⚔30)─1─ミゲル千々石は、海外に売られた日本人の惨劇に驚き嘆いた。豊臣秀吉とキリシタン追放令。1583年~No.114No.115No.116 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人キリシタンの大半は、純真無垢としてキリスト教の「隣人愛」信仰を信じ、絶対神の御教えを心の糧として敬虔な祈りを捧げていた。
 一般の日本人キリシタンには、何ら罪はなかった。
 絶対神の御名によって日本人を奴隷として売っていたのは、中世キリスト教会の宣教師達であった。
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 天正少年遣欧使節団のミゲル千々石は、海外に売られた日本人の惨劇に驚き嘆いた。
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 日本に奴隷制はなかったが、日本人は奴隷にされた。
 キリスト教における対人関係は希薄で、人は個人として絶対神の前で正しければ良いという考えで、他人の評価・内輪の評判を気にしないし、他人のどういう暮らしをしどんな境遇にあろうとも関心がなかった。
 礼拝堂で祈りを捧げる敬虔な日本人キリシタンは、教会の外で日本人が奴隷として売られていく事には興味が無かった。
 キリシタンにとって、人と人の関係を保つ同調圧力である日本的空気は邪悪として嫌悪していた。
 人を救うのは、絶対神であって人ではない。
 人の運命は予め絶対神が定めている事であるから、奴隷として売られる日本人は奴隷となる事を絶対神に感謝して受け入れるべきであると。
 『旧約聖書』の「ヨブ記」が理解できなければ、奴隷に売られる日本人を見捨てたキリシタンの苦しい胸の内や隣人愛という厳しい信仰が分からない。
 所詮、日本人では理解できない宗教世界であった。
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 絶対神は、どんな時も、いかなり場所に於いても、問いかけても答えてはくれないし、助けてはくれない。
 答えてくれないから、信じるしかない。
 助けるのと救うのは違う。
 神の子・イエスは、父なる絶対神に助けを求めた。
 絶対神は、肉体を助けてはしなかったが、魂を救い、命を与えた。
 そこに、希望が生まれた。
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 キリスト教が説く「隣人」とは、イエス・キリスト聖母マリアと父なる絶対神を信仰する同じキリシタンのみを指す。
 キリシタンではない神道や仏教を信ずる異教徒は、同じ日本人でも「隣人」とは見なされなかった。
 ゆえに。キリシタンは、奴隷として売られていく異教徒の日本人に関心がなく、キリシタンに改宗しなければ助けはしなかった。
 それが、一神教である。
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 多神教の日本人は、あらゆる宗教に興味を持ち、如何なる神や仏でも関心を抱き、他人が信じる神や仏は有り難い存在だと感じて一緒に拝みたくなる信条を持っている。
 キリスト教絶対神も、他の神や仏と同格で一緒に拝んでいた。
 日本人には無神論者はいない、むしろ正反対に神が大好きな有神論者が大半である。
 無神論者は、宗教的希望を持たず、霊的救いを感じない、神社仏閣に背を向けた、反宗教のマルクス主義者である。
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 1519年 コルテスは、600名の部下を連れてアステカ王国(人口500万人以上)を征服し、高度なアステカ文化を滅ぼし、「神の名」で虐殺と略奪を行った。
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 1533年 ピサロは180名の私兵を引き連れて、インカ帝国(人口1,000万人以上)を攻め、わずか30分程で5,000人以上の非暴力無抵抗のインディオを虐殺し、征服した。
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 中世ヨーロッパ世界は、普遍宗教・キリスト教による暗黒時代であった。
 同じ絶対神を信仰するカトリック教会とプロテスタントは、悲惨な宗教戦争を繰り返していた。
