⚔20)─3─宗教弾圧。豊臣秀吉の紀伊・根来寺攻め。徳川家康の宗教監視・管理政策。~No.87No.88No.89 @

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族日本人は、中国人や朝鮮人とは違って記録や日記を書き記し、全土を灰にするような戦乱が少なかった為に、貴重な史料が日本国内に数多く埋もれている。
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 古代から、日本には信仰の自由や布教の自由は保障されていた。
 日本の仏教僧は、宗教以外に、政治・経済・建築・土木・料理・教育・天体そして戦争・医療・衛生など多方面の知識を持ち活動していた。
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 仏教僧は、争いを嫌う平和の徒ではなく、念仏を唱えて人を殺す戦争屋でもあった。
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 1585(天正13年 羽柴(豊臣)秀吉の紀州攻めにより、根來寺は炎上した。
 大伝法堂・大塔・大師堂等は焼け残るが、本尊の三尊像は京都嵯峨へ運び出され、大伝法堂も解体される
 1600(慶長5)年 徳川家康、根來寺再興を許可した。
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 2017年7月28日 週刊朝日司馬遼太郎と宗教 文=本誌・村井重俊、守田直樹
 司馬さんは『根来寺』(新義真言宗)に関心が深かった。12世紀に根来寺を開いた真言宗の改革者覚鑁(かくばん)、戦国時代の鉄砲傭兵『根来衆』と、司馬さん好みの話題は尽きない。
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 『街道をゆく32──紀ノ川流域』 川崎大師に初詣でする人達や成田のお不動さんに交通安全のお札をいただきにゆくひとびとの何人が、宗祖が覚鑁という人であることをしっているだろうか

 根来寺の風
 根来寺和歌山県北部の岩出市にあつ、紀の川流域の和歌山市が近く、さらに根来寺そばの風吹峠を越えると泉南大阪府南部)となる。
 その根来寺を訪ねた旅が『紀ノ川流域』(1988年)だった。司馬遼太郎さんは須田剋太さんから、開祖の覚鑁(1095〜1143)について聞かれた。
 『覚鑁というのは、どういう人ですか』
 『損な人かもしれません』
 〈最澄空海に次ぐ平安仏教史上の巨人でありながら、鎌倉仏教の法然親鸞日蓮や、栄西道元、あるいは一遍といった人達のような盛名をもっていないのである〉
 しかし、その教えを受け継ぐ寺といえば、京都の智積院(ちしゃくいん)、大和の長谷寺、関東の川崎大師や成田不動など、有名な寺が多い。後世に残した遺産は大きな人のようだ。
 覚鑁肥前(佐賀)に生まれ、京都の仁和寺(にんなじ)で得度し、真言密教高野山で学ぶ。しかし、当時の高野山は活気を失っていた。
 〈空海密教学は、空海が完璧なものに仕あげて死んだため、その後継者たちはなすべきことがなく、ただ空海を学ぶに終始し〉
 と司馬さんは書く。
 覚鑁の時代は、浄土思想が広まりつつあった。日本人は阿弥陀如来信仰に親しみやすい。このため覚鑁空海の教えに、浄土宗を取り入れている。
 『密厳(みつごん)浄土ということをさかんにとなえた人です』
 と、司馬さんは須田さんに説明している。
 〈覚鑁は、こういう思想的状況のなかで、真言密教の主尊である大日如来が、不動の光明でなく、救済をするときに阿弥陀如来に変わるという思想をうちたてた〉
 その斬新さは当時の鳥羽上皇らに支持され、絶大なバックアップを受けることになった。密教研究と論議をおこなう『伝法会』も復活させ、ついには高野山(金剛峰寺)の座主になっている。
 ただし、40歳とまだ若かった。
 〈短期間での異数の出世と、学問の深さと議論のするどさと新思想のうちだしは、高野山の古い学侶や衆徒のあいだに、反感を高まらせていたはずである〉
 空海なら政治力を駆使して闘っただろうが、覚鑁は戦闘的なタイプではなかったようだ。
 〈高野をゆるがすほどの排斥運動に対し、かれがやったことといえば、高野山の一隅で千日の無言の行をやっただけだった〉
 1140(保延6)年、46歳の覚鑁は山を下り、根来寺に移ることになる。以後、高野山を中心とする伝統的な真言宗が『古義真言宗』、根来寺を拠点とした覚鑁の思想を受け継ぐ真言宗が『新義真言宗』と呼ばれるようになった。
  ◇  ◇  
 覚鑁は49歳で亡くなったが、浄土思想はさらに流行した。根来寺は豪族や貴族の寄進が相次ぎ、寺領は拡大した。室町時代、寺領は70万石ほどあったと、『紀ノ川流域』にはある。
 戦国時代の日本に来たイエズス会ルイス・フロイスは『仏僧だけで8,000人から1万人』と本国ポルトガルに報告した。
 『寺院なり屋敷は、日本の仏僧(の寺院)中、きわめて清潔で黄金に包まれ絢爛豪華な点において抜群に優れている』
 と、フロイスは書き残している。
 宗教都市『NEGRU』は当時の世界地図にも載っている。
 山内の建物は多かった。
