⚔36)─1・A─キリスト教原理主義者は、天皇を殺害すべく聖戦を謀議した。1600年~No.146No.147No.148 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 白人キリスト教徒は、日本人を人間以下の家畜として扱っていた。
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 石田三成の息子は米沢と津軽で生き残った。
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 中世キリスト教会は、聖戦論を唱え、異教国をキリスト教国で変え、異教徒をキリスト教に改宗する事を神聖な使命とし、拒絶する異教徒を神の御名において根絶やしにしその国を消滅させた。
 キリスト教原理主義者とは、純真な宣教師と敬虔なキリシタンである。
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 デカルト「この実際的な哲学によって、火、水、空気、星、天空、その他われわれを取り巻くあらゆる物体の力と作用とを、我々が職人の様々な技能を知るのと同じほどに判明に知り、それを職人と同様な仕方で全ての適当な用途にあてる事ができ、かくして我々を自然の主人にして所有者にする事ができるであろう」
 西洋は、キリスト教価値観で自然を支配しコントロールしようとしていた。人間の命令に従わず災害を繰り返せば、容赦なく破壊し、従うように大改造した。
 キリスト教は、自然や動植物とは白人の為に作られ、白人の生活を快適にする奴隷であると教えている。神似せて創られた白人、自然や動植物の為に犠牲になってはならないと。
 西洋の科学は、絶対神の御心を解き明かし、絶対神の大いなる法則を証明する為に発達した。
 科学者の多くが、無神論者ではなく、その正反対の敬虔なキリスト教徒であった。
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 戦国大名の女達は、盟約を結んでいる大名、盟約を結びたい大名、味方に付けたい有力家臣、戦って勝てない敵対する大名、多くの理由で政略結婚をさせられた。
 だが。女性は、人質とて軟禁状態に置かれたのではなく、嫁ぐ事によって女領主となった。
 日本には武官としてのサムライはいたが、中国・朝鮮のように戦場に行かない文官はいなかった。
 戦国大名が重立った家臣を引き連れて戦場に出陣した時、留守を守り行政を行うのは大名の妻の役目であった。
 戦国大名は、妻が平穏無事に領地を統括し城下を治める事で、安心して、家臣の重立った者を率いて戦場で戦う事が出来た。
 戦国時代とは、有能な親族や家臣を残して後の事を任せては、いつ何時謀反を起こされて領地を奪われるか分からない下剋上であった。
 それは、商家でも、農家でも、同じ事であった。
 サムライの天下であった江戸時代まで、大和撫子とは、夫を立て男にかしずく控え目で温和しい良妻賢母の女性ではなく、家を護り子供を守る為には鬼にも夜叉にも代わりうる強かな女武者であった。
 留守を預かる女性は、領地経営をする為の政治・経済能力、敵が攻めてきたら撃退する為の戦略・戦術能力、敵兵を前にして刀や弓矢を持って戦う武芸、他の大名との外交能力、朝廷・幕府・寺院と付き合う為の文学・芸能・芸術などの文化能力、数多くの分野で高度な能力が要求されていた。
 そして、沢山の子供が産める健康な女性が理想の女性とされた。
 日本人に於いて、多くの男は腕力はあっても智慧では女性には敵わなかった。
 日本の女性が、他国の女性のように世の中で目立たないのは、賢かったからである。
 賢い女性を妻とした男は出世して家を残したが、愚かな女性を妻とした男は出世できず家を潰した。
 女の愚かな差配一つで、領地を失い、家を滅ぼした。
 それは、悲劇の女性ではなく、悲惨な女性である。
 悲惨な女性の代表が、豊臣家を滅ぼした淀君である。
 逞しく生き残ったのが、豊臣秀吉のおねであり、山内一豊の千代であり、前田利家のまつであり、徳川秀忠の江である。
 江戸時代までの女性には、発言権もあったし、相続権もあった。
