⚔36)─4─徳川家康は、国際交易を推進する為に経教分離政策を採用した。大坂冬の陣。1613年~No.155 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川家康は、商業流通の重要性から、国際交易を推進する為に経教分離政策を採用した。
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 真田幸村(信繁)「定めなき浮き世にて候へば、一日先は知らざる事に候」(大坂夏の陣の直前に、義兄に宛てた書状の一節)
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 レオン・パジェス「京都では、御自らふたつの尼院の長にあらせられた内裏(後水尾天皇)の御叔母君は、説教を聴く為にお出ましあり、又その御母君と御妹君、即ち前の内裏(後陽成天皇)の御后をお誘ひ遊ばされた。この御三方は、限りなく天主の教えを御珍重あらせられ、もしかかる高貴な方々にお定まりの例の御障害がなかったら、何れも洗礼をお望みになった事であろう。然し御三方みな、お側の役人のキリシタンになる事をを許し給うた」(『日本吉利支丹宗門史』)
 キリスト教は、朝廷の内部に深く浸透し、感受性の強い女性皇族に接近してその周囲の女官を改宗していた。
 キリスト教会は、日本が神の国ではなく単なる人の国であり、祭祀王・天皇は神性を持った神の裔ではなく絶対神がチリや土から創った人間に過ぎない事を、伝えようとした。
 つまり、日本を西洋化して、天孫降臨日本民族心神話による万世一系男系天皇(直系長子相続)制度の破壊であった。
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 高坂正堯「巨大な隣国から自己の同一性を守る事は実に難しい。日本が東洋でも西洋でもない立場を取ろうと思うならば、遠くの力とより強く結びついて、近くの力と均衡をとる必要がある」(『海洋国家日本の構想』)
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 徳川家康「将たるもの、味方の首の後ろばかり見ていてはならない」
 伊達政宗「本当に大切な事は、人に相談せずに自分一人で覚悟を持って決める事」
 柳生宗矩「俺は他人に勝つ方法を知らない。知っているのは、自分に勝つ方法だけだ」
 蒲生氏郷「部下には、恩賞だけを与えてはいけない。情けもかけるのが大切だ」
 「時期が来れば、何れどんな家も滅びる。その時には、潔く家を滅ぼす覚悟を持っておくべきだ」
 「花が咲いても、実らない事も多い」
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 中世キリスト教会は、日本を絶対唯一の真理でキリスト教化する為に、多様性に富んだ日本民族の歴史、文化、宗教、習慣を完全は破壊しようとしていた。
 宣教師は、日本一国丸ごとキリスト教化を諦め、長崎だけでも日本から分離独立させ、キリシタンが安心して信仰を守れる「神の王国」を平和的に建国しようとした。
 長崎を、キリスト教の信仰で日本から分離独立させるか、日本天皇の影響下で日本に留めるかが、争点でああった。
 反天皇反日的日本人は、日本天皇支配を否定し、教皇領として分離独立させる事を支持している。
 徳川幕府は、キリシタン弾圧で分離独立を阻止した。
 日本の歴史は、徳川幕府キリシタン弾圧を非人道的犯罪であると否定している。
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 2017年1月20日号 週刊朝日安部龍太郎と井伊裕子のスペシャル対談
 ……
 安部 信玄はどちらかというと室町幕府の枠組みのなかで生きている人。ところが家康や信長たちは、新しい戦国大名として生きている。最大の差は、おそらく商業流通をどれだけ管理できていたか、です。信玄は古い形の大名としては強いけれど、やがてその時代は終わるということが先見の明がある人にはだんだん見えていたのではないかと。
