の世を知らしめ、命尊重の世を社会通念として徹底させるために「生類憐れみの令」を発布した。
 その結果、サムライは特権意識から刀を抜いて百姓町人を斬り付ける事がなくなり、人を斬った事のない「なまくら武士」となりはてた。
 綱吉は、天下太平の世を築く為にサムライから「戦う本能」を奪った。
 理由なき「切り捨て御免」は、武士の名誉ではなく処罰の対象とした。
 同時に。治安を維持する為に、山賊や海賊など盗賊は厳しく取り締まった。
 日本は、世界でも珍しい治安の良い国となった。
 「安全と水はタダ」、という日本はこの時から始まった。
 そして、他人を疑わず信じ切るという世界の非常識が日本人の心を曇らせ、国際化を遅らせる原因となった。
 元禄文化は、日本に閉塞感をもたらし、日本人をひ弱にして弱肉強食の世界常識を奪い、自分本位で強欲な国際人への道を閉ざした。
 「生類憐れみの令」は、日本人に世界の非常識としての意識改革をもたらした。
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 生類憐れみの令は、犬を大事にすると共に、武士の特権と見なされていた「斬りして御免」を禁止した。
 社会的弱者や貧困者の保護として。
 捨て子の禁止として、親が貧しく子供を養育できない時は、町役人が親に代わって面倒を見る事を義務化した。
 子殺し防止として、町役人に妊婦と7歳以下の子供の名前を登録する事を命じた。
 町役人に、旅人で怪我をしたり病気になった場合は回復するまで面倒をみ、乞食や難民への食事や宿泊の手配をする事を義務付けた。
 その経費は、原則、町衆が負担するとされた。
 西洋においては、貧困者の救済はキリスト教会が「隣人愛の信仰」で有力者や資産家から多額の寄附金を集めておこなった。
 日本においては、御上の命令により、町衆がお互いに金を出し合って相互扶助・隣保互助で行った。
 日本の身近なインフラ整備は、御上ではなく、町衆が御上の支度金を充てにせず自主的に金を出し合って自分達で行った。
 町衆にとって、御上である大名や武士などが幾ら威張っていても、いつ何時、突然の幕府の命令で領地替えとなって居なくなるかわからない根無し草と同じであった。
 大名や武士は、領内の街道を諸大名が参勤交代で無事に通過させる為に、町衆の要求を受け入れていた。
 何故なら、町衆の機嫌を損ねて街道が混乱しては、参勤交代の大名に不評を買い、幕府に咎められて改易される恐れがあるからであった。 
 それは。百姓にも言える事で、一揆を起こして米や野菜の出荷を拒否したら領内の食べ物はもちろん、宿場に逗留する大名に迷惑をかけて評判を落とす恐れがあった。
 それが、武士による御政道である。
 日本の政治は、中国や朝鮮とは異なる政治である。
 日本の儒教は地ベタを生きる「小人」である庶民・町民・百姓の為に存在したが、中国や朝鮮の儒教は天上で豪華絢爛に生活する「聖人君主」である権力者の為に存在していた。
 日本の儒教と中国・朝鮮の儒教は、正反対の儒教である。
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 徳川綱吉は、「妊婦と3歳以下は庄屋、町役人が管理・保護する」沙汰をした。
 幕府は、捨て子や孤児を見つけたら町で保護し働けるまで養うように命じ、養う者には養育費として奨励金を与えた。
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 戦国時代からの武を持って立つというプライドを持つサムライは、刀の切れ味を試す為に丸腰の庶民を分けもなく斬るわけにもいかず、すばしっこく逃げ回る犬を追いかけて斬り殺し、蛮勇を誇示するように犬を料理してその肉を食べていた。
 徳川綱吉は、武士のあり方生き方を改める為に、仏教教義に従って「生類憐れみの令」を出し、犬も人も命を尊重するように厳罰を持って示した。
 サムライに、平和な時代の生き方として、人を殺して手柄を立てて出世するのではなく学を積む事によって評価される事を知らせ、野犬のような武を尊ぶという牙を抜き、飼い主の言い付けを守る従順な飼い犬となる事を命じた。
 戦国武将気取りで犬などの動物を斬りその肉を食う旗本や浪人達を取り締まる為に、世は太平の御代である事を周知徹底させるべく「生類憐れみの令」を出して犬を保護した。
 下剋上的に上士の言い付けに逆らう「かぶき気質」を改め、上下の秩序を守らせ、主君への忠、親への孝、年長者への礼節、等を徹底する為に、役職に就く全ての武士に儒教の素養を身に付ける事を徹底させた。
 百姓や町民には、政治に参加しないだけに儒教を強制せず自由としたが、市中での秩序を保つ事を求め、捨て犬や捨て子の禁止、老いた親の面倒、長屋や宿屋から病人を追い出さない等の人道的隣保扶助を強制した。
 オランダ商館付き医師のドイツ人エンゲルベルト・ケンペルは、徳川綱吉を世界的な「卓越した名君」と評価した。
