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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本には、西洋(西欧キリスト文明)に奴隷にされた人種・民族・部族に成り代わり西洋に復讐・報復する権利があった。
戦犯国日本には、正義はなかったが、西洋・世界に対する報復権・復讐権が正当権利としてあった。
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大航海時代とは、人間を物として扱う人身売買の時代で、世界各地で奴隷取引が盛んに行われていた。
南蛮貿易には、日本人奴隷売買が含まれていた。
日本人は、中世キリスト教会が支配する長崎から、奴隷として西はポルトガル、スペイン、アフリカ、東はメキシコ、ペルー、チリ、アルゼンチンなどへ輸出されていた。
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日本人の敵は日本人である。
日本人奴隷を量産してポルトガル人やスペイン人に売ったのは、金儲け目的の日本人であった。
憎むべきは、日本人である。
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ポルトガル国王ジョン3世「火薬の樽1個に対して日本人奴隷50人を提供した」
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1520年頃 ポルトガル人が奴隷売買したいたのは、中国人であった。
中国人は、奴隷として使役するには優秀でよく働いていた。
1543年 ポルトガル人が、中国人倭寇の船で種子島に漂着し、火縄銃を伝えた。
西洋人による、日本人奴隷売買の始まりである。
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1549年4月 ザビエルと鹿児島出身のキリシタン・アンジローは、ゴアを発って日本へ向かった。
1571年3月12日 セバスチャン法。ポルトガル国王ドン・セバスチャンは、日本人を奴隷として売買する事を禁止する第一回目の勅令を発した。
ポルトガル領インドは、国王の勅書を無視して日本人奴隷売買を続けた。
1584年 メキシコの鉱山主は、スペイン・マニラ総督に、日本人・中国人・ジャワ人など3,000〜4,000人の奴隷を送るように依頼した。
1585年 第3回ゴア教区会議。
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1587年 豊臣秀吉は、日本人の奴隷売買に手を貸すキリシタンに激怒した。
『秀吉の五箇条
1,何故に 秀吉の臣下をキリシタンにしたのか
1,何故に 宣教師は教徒に神社仏閣を破壊させたのか
1、何故に 仏教の僧侶を迫害するのか
1,何故に お前達は耕作に必要な牛も屠殺して食用にするのか
1,何故に お前達はお前達の国民が日本人を購入し、奴隷としてインドに輸出するのを容認するのか』
日本人奴隷売買に協力するキリシタンを弾圧したが、協力しないキリシタンは制限付きで活動を許した。
キリシタンの活動とは、新たに信者を増やす布教活動ではなく、今いる信者に対する信仰指導のみであった。
朝鮮出兵 1592年 文禄の役。1597年 慶長の役。
スペイン・ポルトガル両国は、日本の軍事力に驚愕して怯えた。
日本は、海外への動員力から帝国と見なされた。
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1596年 イエズス会は、第1回目の破門令を発布し、日本人奴隷売買にたずさわったポルトガル人を破門すると述べた。
1597年4月16日 インド副王は、ポルトガル国王の名で、日本人を奴隷などで強制的にマカオに居住させてはならないという、第二回目の奴隷禁止の勅令を公布した。
1598年 日本のイエズス会宣教師は、第2回目の破門令を発布し、日本人奴隷売買に従事した者を破門し、奴隷の少年・少女一人につき10クルーゼの罰金を科した。
1599年2月20日 日本のイエズス会は、ポルトガルのイエズス会支部長宛てに手紙を送った。
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1600年頃 ポルトガル国王は、第3回目の禁止令の勅令を発布した。
1600年 徳川家康は、キリスト教布教と日本人奴隷売買を除いた西洋との交易を望んでいた。
日本人奴隷売買に協力し布教活動を行うキリシタンは弾圧したが、それ以外のキリシタンは許し行動の自由を保証した。
キリシタンは、布教禁止要請を無視して布教活動を続け、キリスト教徒を増やしていった。
1603年 スペイン国王フェリペ3世(ポルトガル国王フェリペ2世)は、ゴアに対して日本人奴隷売買禁止を定めた「セバスチャン法」を再び公布した。
12月30日 ゴアの有力なポルトガル人奴隷貿易商達は、ポルトガル国王フェリペ2世に対して、日本人奴隷貿易禁止の勅令によって被害が出ている為に廃止するように陳情書を提出した。
1605年3月6日 フェリペ3世は、インド副王に「セバスチャン法」の施行を指示した。
ゴア市議会は、フェリペ3世に対して、日本人傭兵は植民地防衛には必要な兵力であるとして、セバスチャン法の施行を免除するよう依頼した書簡を送った。
1606年 第5回ゴア教区会議。
1607年1月17日・27日 フェリペ3世は、両日の日付で、インド副王に対して日本人奴隷売買の禁止を命じた。
妥協案として、日付以降は日本人を奴隷にする事は違法行為としたが、以前に売買された日本人奴隷の身分は奴隷として解放されないと定めた。
ポルトガル人やスペイン人による、日本人奴隷への虐待は凄まじく、中には惨殺する事件も起きたが罪には問われなかった。
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1608年6月 教皇パウロ5世は、崇高な愛の福音を受け入れない罪人である異教徒日本人の魂を救済する為に、全ての修道会に対して異教国日本での布教活動を強化する様に小勅書を発布した。
ローマ・カトリック教会は、異教国・日本、異教徒・日本人に対する宗教戦争を指示した。
バチカンは、世界中で布教活動している宣教師・修道士等の報告で、日本人が奴隷として売買されていた事を知っていた。
日本への布教活動は、正戦・聖戦であり、宣教師は殉教する為ために日本に密入国した。
西洋はもちろん大陸では、奴隷は極普通に存在していた。
中世キリスト教会は、奴隷を禁止しはないなかった。
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1612年 江戸幕府は、直轄の領地内の教会を破壊し、宣教師を追放した。