 井伊 商業力があるかどうかということですね。
 安部 そうです。家康は三河湾を早くから勢力下においていた。伊勢湾に通じる海路も押さえていたのです。当時の陸路は整っていません。橋もかかってなければ、峠の道も整備されてないわけです。商品を運ぶのには海路が一番なんです。関東から京方面に荷を運ぶときは、必ず三河湾、伊勢湾を通ります。
 井伊 なるほど。家康は、秀吉に比べて商業のイメージ薄いですが、実は商業に長(た)けていたのでしょうか。
 安部 もちろんです。そうじゃなきゃ、戦国大名はやっていけないですから。領国運営は今の会社経営と同じ。戦争をするにもお金がないとできない。武器弾薬を買うにもお金がないとダメですから。家康の元に豪商が集まっています。銀座の後藤庄三郎、京都の豪商・茶屋四郎次郎天竜川などの開削事業を手掛けた角倉了以と。戦争は経済力と軍事力が勝負ですから
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 1613年 ペルーのリマ市書記官ミゲル・デ・コントレラスは、人口調査を行い、市民の中に日本人や中国人などのアジア人奴隷がいる事を記録に残した。
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 徳川家康は、国際交易の相手国としてイギリスを選び、イギリス国王に使節を派遣して国交を求め、朱印状を渡した。
 応対したイギリスの代表は、ロバート・セジルであった。
 公家衆法度。
 仏教界は、「鎮護国家」の大任を担う立場から、邪宗キリスト教を禁教にするように幕府に圧力をかけ、キリシタンの取り締まりの強化を強要した。
 幕府は、教禁令を発布し、キリスト教団諸施設の破棄を命じ、イエズス会を含む全ての修道会士を国外に追放した。
 寺社奉行を大名格に引き上げ、御上の命に従わないキリシタンを賤しき者として差別し、非人・エタ・賤民の如く劣悪な生活環境に押し込めた。
 隠れキリシタンは、仏教徒の差別や弾圧を逃れながら「隣人愛の信仰」を守り通した。
 下層民である非人・エタ・賤民は、大伽藍を持つ寺院に精神的支配を受けながらも、飾り気のないみすぼらしく粗末な神社や小さな社を心の拠り所として崇拝していた。それが、江戸時代の被差別部落民達が守った土着信仰である。貧困生活を送っていた彼等は、絶対神の威厳を誇示する豪華絢爛としたキリスト教の大聖堂では興味がなかった。原罪観を持たないだけに悔い改める気もなく、当然、絶対神への信仰を持つ気もなかった。差別され虐げられていた貧民は、自分よりも弱い立場にいるキリシタンを攻撃して憂さを晴らしていた。
 差別・迫害・弾圧、虐待・嫌がらせ・イジメは、心醜い者が自分を強い者であると誤魔化す為に自分よりも弱い者に向ける、自分勝手な自己満足行為である。 
 各地の寺院は、日本人を宗門人別帳で「生から死」まで完全支配し、富を蓄える為に管理する檀家から諸手続き手数料やお布施などの名目で金を要求した。
 傲慢な態度で金銭を強要する僧侶への不満が、明治初期の廃仏毀釈として爆発した。
 幕府は、12月に仏教界の強い要請に屈して、キリスト教禁止令を全国に発し、外国人宣教師と名の知れた日本人キリスト教徒を国外に追放す様に命じた。
 各地でキリシタン狩りが始まり、指導的立場にあるキリシタンは処刑された。
 徳川家康南蛮貿易への未練から、政治判断として交易と信教を分離し、諸大名の自由な海外交易を禁止する為に朱印船貿易に切り替えた。
 イギリス人ウィリアム・アダムズを、三浦按針と改名させて正式な幕臣に取り立て、外交や交易の顧問として高禄を与えた。
 オランダ人ヤン・ヨースチンも、商業顧問として高禄で召し抱え、日本の国益と幕府の利益を優先する様に海外貿易の差配を命じた。
