✽296)─2─徳川の平和。徳川家光は、天草・島原の乱に懲りてキリスト教抜きでの限定的経教分離鎖国令を発した。1635年〜No.604/@        

原城と島原の乱―有馬の城・外交・祈り

原城と島原の乱―有馬の城・外交・祈り

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・
 1635年 幕府は、海外渡航禁止令を公布した。
 宣教師が関わっていた南蛮貿易では、日本人庶民を奴隷として売る事はなくなったが、代わりに主君をなくしたサムライ達を傭兵として取引していた。
 海外でもサムライの戦闘能力は評判となり、諸外国の有力者はサムライを傭兵として雇うべく宣教師や西洋商人に大金を払っていた。
 忠誠心を重んじるサムライは、雇ってくれた雇用主の命令に従って人を殺していた。
 傭兵となったサムライ達は、雇われた先で他国との戦争や国内の内戦で勇猛果敢に闘っていた。
 幕府は、日本人傭兵が活躍する事で国際問題になる事を恐れ、今後サムライが海外に出て傭兵となるのを防ぐ為に海外渡航禁止令を出した。
 日本人傭兵で有名なのが、山田長政であった。
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 仏教界は、転宗した元キリシタンが密かにキリシタン返りしていると訴えた。
 徳川家光は、全国的な信仰調査を命じると共に、転宗者みキリシタン返りしないという契約書・南蛮起請文の提出を命じた。
 したたかな日本人キリシタンは、幕府や仏教界の思惑をよそに罪の意識もなく起請文を提出し、帰宅してマリア像に罪の告白をして安堵した。
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 幕府は、武家諸法度を定め、大名の財政を疲弊させる為に、1年交替での参勤交代と天下普請などの諸役を命じた。
 大名は、貧困化して、財政の遣り繰りに苦慮した。
 一方、街道筋の宿場は大金を落としていく大名行列で潤い、そこに農産物や生活必需品を供給していた周辺農村にも現金が行き渡った。
 これが、日本型の産地消費経済である。
 年貢で搾取された以上の現金が、百姓の手に入った。百姓はそれを貯蓄したが、道楽好きな馬鹿亭主はその金で酒を飲み博打で散財した。
 田舎の女達は、男に金を持たせるとろくでもない事に散財するとして鬼の様に怒り、逃げ惑う男から容赦なく金を取り上げた。
 いくら日本の男が亭主関白とすごんでみても、肝っ玉の座った日本の女性のカカァ天下には叶わなず頭が上がらなかった。
 金に余裕が出来た庶民は、整備された街道や航路を使って、各地の温泉や名所旧跡や神社仏閣をめぐる観光旅行に出かけた。
 特に、お伊勢参りは人気があり、各地の遊女や犬までが伊勢詣でしたといわれている。
 江戸時代を通じて、庶民の間で各種の旅情報紙が飛ぶ様に売られた。
 大名行列がひっきりなしで行き交う為に、街道が領地を通る各大名は体面にこだわって治安は守った。
 日本の街道は、世界一安全で、子供や女性でも一人で安心して旅が出来た。
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 江戸時代は、サムライの時代というよりは、百姓や町人らの庶民の時代であった。
 彼等の旅行は、わいわいと騒々しいほどに賑やかであった。
 よく酒を飲み、よく笑い、よく喧嘩し、そして、よく泣いた。
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 幕府は、鎖国政策を強化して、日本人の海外渡航を全面的に禁止し、すでに渡航している在外日本人の帰国を禁止した。
 キリシタンでない者は、日本の水恋しさで帰国した。
 キリシタンの多くは、異教徒が支配する日本を捨ててキリスト教会のある現地に定住した。
 島国で育った日本人は、開放的な大陸は自由であっても何も実感を得る事のできない不安空間として馴染めず、制限され束縛されるとわかっていても実感空間を求めて閉鎖的な島国に戻った。
