✽284)285)286)─1─応仁の乱・戦国時代の下剋上とは階級・階層破壊の下級民暴力革命であった。会津藩・長州藩・薩摩藩。〜No.570No.571No.572/         

応仁の乱 下剋上への道 (英和ムック)

応仁の乱 下剋上への道 (英和ムック)

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・  【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】 ・  
 江戸幕府とは、出自が定かでない、たぶん身分が卑しかったであろう下級者による支配体制であった。
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 戦国時代の下剋上とは、下賤身分(下級階層)の上昇意欲による庶民革命であった。
 日本の社会変革は、上からではなく下から起きる。
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 由緒正しい名門名家の武士・武者は、戦国時代に没落し、その多くが滅んだ。
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 下賤の者は、武士・サムライを名乗って闊歩した。
 日本に、ニセ武士・ニセ侍が威張っていた。
 武士道は、ニセ武士・ニセ侍に士道を教え鍛える為に生まれた。
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 日本民族の歴史において、普遍的マルクス主義史観は当てはまらないどころか無用であり、むしろ有毒で害のみを垂れ流している。
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 現代の日本人は、武士・サムライの子孫ではなく、さらには何時の時代の日本人とも違う別人格を持った別人的な日本人である。
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 2017年12月22日号 週刊朝日司馬遼太郎と明治
 講演録 幕末三藩 上
 ……
 会津人と長州人と薩摩人とでは、外国人同士ではないかというぐらいに違うのです。同じ日本人としてくくるのは少し無理だと、私は感じています。
 ……
 皆さんは日本の歴史を長いものだと思っていらっしゃるでしょうが、お隣の中国から」見ると、実際は短い歴史でしかありません。
 漢帝国時代は中国の文明が最高潮に達していた時期だと私は考えますが、例えば漢文も漢の時代のものがいいですね。司馬遷の『史記』を読んでも、爛熟した文明社会における人間関係を感じます。
 そのころの私たちは古代史と呼ばれる時代にいましたが、実際は未開時代と呼ぶべきでしょう。
 その後の奈良朝、平安朝にしても、そんなにたいそうな時代ではありません。
 文化を考えてみますと、奈良時代といっても天皇を含めた一部の貴族が税金を自由に使って、お寺をたくさん建てたぐらいのものです。
 平安朝といいましても、宮廷の女官たちが『源氏物語』を書いたり、読んだりしたぐらいのことです。
 人口も平安初期、弘法大師の出たころでだいたい5、600万ぐらいのものだと思います。そのほんの一部の人たちだけが中国文明の恩恵を受けていたわけで、庶民までが参加する普遍的な文化ではなかったのです。
 私たちの文化は室町時代から始まります。民謡なども、室町時代が始まりですね。三度の食事を食べるのも、部屋の中に畳を敷いて床の間をつくるのも、この時代からです。
 ……
 そして江戸時代に入り、庶民の教養は飛躍的に向上しました。
 日本に江戸時代という大変な勉強時代がなかったら、明治の日本も、いまの日本もなかったでしょう。
 一例を挙げますと、大坂という町は武士が200人ほど奉行所にいるだけで、残りの40万人ほどは全部町人です。
 その時代にあった寺子屋は、いまの小学校の数よりも多かったようですね。あちこちにありました。江戸末期の就学率はおそらく世界一だったと思います。
 マルローが言った日本独自の武士道
 つまり、明治になって小学校ができるまで、単に寺子屋が転換しただけであり、江戸時代の充実ぶりがこのことでもわかります。
 ……
 だいたい欧米の人の認識は、日本は中国の分家だろう、日本文化といっても中国のブランチ、支店だろう、そんなものなのですが、マルローは違いました。それは世界中の誤解だ、日本と中国とは違うんだと言う。