 イギリスとオランダは、日本交易を独占する為に、スペインとの交易を望む家康にスペインとポルトガルの悪評を繰り返し耳打ちしていた。
 オランダで1608年に発明された望遠鏡が、1613年には日本に伝えられた。
 新しモノ好きな日本人は、好奇心が旺盛な為に、大金を出して舶来の望遠鏡を購入した。
 大阪の岩橋善兵衛は、1700年後半に屈折望遠鏡を見よう見まねで大量に製造して大もうけした。日本製望遠鏡は、舶来品よりも性能が良かった為に飛ぶ様に売れた。
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 日本の総人口約1,200万人中、キリスト教徒は80万人以上。
 日本人の15人に1人が、キリシタンであった。
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 伊達政宗は、下級武士であった支倉常長に密命を与えてスペインとローマに派遣した。慶長遣欧使節である。交易交渉とは表向きで、真の目的は日本統一の為の軍事支援を要請する事であった。
 そして、キリシタンの守護者としてローマ教皇パウロ五世に「服従と忠誠」を誓った。
 スペイン国王には、日本統一の軍事支援をしてくれれば、臣下となり、日本領土の一部を献上すると提案した。
 日本のキリスト教徒の代表者3名は、日本をキリスト教国にする為にも政宗を配下に加え、キリスト教徒の指導者として将軍に任命する様にとの、キリシタン一同の嘆願書を教皇に提出した。
 キリシタンは、自分一人の信仰を守るために、祖国日本をキリスト教会に献上しようとしていた。
 スペインは、イギリスとオランダの連合軍に敗退して、国力低下し、日本遠征軍を派遣するゆとりはなかった。
 バチカンにしても、イエズス会にしても、愛の信仰による精神的日本支配を望んでいたが、世界最大の軍事力を持つスペインが動かない以上はどうにもならなかった。
 奥州とスペイン・バチカンとの同盟を締結するという密命は、失敗した。
 ヨーロッパ大陸は、依然として、同じキリスト教徒による悲惨な宗教戦争の真っ直中にあった。
 伊達政宗にスペインとの軍事同盟を勧めたのは、宣教師ソテロであった。
 軍事同盟が成立し、伊達政宗が武力で日本を統一したら、西日本の一部がスペイン領か教皇領となって日本から切り離されていた。
 徳川家康は、宗教権威者である天皇に任命された征夷大将軍という絶対権力で、日本全土を一つの国として統一し、一つの価値観で支配しようとしていた。
 キリシタンは、日本に平和をもたらすには、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)中心とする画一化を避け、多様性を持った人としての独自性を重んじ、キリスト教徒の国、仏教徒の国、天皇神道の国の様に幾つかに分割し、それぞれが独立国として自由意志を持って共存すべきであると考えていた。
 日本在住の心ある宣教師は、日本をキリスト教化するという希望を捨てず、日本を絶対神が愛する「神の王国」にするという夢を叶える為に、政宗の天下人への野心を利用しようとした。
 スペイン王は、「領主の信仰は領民の信仰」という信念から、日本の支配者である徳川家康キリスト教の保護を求める書簡を送った。
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 衰退しつつあったスペインとポルトガルの両王国は、日本を征服し、植民地にする意志はなかった。
 だが。
 バチカンイエズス会は、日本を絶対神が愛するキリスト教国に生まれ変わらせる強烈な使命感を持ち、全ての日本人に洗礼を与え異教徒を日本から完全排除する事を絶対神への信仰の証しとしていた。
 つまり。
 文明的な明解な教義を持つ普遍宗教による、非文明地域に点在する神憑り的民族中心宗教の撲滅である。
 これが、宗教世界における「必要悪」である。