1614年12月21日 江戸幕府は、キリスト教禁教令を発布し、全国の教会を全て破壊し、宣教師と。
国禁(法律)を破って布教活動をするキリシタンを宗教犯罪者として弾圧した。
スペイン・ポルトガル同君統治者の国王フェリペ3世(ポルトガル国王フェリペ2世)と徳川幕府は、マカオのポルトガル人奴隷商人に圧力をかけて日本人奴隷の取引を止めさせる事に成功した。
1624年 江戸幕府は、キリスト教宣教師が国禁を破ってマニラから密入国してくるのを阻止するべく、スペインとの国交を断絶した。
1634年 海外との往来や通商を制限。
1635年 日本人の海外渡航および帰国を全面禁止。
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1636年 ポルトガル人の子孫を追放。
1637年・38年 島原の乱。
1638年 キリスト教を厳禁する為にポルトガル人国外に追放した。
1639年 日本人を奴隷としたポルトガル船の入港を完全禁止とした。
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世界の常識を日本に定着せず拒絶したのは、日本天皇と徳川家康であった。
日本天皇と徳川家康の頑迷で、日本は世界から取り残され近代化が遅れた。
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海外に売られた日本人奴隷の内で解放され自由民となった者は、日本に帰国せず、「ハポン」(スペイン語で日本を意味する)という姓を名乗り、異郷の都市の下層民として生涯を終えた。
現代で、海外に住む「ハポン」という姓を持った者は、奴隷として売られた日本人の子孫である。
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豊臣秀吉や徳川幕府が弾圧したキリシタンとは、当時の中世キリスト教会とイエズス会その他の修道会であって、現代のキリスト教会とイエズス会その他の修道会ではない。
その違いをハッキリさせる必要がある。
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『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』(著者、ルシオ・ソウザ/岡美穂子)
緒言
16世紀末、3人の『奴隷』がメキシコに渡っていたことを示す史料がみつかったと、いくぶんセンセーショナルに『読売新聞』で報道されたのは、2013年5月13日のことである。実際のところ、この史料を入手したのは2010年のことで、すでに学会報告等にも用いていたたら、『新発見』の要素は薄かったのであるが、それでも教科書では一切習わないようなこの種の史料の提示は、一般の人には新鮮に受け取ったのだと思う。
本当のところ、我々はこの史料が、日本人にとってそれほどインパクトのあるものと考えたことはなかった。というのも、南蛮貿易で少なからず日本人の人身売買がおこなわれていたことは、戦前にすでに岡本良知が証明していたし、今では邦訳が文庫本で読める戦国期の織豊政権期の日本をあざやかに描いたフロイスの『日本史』にも、それに関する記述は多々あるからである。近年は藤木久志等の研究により、日本国内には、古代から『奴隷』的存在の人々がおり、戦国時代には『奴隷』として売るために、敵地で『人を狩る』行為が、ほぼ日常的におこなわれていたことも周知の通りである。
戦国時代の日本国内に、『奴隷』とされた人々が多数存在し、ポルトガル人が彼らを海外に連れ出していたことはかなり昔から言われながらも、その事実は一般にはほとんど知られておらず、南蛮貿易やキリシタン史の専門的な研究でも、この問題の細部にまで立ち入ったものはなかった。
第一の理由に、16世紀や17世紀の国内外の史料に、南蛮貿易の『人身売買』について言及したものが、きわめて少ないことが挙げられる。これは何も日本に限ったことではなく、日本人よりも数量的には、はるかに多く取引されたであろうインド人や東南アジア島嶼部の人々に関しても同様である。記録が残りにくい理由は、世界各地で人身売買を盛んにおこなったポルトガル人商人にとって、その行為はあまりに日常的であったのと同時に、ポルトガル国王やそのインド領国の総督ら、政治的権力者によって表向きには何度も禁じられた『違法商売』であったことにある。
それでも『密貿易』と言うにはあまりにおおっぴらで、イスラーム勢力との攻防戦や要塞駐屯用に必要な兵力、せらにはアジアでの域内貿易も、彼らなくしては維持しえないものであったから、『人身売買』についての具体的な記録はほとんどないといっても、彼らの存在そのものは、史料のそこかしこに現れるのである。
第二に、総体的に史料が少ないことにもまして、いかなる人が、どういう経路で日本から海外へ渡り、彼らの生活がどのようなものであったかを具体的に示す事例に欠けていたことが挙げられる。冒頭に挙げた史料は、個別の事例を具体的に示すものというだけでなく、日本人奴隷が一人称で語る、裁判所での『証言記録』であった。漠然とした『人身売買』のイメージは、彼自身の体験が語られることで、よりリアルに再現可能なものとなり、人々の関心を引いたのだと思う。
ただし、このような情報は、通りいっぺんの、日本に関する南蛮貿易の史料からは導き出すことはできない。我々がこの3人の『日本人奴隷』に関する記録に出会ったのは、マカオ、長崎、マニラを転々と暮らした『ユダヤ人』一家の異端審問裁判記録中であった。『ユダヤ人』とはいっても、国籍はポルトガル人で、さらには表面的にはカトリックのキリスト教徒であった。なぜ『ユダヤ教徒』のポルトガル人が、16世紀の長崎に住み、日本人を奴隷として連れ、アジア各地を転々としていたのか。それはアジアにおける人身売買と、多様な文化的アイデンティティを擁したイベリア半島社会の歴史が、複雑かつ密接に絡み合った結果に他ならない。
本書では、我々が知る偉大な探検者たちの『大航海時代』とは異なる、この時代に生き、大きな歴史の流れに埋もれて人知れず生涯を終えた人々の『大航海』に光を当て、イベリア勢力の世界進出の陰の一面を描き出すことを目的としている。
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先行研究
アフリカの奴隷貿易には及ばないものの、18世紀末以降、ポルトガル人によるアジア人奴隷の人身売買の歴史については、重要な先行研究が存在する。
16・17世紀の日本人奴隷の取引に関して、とりわけ重要な記述が見られるのは、レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』(パシェス1940年)とその『資料集』である。パジェスは、1598年、長崎のイエズス会士等によってまとめられた奴隷取引に関する報告書を紹介・分析した。その報告書では長崎でおこなわれていた日本人と朝鮮人の取引とそれによる弊害が明らかにされており、パジェスはその全文を『資料集』でフランス語に翻訳して紹介した。