 ……
 武士といっても時代によって違いますから、ややこしいですね。
 鎌倉武士というものがあります。
 先ほど日本の庶民、民衆の生活文化の歴史は室町時代に始まるということを申し上げましたが、鎌倉時代から始まる歴史というのは、日本人の土地私有の歴史であります。
 今日の日本の現状から見れば、土地私有の問題はどうにかしなければいけないところまできていき、私もまたその論者の一人ですが、鎌倉期においては意味があったのです。
 ここは畠山某が開いた土地だ、北条某が開いた、会津だと蘆名が開いた、仙台だと伊達が開いた土地だとなる。
 汗水流して開墾した土地は自分のものだという、当たり前のことが確立することで、日本は律令体制を打ち破ることができました。
 働けばそれだけ自分の土地になるのですから働き者にもなりますし、開墾は女房と一緒にやりますので、キリスト教によらずして、鎌倉武士の世界では一夫一婦制が確立しました。
 『名こそ惜しけれ』
 というモラルも確立した。
 アメリカの西部開拓の農場主のようなものでしょう。
 その後、武士の概念は変遷します。
 戦国時代の武士は、いわば技能者であり、そこに忠義などはありません。
 哲学を好む初代藩主保科正之の知性
 戦国時代にこういう言葉がありますね。
 『七度主人を替えないと一人前の武士ではない』
 大坂夏の陣で戦死した塙団右衛門もずいぶん主人を替えていますし、後藤又兵衛も二度替えています。
 鎌倉武士なら昔の日本犬のように、主人に忠実な郎等となって戦場に出ていきますが、戦国期になつと自我、そして職業意識が強まっていく。
 戦国大名を考えてみましょう。
 秀吉がいい例ですね。秀吉は天下を統一し、関白になってよく夜話をしました。ところが少年時代の話だけはけっしてしなかったそうです。何をしていたのか、ちょっとお話しできないような生活だったと思います。
 だいたい戦国大名で江戸初期まで生き残った大名というのは家系をつくりますが、調べてみますと本当かなんというものも多い。
 そこにレボリューション(革命)があります。
 フランス革命は偉大な革命でしたが、日本では応仁の乱から豊臣時代にかけての乱世は、革命意識を持たない一種の革命作用だったと思います。
 応仁の乱には、農家の次男、三男が戦場に出てくるのです。彼らは田畑は十分に相続できず、鍋釜の職人になるのも数は知れている。そこで力の強い者は足軽になります。
 京都に出てくれば、いろいろな大名同士の戦いの、いわば下請けのような戦いが続いている。これが応仁の乱ですね。そのうちに身分のいい人は滅んでいき、足軽風情の者の中から力のある者がのし上がる。戦国時代というものでした。
 こうした戦国武士たちは、戦国大名も含めて、潔さを尊ぶ武士ではありません。己の利益で動きます。損得勘定が行動の基盤になっていました。
 のちに関ヶ原の戦いがありっました。
 東軍、西軍あわせて約20万人の兵が集まった合戦で、この時代では世界的に見ても、大規模な合戦でした。
 有名なワーテルローの戦いにしても、関ヶ原とほぼ同じ程度のものです。
 関ヶ原の現場をごらんになるとわかるのですが、関ヶ原は狭い盆地になっています。
 決戦当日の払晩までに西軍の石田三成方は布陣を終えました。盆地の重要なところを占め、東から来る徳川方は袋の中に、縦隊の形で攻め込んできた。徳川方は袋の中のネズミのようなものであり、しかも石田方のほうが人数は多かったのです。
 しかし実際に石田方で戦ったのは石田三成の軍隊と、1、2の大名だけでした。あとは陣地に待機して眺めていたり、裏切ったりでした。
 一方、徳川家の旗本、譜代の大名といった人々はほとんど働いておりません。井伊家ぐらいが働き、あとは豊臣譜代の福島正則といった人々がわれ先にと戦った。
 これは当時の武将の性質をよく表しています。戦略的に優位な位置を占めながらも石田方が総崩れになったことは、東軍の大名も西軍の大名も、新しい時代は徳川だと考えた。利益の多いほうについたのです。
 しかし先ほど申し上げたように、江戸時代は形而上的なものが大事だというモラルになった時代でした。
 例えばお金持ちよりも、貧乏だけれど世界的な学問を持っている人を尊敬しますね。われわれの中のこの習慣的な気分は、江戸時代という教養時代があったからです。
 あの人はお金持ちだからついていくというのは関ヶ原までの思想です。