 事実。多くの民族中心神話を起源とするシャマン的土着宗教は消滅している。
 現代世界で、民族中心神話を信仰する民族宗教国家はほんの少数で、民族宗教国として世界に名が知られているのは日本のみである。
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 4月25日 大久保長安の急死で、事態は急変した。
 幕府は、長安が生前に行った不正を暴く過程で重大な書簡が発見された。
 その書簡には、「キリスト教を広め、南蛮の軍隊を引き入れ幕府を倒し、徳川忠輝を皇帝に、自分は関白になる」というその内容が書き記されていた。
 8月 長安の謀反に加担したと見られる一族や関係大名を、切腹或いは改易とした。
 幕府は、処罰した者の大半がキリシタンであった事から、全国にキリシタン禁令を発した。
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 1614年 オランダは、最新鋭の大砲であるフランキ砲を提供した。
 1月 徳川家康の命を受けた訪墨(メキシコ)使節団が、メキシコに到着した。使節団の中に混じっていた伊達政宗の個人的訪欧使節団は、倒幕への軍事支援を求める密命を受けてスペインとローマに向かった。
 インディアス法「信仰は能力を制限する原則の一つであり、異端の信仰を有する者は法的能力を有せず、栄誉およびその財産を剥奪される」
 日本人150名は、家康の命を実現する為に、キリスト教国との交易を成功させるべく集団で洗礼を受けた。
 大泉光一「副王もコレヒドール(王室代理官)も、アウディエンシア(聴訴院)の裁判官たちも、私腹を肥やし、庶民の犠牲のもとに裕福な生活を享受していた」(『伊達政宗の密使』P.110)
 洗礼を受けた日本人は、白人キリスト教徒が非白人原住民を、同じキリスト教徒にもかかわらず奴隷として使役している実態を目の当たりにし、福音による理想と利益を求める現実の隔たりを肌身で感じた。
 1月18日 大久保忠隣は、上方のキリシタン弾圧を命じられて前年12月19日に上洛し、伴天連寺の破却、信徒の改宗強制、改宗拒否者の追放を行った。
 1月19日 大久保忠隣は、大坂方とキリシタンと結託して謀反を企てているという容疑で改易の沙汰を受けた。
 大久保忠隣は、徳川忠輝の補佐役ではあったが徳川家康の家臣として、徳川幕府に忠誠を誓って改易の命令を受け入れた。
 大坂方は、キリシタン保護を名目とした徳川忠輝・伊達政宗との友好関係は大久保忠隣の改易でなくなり、完全な孤立無援となった。
 大坂方の大誤算は、キリシタン一向宗のように共に戦うと勘違いした所にある。
 キリシタンの戦いとは、隣人愛という信仰を守って絶対神に大坂方の勝利と豊臣家への加護を祈る事であって、武器を取って敵を殺す事ではなかった。
 宣教師は、キリシタンとして守るべき「モーセ十戒」を教え、そして絶対神と自分を信じて従う様に説いた。
 キリシタンは、決してサムライのように絶対神への信仰と自分及び仲間の命を賭けて戦場に立つ事はなく、絶対神の奇跡と救済を信じ、ひたすら逃げ回った。
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 2月 イギリスの平戸商館長コックスは、三浦按針を通じて徳川家康に、カトリック勢力がエリザベス1世暗殺を企てた事を伝え、カトリックに気を付けるように警告した。
 徳川家康は、コックスの忠告に従い、キリシタン禁令を発した。
 幕府役人は、各地でキリシタン弾圧を行った。
 キリシタン達は、大阪城に逃げ込んだ。
 イギリスやオランダなどのプロテスタント勢力は、徳川家康を支援し、最新のガルバリン砲などの大砲(石火矢)数門を売った。
 カトリックキリシタン勢力は、豊臣秀吉を頼り、大阪城方が勝利するように味方した。 
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 8月 有馬直純は、幕府に対して、領内のキリシタンに手を焼き国替えを懇願した。