 相続には、血のつながった男系と女系の双系と、血のつながっていない他家からの養子の二通りがあった。
 日本が栄える時は、女性が表に出る事なく後ろで賢く男を操っている時代である。
 日本の女性は、儒教に縛られた中国・朝鮮の女性とは正反対であり、キリスト教イスラム教やユダヤ教の女性とも違っていた。
 女は、男より知恵が無い。
 女には、三界に家はない。
 女は、男の悟りの邪魔になるから遠ざける。
 日本社会は、建前として男性上位の亭主関白であっても、本音では女性上位のカカァ天下であった。
 日本の女性が変わったのは、明治維新キリスト教的家父長制が採用されてからである。
 絶対神は、塵や土塊から男を創造し、男の肋骨から女を創造した。
 明治以降。日本の女性は、発言権を失い、相続権を奪われ、家庭に閉じ込められ社会に出る事が出来なくなった。
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 徳川家康の母・於大は、家々を踊って回る貧しい旅芸人一座の一員である願人坊主の娘であった。
 家康の祖父は、諸国を放浪する乞食坊主で、出身身分は不明である。
 於大は、三河国松平郷の土豪松平広忠に嫁いで家康を生んだ。
 松平家の祖先は、清和源氏・新田氏の一族で上野国新田郡世良田を領地とする土豪得川氏である。
 得川親氏の代に、わけって故郷を出奔し、諸国を放浪しながら松平郷に流れついて松平氏の入り婿となった。
 徳川家康の血筋は、正統な武士なのかどうかハッキリとはしない。
 この時代以降の武士・サムライは、出身身分は定かではなく、その大半が貧しい階層の出であった。 
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 17世紀初頭。イスラム教徒が支配するモロッコからリビアにかけの港に、20万人から30万人の白人キリスト教徒の奴隷がいたといわれている。
 キリスト教国が、信仰を同じくする者を救出する為の聖戦を起こす事はせず、交易で利益を得る事を優先した。
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 1600年頃(第107代後陽成天皇)の日本の総人口は、約1,227万人で内キリスト教に改宗した者は70万人以上とされている。
 改宗日本人は、北は蝦夷地から南は琉球まで広範囲にいたが、北九州と京都・奈良・堺の近畿地域に集中していた。その中でも、長崎から島原にかけては特に多かった。
 信仰心篤いキリスト教徒日本人は、ポルトガル人やスペイン人商人らと共に、殺生禁止とされている各地の神社の神域に入り込んで狩猟を楽しんでいた。奈良・春日大社の神の使いとされている神鹿も、絶対神から与えられた当然の権利として殺して食べていた。
 宣教師は、異教の神への敬意を払わず、異教徒の偶像崇拝を嫌うだけに、キリスト教徒の蛮行を奨励はしなかったが止めもしなかった。
 祖先神への信仰心を持った日本人は、「神の使いである神獣を殺して喰らう事は罰当たり」であると非難したが、領主が支援してくれなかった為に止める手立てを持っていなかった。
 肉食文化を持った牧畜狩猟民族のヨーロッパ人は、全ての動物は人が食べてもよい様に絶対神が授けてくれた恵みであるとして、肉食を野蛮行為と嫌う日本人の制止を無視して神鹿を殺しては上手そうに食べていた。
 大陸の牧畜狩猟民族は、自然を破壊し、動植物を好き放題に殺して、富を蓄え、豪華で贅沢な生活を楽しんでいた。
 島国の農耕漁労民族は、自然を守り、動植物に無駄な負担をかけず、華美を避け、慎ましやかで貧弱な生活をいそしんでいたしていた。
 キリスト教徒は、世界的な普遍的価値観で日本を高度な文明国として教化する為に、祖先神や職業神や自然神を崇める偶像崇拝民族宗教を撲滅する活動を、日本各地で行っていた。
 絶対神一神教であるキリスト教は、教祖を持たず布教をしない、わかりやすい聖典や道理にかなった教義や理屈に合った教理もなく、妥協を許さない厳格な戒律や律法らも持たない、八百万の神々をシャマン的に崇める文化度の低い多神教神道天皇中心物語)を日本から完全排除しようとした。