 崔基鎬「李朝では、日本人は法律的に禽獣の扱いをうけていた。釜山の倭館では百人以上の対馬藩士が勤務していたが、女性が在留することが認められていなかったので、単身赴任することが強いられていた。そこで藩士たちは隠れて貧しい現地女性を買春したが、もし、そのような朝鮮女性が不運にも捕らわれることがあったら、『禽獣と交わった』罪によって、民衆の前で鋸引きの刑に処せられて殺された。当時の状況を詳しく記録した文書が、のこっている」(『日韓併合の真実』P.82)
 幕府は、明国との国交を開かず、民間交流として明国船の入港を長崎のみに限定した。
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 1636年 太宗ホンタイジ満州軍を率いて、元朝直系の君主リンダン・ハーンがチベット遠征中に甘粛省で急死した隙を突いて侵略し、ゴビ砂漠以南の南モンゴルにを制圧した。
 南モンゴルチンギス・ハーンの子孫の王族達は、瀋陽に集まってクリルタイ(部族会議)を開き、ホンタイジをモンゴルのハーンに推戴する儀式を執り行った。
 ホンタイジは、リンダン・ハーンの未亡人から元朝皇帝の玉璽を入手し、元朝の正統な支配権を継承したとして、アジア及び中華の皇帝の位に就いた事を宣言し、国号を大清と名付けた。 
 清国軍は、明国への侵略を本格化した。
 清国皇帝は、朝鮮王国に明王朝と同様の臣下の礼を要求したが、朝鮮国王は蛮族の臣下になる事を拒否し清に対して宣戦布告した。
 明の皇帝は、腐敗と堕落で弱体化した明国軍を補強する為に、マカオポルトガル駐屯軍の軍事支援を期待した。
 「夷を以て夷を制す」。
 自分は動かず、座して「漁夫の利」を得るという、中国の伝統的基本戦略である。
 だが、アジア世界の指導者として君臨していた漢族の明国は、国内外の問題を自力で解決できず急速に衰退し、内部の裏切り者によって滅亡した。
 国家は、諸問題の自己解決能力を失い、国内の裏切り者によって、いとも簡単に滅亡した。
 1637年 丙子胡乱。 朝鮮国王は、宗主国明国への義理立てから徹底抗戦を命じた。
が、清国軍が。朝鮮の民衆は、自国の王に見捨てられた。
 清軍(約10万人)が、朝鮮に侵入するや国王は民衆を残して逃亡した。
 清国軍は、朝鮮を占領して各地で殺戮と略奪を行った。
 朝鮮国王は捕られて、清国に降伏し、清国皇帝を兄として従属する事を誓った。
 清国に降伏した朝鮮は、恥辱碑である「大清皇帝碑」を建てて戒めとし、清国皇帝の勅使を土下座して迎える「迎恩門」を建てて絶対服従の証しとした。
 清国軍は、人質として、王太子とその一族・重臣とその家族を含む50万人を強制連行した。
 清国軍の破壊と殺戮は徹底的に行われ、多くの朝鮮人が奴隷として強制連行された。清国の度重なる侵略による被害は、豊臣秀吉朝鮮侵略以上の甚大なる犠牲を出していた。朝鮮の人口は、半減して約200万人となった。現代の朝鮮史は、この人的被害を日本側によるものと公式に発表している。
 要求された人数の若い女性を狩り集めて、妓生(キーセン、宮廷慰安婦)として中国に送った。
 この後。「礼儀の国」として、中国中心の天朝朝貢冊府封体制を受け入れ、命じられるままに宮廷慰安婦(キーセン)や宮廷奴隷(宦官)を献上した。だが、こうした行為は古くからおこなわれていて、『魏書』や『周書』など中国の正史に記載されているといわれている。
 戦乱がなくなった半島では、男性が増え若い女性が減少した為に、結婚できない男性が急増して性欲を解消する為の異常な性犯罪が多発した。
 だが、支配階層である王侯貴族や知識エリートの両班は、庶民を奴隷と見下して重税を課し、庶民の塗炭の苦しみを嘲笑いながら優雅な生活を送っていた。
 朝鮮の王朝文化とは、庶民を徹底的に搾取して痛めつけ、自堕落に腐敗し享楽に耽る事で華開いた。