 幕府は、徳川家につながる有馬家の申し出を受け、直純を日向延岡に移封し、旧有馬領を天領として長崎奉行の管轄地とした。
 主君に忠誠を誓い信仰を捨てた家臣とその家族は、直純に従って延岡に向かった。
 主君への忠誠よりも絶対神への信仰を優先した家臣は、不忠者として同道を認めず、家族諸共に島原に捨てられた。
 長崎奉行長谷川左兵衛と上使山口直友は、領地を受け取るべく島原に入った。キリシタン地侍が抵抗する恐れがある為に、近隣諸藩に出兵を命じた。総勢1万人の兵が、島原半島に上陸して各地に陣をはって叛乱に備えた。
 長崎奉行は、キリシタンに対し棄教を命じ、従わない主要なキリシタン数百人を捕縛した。信仰を捨て転ばせる為に拷問にかけたが、拷問に耐え信仰を守るキリシタンは見せしめの為に処刑した。
 対岸の、寺沢領天草でもキリシタンへの弾圧が行われていた。
 幕府にしろ諸藩にしろ、年貢を納めるキリシタンを根刮ぎ皆殺しにすれば、人口が減り、年貢の減収になるとして、拷問の苦しみに堪えかねて信仰を捨てさせように仕向けた。
 処刑すれば、絶対神への信仰を守った殉教者としてキリシタンに勇気を与えるだけであるとして、躍起になって棄教を迫るべく残酷な手段を使って拷問した。
 だが。日本の拷問は、キリスト教圏のヨーロッパや儒教圏の中国に比べれば幼稚で有り、徹底さに欠けていた。
 どうしても転ばず信仰を捨てないキリシタンは処刑する事としたが、本人の希望があれば、情を酌んで処刑する直前でのイエスとマリアへの祈りや絶対神への秘儀を許した。
 牢につながれていた宣教師や修道士らは、日本人キリシタンが如何に信仰を守って殉教したかを、事細かにローマやイエズス会本部に手紙で報告し、命を捨てて信仰を守ったキリシタンへの霊的救済を依頼した。
 キリスト教会は、徳川家康と幕府への抗議を込めて哀れな殉教者への追悼ミサを盛大に行い、絶対神の天罰が悪魔の様な異教徒の上に落とされる事を祈った。 
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 11月 大阪冬の陣
 キリシタンの多くが、信仰の自由を守る為に豊臣方に味方して大阪城に入城し、十字架の旗印をたてた。
 宣教師は、彼の信仰を支援する為に大阪城を頻繁に出入りした。
 カトリック系のスペインやポルトガルの商人等は、宣教師を通じて、豊臣方に大量の武器弾薬を売りつけていた。
 徳川家康は、キリスト教会は日本をキリスト教化する為に豊臣側を軍事支援していると見なした。
 プロテスタント系のイギリスやオランダの商人は、キリスト教抜きで、徳川方に武器弾薬を売りつけていた。
 真田幸村は、真田丸を築き150人〜300人で立て籠もり、大軍を翻弄するゲリラ戦で徳川軍約1万5,000人を倒した。
 真田勢は、ヤジや罵倒などで挑発し、敵軍を巧みに堀の中に誘い込み、鉄砲の集中砲火を浴びせた。
 徳川幕府は、真田に苦汁をなめさせらえた徳川家康と秀忠が他界した後、滅亡確かな豊臣家の為に戦い戦死した真田幸村を真の忠臣とし、「武士の鑑」と持ち上げ子弟教育に利用した。
 仙台伊達家の片倉家に匿われていた幸村の子孫は、「真田」への複名が許された。
 12月22日 徳川家康は、天下にキリシタン禁令を発して、諸大名に宣教師を追放し、教会を破壊し、全てのキリシタンに棄教を命じた。
 禁令書は、神官ではなく、京都南禅寺金地院の僧崇伝が書いた。
 幕府は、日本から戦乱を一掃する為に、「ご恩と奉公」という武士道の忠誠心を広め、下克上的気運を持つサムライの自由を奪い、家・藩という狭い枠の中に強制的に閉じ込めた。
 野心に燃え戦いに明け暮れていたサムライに対して、闘争心はもちろん、向上心や出世といった野心を奪った。
 生活様式すべてを画一的に統制する為に、自分勝手な自己流を排除して、徳川家の御家流のみを周知徹底させた。これ以降、サムライの個性はなくなった。