 家康は230万石の大大名ですから、ついていけば論功行賞にもありつける。小切手をも切ってくれる。
 対する三成は19万石で小切手も小さい。資本金230万石にみんなついていったおが戦国武士の現象でした。
 しかし人間にとって重要なのはでは『銭』ない。『物』ではない。
 それが江戸時代の会津藩において盛んだったのは、初代藩主の保科正之というインテリの存在が重要でした。
 この江戸初期の人物は、まだ戦国武士の蛮風が残っている時代にあって、非常に形而上的な、哲学の好きな人でした。初代藩主として、つくりあげた藩風とは、まず書物を読むことを尊い。そして単に読むだけではなく、書物を読み、行動することが尊い。このことが全藩あげて、繰り返し繰り返し、学んできたのが会津藩でした」
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 12月29日号 週刊朝日司馬遼太郎と明治 
 講演録 幕末の三藩 下
 長州は毛利元就が祖先になります。
 元就は戦国の英雄で、中国地方のほとんどを押さえた大大名でした。
 豊臣時代になって毛利の版図はわずかに狭まりましたが、それでも中国地方の主人に変わりはなく、中心を広島に城を持っていました。
 その大毛利が関ヶ原では大軍を擁しながら、南宮(なんぐう)山という山の頂(いただき)に登って、ついに一発の鉄砲も撃たずじまいでした。
 毛利が動けば時代も変わったかもしれませんが、毛利は石田ではだめだ、徳川だろうと、土壇場で考えてしまったのです。
 終わってから毛利は幕府に頼みますね。おれのところは戦わなかったんだから勘弁してくれと。しかし、そんなに大きな大名をそのまま残せば禍根が残る、そう幕府は考えた。周防、長門の二国、いまの山口県一県に押し込めた。
 120万石が36万石に減らされ、まず毛利は人員整理から始めなくてはなりませんでした。
 毛利輝元の時代です。人のいい殿様で知られています。だいたい毛利の殿様は輝元以来明治維新まで、それほど目立って賢い人は出ていないようです。そのために下々が働きやすかったといわれるくらいなのです。
 しかし、その輝元にしても幕府に泣きつき、もうやっていけない、大名をやめ、毛利家を解散するとまで言って申し出た。結局だめでたくさんの家来を連れて萩へ行きました。給料を払えない家来も多く、彼らは土着して、開墾百姓になっています。
 ですから長州の武士は百姓をする人が多かった。そうでないと食えなかったのです。
 吉田松陰の実家の杉家でおかずに魚がつくのは一ヶ月に一度と決まっていました。毎月1日に出るのですが、家族はそれを拝んで食べたそうです。
 松蔭は教育を田んぼの畦道(あぜみち)で受けました。父や叔父が一畝(うね)耕している間、松蔭は畦道で声を張り上げて読む。戻ってきて、いまのはそこが間違っていると教えてくれ、また耕しにいく。それが長州の侍の生活でした。
 江戸時代の初期を過ぎますと、藩をあげて干拓事業が始まります。
 長州藩は飯を食うために、ロウを採ったり、コウゾやミツマタを利用して紙をつくったりして、産業をおこした。
 必死の努力が実り、幕末における長州藩は100万石の収入をあげていたそうです。もともとは36万石ですから、あとの60万石余はまるまる藩に入ってきます。
 これを無駄遣いしないで貯蓄していました。特別会計として積み立てられ、そのお金が全部、幕末における討幕資金として使われたのです。
 幕末の公家は不思議な人々
 よく幕末の時代劇で桂小五郎祇園で飲んでいますね。桂は結局、幾松という芸者と所帯を持っています。
 長州はずいぶん祇園にお金を落としています。そのほかにも長州はたくさんの浪人を抱えていて、彼らを藩邸に入れたり、食わせたりもしました。
 しかし最も重要なお金の使い道は公家対策でした。
 会津藩京都守護職として京都の治安に責任を取らされている時代です。
 孝明天皇の強い信頼を受け、藩主の松平容保が懸命になっているときに、長州藩はややこしいことをする。公家に対する工作でした。
 公家は不思議な人々でした。平安貴族のままのモラルしかなく、鎌倉時代の働き取りのモラルはもちろんありません。博物館的な存在として京都に住んでいて、お金をもらうことにはべつに罪悪感はありません。
 三条実美は明治になって太政大臣になっていますが、この人とも長州系の公家です。三条さん自身も真面目な方ではあります。しかし三条家もたいへん貧しかったそうですね。