20世紀の初頭、岡本良知が、パジェスの紹介した文書を利用して、日本で初めて、16・17世紀に奴隷貿易がおこなわれていた事実を明らかにした(岡本1974)。岡本良知の研究には、パジェスの影響を受けたと思われる箇所が随所に見られるが、スペインやポルトガルで見出した初出史料も用いている。岡本がパジェスより進化させたのは、インドにおいて公布された日本人奴隷の取引に関する様々な法令に着目し、それらを分析した点にある。それらの法令からは、ポルトガル人が滞在したアジアの諸都市、とりわけポルトガルインド副王政庁が置かれたゴアにおいて、日本人奴隷の存在がとりわけ重要なものであったことがわかる。
その後、日本では研究生活を送ったスペイン人の研究者ホセ・ルイス・アルバレス=タラドリスは、日本においてポルトガル人がおこなった奴隷取引について論考を著した。タラドリスの研究では、奴隷貿易に関する同時代のイエズス会士たちによる書簡記録が数々紹介され、今日でも非常に貴重な研究材料を提供している。これらの書簡の原文は、ローマ・イエズス会歴史文書館やヴァティカンの公文書館等に所蔵されている。タラドリスの研究では、日本において奴隷取引に従事したヨーロッパ人、逆に何らかの罪で日本において犯罪者として捕らえられ、奴隷的身分に落とされたヨーロッパ人などの詳細が描かれている。
トーマス・ネルソンの研究は、ポルトガル人が日本でおこなった奴隷貿易に焦点を絞り、先行研究を網羅的に紹介し、文献学的な考察においても有益な情報を提供するものである。近年では、マカオに存在した多国籍の奴隷、解放奴隷から成る各共同体社会の実態が、レオノール・ディアス・デ・セアブロや、イヴォ・カルネイロ・デ・ソウザの研究は日本人の奴隷貿易に特化したものではないが、それらの研究からはマカオに存在した日本人複数名の詳細が明らかになり、同時におそらくマカオには日本人の共同体が存在した可能性が推察される。
日本人奴隷の貿易について考察する上では、中国人研究者の金国平と呉志良によって明らかにされたマカオのポルトガル人による中国人の人身売買が、構造的な問題を考える上で非常に有益である。同時代、スペインのセビーリャにいた中国人たちについての研究は、ファン・ヒルによるものが最良である。また近年、高瀬弘一郎はポルトガルのインド領国政府と本国の通信記録である『モンスーン文書』に見られるアジア人、日本人奴隷の取引に関する史料を、詳細に脚注・解説と共に刊行している(高瀬2011)。
日本人が外国人に売り渡されるまでの国内でのプロセスや歴史的前提に関しては、藤木久志による先駆的な研究(藤木2005)を始め、近年では下重清による丁寧な実証研究が大いに参考となる(下重2012)。またこれらの国内要因と、海外における日本人奴隷の実態を有機的につなぎ、流れとして解説したものには、北原惇(北原2013)と渡邊大門(渡邊2014)によるものがあり、包括的な理解を容易にしてくれる。
しかしながら、海外での日本人奴隷の実態については、いまだ岡本良知の研究が主たる引用対象であり、初出史料から紡ぎ出される個々の事例をつないで、ポルトガル人による日本人の奴隷貿易の全体的な構造を示そうとする本書は、趣を異にすると言えよう。
大航海時代に中南米に渡った日本人に関する研究は、実はかなり古くから存在する。日本から最も遠いアルゼンチンに関しては、カルロス・アサドゥリアンによる、コルドバで発見された日本人奴隷に関する記録の研究(Asadourian1965)、それらの史料の追跡調査をおこない、新たな知見を加えた大城徹三の研究(大城1997)がある。慶長遣欧使節と関連の深いメキシコのグアダラハラにいた複数の日本人については、林屋永吉による史料紹介と分析(Hayashiya2003)や、近年はメキシコ人研究者メルバ・ファルク・レジェスとエクトリ・パラシオス等がさらに研究を深めた(Reys&Palacios2011、レジェス2010)。
またペルーのリマ市で1613年、書記官ミゲル・デ・コントレラスがおこなった人口調査に登場する日本人やアジア人の記録は、クック等の手で1960年代には翻刻・刊行され(Conrteras1968)、その内容はすでに、南米やスペインの学界では常識的なものになっている。これらの研究をわかりやすくまとめ、新事実も併せて紹介したものに、ブラジルの邦字新聞『ニッケイ新聞』に連載された深沢正雪氏の『日本人奴隷の謎を追って』(2009)がある。ここで言及した研究以外にも、本書においては、様々な研究者による史料の発掘や解説およびそれらの研究を参照したが、詳細は巻末の参考文献を参照されたい。
このようにポルトガル人による日本人を含むアジア人奴隷取引に関する様々な史料・記録は19世紀以降、綿々として認知されているとは言い難いのが現状である。
筆者は、数年前、大規模な国際学会で、ポルトガル人による日本人の人身売買について言及したが、大航海時代のアジア海域史を専門とする世界的な著名な研究者から、『そんな話は聞いたことがない、捏造ではないか』という発言を受けた。このような無知はこの問題を同時代史料に基ずいて、実証的かつ体系的に論じた本格的な研究が欠如してきたことに由来する。本書は、わずかながらでもその欠を補うべく、平易な表現で、ポルトガル人がおこなった日本人の奴隷取引の実態と、その国際的なネットワークを、実証的に明らかにすることを命題としている。
序章 交差するディアスポラ
日本人奴隷と改宗ユダヤ人商人の物語
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ヨーロッパ人の言い訳
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ヨーロッパ人は、『未開の地』と見なす故地以外の土地では、宗教的道徳心に基づく合法的な取得を守る必要はないと考える傾向にあった。商人たちは異人種が自由を失う理由などは、まったく意に介さなかった。多くの商人は、たとえ自分の目の前にいる『奴隷』が、非合法的にその身分となったり、強制的に連行されたという事実を知っていても、彼らがその商売を諦めることはなかった。商人たちは、自分たちが奴隷を購入しなければ、捕獲者らは捕獲行為が明るみに出ないよう、殺してしまうだろう(だから購入は宗教的道徳心に基づいた行為である)と主張した。結局のところ、奴隷たちはキリスト教徒の商人の所有物となった時点で、洗礼(ヨーロッパ人にとっては『人間化』を意味した)を授けられるという事実により、彼れの言い訳は正当化されるのであった。
メキシコシティの異端諮問所