 バチカンローマ教皇神聖ローマ帝国イングランド王国フランス王国スペイン王国ポルトガル王国その他諸王国及び自由都市などが、果てしない戦争を行っていた。
 自国兵と他国人傭兵が、至る所で殺し合ってい、放火を繰り返していた。
 1700年代まで、虐殺と掠奪と強姦が全ヨーロッパを覆っていた。
 其の暗雲は、日本をも覆い尽くそうとしていた。
 日本は、日本を守る為にキリスト教を弾圧した。
 世界は、キリスト教弾圧を行った日本は血に飢えた凶悪犯罪と非難された。
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 ヨーロッパの上流社会は、日本以上に血筋や家門を神聖視し、高貴な出身でない者は出世しようとも軽蔑された。
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 1565年 下層階級出身の豊臣秀吉は、近衛前久の猶子(名義上の養子)となって関白職を手に入れ、天皇から日本を支配する権利を得た。
 関白・豊臣秀吉は、天皇の命令として、九州の島津氏に対して「惣無事令」を出して恭順を命じた。
 「勅令に基づいて書き送る。九州で未だに戦乱が続いているのは良くない事である。国や郡の境目争いについては、双方の言い分を聴取して追って決定する。まず敵も味方も戦いを止めるよと言うのが叡慮(天皇の御心)である。もしこれに応じなければ、直ちに成敗するであろう」
 豊臣秀吉は、島津氏が命令を拒否した為に大軍を派遣した。
 島津氏は、抵抗したが敗走し、命に従う事を誓って本領の薩摩と大隅の二ヵ国を安堵された。
 豊臣秀吉は、戦国大名はもちろん町人や百姓から自力解決・私闘の解決は戦乱の元となるとして、理由の如何に拘わらず、天皇及び神の御名によって喧嘩両成敗の原則で禁止した。
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 1583年 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ「日本の領主達は、我々が日本で何かしかの悪事を企んでいるのではないか、自分達が領国のキリスト教化を許せば、我々を保護して下さっているポルトガル国王陛下の為に、我々イエズス会士がキリスト教徒と共に日本で反乱を起こすのではないか、との強い疑惑を予てより抱いている」『日本巡察記』
 イエズス会は、日本で布教活動を本格化する為にあたって日本の風土や日本人の気質を知るべく、宣教師のルイス・フロイスに調査を命じた。
 フロイスは、日本全国を歩き回って『日欧文化比較論』という報告書を本国に提出した。
 宣教師達は、例外なく日本人女性に貞操観念がない事に呆れる所か嫌悪した。
 「ヨーロッパでは未婚の女性の最高の名誉と尊さは貞操であり、またその純潔が冒されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ、結婚もできる」
 男尊女卑の儒教観念が社会を息苦しく縛っていない時代、男と女はお互いが気に入れば結婚するが、夫は外で幾人の女性と関係を持ち、妻は夫が不在であれば不特定多数の男を家に忍び込ませて関係を持っていた。
 そうした分別なき生殖本能で、日本の人口は減る事なく増え続けた。
 事実。儒教倫理が日本社会を閉鎖的に支配した江戸時代、それ以前の性風俗が乱れていた時代に比べて人口は概ね安定していた。
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 1584年 沖田畷の合戦龍造寺隆信は、有馬晴信島津家久と戦って戦死した。
 龍造寺隆信の戦死によって、イエズス会は危機を脱した。
 黒田官兵衛は、1584年から85年頃に高山右近蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けた。
 ポルトガルは、平和的な交易を望んだ。
 スペインは、軍事力を背景とした収奪交易を目指していた。
 スペイン人宣教師を乗せた船が平戸に入港し、国王の意向に従って攻撃的な布教活動を始め、商人達の奴隷貿易に協力した。
 5月 佐久間道徳が、京の一条町と実相院町を根城に謀反を企てた。
 羽柴秀吉は、鎮圧の為に兵を差し向け、両町より公家の家来を含む町人数十人を捕らえた。彼らを人質として、朝廷に対して「征夷大将軍の宣下」と「高位高官の要請」を強要した。