 岩倉具視に至っては博徒に間貸ししてテラ銭を取っていたという話までありますから、幕末の公家は貧乏でした。
 ところが長州が都に入ってくるころから公家は豊かな暮らしになっていきます。家来を呼び戻したり、新しく召し抱えたりしていて、しのお金は長州藩から出ていたようです。
 さらに、このころから薩摩藩も大きなお金をばらまき始めています。
 薩摩は琉球貿易や奄美のサトウキビなどでお金を儲け、それがまた京都の公家たちを抱え込む資金にずいぶん使われました。
 それがなぜわかるかというと、明治の大財界人となった渋沢栄一が『徳川慶喜公伝』という本で書いています。
 慶喜がまだ将軍になる前、徳川家を代表する宮廷外交官として京都で活躍していた時期がありました。
 幕府方の公家もいたのですが、鳥羽伏見の少し前の段階で、みな薩摩方に行ってしまいます。
 慶喜は怒りました。渋沢栄一によると、慶喜は弁舌さわやかな人だが、いったん言いだしたら、とことんまで言ってしまう人なのです。慶喜は公家たちにこう言いました。
 『そんなにお金が欲しければ幕府も出しましょう。どうもあなた方はお金に転んでいるようだから』
 公家の本質を慶喜は痛烈に批判し、罵倒したのですが、しかしどうしようもなかったのです。
 薩摩のことを少し話します。
 薩摩にとってもやはり関ヶ原は原点でした。薩摩も大藩です。徳川方につきたかったのですがうまくいかず、なりゆきで石田方についてしまいました。毛利が2万人を動員したのに比べ、最初はわずか200人ほどで西軍に加わりました。
 しかしその一報が国元に届くと、とにかく行かねばならぬと、田んぼで働いていた武士たちが、槍や鎧をかついで薩摩から駆けだし、山陽道をひた走った。結局、関ヶ原では1,000人ほどになったそうです。なかには家に武器を取りに戻るのが面倒なので、前を走っている男の武器を横取りし、
 『おまえはおれの家に戻っておれの槍と鎧を使え』
 と言って走った男もいたという。
 この気風はどこの藩にもありません。どこか台湾の山岳民族でも見ているような感じです。
 西郷隆盛は自分の国を自慢するとき、おれの国の侍の気風がいちばんいいと言っています。非常に素朴で、江戸侍のにおいがしない。非常に古い気質の人間集団であり、要するに薩摩武士とは、600年前の鎌倉武士そのものといっていいでしょう。
 関ヶ原では島津もまた、全く動かなかった。そのうち一兵も動かさずに戦争は負けとなりました。
 退却することもできず、戦争終了後、徳川方の本陣に向かって薩摩は走り始めます。中央突破をする形で、前進退却をはかった。伊勢街道から伊賀を抜け、堺から船で帰ったのですが、生き残ったのはわずか60人ほどでした。
 それ以後の江戸期270年の間、薩摩では関ヶ原の習わしができました。若者が古老の家に集まって、
 『お話が聞きとうございます』
 と言う。古老はよぼよぼの身ながら服装を整え、
 『関ヶ原と申しますのは』
 そう語り始める。語り始めると古老はすぐに泣きだし、聞くほうも泣いてしまい、あまり詳しく話ができなかったそうです。
 素朴な鎌倉武士道こそが薩摩という人間集団の基礎行動でした。
 会津はどうでしょか。
 江戸末期、幕末の日本で強いのは薩摩と会津しかないといわれていました。そして結局は会津と薩摩を中心にして新政府軍の戦いになるのです。
 会津と薩摩の違いは何でしょうか。
 薩摩は鎌倉武士道を残そうとしてきた藩です。戦(いくさ)に強ければよい。主人のために忠義ならばいい。このふたつがあれば理屈な要らない。要するに教養水準は今の中学校程度もあれば十分だと。西郷隆盛だってそうです。
 会津藩士が受ける平均的な教育水準に比べてみれば、おそらく西郷の受けた教育はかなり低いものでした。
 勝海舟が活躍して慶喜を守り抜いた
 西郷が立派な本を読めるようになったのは、二度の島流しにあったときに勉強したためです。
 そして、ある意味で西郷は会津人と似ていると、表現することもできます。
 江戸期270年の教養時代の教養とは、人間いかに生くべきかという生き死にの教養でもあります。
 お酒でいいますと、この教養時代に仕込みまして、ねかせて醸造して酒ができる。それを蒸留してまたお酒にして、それをポントと一滴落とした。
 その一滴のお酒が西郷です。
 西郷は江戸の教養時代がなければ生まれてこないような人物であり、抽象的な感じの人間にできています。
 なんとなく、とらえどころがないでしょう。