 ムラ人日本人は、2000年以上の永きに渡って守り受け継いできた民族中心の自然宗教を否定するキリスト教を敵視した。
 島国の農耕漁労民族である日本人は、犬や猫はもちろん牛や馬を、共に働きながら生活する家族の一員としてい大事に扱い、死ねば神として崇めていた。
 神社を参拝する気弱な日本人は、祖先神から授かった「命」を大事にし、先祖神から受け継いだ「血」を流す事に恐怖していた。
 臆病な日本人は、命あるモノ全ての死を忌み嫌っていた。よって、大陸の牧畜狩猟民族とは違って、肉食の習慣は乏しかった。
 人はもちろん動植物から自然すべてが神そのものである以上、そうした神を、自己満足的に支配し破壊するという考えもなかった。
 神道天皇心神話)の信仰心を持つ日本人にとって、神をも恐れない蛮行は非人間的傲慢な考えであり、神を恐れない罰当たりな所行であった。
 一神教の普遍宗教を信仰するキリスト教徒は、日本の土着信仰として2000年のあいだ民族間で守られてきた八百万の神々(祖先神、職業神、自然神、その他)に対する敬意を持たず、神の裔として日本人の精神的道徳的良心的中心である祭祀王たる天皇の神聖に対する畏敬をも持っていなかった。
 敬虔なキリシタン大名達は、北九州と京都を中心とした畿内に多くの領地と軍隊を持っていたが、彼らを一つにまとめる宗教的指導者(皇室内の改宗者)がいなかった。
 宣教師達は、日本人の多くが各地の神社を大事に守っている姿を見て来ただけに、世界中で成功した方法である圧倒的軍事力で日本をキリスト教化する事は不可能と判断し、日本民族の支柱である皇室を改宗する事が第一であるとして全力をあげていた。
 如何なる手段を使っても日本をキリスト教化すべく、天皇もしくは皇族を改宗させようとした。
 各地の教会堂やコレジオ(宣教師の養成機関)やセミナリオ(神学校)は、日本をキリスト教化する為の聖戦(絶対神八百万の神々との戦い)に備えて大量の武器弾薬と莫大な軍資金を隠匿していたといわれている。
 日本に「神の国」を到来させる為に内戦の勃発と拡大を画策し、日本人を絶対神の奴隷・下僕とする為に自由を奪い絶望を植え付けようとした。
 宣教師は、唯一絶対神の奇跡と普遍的教義を唱え、戦争の惨禍と天災の悲惨を信仰を持たない事に対する神の天罰と説教した。罪人として、生まれる以前からの原罪を認めて悔い改め、絶対神の愛に目覚めよと説いた。絶対神への信仰を持った者だけが、天国で永遠の命を授かる事が出来ると教えた。
 意図的に混乱を作り出し、殺戮を演出する事で、日本人に洗礼を強行しようとしたのである。
 これは、まぎれもない一神教の絶対宗教と多神教の相対宗教による宗教戦争であった。
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 1600年代 インディアン酋長の白人入植者への言葉「私は、自分の国の誰よりも、平和と戦争の違いをよく知っている。なぜ貴方達は、愛によって静かに得られるものを、力ずくで奪い取ろうとするのか? 貴方達に食べ物を提供している我々を、滅ぼそうとするのか? 戦いによって何が得られるというのだろう? なぜ貴方達は、我々を妬むのか? 我々は武装していないし、貴方達が友情を持って接してくれるのなら、望むものを差し出したいと思っている。その上、貴方達イギリス人から逃げ、森の中で寒さに震えて横たわり、堅い木の実や根の様な物を口にし、食べる事も眠る事もままならないほど追い回されるよりも、美味い肉を食べ、安らかに眠り、妻や子供達と穏やかに暮らし、貴方達イギリス人と笑って楽しく過ごし、銅や手斧と交換する方が遙かにましだ、という事がわからないほど無知ではないのだ」(ハワード・ジン『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』)
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 イギリスは、インドを植民地化する為に戦争を繰り返して支配地を広げ、利益につられて味方になる地方領主を増やし、ムガール帝国を内部から崩壊させた。
 如何に強力な国家でも、内部から滅亡した。
 目先の利益で敵に味方する者が増える事で、帝国は滅んだ。