 朝廷は、10月に、征夷大将軍は武士の出はない為に不可能としたが、従五位下左近衛権少将の位を授けた。
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 1585年 伊勢神宮は、100年以上途絶えていた正式な式年遷宮を行った。
 豊臣秀吉は、織田信長が生前に復興させようとしていた式年遷宮を引き継いで成功させた。
 ポルトガル商人は、8歳の少年を奴隷として7ペソで購入して海外で高値で売て荒稼ぎしていた。
 当時の高級オリーブオイルが、8ペソであった。
 白人キリスト教徒は、日本人奴隷を最低価格で売買していた。
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 1585年・1587年 シャム(タイ)王国は、侵略してきた隣国のビルマ王国とラオス王国と戦った。日本人傭兵500人が、シャム軍に加わって戦った。
 インドや東南アジアに住む日本人の多くは、自分で国外に出たのではなく、奴隷として売られた者たちである。
 東南アジアには、突然、日本人町か数多く出現していた。
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 1585年 豊臣秀吉は、宗教から政治力及び軍事力を奪う為に、政治権力に楯突く紀州の仏教勢力を一掃するべく10万人の大軍を送った。
 紀州には、一向宗の雑賀、真言宗新義派本山根来寺真言宗総本山高野山熊野水軍の熊野などが存在していた。
 総大将の豊臣秀長は、鉄砲の産地であるある根来寺を攻め、大伝法院を残して全山を焼き尽くした。
 雑賀では。孫一の鈴木家が秀吉に恭順し、土橋家のみが徹底抗戦して滅んだ。
 高野山は、高僧の木食応其の仲介で和睦し、全ての武器を捨て、学問に専念して政治に一切関わらないとの誓った。
 熊野も和睦し、水軍を切り離して、信仰のみに専念すると誓った。
 1月 教皇グレゴリオ13世は、日本で複数の修道会が布教活動をしていては混乱の元になるとして、イエズス会以外は許可なく立ち入らないという小勅書を発布した。この教皇令を無視して日本に上陸する者は、破門罪に当たるという厳しい教会法であった。イエズス会は、日本布教の独占権を獲得した。
 3月 準管区長コエリョ神父は、異教徒日本民族を抹殺する為に、スペイン領フィリピン教会に「キリシタン大名救援の為に、武装艦隊の派遣につき総督に取り次いでもらいたい」との極秘の書状を送った。
 イエズス会の宣教師らは、スペインとポルトガルの両国王に、邪教国日本をキリスト教に改宗させ魂を支配するには、アジア各地でおこなってきた武力による侵略は不可能であると報告した。金に目が眩んだ有力大名には交易の利潤で誘い、戦乱で疲弊した民衆には福音で心に訴えるべきだと、敵情報告をして対日征服案と日本の海陸図を送った。
 白人宣教師らは、絶対神から与えられた権限により、邪教国日本に「最後の審判」を下し、絶対神の聖なる「裁きの火」で異教徒日本人全員を焼き滅ぼす事にした。その廃墟から、生まれ変わったキリスト教徒日本人らと共に、日本に「神の王国」を建設する事を決めたのである。
 フィリピン総督は、「軍事力を割くだけの余裕はない」と拒否した。
 モーラ司祭は、マカオに移り、バチカンローマ教皇イエズス会総会長やスペイン国王に日本遠征を要請した。
 5月 教皇シクスト5世は、イエズス会に対抗する為に、フランシスコ会が支配するフィリピンとその周辺地域を新たな管区として昇格させた。
 先発のイエズス会と後発のフランシスコ会やドミニク会などは、布教活動で激しく対立していた。
 フロイスの手紙(1588年)「長崎の貧しく哀れな人々は、ポルトガル船が入港した時、その住居を賃貸しするほかに収入の道を持たないので、辛くも生きている状態である。貧しい人々は、生きる為に一年の大部分を、山野に草根木皮を掘り歩く」
 アビラ・ヒロン「長崎は日本のあらゆる国々の人々が住むところとなり、全国で最も横暴な者、狡猾な者が多く住んでいる」(『日本王国記』)
 ガゴ神父「この国の人々の間に行われている悪事のうち、赤ん坊を育てる苦労と貧しさとの為に、生まれてすぐ殺す事が流行している」
 トルレス神父「日本には貧しい人々があまりにも多く、あまりにも苦しんでいる」
 マンショ伊藤「……至極当然だ。かの人達は外の事には文明と人道を重んずるのだが、どうもこの事にかけては、……一向顧みないようだ」