 その行動も後藤又兵衛とか秀吉に比べてみるとわかりますが、なんとなく人間臭いないでしょう。その姿が江戸期の教養人の姿です。
 形而上的に考え、行動する、江戸期以前にはいなかった日本人ですね。戦国武士から見れば不思議な日本人が江戸末期に出てきて、その最たるものが会津人でした。
 西郷などの例外はありますが、中学程度の教養の薩摩人と、商売上手で合理的な長州人と、形而上的な思考力を持った会津人とが、幕末の困難な時代に残ったのです。
 中途半端な藩はたくさんあります。
 親藩尾張藩紀州藩、外様の金沢藩など、どうも印象に残りません。
 特色のある薩摩、長州、会津の三藩が京都に集まり、いろいろな革命政略の結果、会津が負けになるのです。
 歴史は繰り返すといいますが、薩摩と長州は関ヶ原の借りを返すことになりました。それなら徳川家に返せばいいのに、実際に仇とされたのは結局、会津でした。
 革命は帝王の命を奪うものです。
 西郷、大久保は革命の中心人物で、革命意識も旺盛でした。大久保利通の書簡を見ると、徳川慶喜の命を奪うのが第一条件であると書いています。
 新政府軍は大坂の鴻池といった金持ちからお金を出させて京都を出発し、途中、草鞋(わらじ)代も出ない様な状態で江戸に向かった。その目的は慶喜の首をはねる、それ以外は何もありません。もしそうなっていれば会津若松は攻撃されずにすみ、私たちは昔の美しい鶴ヶ城を見ることができたかもしれないのです。
 しかし勝海舟という役者がいました。彼は時勢を見抜き、西軍に統一政府をつくらせようとします。幕臣から見れば裏切り者ですが、いわば見返りとして慶喜の命を守り抜くのです。
 もともと2人の仲は悪いといってもいいのですが、海舟は慶喜に謝らせ、謝らせて、とうとう水戸、ついで静岡に引っ込めさせてしまう。
 幕府だって戦えばまだわからない状況だったのですが、慶喜にはインテリの弱さがあったのでしょう。
 こうして革命の目標を失った新政府軍は、次の目標を会津に定め、兵を進めることになったのです。
 しかし松平容保京都守護職として務めを果たしただけです。徳川家を代表する立場でもありません。ただ会津はあまりに強かった。会津を倒せば、それで天下は新しい世の中になったのだ、変わったのだとわかるどろうと、それで会津の恭順は許さずに総攻撃をしたのです。
 それまで強烈な佐幕派だった藩もありましたが、多くは寝返りました。
 新政府軍はそれを全部許しましたが、長岡藩と会津藩だけは許していません。
 特に会津を許してしまえば、戊辰戦争が何のための戦争なのか、さっぱりわからなくなってしまいます。
 それが会津の悲劇になりました。
 薩摩、長州を受けて立った、そしてある時期には凌駕していた会津藩は、江戸教養時代のシンボルのような藩でした。対して薩摩と長州は、江戸以前の何ごとかを引きずり続けた藩でした。
 この特色ある三大人間集団が歴史のなかで、それぞれの役割を果たすことになったと、そう考えるより仕方がありません。
 ……」
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 戦国大名であった織田信長は、祖先は地方の神社に仕えた神職で、名門守護大名に仕えた上級武士の家臣のさらにその分家に過ぎなかった。
 その家臣の多くは中途雇用で先祖代々の古参者ではなく、大言壮語で無能無策な役立たずは誰彼なく容赦なく追放し、さもなくば殺した。
 それが弟や身内であっても依怙贔屓せず情に流される事なく、大人あれ子供であれ、男であれ女であれ、有害として情け容赦なく殺した。
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 天下統一をした豊臣秀吉は百姓の小倅に過ぎず、主君・雇い主を数度替えた。
 後に大名となった家臣達も出身身分は百姓・町人など下級階層であった。
 蜂須賀小六正勝は、木曽川の川並衆(川の民)の頭であった。
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 江戸幕府を開いた徳川家康は、祖先を偽った田舎の土豪出身であった。
 その家臣も半農半武士の出自定かでない貧しい地侍にすぎなかった。
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 戦国時代の日本人は、自分の知識・才能・技術技能を用いれば、城持ち、国持ち、天下を取れるという異常なほどに自信過剰・意識過剰であった為に、主君・雇用主を替えながら逞しく生きていた。