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第一章 アジア
Ⅰ マカオ
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Ⅱ フィリピン
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Ⅲ ゴア
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日本人奴隷の虐待と廃止
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1607年、ポルトガル領インドにおける日本人の奴隷化は禁じられることになった。それは虐待を受ける日本人の惨状が考慮された結果でもあった。しかしながら、その禁令以降も、日本人に対する虐待は後を絶たなかった禁令が存在するといっても、それ以前に契約された奴隷には、何の意味も持たなかったし、『召使い』といった曖昧な形での『奴隷取引』は継続されたからである。インド副王当局は、積極的には違反者の取り締まりに乗り出すことはなかった。
先述のおフランス人の冒険家ジャン・モケは、1610年ゴアに滞在した頃の、一人の日本人女性に関する出来事を記している。ゴアに滞在中のモケに、とあるポルトガル人が次のように話した。購入して間もない日本人の女性奴隷の歯が白いことを、彼が褒めたところ、彼の留守中に、妻がその奴隷を呼び出し、召使いにその歯を砕くよう命じたのだった。その後、夫がこの奴隷を妾にしているのではないかと疑った妻は、熱した鉄棒を彼女の陰部に押しつけるように命じ、その結果その女奴隷は死んでしまった、という。この無残な事件の顛末は、奴隷を虐待し、殺害した所有者の家族には、何の刑罰も与えられなかった事実を示しており、このような虐待は日常的なものだったことが、モケの記録からも判明する。
第二章 スペイン領中南米地域
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Ⅱ ペルー
リマの住民台帳
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リマの日本人の詳細
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ゴア出身の日本人
ドン・ジョゼッペ・デ・リヴェラが所有する奴隷の夫婦は、いささか特異な例である。その夫の名をトマス、28歳(1585年生まれ)で、妻の名はマルタ。双方共に日本人であると明記されるが、彼らがインドのゴア出身とされるのはどういう事情からであろうか。
『彼はゴアの町の出身で、属性は日本人、トマスという名で、その頬には烙印が押されている。ポルトガル領インド出身の、マルタという名の日本人で、属性はゴア人のインディアと結婚している』。この属性と人種の複雑さは、容易には理解し難いが、要するに二人共ゴア出身で、両親のどちらかが日本人であったと考えられる。この属性に関する用語の問題は、本書の冒頭に述べた。
ゴアに居住する日本人は相当数に上った。そのため、16世紀末に、ポルトガル国王命令として、日本人を奴隷身分から解放することが言い渡されたにもかかわらず、ゴア市議会は、それに従わなかった。彼らが集団で反乱を起こす可能性があったためである。
烙印を持つ日本人奴隷のトマスと妻マルタの間には、7歳の息子がいたことがわかっている。ジョゼッペという名のその子供もまた、奴隷であった。彼らがいつ頃からリマに住んでいたかは不明であるが、おそらくジョゼッペはリマで生まれたのだろう。
奴隷の烙印
右の記述では、トマスの頬に『烙印が押されている』とある。史料からは、それがどのようなものであったかの詳細は不明である。この種の烙印は、たとえ将来自由の身となったとしても、永久にその者の出自を公に示し続ける。烙印された奴隷はポルトガル人がリマに連れてきた者に多く見られた。
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熱した烙印を押すことには二つの目的があった。一つは、より単純な理由であるが、逃亡奴隷への罰としてであった。こうすることで、その人物が奴隷であることを誰もが認識でた。
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二つ目の目的は所有者を明確にすることであった。それは、奴隷商人や王国の代理人が使う方法で、通常、奴隷が積み出し港を発する際に押された。この行為は、一人の人間を商品に変えてしまうという点で、非常に象徴的である。その時点で、人間がプロパティ(財産)となる。同時にその行為により、奴隷は人間以下で、動物と同等の生き物と見なされることになった。焼き鏝(こて)で印を付ける方法は、古代から現在に至るまで、家畜に対して採られる方法だからである。
ポルトガルの主要な奴隷取引地でも、この烙印方法はよく見られた。
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……この慣行はゴアでもよくおこなわれていたようである。
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Ⅲ アルゼンチン
フランシスコ・ハポン
アルゼンチンにいた日本人に関する最初の記述は、コルドバ市にある。当時コルドバは奴隷取引の中心地であった。とりわけアフリカ人の奴隷が多く取引され、彼らはチリのポトシ銀山へ労働者として送られた。コルドバ市に居住した奴隷に関する記録は、カルロス・センパット・アサドゥリアンの研究に詳しい。
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1596年7月16日、商人ディエゴ・ロペス・デ・リスボアはフランシスコを神父ミゲル・ジェロニモ・デ・ポラスに売った。
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商人リスボアが神父ミゲル・ジェロニモ・デ・ポラスへフランシスコを売却した際の売値は800レアルであった。その文献には、この日本人がある戦争の最中に捕獲され、奴隷となったことが記されている。その戦争は、ヨーロッパの基準からすれば、正義の戦争(ブエナ・ゲーラ)であり、正しい戦で捕らえられた奴隷が、召使いや奴隷として売られるのは合法的なことであった。
当時、カトリック教会は、ある原則に従って奴隷の使用を合法と見なしていた。その合法理由の一つが正戦と非正戦の区別に基づくものであった。その定義は、権力者によって都合よく解釈されたが、前提として『正戦』で捕虜となった者は、フランシスコの契約書に記されたとおり、奴隷の身分として扱うことが許されていた。とりわけ、キリスト教世界の拡大のためにおこなわれた戦争の場合は、捕虜の奴隷化が容認された。