 マルティーノ大村「全くだ。……野蛮な色の黒い人間の間に奴隷の勤めをするのは、……誰が平気で忍び得ようか」
 ミゲル千々石「旅先の先々で、売られて奴隷の境遇に落ちた日本人を親しく見た時には、道義を一切忘れて血と言葉を同じゅうする同胞を、さながら牛か馬の様に、こんな安い値で売り飛ばす我が民族への激しい義憤の念に燃え立たざるを得なかった」…後に、イエズス会を脱会し、キリシタンを捨てた。幾たびか命を狙われ、身を寄せていたキリシタン大名の有馬氏からも領地から追放された。
 日本人は、奴隷として売られ、自由を奪われ、人間としての尊厳が踏みにじられていた。
 「隣人愛信仰」に篤い少年等は、日本人が東南アジアやアフリカなどで奴隷となっているのは絶対神の大いなる試練と考え、日本人を奴隷の境遇から解放する為にも一刻も早く日本をキリスト教国とすべきとの強い使命感を抱いた。
 キリスト教尊い教えを日本全土に広め全ての日本人を礼すれば、奴隷であったユダヤ人がエジプトから解放された如く、日本人も絶対神の祝福を得て奴隷とされる事はないと。
 キリスト教会は、少年達が自己犠牲的な篤い信仰心を持ち得た事は大いなる秘蹟とし、奴隷として売られた日本人の犠牲は無駄ではなかったとして、絶対神に感謝した。
 全ての事は絶対神の御心によるもので、全てに意味があり、意味のないものは何一つない。
 奴隷にされるのも、戦乱や天災にあうのも、すべてが全知全能の絶対神の御心であると。
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 1586年3月16日 豊臣秀吉は、キリスト教の保護者として宣教師に布教許可状を発給し、その見返りとして朝鮮出兵に対するイエズス会の支援を日本副管区長ガスパール・コエリョに要請した。
 ルイス・フロイス「薩摩の兵の豊後において捕らえたる人々の一部は肥後国へ売られ行きたり。然るに当年肥後の住人は非常なる飢饉に苦しめられて彼等の生活すら支える能わず。……それ故にこれらを羊若しくは牛の如くに郄来(高麗つまり朝鮮)に運び行きて売りたり。……豊後の婦女子児は彼等の手より離るるに2、3トストン(2、3文)を以てせられたり。しかもその数は多かりしなり」
 薩摩の島津家は、地理的条件を生かし、倭寇を使って東南アジア、琉球、明国、朝鮮と活発に交易をして経済力を付けていた。
 古代から、九州各地から朝鮮へ売られて行った女性や子供達を「唐行き」といわれ、海外に売る日本製品がなかった時代には日本人が奴隷として売られていた。
 南蛮人が来るまで、九州の諸大名は、明国は陸禁海禁政策を取っていた為に日本人を奴隷として朝鮮に売っていた。
 朝鮮は、正統派儒教から日本を文明度の低い野蛮人と見下していた為に、日本人を奴隷として購入し、自分の家僕にするか、中国人奴隷商人に高額で売っていた。
 明国にしろ朝鮮にしろ、日本と交易してどうしても買いたいと思うような日本産はなかった。
 ポルトガル商船で日本を訪れた東南アジア人達は、日本人は安いとして買って帰国し、地元で奴隷として高く売って金を稼いでいた。
 東南アジアも、奴隷として日本人を買う意外で欲しい日本産はなかった。
 朝鮮に売られる「唐行き」が途絶えた後、東南アジアへ売られる事が「唐行き」とされた。
 豊臣秀吉も、徳川家康も、日本人を奴隷として売られて行く事を止める為に外交政策を行った。
 豊臣秀吉は、朝鮮出兵で。
 徳川家康は、制限的鎖国政策で。
 4月22日 フィリピンのイエズス会士アントニオ・セデーニョは、日本派兵を要請した前年のコエリョに対する返事を送った。
 「兵士と戦争に付随する諸物資による救援に関して、私はこう申し上げる。当地から日本に向かった者達が、尊師に誤った情報を与えたに違いない。そのため尊師は、当地の軍事力が隣人を救援できるほど強力で、尊師が要請されている様に、大規模な援助が可能である、と思い込んでいるのです。
 私はこの件について、当フィリピン諸島の総督と協議はしなかった。当地の兵士は少ない上に非常に脆弱であり、また尊師が日本の為に必要である、と延べている、船と大砲の備えは、一層不足しているので、私の発言を耳にしたら、総督は驚愕する可能性があったからである」
 5月4日 来日した準管区長コエリヨ神父は、オルガンティノ神父、ロレンソ修道士、日本人キリシタンら総勢30名以上と共に、大坂城を訪れて諸大名の列座する中で豊臣秀吉と会見した。先導役は、キリシタン大名高山右近であった。大名の中には、小西行長黒田孝高蒲生氏郷キリシタン大名がいたし、改宗しなくともキリシタンに友好的な有力大名もいた。