 日本の集団で楽しむ町人・百姓文化とは正反対の、個人による高度な教養を持って自己陶酔的に自己満足する文化である。
 朝鮮は、清国の命令に従い軍隊を派遣し、清国軍と共に旧宗主国である明国を侵略した。新たな宗主国清国に認められる為に獅子奮迅の活躍を見せ、清国軍兵士以上に明国軍兵を殺害し、清国人以上に略奪と放火を行った。
 歴史的に、朝鮮は中国の属国であり、自主独立国であった期間はごく短い。
 当然、朝鮮経済も全面的に中国経済に依存し、日本や諸外国との独自の交易はほんのわずかにすぎず国内経済への貢献度はないに等しかった。
 清国は、モンゴル帝国元王朝の後継をもって正統王朝を主張していた為に、元寇で勝利した仮想敵国日本の動向を警戒していた。
 朝鮮通信使に、密命を与えて、日本の大陸侵略の意志があるかどうか探らせ、その報告を厳命していた。
 清国にとって、朝鮮は対日戦略の最前線に位置する重要な防波堤であった。
 琉球使節団には、日本との友好の証しとして、非公式ながら交易の便宜を与えていた。琉球経済は、日本と清国との中継交易で潤っていた。
 長崎の唐人屋敷は、清国からの製品で溢れて賑わっていた。
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 宣教師は、人が良い善人であった。
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 徳川家光は、奥州の雄藩伊達家が30万人の隠れキリシタンと手を組んで倒幕を起こす事を警戒していた。仙台藩封じの為に、異母弟の保科正之を信州高遠から出羽国山形に転封させ、軍事力を強化させるべく加増した。
 だが、仙台藩には天下簒奪の野心はもはやなかく、臣下として、幕府への忠誠を証明するべく領内の隠れキリシタンへの弾圧を強化した。
 1637(〜38)年 島原の乱。島原の松倉領と天草の寺沢領の百姓は、旱魃による凶作で収入が減ったところに、財政難の解消をめざす無能な主君の重税で苦しめられていた。
 両藩とも、多くの餓死者を出しても、被災者を救済する為の救い小屋を建てず、税を軽減せずむしろ増税を課した。
 無慈悲な徴収がなされ、支払えない者には惨たらしい仕打ちがなされ、見せしめに残酷な方法で処刑した。
 貧困のどん底に喘いでいた百姓は、耐えきれなくなり、無能な領主に対して一揆を起こした。
 島原と天草の百姓一揆勢は、合流して廃城となっていた原城に立て籠もった。
 一揆勢を指揮したのが、天草四郎こと益田時貞と旧小西家のキリシタン武士団であった。
 島原藩松倉勝家は、失政によって百姓一揆が拡大した事を誤魔化す為に、百姓一揆キリシタンによる反乱と幕府に報告した。
 クーケバッケル(平戸オランダ商館長)「農民は、とても耐えられない税を強いられて、ひどい飢餓に苦しんだ。木の根や草を食べてやっと命をつなぐほかなかった」
 幕府は、かって一向宗比叡山などといった宗教勢力が政治に干渉して暴動を起こした事を教訓とし、世俗の権力に盾突く宗教勢力に対する断固たる処置をとる為に、周辺諸藩に対して討伐軍への参加を命じた。
 国内の隠れキリシタンに対しては、如何に待ち望んでもキリスト教国からの救援がない事を知らしめる為に、オランダに鎮圧支援を要請した。
 プロテスタントのオランダは、島原のキリシタンカトリック教系と見なして軍艦を派遣して砲撃した。
 カトリックプロテスタントは、同じキリスト教でありながら、同じ絶対神への信仰から世界各地で宗教戦争を行っていた。
 幕府軍は、多大なる犠牲を出して一揆を鎮圧した。
 政治力を付け様とする宗教勢力への見せしめにするべく、一揆に参加した者全員を虐殺した。
 ドアルテ・クレア「長崎奉行所では叛乱の原因を調べて、それが有馬の領主長門殿の苛政によることを知った」
 これ以降、信者の拡大で財力を付け、神の裔・天皇の神性と幕府の公権力を脅かす恐れのある反社会的宗教勢力はことごとく弾圧された。
 島国日本では、大陸では日常的に起きていた、「個人の信仰」をめぐる、流血を伴った宗教紛争や異教徒虐殺を当然の権利とする宗教戦争は押さえ込まれた。