 刀と才知で己が道を切り開くという独立意識を削ぐ為に、主君への下僕の道のみを教える儒教を押し付け、主君への忠誠で行動の自由を奪い、領地という閉鎖的空間に押し込めた。
 主君への忍従を嫌って叛けば、主命を持って切腹を命じた。
 サムライは、何時、主君の勘気に触れて切腹を命ぜられるかわからず、寝ても覚めても怯えながら生活していた。自由で勝手気ままな庶民とは違って、「死」の恐怖と「不自由」の境遇を耐える事を強制された。
 それが、サムライにおける滅びの美学といわれる、身の不運を諦めて受け入れるという武士道である。
 幕府は、キリスト教の「隣人愛と奉仕」という絶対神への神聖な忠誠心は、サムライの鏡である武士道の忠誠心を破壊し、日本に新たな戦乱を引き起こすものと警戒した。
 若き日。家康は、頼りにしていた多くの家臣が、百姓が起こした一向一揆に味方して裏切られたという苦い経験を持っていただけに、主君への忠誠心より信仰への忠誠心を優先する宗教への猜疑心が強かった。
 曖昧を好む気弱な日本人は、集団の和を破壊する強烈な個性を持った宗教組織が、財力と武力を持って政治はもちろん風俗など社会全般を支配し、厳格な戒律・律法で日常生活に干渉して来る事を嫌った。
 長崎奉行長谷川左兵衛は、御上のご意向を示す為に、宣教師を匿えば死罪にすると布告した。
 幕府は、窮地に追い込まれた豊臣家が、苦し紛れに敵対していたキリシタン勢力(25万人以上)と反徳川同盟を組む事を恐れた。
 加賀藩主前田利常と前藩主である兄の利長は、キリシタンではなかったが、キリシタンには友好的であった。
 金沢藩は、高山右近一家と内藤徳庵ら多くのキリシタンを保護していた。
 前田家は、幕府が豊臣恩顧の外様大名を取り潰す為の名目を探っている事を知っていただけに、家名を存続させる為に友誼を捨て、高山右近らの領地外への追放命令を受け入れた。
 大坂の豊臣方は、家康との最終決戦に備えるべく、スペイン・ポルトガルキリシタン勢力の支援を取り付ける為に、高山右近大坂城に迎えるべく密使を送った。
 京都所司代板倉勝重は、大坂方が高山右近接触しようとしているとの情報を得て、家康の指示が届くまで右近一行を京に入れず坂本に留めた。
 キリシタンや右近の友人らは、62歳の高齢となっている右近を国外に移住させるのは忍びず、国内のキリシタン仲間の内で匿う為に救出計画を立てていた。
 徳川家康は、右近を殺せば殉教者としてキリシタンの信仰を強める恐れがり、国内に留め置く事も騒乱の元になるとして、当初の予定通りに国外追放を命じた。
 板倉勝重は、家康の命を受け、右近一行を厳重に警戒しながら陸路で大坂まで護送し、大坂から豊臣方の接触キリシタンによる奪還を恐れて海路で長崎に移送した。
 大坂には、キリシタン武将明石掃部の子である明石内記が入城して、キリシタン武士団を指揮した。
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 前田家は、幕府の命令に従って高山右近とその一族を追放した。
 金沢藩は、1,500人以上のキリシタン能登七尾の寺に匿い、隠れキリシタンとして保護した。
 キリシタンは、山奥の隠れ里に潜んで信仰を守り、保護してくれる金沢藩に迷惑をかけない様に余所者に警戒した。
 日本の一般的なムラは開放的であったが、こうした特殊な事情のあるムラは極端な排他性を剥き出しにして余所者を排除した。
 こうして、日本の隠れキリシタンは全国各地の山間僻地に潜んで信仰を守った。
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 各地で弾圧されたキリシタンは、徳川と豊臣の戦争に巻き込まれる事を恐れ、キリスト教会に影響下にあった日本の小ローマと称された長崎に避難した。
 イエズス会は、各地で行ってきた武闘路線を放棄して平和路線を採用し、異教徒同士の大名紛争には一切関与しないという基本方針を打ち出していた。長崎に逃げ込んできたキリシタンを守る為に、より安全な避難地として島原や天草の山間僻地に幾つかの隠れ里を設置した。