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 キリシタン大名大村純忠は、長崎をキリスト教会の領地として寄進し、宣教師に政治への発言権を与え、異教徒への弾圧を容認していた。
 キリシタンは、長崎をキリスト教会が支配する町とし、神社仏閣を全て焼き払い、祖先からの墓を全て掘り起こして破壊した。
 日本伝統民族宗教である、祖先神・氏神崇拝の完全否定である。
 長崎は、キリスト教によってマカオ化し、西洋の植民地に変容しようとしていた。
 日本人は、西洋人の奴隷として海外に売り飛ばされていた。
 日本人キリシタンは、土地と財産を全てキリスト教会に寄進すれば、天国に行き、永遠の命が授かると信じた。
 キリスト教会は、日本の土地を教会領として拡大する事で、日本をキリスト教の聖地に変えようとしていた。
 神の裔・天皇を中心とした祖先神・氏神信仰の消滅の危機があった。
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 豊臣秀吉は、日本の正統な支配権は天皇の許しを受けた自分にあるとして、祭祀王・天皇の神性を完全否定するキリスト教の蔓延を日本分裂につながるとして警戒した。
 事実。キリスト教の布教によって、多くの民族国家が滅亡し、数多くの民族神話と民族宗教が消滅していた。
 だが。南蛮貿易に必要性から、布教活動を抜いた経教分離政策を採用した。
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 1587年 豊臣秀吉は、平戸港に停泊しているポルトガル船に乗船し、イエズス会の宣教師の出迎えを受け、船内を見て回り、船倉に押し込められている多くの日本人奴隷を見つけた。
 ポルトガル人商人が、宣教師の協力を得て日本人を奴隷として売っている事は知られていた。
 豊臣秀吉は、上陸するや、日本の天下人としての責任から、宣教師らを呼び出して五箇条の詰問状を突きつけた。
 同時に、奴隷交易に関与する日本人は死罪にすると布告し、実行した。
 長崎奉行寺沢広高は、違反者は外国人であっても例外なく処罰すると告示したが、南蛮貿易への悪影響を考慮して死罪ではなく国外退去と定めた。
 奴隷貿易を禁止する布告は、正式な外交文書として、マカオやインドなどのイエズス会司教に送付された。
 宣教師側は、日本人奴隷は日本人が持ち込んでいる事であり、外国船を入港させ奴隷貿易を許している領主に責任があり、イエズス会は無関係であると反論した。
 キリシタン弾圧の始まりである。
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 豊臣秀吉は、宣教師コエリォに対し、日本人を奴隷として売買している事について激怒して、奴隷として売られた日本人を連れ戻すように厳命した。
 豊臣秀吉「何故ポルトガル人は日本人を購(あがな)い奴隷として船に連れて行くや。
 予は商用の為に当地方に渡来するポルトガル人、シャム人(タイ人)、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している事も知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行った全ての日本人を再び日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう」
 中世キリスト教会は、布教を許してくれている支配者・権力者の領民は正しき人として認めたが、敵対者や布教を認めない領主の領民は奴隷として扱っていた。
 宣教師達は、隣人愛の信仰と世界の常識で正しい行いをしているとの揺るぎなき確信を持ち、インカ帝国のように侵略し植民地にして日本人の生活風土・伝統文化を徹底的に破壊しようという意図もなかったので、何故、豊臣秀吉が激怒しているのかが理解できなかった。
 豊臣秀吉が、西洋はおろか中国・朝鮮の中華、インドやイスラムなどに通用する世界の常識を持つ日本を武力統一した実力者であれば、日本人を奴隷として売る事には反対しなかっただろうし、敵対した戦国大名の領民を奴隷として大金を稼いだであろう。
 が、豊臣秀吉は世界の常識ではなく日本の常識を持っていたから、日本を奴隷として売りさばく事に激怒した。
 では、その日本の常識とはなにか?