 〈堂塔や伽藍、およびその付属建物は二千七百余棟で、行人(ぎょうにん)の住む坊舎が八十余坊もあったという〉
 行人は正規の僧ではなく、寺領の運営と防衛その他俗事を引き受ける者をさし、『僧兵』もいた。
 〈僧俗あわせて、2万人以上はこの山中に住んでいたにちがいなく、一大宗教都市だったと考えていい〉
 学僧が研究に没頭する一方、行人たちもさまざまに活動する。
 まず商工業がさかんだった。
 什器(じゅうき)づくりが発達し、朱塗りが美しい『根来塗』は全国に知られた。中世につくられた『古根来』は古美術界でいまも珍重されている。
 さらには『鉄砲』がある。
 根来衆は貿易業に乗り出し、東シナ海貿易の拠点である種子島とも深いつながりがあった。鉄砲伝来(1543年)でも根来衆が登場する。伝来した2丁のうち、1丁を種子島氏から譲り受けたという。
 持ち帰った鉄砲は堺でさかんに製造されるようになった。つくった鉄砲を各地にセールスする一方、自衛に使い、傭兵集団ともなっていく。
 〈根来衆は、戦国大名にさきがけて鉄砲をもって武装し、後年、豊臣秀吉によって堂塔・行人とともにほろぼされるまで、ぬきん出た鉄砲集団として四方からおそれられていた〉
 小説『尻啖(くら)え孫市』は紀州の鉄砲傭兵集団『雑賀衆』のリーダーを描いた作品だが、そのライバルとして根来衆は作品に登場してもいる。
 戦国の三英傑にとっても無視できない存在だった。本願寺と戦う織田信長とは結び、秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦い(1584年)では家康と同盟、秀吉側の岸和田城などを激しく攻めている。
 しかし、家康は結局、秀吉の傘下に入り、根来衆は梯子をはずされる。
 翌年3月、秀吉の大軍が紀州に入り、根来寺は焼き打ちにあった。大塔、大伽藍などの主要伽藍をのぞき、全山の塔頭(たっちゅう)が焼失している。細々と再建されたのは江戸時代からで、戦国時代と現代の規模は比べようもない。
 〈根来寺は、もはや往時のようではない〉
 訪れた司馬さんはそれがいいのだ書いている。
 〈その空閑としたところが、この広大な境内の清らかさになっている。わずかに残った大門や堂塔、塔頭が、ひくい丘陵と松柏(しょうはく)にかこまれて、吹く風までが、ただごとではないのである〉
  ◇  ◇  
 ……
 根来寺の史料は、秀吉の攻撃によって多くが失われた。しかし近年、全国の寺々に根来寺で学んだ法会についての史料が残っていたことがわかってきた。醍醐寺(京都)、金剛寺(大阪)、高幡不動(東京)、大須観音(愛知)、願成寺(熊本)や、高野山の正智院でも膨大な史料が見つかっている。
 『根来寺真言密教の知的情報源として、全国から僧が集まる僧侶の学校として機能してきました。高野山とも鎌倉や室町期を通じ、交流が続いていました。まず、学問寺なんですね。鉄砲傭兵となった僧兵ばかりがクローズアップされるのは心外です。密教学習のネットワークが、巨大寺院の力を生み出していったと私は考えています』
 根来寺では日本最古とされる『平家物語』の写本も見つかっているほど、『平家物語』の研究がさかんだった。中川さんは著書に書いている。(中川委紀子『根来寺を解く』朝日選書)
 『寺院をとりまく環境は、現代人が漠然と理解しているような、呪縛的で閉鎖的空間ではなく、むしろ互いに学び合う、自由な開かれた知的交流の場であった。……僧侶がにぎやかに議論を深めながら繰り広げる「平家物語」編集会議の場が目前に浮かぶようである』
 根来寺の裏山から葛城霊場へ続く道があったように、古くから修験道が根づいていた歴史もある。
 『仏教っていうのは本当にフレキシブルなものなんだと思います。絶対というものはなく、普遍的に人々の生活に合わせながら、取捨選択しながら信仰してきたんだということを強く感じます』
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 根来寺を再建させる大きな力になったのは家康だった。
 『根来系(新義の系統)には、浮世に借りがあって、借りをかえすために、大いに保護をした』 と、家康の心境を想像しつつ、司馬さんは『紀ノ川流域』で書く。
 『真言宗にも、浄土信仰があったと知らなかったな』
 と、家康は興味を示したのだろうか。家康の宗旨は浄土宗だった。
 歴史の重ね、清らかな境内の根来寺に司馬さんは感じ入ったようだ。
 『清貧』ぶりを『清富』と讃えた。
 〈古刹(こさつ)が境内の旧観と自然を保っているということほどの清富はこの世にない〉
 実に根来寺を訪ねるのは3度目のことだった。若いときから、栄華と滅亡を経て存在する根来寺にロマンを感じていたようで、
 〈ただ風のなかにいるだけで骨に透けてゆくような感じがした〉
 と、司馬さんは記している。」
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 織田信長豊臣秀吉徳川家康の宗教弾圧は、不法な布教弾圧や信仰弾圧ではなかった。
 むしろ、個人の私的な信仰は自由に認めていた。
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 荒っぽく信仰を二つに別けると、俗世の信仰と神聖な信仰になる。
 俗世の信仰は、自分一人の現世利益・利得を祈る事である。