 世界中を絶対神の愛の信仰で満たそうとするキリスト教会は、地元の反キリスト教勢力の迫害に晒され続け、絶えず皆殺しの危険にあった為に、キリシタンを守るべく用意周到の自衛手段を講じていた。
 キリスト教会は、地球上の何れの土地でも、地元の民族宗教や土着宗教との平和共存を望まず、異教徒の信仰を一切認めず容赦なく宗教攻撃を繰り返していた。
 ジョアン・ウルマン神父「日本をたつ前に大坂の戦争が始まっていたとしても─家康はそれを気遣っていたのだが─そのような問題にかかり合う代わりに潔く追放されて行った。もし右近が大坂側に加わったら、戦争の結果は随分違っていただろうと家康自身も思った」
 ペドロ・モレホン「日本の教会とキリシタン達は、初代教会と同じく大きな反対と迫害を受けて来た。そのあるもの部分的で、大名達の領土におけるものである。しかし、それが非常に多く絶える事がなかったから、迫害者のいないというのは極めて稀にしかなく、ここかしこという様に必ず、どこかの地域に迫害者がいた。ところが、日本国の主君たる天下の主によって引き起こされたものは全国的なものである。それは神父達を追放し教会や修道院を破却し、一切のものを没収しただけでなく、キリシタンやその親戚、友人、従者を追放し、知行地も財産も取り上げ、ついにキリシタンを殺した。1614年、源家康すなわち、全日本の王であり、領主である現在の将軍によって始められた迫害ほど全般的にひどいものはない」(『日本殉教録』)
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 2015年12月5日 産経ニュース「【小山評定の群像(84)】松平忠輝 75万石から転落、悲運の御曹司
 徳川家康は男11人、女5人と子だくさんだった。長男・信康は織田信長との同盟時代に自刃しており、小山評定に関係があるのは、次男・結城秀康、後継者である三男・秀忠、四男・忠吉の3人だ。五男・武田信吉は江戸で留守番。六男・忠輝以下は子供で、七男、八男は早世した。九男・義直(よしなお)(尾張)、十男・頼宣(よりのぶ)(紀伊)、十一男・頼房(よりふさ)(水戸)の御三家の祖は生まれてもいなかった。兄弟だが、徳川を名乗るのは将軍家と御三家。ほかは松平姓だ。
 忠輝は弟として2代将軍・秀忠を支える役割が期待され、越後・高田藩新潟県上越市など)の太守となるが、逆に終始警戒されてしまう。まず周辺に伊達政宗大久保長安と一筋縄ではいかない人物がそろった。長安は死後、不正蓄財と謀反計画が発覚したが、上越市立総合博物館学芸員の花岡公貴さんは「でっち上げだろう。大久保、本多の派閥争いが実像」という。おかげで忠輝謀反の噂(うわさ)は多くの人の口の端に上ったが、「積極的に否定している様子がない。周囲の噂にも無頓着なタイプだった」と花岡さん。関与していない謀反の弁解なんて潔くないとの思いはあったろうが、御曹司の甘さは付けいるすきを与えた。大坂夏の陣での曖昧な行動が致命傷になった。
 隆慶一郎の小説「捨て童子松平忠輝」で作られたイメージは家康に愛されなかった鬼っ子。剣術に優れ、将たる器でありながら悲運の生涯を送った。それでも多面的で魅力的な人物像は地元で愛されている。昨年は高田城開城を顕彰する「高田開府400年」のプロジェクトが上越市で展開された。
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 松平忠輝(まつだいら・ただてる)1592〜1683年。妻は伊達政宗の娘、五郎八(いろは)姫。信濃川中島12万石から越後・高田を合わせた75万石に。1616年の改易(かいえき)で20代で表舞台から退場。幽閉先の諏訪で死去したときは92歳だった。
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