 日本の天下人とは、日本天皇から、日本国の安定と秩序、日本人の安心と幸福をもたらす事を委託された者の事である。
 豊臣秀吉は日本天皇から委託された日本国の安寧と日本国民の幸福と言う重責を全うする為に、日本人を奴隷から解放するように厳命したのである。
 大事なのは、金儲けではなく日本人の命と尊厳である、と。
 豊臣秀吉の限界は、守るべき人の命と尊厳は日本人だけであり、日本人ではない朝鮮人や中国人にまで及んでいなかった。
 超リアリストとして、朝鮮人の命と尊厳は朝鮮国王が、中国人の命と尊厳は中華皇帝が、自国の統治者が責任と義務から命に懸け国を挙げて守るべきであると。
 侵略され国土が蹂躙され国民に夥しい犠牲者を出した罪は、侵略してきた敵ではなく、守り切れなかった自分にあるのだと。
 日本天皇を中心とした日本の常識は、敵対する人間を奴隷とする世界の常識に「否」を明言し、人は差別されて当然という世界の常識を日本に広める事を拒絶した。
 日本の常識が世界の非常識となったのは、日本天皇の存在ゆえにである。
 日本天皇がいなければ、日本は世界の常識を受け入れて奴隷という身分が誕生していた。
 歴史的事実として、万世一系の日本天皇とは、絶対に奪われてはならない、譲ってはならない、与えてはならない、日本としての根幹「日本の尊厳」を象徴する存在であった。
 「日本の尊厳」それが、日本の国體・国柄・国の形であった。
 それ故に、日本民族は約2000年という長き歴史で日本天皇を守ってきた。
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 豊臣秀吉は、延暦寺に対して武器を捨て教学の研鑽に努める事を誓わせて、比叡山再興の勅許を得て再建資金を提供した。
 秀吉は、武器を捨て政治に口出さないと誓った神社仏閣を許し、その領地を安堵して保護した。
 平安時代から続いていた、寺院権門による横暴は収束した。
 日本の宗教勢力は完全に無力化され、宗教権威は政治権力の完全な支配下に組み込まれた。
 これ以降、宗教に関した騒動は封じ込められた。
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 6月 豊臣秀吉は、黒田官兵衛の永年の功績に対して豊前6郡を与え、3万石から12万石に加増した。
 秀吉は、官兵衛には天下を取るだけの才能が有ると恐れて破格の加増を避けたと言われる。
 一説に。官兵衛が、敬虔なキリシタンとして多くの大名に改宗を進める事実と、南蛮諸国がキリシタンを利用して植民地を拡大している事に警戒しての処置とも言われる。
 秀吉は、南蛮諸国の経済及び軍事と天才軍師である官兵衛の軍略が加わったとき、自分は敵わないと恐れたのかもしれない。
 6月19日 秀吉は、キリシタン追放令である天正禁令を発布をしたが、追放する為の具体的処置を命じなかった。日本の領土が、教会に寄進されて植民地になる事を避ける為に、大名には土地の支配と収益を得るだけの知行権を与えたが領土権は認めなかった。
 7月 イエズス会日本準管区長ガスパルコエリョは、イエズス会も異教徒の攻撃から信仰を守る自衛手段として軍事力を持つべきであるとしてにんポルトガルから軍艦(コスタ船)を購入した。
 ポルトガルも、植民地拡大の為にイエズス会との協力関係を保つ為に、イエズス会の軍事力かを支援した。
 多くの大名は、南蛮人に最新兵器の購入を申し込み、引き換えに領地内での布教を許可した。
 一部の大名は、より多くの武器を購入するべく驚喜して洗礼を受け、キリシタン大名となった。
 コエリョ神父は、イエズス会の軍事力を誇示する為に豊臣秀吉に軍艦を見せたが、購入仲介の要請を拒否した。
 オルガンティーノは、日本における布教活動の保護と引き換えに軍艦2隻を提供すると、豊臣秀吉に提言した。
 豊臣秀吉は、イエズス会の布教活動とポルトガルの植民地拡大政策とポルトガル商人による奴隷貿易が同一のものと判断し、キリシタン大名が増える事は陰惨な宗教動乱を引き起こし、天下統一を阻む恐れがあると警戒した。
 イエズス会は、目立つ様な布教活動を控えたが、着実に信者を増やしていった。
 秀吉は、大名や側近でキリシタンに改宗する者が増えた為に、見せしめとして、信頼する高山右近に棄教を命じた。
 高山右近は、主君への「世俗な忠誠」より絶対神への「神聖な忠誠」を優先し、絶対神への信仰に殉じて苦難の道を選び、領地を返上して出奔した。日本国内を流浪する右近一家を、各地のキリシタン大名キリスト教会が匿い支援した。