 清国も、西洋から金儲けの誘いに目がくらんだ裏切り者によって、内部から崩壊した。
 日本も、内部崩壊の危機に晒されようとしていた。
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 1600年 宣教師達は、布教活動を行う手助けとして、教義を分かりやすく説明した『どちりなきりしたん』という小冊子の作り、キリシタンとして守るべき7つの決まり事を書き記した。
 日本人は、現世重視的考えから、結婚したら生涯寄り添わねばならないという掟が理解でず、離婚できない事に抵抗した。
 イエズス会は、キリストの教えが日本化して世俗化する事を恐れ、厳格な禁欲を日本人キリシタンに求めた。
 快楽に弱い日本人は、酒も女も間男も禁止、結婚したら離婚は禁止、といった禁止づくめのキリシタンに息苦しさを感じて毛嫌いした。
 仏教は、日本化して世俗に染まり性欲に乱れて堕落したが故に日本に、愛欲におぼれる日本人に信用されて根付いた。
 キリスト教は、世俗せず日本化しなかった為に、日本人に嫌われた。
 日本は、キリスト教が「獣の趣向」と憎悪する「心中・不倫文化」「遊女・お座敷文化」「男色・同性愛文化」など、本来は隠していたい秘め事を表文化として持っていた。
 愛欲に溺れて楽しむ日本人は、古代から受け継いできた愛欲文化を守る為に、人間欲を完全否定する禁欲を美徳とするキリスト教を拒絶した。
 日本人が『古事記』や『万葉集』などで情愛文化までに高めた「愛欲」と、キリスト教が広めようとした禁欲の「隣人愛信仰」は、水と油のような相容れない「愛」の形であった。
 日本人は、キリスト教が仏教のように愛欲を容認してくれれば受け入れたが、不倫や同性愛を人倫にもとる獣行為と告発し破壊しようとしたが故に邪教として弾圧した。
 日本は寛容を持って接したが、キリスト教は不寛容で応えた。
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 1600年 イギリスは、アジア交易の本格参入する為に東インド会社を設立した。
 3月16日 オランダ船リーフデ号(エラスムス号)は、難破して豊後国に漂着した。
 スコットランド人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)が航海士として乗船していた。
 5月12日 徳川家康は、アダムスを引見し、海外交易を発展させる為についての意見を聞いた。
 イエズス会の宣教師は、プロテスタントのアダムズらを海賊の一味であるとして処刑を要求した。
 徳川家康は、両名を保護し、ヨーロッパや世界の情勢とローマ・カトリック教会及びイエズス会が行ってきた布教活動を詳しく聞いた。
 オランダは、徳川家とその配下の大名にマカオ産の大砲などの武器弾薬を売った。
 イギリスも、徳川家に武器を輸出した。
 オランダは、スペインが支配する東アジアや東南アジア海域に軍艦を派遣して、植民地を拡大し、抵抗する原住民を容赦なく虐殺して奴隷化した。
 7月16日 細川ガラシャは、細川忠興の妻であり明智光秀の娘として、キリシタンの教えよりも戦国で生きる武家の女としての覚悟から自決を選んだ。
 「自分が自害した後には屋敷に火を付けるように」
 敵の手に落て人質となり、忠興の決意を鈍らせ、細川家を滅ぼす事を恐れて、屋敷に火薬を撒き自裁した。
 侍女は、命じられたように、ガラシャが自刃したのを見届けて火を付けた。
 ガラシャの死によって、細川家は改易される事なく明治まで存続し得た。
 もしガラシャが死ななければ、安芸の福島家や熊本の加藤家のように難癖を付けられて潰されていた可能性がある。
 細川家が存続した御陰で、藩士とその家族、各藩士の郎党と家族、数十万人が路頭に迷う事がなかった。
 ガラシャ一人の命が、細川藩に関係する全ての人々を救ったのである。
 細川ガラシャは、裏切り者・明智光秀の娘であり、大名・細川忠興の妻として、見事に自刃して波乱の生涯を自ら閉じた。
 絶対神の僕としてではなく、武将の娘として死んだ。
 辞世の句「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花は花なれ 人は人なれ」