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フランシスコの契約書にあえて『正戦』による奴隷であると記されるのは、当時ポルトガル国王が、日本人の奴隷化禁止を明言していたことと関係している。つまり、ヨーロッパの法的習慣で合法であると明記しなければ、フランシスコを奴隷として取引することは許されなかったのである。
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第三章 ヨーロッパ
1 ポルトガル
インドからヨーロッパへ向かった日本人奴隷
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インドのゴアやコチンの港を発ってリスボンへ到着するナウ船には、毎年何百人もの奴隷が積みこまれていた。その多くはただ運ばれるだけではなく、船上労働者でもあった。平均すると、インドからポルトガルへ向かうナウ船一隻につき、200人から300人の奴隷が運ばれた。
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奴隷のコンフラリア
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リスボンに住む日本人
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その書簡からは、1570年9月20日以降、ポルトガル国王の命令により日本人の奴隷化が禁止されていたにもかかわらず、日本人奴隷は毎年ポルトガルに到着していたことが明らかである。
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1580年1月27日にリスボンで大地震が起き、とりわけ市街の中心部は壊滅的な状況となったことも、記録が残らなかった理由かもしれない。
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姻戚記録から見る奴隷社会
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1597年を最後に、この奴隷・解放奴隷の集団に関する記録が見られなくなる。同じ時期に、リスボン全体の人口動態に影響を与えた出来事が生じたことと無縁ではないように思われる。それは、1598年10月、リスボン市内に初めて死者が出て以来、累々たる屍が積み上げられた黒死病の流行である。それが収束したのは1602年2月のことであった。感染から逃れるために、多くの人々がリスボンを離れ、周辺地域へ移動した。
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『解放』は、実際のところ厄介払いである場合も多かった。奴隷が年をとり、仕事ができなくなると、厄介者でしかなくなり、彼らの面倒を見るのを嫌がる主人は、それらの奴隷を『解放』した。残念ながら、こうした奴隷の行きつく先は、浮浪者、物乞いの類であった。運がよければ養老院や救貧院のお世話になることもできた。
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国境の町セルパ
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ルイス・フロイスの『日本史』によれば、1588年、薩摩の島津軍と豊後の大友軍との戦闘に際し、多くの豊後領民が捕虜として生け捕られたとある。これらの人々は肥後地方からさらに高久へと売られ、島原や三会では、40名もの豊後から来た女、子供が束になって売られた。彼らの値段は、一人あたり『2、3トスタン』であったとある。邦訳本では『二束三文』と翻訳されているが、トスタンは当時ポルトガルで使用されていた銀貨の単位であり、フロイスは具体的な価格を示していると理解するべきである。
つまり、日本で売買される奴隷の原価が3トスタンであったと考えれば、ポルトガルで彼らに与えられた400トスタン以上の価値というのは、およそ原価の100倍以上であると見ることができる。
……
Ⅱ スペイン
……
おわりに
『キリシタンの世紀』とも呼ばれる16世紀中葉から17世紀中葉までの100年間は、『南蛮の』と呼ばれることもある。それほどまでに、南蛮人と呼ばれたポルトガル人・スペイン人との交易を主として交わりが、日本の社会やその文化に与えた影響は少なからざるものであると言えるだろう。
『南蛮貿易』は、中国の沿岸島嶼部(1557年以降はマカオ)をハブ拠点として、交易に従事するポルトガル人たちが、インドや東南アジアの諸地域で取引される商品や、中国産の生糸・絹織物・薬種などを日本へと運んだものとして知られる。南蛮貿易における主要な取引品は、戦国時代はシャム(現在のタイ)の港アユタヤに集積する鉛などの鉱物、中国産の硝石など、軍事に関するものであった。それらの入手するために、当時開発著しかった石見(いわみ)の大森銀山などで産出される銀が費やされ、また戦国時代の『乱取り』と呼ばれる、戦時の捕虜の習慣などを要因として、多くの日本人が『奴隷』として国外へ運ばれたのである。
記録に散見される限りでは、これらの日本人奴隷の出身地に、『豊後』が多く見られるのは事実であるが、であるからと言って、天正7年(1579)にキリシタンに改宗した大友宗麟が積極的に奴隷貿易に関与したとは言い難い。というのも、『乱取り』は大伴氏と敵対した島津領でよく見られた現象であったし、豊後出身であるということは、むしろ大友対島津の戦争で捕らえられた豊後領民が、薩摩経由で長崎へ運ばれたと考える方が自然であるからである。戦国時代に流出した日本人の奴隷は、このような戦争捕虜であるばかりでなく、誘起された子供、親に売られた子供なども多くあった。これらの事例では往々にして、日本側の理解では、『奴隷』ではなく、期限付きの隷属、すなわち『年季奉公』の感覚であった可能性が考えられる。というのも、メキシコやアルゼンチン、ポルトガル、スペインなど、世界中に残る16世紀の日本人奴隷に関する史料のうち、『自分は本来ならば奴隷ではない』ことを主張して、わが身の解放を求める訴訟に関するものが、相当数存在するからである。
16世紀のポルトガル人による奴隷貿易は、日本やアジアに限らず、全世界的な現象であった。人間が商品として売買されることが、最も日常的であった時代の一つである。とはいえ、映画などこからイメージされるような、奴隷商人が銃や縄で追い立て、悲惨な待遇で人々を家畜のように船内に押し込めるシーンは、やや限定的なものであることにも注意せねばならない(そういったことがまったくなかったという意味ではない)。