 神聖な信仰は、神仏の教えと戒律を守って社会を宗教的正しい方向に変えていこうと祈る事である。
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 織田信長豊臣秀吉徳川家康らは、俗世の信仰を認めたが神聖な信仰は認めなかった。
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 宗教が、現世利益・利得の御利益を謳い文句に御札やお守りを売って金儲けし、多くの参拝者を集めて散財させ門前町を潤し賑やかにする限りは、許した。
 宗教が、経済力や軍事力を持ち、神聖な世の中をつくる事を正義として政治に介入する事は、許さなかった。
 賭博や高利貸しを行って微々たる寺銭稼ぎする事は見逃しても、中世キリスト教会のように日本人を奴隷として売る事やアヘンなどの毒薬で巨万の富を得る事は厳しく取締り、禁を犯せば厳罰に処した。
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 徳川家康の宗教管理・監視政策とは、仏教の葬式仏教化であり、宗教を政治・経済・軍事から排除し、町中から郊外へ移し、戦争の防衛拠点にするべく予想される主戦場近くに寺社仏閣を集めた。
 宗教の特権は一切認めず、骨抜きにする為に徹底して政教分離・経教分離・軍教分離を行った。
 如何に聡明な高僧でも、みだりに政治向きの発言をする事を禁止し、助言を求められた時のみ答える事を許した。
 建前として宗教を敬い奉ったが、本音では宗教を見下していた。
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 弾圧された宗教とは、積極的・前向き・外向きの、未来・来世・死後の世界を今よりも良くする為に現世・現代を変えようとした現状変革の宗教である。
 弾圧されなかった宗教とは、消極的・後ろ向き・内向きの、現世・今の原因を前世・過去に求め先祖供養に徹する現状甘受の宗教である。
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 日本に根付いた宗教の特徴は、日本人が好むように教義を歪曲し戒律を曖昧に緩めた宗教だけである。
 つまり、現実に即し現象に流され、決して攻撃的排他的原理主義に走らない事である。
 新しく伝来した宗教と最初は優劣を決める為に神学論争するが、論争するうちに相手の優れた教義と自分の劣った教義を認め、自分の劣った教義に相手の優れた教義を取り入れ時代に合った教義を再構築する。
 日本民族日本人が宗教や哲学・思想・主義を変えるのか、宗教や哲学・思想・主義が日本民族日本人によって自ら変化するのか。
 日本民族日本人にかかると、宗教や哲学・思想・主義は本来の姿を失い、見た目は同じでも中身は別のものに変わっている。
 その意味において、日本には本当の宗教や哲学・思想・主義は存在しない。
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 古来、日本では政治権力が宗教権威の上にあり、俗欲の政治は神聖の宗教を無力化した。
 無力化を受け入れ神聖を捨てた宗教・宗派・教団のみが、日本国内での布教活動を許された。
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 江戸時代のキリスト教禁制・キリシタン弾圧は、合法であり、非難・批判されるのは不当である。
 日本の正統政権であった徳川幕府は、国法としてキリスト教禁制令を発布し、キリシタン取り締まりを公言し、キリシタンの棄教を命じ命に従わなければ処刑すると言い渡した。
 国法に背く者は犯罪者である。
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 ローマ・カトリック教会イエズス会などの中世キリスト教会は、日本のキリスト教化に失敗して逃げ出した。
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 もし、豊臣秀吉徳川幕府が中世キリスト教会やイエズス会などの修道士会を追放しキリシタン弾圧を行わなかったら、日本各地(長崎)にマカオのような日本ではないキリスト教会領が誕生していた。
 中世キリスト教布教は、日本の分解・解体、崩壊・破壊の危険があった。
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 日本で宗教絡みの紛争・革命・内戦などが起きなかったのは、政治権力が宗教権威から世直しの神聖な使命を抜き取り無力化・無毒化し、そして徹底した世俗化を行ったからである。
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 政治権力は、宗教権威から「聖戦」の発動権を否定し、禁止し、そして剥奪した。
 神聖な宗教権威は、世俗の政治権力に屈服し隷属していた。
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 日本で宗教絡みの紛争・対立・内戦、そして神聖革命である聖戦が起きなかったのは、多神教的柔軟性を持った寛容さではなかった。