 イエズス会は、日本人キリシタンに自害ではなく殉教死させる為に、日本人聖女を作るべく細川ガラシャの最後を意図的に創作した。
 9月15日 関ヶ原の戦い徳川家康の東軍、7万人〜10万4,000人。戦死者4,000人〜1万人
 石田三成の西軍、8万人以上。戦死者8,000人〜3万2,600人。
 一日の戦いで、東軍が勝利した。
小西行長キリシタン大名が多く参加していた西軍は、徳川家康の率いる東軍に一日で惨敗した。
 大阪城にいた石田三成の嫡男重家は、西軍の敗北を知るや、京都・妙心寺塔頭、寿聖院に入って出家して、法名を宗亨(そうこう)と名乗った。
 重家は、寺に謹慎し、京都所司代を通じて助命を願い出ていた。
 徳川家康は、家重を許した。
 妹のおなあも許され、後に春日局に請われて江戸の大奥に出仕し、家光の後継者問題で活躍した。
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 合戦となった関ヶ原の百姓達は、落ち武者狩りをせず、その逆に西軍兵士を匿いそして本国に逃がした。 
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 徳川家康日光東照宮、出自あやふやな地方小領主)は、西軍に味方したキリシタン大名を含む90家を改易し、キリスト教勢力を弱体化させた。
 日本におけるキリスト教会の力は、異教徒によって急速に衰退した。世界を「キリストの御名」によって浄化しするという普遍的な使命は、頓挫させられた。
 加藤清正加藤神社祭神)は、恩賞として、旧小西領を加増された。
 キリシタン大名小西行長支配下で逼塞していた仏教とは、熱烈な日蓮宗門である加藤清正を新たな領主に迎える事に歓迎した。
 仏教徒は、加藤清正キリシタン追放を願い出た。
 加藤清正は、領内にキリシタンがあまりにも多い為にキリシタン追放は徹底できなかった。
 だが。キリシタンは、加藤清正を嫌って自主的に立ち退き、キリシタンに理解を示している久留米や柳川に移り住んだ。
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 徳川家康は、石田三成を高く評価して、生き残った三成の家族は許し、領地を没収して追放とした。
 石田三成の長男で家督を継いだ重家は、出家して仏門に入った。
 石田重家の妻は、越前の北の庄に逃れて男子(直重)を出産した。
 石田直重は、越前の松平家に仕え、主家が越後の高田への領地替えに従って越後に移った。
 石田家は、藩主が配流の処罰を受けて藩が取り潰されるや、武士を捨て妙高の庄屋になった。
 加賀の前田家は、江戸への参勤交代で必ず妙高の石田家で一休みし、参勤交代の安全を祈願して建立した神明社(祭神は、伊勢神宮の神霊)に祈願した。
 徳川家康は、石田三成は処刑したが、生き残った家族は助けた。
 嫡男は、出家して謹慎を命じた。
 次男は、大阪城にいて豊臣秀頼に仕えていた為に罪を不問とした。
 長女の夫・山田勝重は、後に2万石の大名となった。
 次女は、蒲生氏郷重臣に嫁ぎ、その孫は三代将軍家光の側室となった。
 三成の曾孫は、家光との間に千代姫を生んだ。
 千代姫は、尾張徳川家正室となった。
 三女の振姫は、津軽藩主の側室となったが、三代藩主は家康の養女である正室ではなく振姫の子供がなった。
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 大谷吉継の孫・隆昌は、残党狩りを逃れて、父祖の地である上野国に落ち延びた。
 厩橋藩主酒井は、北の政所の縁戚にあたる大谷隆昌を保護するべく家臣として召し抱えた。 
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 主家を取り潰された西軍の侍達は、徳川家康の支配を嫌って東南アジア各地にある日本人町に大挙して移り住んだ。
 日本人貿易商人達は、戦闘能力に高い侍達を地元の王家や領主に傭兵として提供し、その見返りとして特権を獲得した。
 和辻哲郎「国内の敵を制圧する事であって、日本民族の運命でもなければ、未知の世界の開明や世界的視圏の獲得でもなかった」(『鎖国──日本の悲劇』)