最も意外なことには、彼らが取引される際には、『文明化』すなわち『キリスト教化』の儀式が伴った。つまり彼らは、ポルトガル人の奴隷になる際に、洗礼を授けられる習慣があった。それは長崎でもおこなわれた。つまりイエズス会の宣教師は、奴隷として売買される人々の存在を知っていたし、その取引が正当化されるプロレスにも関与していたと言わねばならない。1570年に日本人の奴隷取引を禁じたポルトガル国王ドン・セバスティアンの勅令は、『ポルトガル人が日本でおこなう奴隷取引が、キリスト教布教の拡大を妨げる』ことを理由に、イエズス会の働きかけによって発せられたものであった。しかしながら同時にイエズス会は、日本における奴隷貿易に関与せざるを得ない状況にあった。日本において、奴隷貿易そのものや、イエズス会の介入が完全に断たれる状況になったのは、慶長3年(1598)にルイス・デ・セルケイラが日本司教として長崎に到着し、奴隷取引に関する者すべてを、教会法により罰すると定めたことによる。
ポルトガル人側での日本人売買をめぐる禁令とは別に、日本の為政者からも、日本人の海外への売却を問題視する動きがあった。それは秀吉による有名な『伴天連追放令』である。世に言うに『伴天連追放令』は二種類、天正15年(1587)6月18日の日付を持つ覚書(伊勢神宮文庫『御朱印師職古格』)と翌日の五か条(『松浦家文書』)がある。それぞれ内容が異なり、先行研究においても解釈が分かれる複雑な問題であるので、内容の分析はさておき、6月18日の覚書に、『1,大唐南蛮高麗へ日本仁を売遣候事可為曲事(うりつかわしそうろうこと きょくじたるべく)、付日本二をいてハ人之売買停止之事』として、日本人の売買を禁じた条項があることに注目したい。この条項がキリシタン問題と同じ扱いで言及されるということは、すなわち秀吉が、日本人が海外に売却されている現実を、イエズス会の問題でもあると認識していたことを示すものに他ならない。
これまでこの条項は、イエズス会とは無関係であるとか、宣教師がポルトガル商人の奴隷売買を黙認していることを問題視したものであると言われてきた。しかし先述のとおり、イエズス会は奴隷売買のプロセスにおいて、紛れもなく一機能を担っており、それを秀吉は見逃していなかったのである。
イエズス会と日本人奴隷貿易の関係については、容認、禁令の問題を含め、本書の原書であるルシオ・デ・ソウザの著書(『16・17世紀の日本人奴隷貿易とその拡散』)で詳しく扱われているものの、本書に訳出することではきなかった。別稿にてこれを詳らかにすることを期するものである」
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アメリカ・GHQは、日本に都合の悪い事実や情報を抹消し、西洋を告発する全ての書籍を焚書処分にし、日本の正当性を訴える言論を弾圧し、徹底した情報統制と情報操作を行った。
日本を時効無き犯罪国家に仕立て上げ、日本人に消える事のない犯罪者に烙印を負わせようとしたのは、反天皇反日派ユダヤ人と日本人共産主義者であった。
邪魔な日本人は、公職追放した。
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日本は特殊な国で優秀な国であるというより、世界常識が欠如した理解不能な国という事である。
奴隷制度を持つという事は世界常識で、人類史、世界史、大陸史では奴隷によって発展、進歩してきた。
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西洋人は、キリスト教の唯一絶対神の御名により日本人はキリスト教徒に改宗させ、金儲けの為に中国・東南アジア・メキシコなどに奴隷として売った。
歴史的事実として、日本人が奴隷として売られた事を知っていたが、だが奴隷として売られた日本人に同情する者は誰もいない。
奴隷となった日本人は、日本はもとより世界中で見捨てられた。
そして、誰一人して自由の身となって日本の帰国した者はいない。
故郷に戻り、家族と再会した者いない。
現代の日本の歴史は、日本民族日本人の為の歴史ではない以上、奴隷として売られた日本人はいなかったものとして歴史から抹消した。
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2016年9月号 WiLL「預言者の時代 4 古田博司
奴隷に優しい国
奴隷を知らない国
もう一つの債務奴隷がいる
さて、奴隷が分からない国日本に比して、旧約聖書の世界は奴隷花盛りである。類型化すると、奴隷にはだいたい3種類がある。1は敗戦奴隷、2は拉致奴隷、3は債務奴隷である。前回、前2者については語ったので、そろそろ債務奴隷に入りたいと思う。
債務奴隷の特徴は、他の2つよりも『気の毒度』が高いということがある。これは、敗戦奴隷や拉致奴隷の異民族と異なり、同族で落ちるものをできるだけ防ぎたいという一般自由人の保護の観点が入るからだと思われる。
バビロニアでは債務奴隷が一貫して発達してきたが、差し押さえとして債務奴隷になると、債務奴隷は速やかに売買され現金化された。妻と子は夫にしたがって債務奴隷となるが、ハンムラビ法典よれば、彼らは3年後には全員自由の身となれた。こうした、いわば年季明けのようなものが設けられているのは、あまりにも奴隷労働が発展しすぎると、一般自由人を阻害してしまうからだという意見もある。
他方、M・ウェーバーなどは、奴隷労働については否定的で、その問題点は、『自益心の欠如』にあるというのだ。奴隷の『やる気のなさ』が、いかなる技術上の進歩も、集約化も、質的向上をも阻害してしまうと(M・ウェーバー『古代社会経済史』東洋経済新報社、1973年、35頁)。ゆえに奴隷労働はリスクが大きく、必ず歯止めがかかるという意見である。奴隷解放も、奴隷の自益心(やる気)をめざめされておかなければならないから起こってくるという。
『どうかな』と、私は思う。債務奴隷は同族の転落者が多いから、『気の毒度』が高いのだといったほうが、単純で良くはないか。要するに、学者の議論などは大体がこのような直観勝負なのである。どこが正鵠(せいこく)を射ているか、ということは、『現実妥協性・有用性・先見性』の問題である。その見解で、現実より良く説明でき、色々な場合に適応して解釈に役に立ち、将来その事象が再度起こっても、そのようになるという確信が得られる見解がベストなのである。その中でウェーバーばかりを選んできたのは、権威主義の日本の近代学者だけだ。
旧約聖書の律法では、明らかに奴隷に厚い態度が見られる。出エジプト記の21章にあるものをまとめれば、同族奴隷に6年間の奉仕と7年目の解放として『ゆるしの年』を設け、奴隷が解放を拒む場合の居残り法を記し、自分の奴隷を打って死ねば罰せられ、自分の奴隷を打って目がつぶれたり歯が一本ぬけたら解放せよとし、牛が奴隷を突き殺した場合には銀払いせよとする。