 日本において人を選ぶのは、主君・雇用主ではなく、家臣・雇用者であった。
 それが、日本に漂う「空気」「空気圧」の真の姿で、現代日本を支配している「空気」「空気圧」とは別物である。
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 戦国時代の武士は、江戸時代の武士とは違い主君に対する忠誠心は少なく、性格的に気にくわなければ、正当な評価をせず不当な扱いをされれば、つまらぬ大将だと見切りを付け、無理をして仕えても損をするか下手をすると死ぬだけだとして出奔した。
 弱肉強食の戦乱の時代に生きる武士の智恵とは、勝つと思えば勇敢に戦うが、負けると分かるや一目散に逃げた。
 江戸時代の武士は、戦国時代を戦いそして逃げ回った子孫である。
 その豹変自在の代表が、真田氏と藤堂氏である。
 武士道の真髄とは、生き残る為に勝ち馬に乗る事である。
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 家禄・身分の世襲制、終身雇用の家臣団は、室町時代以前から日本に根付いていた。
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 下賤の庶民が才能と努力で身分の壁を超えて上級階級の武士身分に成り上がり、貧困の下級武士(御家人下士郷士足軽・小者など)が才能と努力で上級武士(旗本・上士)に成り上がり役職手当をえるは、徳川時代からである。
 中華世界の科挙(官僚登用試験)がなかった江戸時代は、人物判断基準は、試験の点数ではなく、本人の才能と努力による実績・業績であった。
 良い実績・業績を出せば出世し家禄が増えるが、失敗すると問答無用で全責任を取らされて無役に落とされるか、最悪、切腹、お家断絶であった。
 能力ある者の出世は、上司・上役の縁故や依怙贔屓もあったが、日本社会は派閥社会の為に優れた良い上司・上役に巡り会えるかどうかの好運次第であった。
 日本が、中国や朝鮮より強かったのは科挙合格の超知的エリートが政治を行い国を動かしていなあったからである。
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 才能ある武士とは、財政を潤す為に金勘定をし、如何なる名目があってもムダな出費は削り、将来の為であれば惜しげもなく大金を投じた武士の事である。
 中華儒教(正統派儒教)の中国・朝鮮と日本との違いはここにある。
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 武士には、財政拡大の算盤高い重商主義の革新派と緊縮財政の算盤が苦手な重農主義の保守派が存在した。
 日本の庶民文化は、財政拡大の革新派が主導権を取った時に豪華絢爛に華開いた。
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 所詮、綺麗事を言っても人間は「金の切れ目が縁の切れ目」である。
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 出自・生まれに関係なく高等教育を受け入社試験や任用試験に合格した者は、会社に採用され、官吏に登用され、年功序列システムと毎年給料アップの恩恵を受けられる様になったのは、明治時代からである。
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 日本的大家族主義は、徳川時代(1600年〜1867年)と明治時代(1868年〜1912年)の約300年かけて生まれ日本全土に根を張った。
 日本的大家族主義とは、世間の空気、仲間内の空気圧、組織内の同調圧力である。
 空気・空気圧・同調圧力という閉塞感は、海原を航海する船環境あるいは絶海の孤島の島環境である。
 大陸環境には、空気・空気圧・同調圧力は存在しない。
 故に、空気・空気圧・同調圧力は、日本特有の環境条件であり、大陸では理解されない。
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戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)

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