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 石田三成の息子は、弘前藩藩主津軽為信の庇護を受け、津軽家の家老になり、死後は墓跡名には「豊臣某」と豊臣姓を刻んだ。
 為信の息子の妻は、三成の娘・辰姫であった。
 津軽為信は、南部藩から独立する際に三成に世話になった恩義から、徳川家康が天下人になっても三成の遺児を保護した。
 弘前藩は、徳川時代でも藩租津軽為信の遺訓を守って三成の子孫を家老職につけ、石田家に繋がる近江商人の経済支援を受けて藩財政を運営した。
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 1600年 自然哲学者ジョルダーノ・ブルーノは、ローマのカンポ・ディ・フィオーリ(花の広場)で、異端審問で有罪となり公開で生きたまま火炙りの刑に処せられた。
 「私を裁く貴方達が、真理の前に恐怖に震えている」
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 1601年 結城秀康は、石田重家の子を宿した妻を引き取った。
 その妻は、三成の血を引く子供を越前で出産した。
 越前松平家は、三成の孫を承知で保護し、後に越後・妙高の庄屋にしてその血筋を残した。
 オランダは、アジアの拠点としてタイに商館を設け、カンボジアに次いでベトナムメコン河の河口に入港した。
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 1602年 スペイン総督は、日本との交易をポルトガルから奪う好機として交易船を送った。
 オランダは、アジア貿易を独占する為にジャワにオランダ連合東インド会社を設立し、植民地支配を行う為にキリスト教改宗者と中国人を利用した。
 この後、各地に相次いで商館を開設した。10年にジャカルタ。12年にインドのスートラ。13年にタイのアユタヤと平戸。
 東インド会社は、探検隊を南半球に派遣してをタスマニア島を発見し、ニュージーランドにも到達した。そして、オーストラリア大陸を発見した。
 オランダは、利益の為に数え切れないほどの異教徒の地元民を餓死に追い込んだ。
 ドミニコ会とアウグスティノ会は、日本での布教活動を本格化させ、同じスペイン系のフランシスコ会と協力し、強固な宗教地盤を築いているポルトガルイエズス会を弱体化させるべく激しく非難した。 
 イエズス会も、負けずに、三修道士会を口汚く誹謗中傷した。
 日本人キリシタンには、各修道士会の違いがわからず、罵詈雑言を投げ合って醜く泥仕合を繰り広げるキリスト教に困惑した。
 日本の偽善者は、キリスト教会同士の宗教対立が、ヨーロッパ世界の様に血生臭い宗教戦争に発展する事を警戒した。
 サムライ日本人は、自分の経験から、不毛な宗教戦争を最も恐れていた。
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 イエズス会のイタリア人宣教師マテオ・リッチは、北京で刊行された世界地図『坤輿(こんよ)萬国全図』に「日本海」という名称を掲載した。
 西洋の世界地図はヨーロッパが中心であったが、東洋の世界地図は日本が中心であり、日本海という名が書き加えられていた。
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 加賀の前田利長は、父前田利家の遺訓に背いて徳川側に次ぐべく母おまつの血縁である親豊臣派の太田長知を、新規召し抱えの横山長知に命じて殺害した。
 1605年 親豊臣派重臣達は、隠居している弟の利政を次期藩主にと望んでいた。
 前田利長は、徳川秀忠の娘を正室とする利常に家督を譲って、越中富山に隠居して引き籠もった。
 そして、客分として金沢に滞在している高山右近に新藩主利常の補佐を依頼した。
 高山右近は、徳川幕府に忠勤を励む利常を支え、親豊臣派や利政派らを押さえるたが、利長が死亡するや金沢を離れてマニラへ渡った。

 
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