……
奴隷も宦官もいなかった日本
前回、日本人にはどうも奴隷制がピンと来ないという話をした。ところが、それがなぜそうなるのかに辿り着くまで前で紙幅が尽きてしまった。そこで、今回の眼目はここにある。実に日本は、世界に稀にみる奴隷制度の定着しなかった国なのである。だからどうにも奴隷が分からない。
古代日本でも、シナの律令の身分法を受容したときに奴隷制を規定したが、口分田(くぶんでん)の班給(はんきゅう)を受けることのできぬ奴婢(ぬひ)的な賤民に過ぎず、8世紀を通じて賤民に戻った。150年にわたる内戦ともいうべき戦国時代には、『乱取り(らんどり)』(乱奴取り)といい、人を掠取し、国元に護送することも行われた(例えば武田氏の『甲陽軍鑑』を見よ)。でも、関ヶ原の合戦からは人の掠奪自体が禁じられた。人間を狩ってきて、家畜のように扱うという発想がどうにも馴じまなかったようになるのである。
だから人間の家畜視もなく、宮刑(きゅうけい、去勢刑)もなく、宦官もいない。奴隷制度をなぜ持たないで済んだかというと、古代から分業が発達していたからだろうと思われる。分業が発達していれば、みんなが何かしら働いているから奴隷はいらないのである。なぜ分業が発達していたのかと問われると、もう答えられない。神話時代からそうだったと言うほかない。
古事記やその他の古代の残簡(ざんかん)を読めば分かるように、日本は神々自身が分業している。アメノコヤネあ井戸ほりと飲み水・食器の係、アメノイハトワケは守衛、アメノウズメは鎮魂・鎮撫・語り部、アメノオシヒは戦闘、ヤタノカラスは斥候と案内といったように神々が職をもっている。それが中臣(藤原)・隼人・猿女(さるめ、稗田・ひえだ)・大伴・鴨(賀茂)の部民になるというのは歴史時代の話である。歴史時代の現実が神話時代に照射されて、分業する神々が生まれたといったほうが良いのかもしれない。から私は、日本国家の向こう側の根拠は『分業』なのだと理解している。
古代のシナやコリアから渡来した民もすぐに日本群島の分業体制の中に組み込まれた。古代エジプトに流れて行ったヘブライ人などは、今のスエズに近いゴセン地区に集まり住み(出エジプト記8−22)、うち債務奴隷に転落したものは、漆喰(しつくい)コネや日干しレンガ造り、農奴などの重労働に服していた(出エジプト記1−14)。でも、日本ではそのようなことにはならなかった。
古代日本では、シナからやって来たハタびと(秦人)が姓名の分かるもので1,200名に達するが、寄留民や債務奴隷になることはなく、そのまま大和の部民として分業の民となり、土木を担う職となるのである。
『分業国家』の美点と弱点
そして来た時の信心や渡来前の言葉さえも、みな消え失せてしまう。応神天皇の御世にコリアからやって来たアチびと(阿知人)は記述者の職を得たが、シナ道教の上帝、西王母などを崇拝していた。当時の呪詞『東文忌寸部献横刀時呪(やまとのふみのいみきべのたちをたてまつるときのじゅ)』が残るので分かるのだが、それらの信心も言葉もすべて飛散した。
平安時代の後半に、新羅の入寇(にゅうこう)や刀伊(とい)の入寇など、コリアによる日本人拉致事件があったが、それらは当然奴隷にするために来たのである。ところが豊臣秀吉の朝鮮の役で、コリアから陶工を連れ出したのは奴隷としてではない。彼らを技術者として厚遇し、士分を与えることがあったのは、日本が『分業国家』であり、奴隷制を欠いていたからにほかならなかった。これを現在の韓国人に説明することはほとんど不可能に近い。
1597年、朝鮮の役の際、全羅北道南原で輜重(しちょう)の任に当たっていた姜𦫿(きょうこう)は、霊光の置で藤堂高虎の水軍に捕らえられ、日本に3年滞在して釈放されたが、その帰国後の記録で次のように述べている。
『倭の俗では、ことあ毎に各種の職工で、必ずある人を表立てて天下一とします。ひとびと天下一の手を経れば、ひどく粗末でも、ひどくつまらない物だっても、必ず金銀でもって重くあがなわれます。天下一の手を経なければ、天の妙たる物でも取り上げません。記を縛り、壁を塗り、屋根を蓋うなど、つまらない技にもみな天下一がり、甚だしきは、署名、表具、花押(かおう)にも天下一があって、ひと触り、ひと睨みで、金銀三、四〇錠をその値にあてます』(天理図書館所蔵今西博士蒐集朝鮮本『睡隠看羊録』)
テレビ東京系の『開運!なんでも鑑定団』のようだが、分業のそれぞれに雄があることに驚き、半ばあきれているのであろう。
いま日本の分業の高度化を自画自賛する番組『世界が驚いたニッポン!スゴ〜イデスネ!!視察団』というのをテレビ朝日系列でやっている。別に水を差すつもりはないのだが、私はあれを見るたびに、分業国家の持つある種のクレイジーさを感じています。そこまでやる必要があるのか、という李朝人士・姜𦫿に似た感慨である。
たしかに分業が進めば、他業種を信頼し、仕事を分担して、納期という約束を守って暮らしていくということになるから、日本人の共同性は高まる。そこから日本人の『統合性』とか『共通性』を強調する論が出てくるのだろうが、おうも違うような気がする。
高度な分業が統合性を覆い隠す
分業のおかげで共同性は自然に縦割りで強くなるが、多業種を横断してマネジメントする人材の輩出を嫌うから、日本人の統合性はむしろひ弱なのだと自戒すべきではないのだろうか。
日本国家の最大の弱点は、分業が進み過ぎて分業組織間の連携が困難になり、ついにはお互いに無関心となって全体像と将来像を見失い、過去の成功例の『規格』に固着して失敗することだと思われる。戦時中の陸軍と海軍がこの良い例で、彼らは予算を取りあうことに血道(ちみち)を上げ、軍を分業するお互いには無関心であった。真珠湾攻撃の時には、ちゃんとした近代戦の航空機で突入したはずなのに、分業が進につれて退行を起こし、最期はバルチック艦隊を迎え撃った日本海海戦のように、アメリカを日本近海におびき寄せ、艦隊決戦をやろうとしていたのであった。
では、どうしたら退行しないようにし、高度な分業体制を保ちながら統合性を高めてくことができるのか。これは日本国家のためにも真面目に考えていかなければならない課題だと思う。
……
昔の地域研究者は、『地域研究者は自分の研究する地域を愛していなければならない』などと、よく言っていた。だが、要するに、『愛している地域をやれ』というのと変わりない。『ベジタリアンは、自分の食う野菜を愛さなければならない』なんて、わざわざ言う必要があるのだろうか。近代には、こういう同義反復の閉ざされた系を愛でる学者が随分いた。近代の愚痴や未練は玄界灘にさらりと捨てて、度胸千両で現代を進みたいものである」
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日本神道と日本仏教に染まった日本人には、世界常識である奴隷制度・奴隷が理解できなかった。