 オランダ商館にいた外国人商人や船乗りは、オランダ人だけではなくドイツ人もフランス人もイギリス人もイタリア人もいた。
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 ヨーロッパでは、依然として、宗教対立による悲惨な宗教戦争が絶えず、キリスト教徒同士の虐殺が続いていた。
 世界中各地で盗賊が暴れ回り、罪な人々が虐殺され、捕らえられた者は奴隷として売られていた。
 日本の常識は世界の非常識で、日本人の考えは世界では通用しなかった。
 世界では、何をするのも自己責任で自由であり、個人の思うようにする事が許されていた。
 大陸では、殺しも、略奪も、放火も、強姦も、何もかもが自由であった。
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 1688年 徳川幕府は、中国との密貿易を防止する為に来航する中国船の数を年間70隻と制限した。
 日本は、教養として中華の古典を学んだが、漢籍に出てくる中国人の尋常ならざる非人道的残虐性に恐怖して、中国人と友人として親しく付き合う事を拒絶した。
 日本と中国の間には、友好などは存在しなかった。
 中国を拒絶した事で、江戸時代は穏やかで豊かになれた。
 井原西鶴『日本永代蔵』「俗姓・筋目にもかまわず、ただ金銀の氏系図になるぞかし」(町人は、家柄や血筋に関係なく、金の力が身分となる)
 庶民は、サムライとは異なり、儒教思想による厳格な上下関係に縛られてはいなかった。
 江戸初期は、米が貨幣以上の価値を持っていた為に、年貢を取り立てていた武士が力を持っていた。
 時代が下がるにつれて、貨幣の流通量が増し遠隔地間の手形決済が普及し、資本主義的な地域市場が普及した。
 富は武士から町人、商人に移り、身分や階級を超えた格差社会が誕生した。
 農業山村で、親の遺産を相続できない子供達は、働き口を求めて豊かな城下町や宿場町・門前町に流れ込んだ。
 人宿や口入屋は、彼等を集め、能力に合わせて一季居(いっきおり、1年契約の奉公人)として武家や商家に斡旋した。
 商家は、商売を重視して、不真面目な奉公人を追い返した。
 武家は、体面を保つ為に不祥事を表沙汰にできない弱みから、不法行為を行った奉公人を処罰も放逐もでず、まして不始末を理由にして手討ちなどしたら次の奉公人を人宿や口入れ屋から雇う事ができなくなる為に不可能であった。
 武家奉公人は、主家に対する忠誠心は全くなく、武家の弱みを逆手にとり、給金値上げなど契約期間における条件改善を要求して乱暴狼藉を働いていた。
 若い有能な奉公人は、武家に認められ、譜代の下級武士か足軽の養子となった。
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 1689年 中国人を長崎市街で自由に居住させると日本人との間で揉め事が起き、中国人犯罪者が入り込んで治安を悪化させる危険があるとして、雑居を禁止し、中国人居住地区・唐人屋敷を造って閉じ込め自由な行動を制限した。
 中国礼賛の儒学者や漢学者ではない正常な判断ができる日本人は、契約を守る紳士然とした南蛮人以上に約束を守らない傍若無人な中国人を警戒した。
 中国人は、自分の面子を守る事を最優先として、相手の約束も守らないし、社会的な取り決めや規範も守らい、嘘をつき、欺しても、反省はしないし、謝罪もしない。
 中国人が最も大事にするのは、「避諱」である。
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 1689年 清国とロシア帝国による、国境策定のネルチンスク条約
 宣教師は、清国に有利になるように領土交渉に協力した。
 康煕帝は、外交交渉に功績があったとしてキリスト教会の建設を許可し、92年にはイエズス会を公認した。
 宣教師は、儒教や仏教などの諸勢力を刺激しない様に慎重に布教活動を続けて信者を増やしていた。
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 1690年 ブラジル内陸部で金鉱が発見されるや、ゴールドラッシュが起きた。
 ポルトガルは、ブラジルの金を独占する為に無欲でよく働く地元のインディオを安い賃金で働かせた。
 キリスト教会は、ブラジルをキリスト教化する為にインディオに洗礼を与えポルトガル語を教え、伝統的な宗教、文化、言語、習慣を消滅させた。
 ブラジルにおける地域ごとに分裂していた多様性は、西洋の絶対的価値観で画一化された。
 中世キリスト教は、絶対的価値観から、異教徒の宗教、文化、伝統、言語、習慣を許さない不寛容さが強かった。
 ポルトガルは、ブラジルでの金産出量の減少とカリブ海産砂糖が市場に出回って、海上の覇権を失った。
 オランダは、アフリカ大陸と南北アメリカ大陸間の奴隷貿易で大金を稼いた。