 高山右近「私は、日常、太閤様にお仕えして参りました。今といえども、太閤様のおん為なら、脳髄を砕き、土まみれにしてもいといません。唯一つの事以外には太閤様のご命令には絶対背くものではないのです。その一つの事、信仰を捨てて、デウス(神)に背けとの仰せは、たとえ右近の全財産、命にかけても従う事はできないのです。それは、デウスとの一致こそ我々人間がこの世に生まれた唯一の目的であり、生活の目標でありますから、デウスに背く事は人間自らの存在意義を抹殺する事になります。キリスタン宗門に入った人はこの事を皆、よく心得ているのです」「たとえ主君の命令たりとも、信仰を捨てる事はでき申さぬ。また、これと信じた信念を貫く事こそ男子の志ではござるまいか」
 秀吉は、敵対する戦国大名を屈服させる過程で、キリシタンの力を利用する為に、キリスト教への改宗は「その者の心次第」として許した。
 キリシタン大名高山右近は、キリスト教の布教を助ける為に有力大名を改宗させる為にキリスト教の魅力を語り聴かせた。
 キリシタン大名が増えるや、その領民も主君に習ってキリシタンに改宗した。
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 キリスト教会は、領主の宗教が領民の宗教と見なして大名の改宗を急いだが、邪魔になったのが祖先神・氏神の人神信仰の祭祀王・天皇の存在であった。
 敬虔である宣教師は、日本人キリシタンに対して、背信行為となる「二重忠誠」を禁止し、絶対神の「隣人愛」のみを信仰とし、俗世に於ける異教徒の天皇・大名・領主への忠誠を否定した。
 攻撃的宣教師は、スペインの中南米方式として、日本をキリスト教化して異教徒を消滅させて「神の国」を武力で建設しようとした。
 防御的宣教師は、ポルトガルマカオ方式として、日本の一部を分離独立させてキリシタンの王国としてポーランドの植民地にしようとした。
 中世キリスト教会は、不寛容な宗教として、異教を認めず、共存を許さなかった。
 ただし。絶対優位の立場に立つまでは、身の安全と絶対神への信仰を守る為に「神聖なる使命」を隠した。
 絶対神に日本を献上するという「神聖な使命」は、全ての事情より、如何なる人間の命より、優先された。
 キリシタンは、絶対神への「隣人愛の信仰」を守る為に、人神信仰である祖先神・氏神を否定し、殉教死する事を願った。
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 秀吉は、実利優先の現実主義者として、全国を統一して戦乱の世を終わらせたが、増えすぎたキリシタンの処遇に危機感を抱きながらも、利益の多い南蛮貿易は維持したかった。
 だが、日本独自の平和を維持する為には、キリシタンの「二重の忠誠心」問題が避けては通れなかった。
 天下統一の為に共の苦労した初代や、それを見て育った2代目は、ご恩と奉公で忠勤に励んで平穏無事に平和を保てるであろう。
 3代目以降は、戦乱の苦労を知らないだけに、主君への忠誠心を失い絶対神への忠誠に固執すれば新たな戦乱の元となる。
 もし、人気を気にして宗教宥和策を採用すれば、数十年後には悲惨な宗教戦争が起きる危険があった。それでは、日本人はキリスト教の唯一絶対神信仰の奴隷となり、絶対神の「愛」やキリスト教的人道思想による人類平等という牢獄に入れられる様なものである。
 天皇を中心とした日本らしさを守り日本の平和を維持する為には、キリスト教が抱える「二重の忠誠心」問題をキリシタンが解決しない限りこれを弾圧するしかなかったのである。
 だが、信頼し将来を期待していた高山右近は、秀吉への俗世的忠誠を捨て、絶対神への神聖な忠誠心を選んだ。
 もし、神聖な忠誠心を信仰するキリスタンが、究極の選択を迫られた時どういう行動を取るかであった。
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 フェリペ二世は、スペイン領マニラとポルトガルマカオとの通商を禁止した。
 ポルトガル国王ジョアン3世は、ローマ教皇に、「ジパングは火薬1樽と交換に、50人の奴隷を差し出すのだがら、神の御名において領有する事が出来たら、献金額も増やす事ができるでしょう」と報告した。
 レオン・パジェス「ポルトガルの商人はもちろん、その水夫、厨奴等の卑しい者までも、日本人を奴隷として買収し、携えて去った。……この水夫らは、彼らが買収した日本の少女らと、放蕩の生活をなし、人前にてその醜悪の行いを逞しくして、敢えて憚るところなく」(『日本吉利支丹宗門史』)


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