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日本に奴隷制度が生まれなかったのは、倭の大王、日本天皇が開いたヤマト王権が大陸からの侵略してきた中華価値観を持った征服王朝でなかったからである。
武力で王朝を築いた民族は、征服した民族が独立する為の反乱を起こさないように、身分を奴隷に落として苦役と重税を課し、自立意欲を抹消するべく暴力と死による恐怖支配を行った。
階級社会とは、民族が民族を征服する事によって重層化した。
階級がない社会とは、異民族に征服された事がない事を意味し、よって奴隷制度は生まれず、奴隷も存在しない。
ゆえに。日本は階層社会であっても階級社会ではなく以上、マルクス主義の科学的唯物史観に基ずく階級闘争は存在しない。
日本には、共産主義は馴染まなかった。
人民解放を大義とする共産主義は、日本を古層から破壊し、日本を地上から消滅させる劇薬であった。
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2015年9月号 SAPIO「GHQによる言論統制があったことは有名だが、そこに多くの日本人が関わっていたことはあまり知られていない。かつて持っていた「壮大な視野」を失ってしまった現代日本人。その元凶であるGHQと日本政府の「焚書密約」の真相について、評論家の西尾幹二氏が迫る。
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かつて戦前戦中の日本の中枢を担う指導層は、日本が中心となって世界をどうリードしていくかという壮大な視野と先を見通す力を、現代の人よりはるかに持っていた。
ところが今、たとえばAIIB(アジアインフラ投資銀行)のように、日本がとうの昔に志向したものまで中国に奪われるようになってしまった。そうしたことがあらゆる事柄において起こっている。どうして、日本人は壮大な視野を失ってしまったのか。
その原因は、戦後、GHQが行ってきた言論統制にあると考える。特にGHQが当時の日本政府との密約によって行った「焚書」の影響は大きい。焚書とは流通している書物を没収、廃棄することを意味する。GHQは自らの思想にそぐわない日本の書物をリスト化して没収し、国民に読ませないようにした。
私の調べでは、焚書対象となったのは昭和3〜20(1928〜1945)年に出版された約22万タイトルの刊行物のうち、7,769点だった。「皇室」「国体」「天皇」「神道」「日本精神」といった標題・テーマの本はもちろん、およそ思想的には問題ないと思われる本も含まれている。それらは「宣伝用刊行物」、つまりプロパガンダの道具として扱われ、没収の憂き目に遭った。
これだけの書物の内容を確認するには、GHQ内部だけで完結できるとは考えにくく、日本人の協力者がいたことが容易に想像できる。GHQから通達された「覚書」に記載された対象本は最初は十数点だったが、33回目の覚書を境にして500点前後に急増している。私はこのときに日本人協力者の参加が始まったと推測している。
焚書行為の舞台のひとつは、帝国図書館(現・国会図書館)だった。当時の帝国図書館館長の回想記の記述は衝撃的だった。そこには「出版物追放のための小委員会」に、外務省幹部や東京大学文学部の助教授らが参加していたことが記されていた。
東京大学文学部の委員が具体的にどう関与したのかは不明だが、日本人が焚書図書選定に関わったことは確かだ。仮に日本の知識人の協力がなければ、大量の本から焚書すべきものを選ぶことなどできない。当時は、公文書に残らない秘密会議として行われた。まさに日本とGHQの密約である。
この焚書という忌まわしい行為は、昭和23(1948)年7月からは全国展開されるようになり、昭和26(1951)年まで続いた。
それは、民間の一般家庭や図書館の書物は没収対象にしないものの、書店や出版社からだけでなく、すべての公共ルートから探し出して廃棄する方針で行われた。国民に知られずに秘密裏に焚書を完遂するためである。
なぜならGHQは、書物の没収は文明社会がやってはならない歴史破壊であることを知っていたからだ。自由と民主主義を謳うアメリカが、言論の自由を廃する行為を行っていたことが国民に知られれば、占領政策がままならないとの認識があったのである。
焚書の実行にも多くの日本人が関わった。最初は警察が本の没収を行い、昭和23年6月からはこの業務は文部省に移管され、その後は文部次官通達によって都道府県知事が責任者となって進められた。通達は、知事に対して警察と協力して流通している対象書物はことごとく押収し、輸送中のものにまで目を光らせよと厳命した。そして、没収を拒んだ者や没収者に危害を加えようとする者を罰するとしたほど徹底的であった。」
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連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、聞などの報道機関を統制するためにプレスコードを発し検閲を実行した。
昭和20年9月19日にSCAPIN−33「日本に与うる新聞遵則」を発令した。
9月10日に「新聞報道取締方針」「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN−16) が発せらた。
削除および発行禁止対象のカテゴリー(30項目)
1,SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
2,極東国際軍事裁判批判
3,GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
4,検閲制度への言及
5,アメリカ合衆国への批判
6,ロシア(ソ連邦)への批判
7,英国への批判
8,朝鮮人への批判
9,中国への批判
10,その他の連合国への批判
11,連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
12,満州における日本人取り扱いについての批判
13,連合国の戦前の政策に対する批判
14,第三次世界大戦への言及
15,冷戦に関する言及
16,戦争擁護の宣伝
17,神国日本の宣伝
18,軍国主義の宣伝
19,ナショナリズムの宣伝
20,大東亜共栄圏の宣伝
21,その他の宣伝
22,戦争犯罪人の正当化および擁護
23,占領軍兵士と日本女性との交渉
24,闇市の状況
25,占領軍軍隊に対する批判
26,飢餓の誇張
27,暴力と不穏の行動の煽動
28,虚偽の報道
29,GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30,解禁されていない報道の公表
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