 白人キリスト教徒は、宗教的選民主義で、黒人を絶対神に嫌われた獣徒信じ、人間以下の生き物として扱っていた。
 それが、中世キリスト教の実態である。
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 1691年 医師であり商館長のエンゲルベルト・ケンペルは、91年と92年の二度にわたって江戸に参府し、京都・大坂・下関・小倉などで数日間滞在した。
 宿泊先では、海外知識を得ようとする大名や学者が訪れ、町人も物珍しさで詰め掛けていた。
 1692年 ケンペルは、ドイツに帰国するや、日本で集めた数多くの書籍・文献を基にして『日本誌』を出版して、日本の真実の姿をヨーロッパに紹介した。
 『日本誌』は、各国で出版され、世代を超えて多くの人に読まれた。
 「しかし日本人は自然の掟を明らかに犯し、造物主の最も尊い意志を公然と軽視し、共同体の掟を無法にも破っている……国を閉ざす為、外国人の入国及び外国との通商を拒絶する。実力を持ってしても外国人を排除する。……これこそ、自然の掟─最も尊い秩序に反するものではないだろうか」(『日本誌』)
 ケンペルは、都は将軍が住む江戸ではなく天皇が住む京であるなど、旅で見聞きした事を克明に記録した。
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 1692年3月1日 セイラム魔女事件。マサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で起きた裁判。
 約200人の村人が魔女として告発され、収監施設がパンク状態に陥った。
 監獄官は、自白させる為に拷問をして1名を圧死させ、5名を獄死させた。
 6月2日 特別法廷は、告発された全員が無実であったが有罪を宣告した。
 6月10日から、順次絞首刑を執行し、男女19名を処刑した。
 10月 ボストンの聖職者は、娘達の証言に疑問があるとして州知事に上告した。
 州知事は、処刑の停止を命令じた。
 1963年5月 収監されている者全員に大赦が与えられ、釈放されて収束した。
 魔女裁判は、アメリカでも19世紀頃まで行われていた。
 中世キリスト教の悪夢は、いつ終わるとも分からず続いていた。 
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 1693年・94年 フランスで飢饉が発生して、200万人が餓死した。      ・   ・   ・   
 1697年 ドイツ人のライプニッツは、イエズス会士から中国の話しを聞き、中国を称賛する『中国からの最新情報』を出版し、中国ブームを起こした。
 多くの知識人は、理想的世界としての中国への関心から、中国古典の原書やイエズス会士による翻訳本を買い漁った。
 北方大戦争(〜1718年)。ロシア軍は、隣国スウェーデンの統治下であるフィンランドを侵略してスウェーデンフィンランド連合軍に大打撃を与えた。
 大いなる怒りの時代。獰猛なコサック兵は、占領地で強姦・虐殺・略奪を行った。
 「戦いで奪われた領土は戦いで奪い返す」という世界常識から、スウェーデン軍は苦戦の末に奪われた領土を奪還した。
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 1698年 『泊船集』「四条の川原涼みとて、夕月夜のころより有明過ぎるころまで、川中に床を並べて、夜すがら酒を飲み、物食い選ぶ。女は帯の結び目いかねめしく、男は羽織長う着なして、法師、老人ともに交わり、桶屋、鍛冶屋の弟子子まで、得意顔に歌いののしる。さすがに都の景色なるべし」
 暑い京都の夏。大勢の町衆は、夕涼みの為に、鴨川東岸にある400軒の茶屋が設けた床机に繰り出してドンチャン騒ぎ夜を過ごし、酔っ払って寝た。
 江戸時代。町衆は、自由奔放に生き、遊び心のゆとりゆえに、日本文化を成熟させていった。
 日本の伝統文化を担ったのは、百姓や町人であった。
 日本の民衆文化は、文化・教養は上流階級の特権という世界の常識からいえば非常識である。
 和食文化も、上流階級の大金を湯水のように使って贅沢に造り出した豪華料理ではなく、中流階層の町衆が四季折々に身近で取れた野菜や魚を粋に食べる趣向料理であった。
 和食もまた、世界の非常識である。
 江戸時代の日本は、世界の潮流から切り離された非常識下にあり、その非常識ゆえに時代遅れとなって近代化が遅れた。
 ウィーンのイエズス会の劇場で、信仰を守って殉教した細川ガラシャのオペラが上演された。
 イエズス会は、細川ガラシャを「丹後の奥方」と呼び、「徳のモデル」として描いた。
 オーストリアハプスブルク家は、殉教した細川ガラシャを信仰心厚い女性と尊敬した。



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