 宮中祭祀の秘儀を独占して執り行う天皇家は、中国伝来の陰陽道をもって、古今東西の様々な秘術を行っていた。
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 天草四郎一揆勢は、耐えて戦っていればポルトガル軍が援軍としてやって来て勝利すると信じていた。
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 宮本武蔵は、明石藩小笠原忠真に従い島原の乱に出陣した。
 「神仏を祟びて神仏に頼らず」
 剣道と剣術は違う。
 剣術は、単に人を斬り殺す技術であった。
 剣道は、心と身を鍛える精神修業で、決して人を斬り殺す練習ではなかった。
 日本の剣道は、人の命を奪う殺人剣ではなく、人を活かす活人剣であった。
 その意味に於いて、剣道は日本にしか存在しない。
 助教価値観が支配する朝鮮や中国には、技のみ極める武術はあっても、道を究める剣道はどの武道はなかった。
 朝鮮には、サムライがいなかった以上、剣道もなかった。
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 幕府は、大名への支配を強化するべく、大名を合法的に改易する大義名分を探していた。
 忍者は、その為に各大名領に忍び込み、各藩の情報収拾をおこなっていた。
 将軍は、大名を恐怖で支配する為に、情報を重要視し、あらゆる情報を掻き集めていた。
 江戸時代に改易された大名家は約260家であり、直参旗本は数が多くて実数不明である。
 外様大名への見せしめの意味もあって、身内である親藩や幕府に貢献した譜代への監視は厳しかった。
 島社会は、大陸社会と違って、他人よりも身内に厳しい掟を設けて秩序を維持し、権力に近い身分が上位な者ほどその自由は極端に制限されていた。
 権力を持つ者には俸禄が少なく、責任が重く、些細な不祥事でも責任を取らせ、「切腹」を含む厳罰を与えた。
 出世して役職に就くには家柄と一定の家禄を必要としたが、一般的には権力を持たない者には家禄が多く支給された。
 武士にならず町人や百姓の身分を受け入れた者には、武士以上に私有財産を貯める事を許した。
 島原の乱で減封され後に改易された大名 … 板倉勝家(譜代)。寺沢堅高(外様)。
 武家法度違反で改易された親藩・譜代の大名 … 松平忠輝キリシタン)。本多正純松平忠直。徳川忠長。松平光長。松平綱昌。その他。
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 島原の乱は、キリシタンの叛乱ではなく重税に苦しむ百姓が起こした暴動であった為に、正式には島原・天草一揆と呼ぶ。
 幕府が、原城に籠城した百姓とキリシタンを根絶やしにしたのは、武器を持って徒党を組んで領主に対して武装蜂起したからである。
 領主の悪政や失政に対して、むしろ旗を立てこん棒や鍬や鎌を持って一揆を起こす事は許したが、鉄砲や刀や槍を持って武力で要求を通そうとする事は許さなかった。
 まして、如何なる宗教であっても、領主の圧政に対する武装蜂起に加担する事も断じて許さなかった。
 日本に於いて世界的常識に近い宗教指導の暴動・叛乱・内戦・テロが起きなかったのは、徳川幕府の断固たる非情な処置による。
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 1637年 石田三成の曾孫にあたるお振りの方(13〜15)は、徳川家光(34)の側室となって初めての子である千代姫を生んだ。
 お振りの方は、出産で健康を害して1640年に亡くなった。
 千代姫は、尾張藩主・徳川光友正室となり2男2女を生んで、三成の血が尾張・徳川家に引き継がれた。


















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