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 原理主義的革命思想を含んでいた中華儒教も中華仏教も、日本に伝来したら革命思想は綺麗サッパリ跡形もなく消去された。
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 中華帝国は、中華仏教を革命宗教として弾圧した。
 李氏朝鮮は、中華帝国に真似て高麗仏教を弾圧し、仏像・経典・仏具などを破壊するか海外に売り払った。
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 中世キリスト教会やイエズス会などの修道士会は、日本での失敗を教訓として中華世界での布教活動を本格化さ、一定の成果をあげ信者を増やした。
 キリスト教会は、その苦い経験から親中国反天皇反日的感情が強く、中国の為に日本に不利に動く事が多い。
 後年、日中戦争の時もキリスト教会特にプロテスタント系教会は日本への憎悪を隠さなかった。
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 日本の宗教・精神界の中心にあって永遠不変の存在が、日本神話・天孫降臨神話の日本神道である。
 その日本神道の最高位祭司が、日本天皇である。
 日本天皇の正統性は、神の裔という他に変えようのない神聖不可侵の血筋である。
 皇室の皇統は、民族神話・民族宗教の日本神話・天孫降臨神話を絶対根拠とした血筋である。
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 天皇制度を廃絶するという事は、皇統の正統性を保障する神の裔という血筋を断絶させる事であり、民族神話・民族宗教の日本神話・天孫降臨神話、日本神道を破壊消滅させる事、つまり「日本民族神を殺す」「日本民族日本人の根絶やし」を意味する。
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 日本皇室・天皇家が、日本民族日本人の要であり、民族主義の源泉である。
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 何故、日本で宗教が無力化されるのか。
 それは、自然災害多発地帯であるからである。
 如何なる宗教も、人間を支配できても自然災害一つ無害化できない事を、日本民族日本人は肌身で知っていたからである。
 どんな神聖も絶対価値観も、どんな小さな自然災害の前でも無力だからである。
 自然災害多発地帯で生きる者にとって、神聖も絶対価値観も信じるに値しないのである。
 よって、排他的閉鎖的不寛容な神聖や絶対的価値観を打ち立てようとする宗教・哲学・思想は有害無益として、宗旨の変更を求め、宗旨の変更を拒絶すれば排除した。
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 Jspsn. Endless Discovery.
 El Barrio de Okazaki
 Yokoso JAPAN
 真言宗 智山派
 総本山 五百佛山( いおぶさん) 智積院
 京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町946
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 1140年 覚鑁の住坊である密厳院と覚鑁のその他の寺院は 反対派の衆徒に焼き打ちされた。覚鑁と彼を支持する僧侶は高野山を降り、大伝法院の荘園−弘田荘の豊福寺(ぶふくじ)を活動の拠点とした。そこに 伝法会道場ととして円明寺を建てる。多くの寺院が 建てられ 総称として 根来寺と称した。1143年 覚鑁(かくばん)は円明寺で没する。覚鑁上人の入滅後、大伝法院衆徒の一部は高野山に戻る。
 1288年、 頼瑜(らいゆ)は大伝法院の本拠地を高野山から根来山に移した。
 大伝道院は室町時代の最盛期には寺領72万石、学僧6000人、堂塔は2900寺あったと言われている。寺とその荘園を守る武装化した僧侶が現れた。彼等は根来衆(ねごろしゅう)と言われ、鉄砲で武装するようになった。根来衆といわれた僧兵は3万人いたとも言われている。昭和51年(1976年)の調査では根来寺の寺域は400万平方メートルあったことが判明した。
 根来衆徳川家康と協力的であったため、またあまりにも巨大化し天下統一の妨げとなると考えた豊臣秀吉高野山を保護する一方根来衆と敵対するようになった。また秀吉と対立する戦国大名の傭兵として働いた。
 1585年、秀吉は根来衆雑賀衆(さいかしゅう、またはざいかしゅう)を攻撃することにした。雑賀衆も 現在の和歌山市にいた鉄砲集団である。
 133,500人の秀吉の軍勢は根来寺の出城を次々に落とし、根来寺を攻撃し、大塔、大師堂など数棟を除いて焼き払った。
 根来衆が鉄砲を誰よりも早く使うようになったのは次のような理由による。
 1453年8月25日(旧暦)、中国船(ジャンク)が種子島に漂着した。種子島の領主種子島時尭(たねがしまときただ)の家臣西村織部と明の儒者五峰が砂浜に文字を書き筆談した。 
 彼等は貿易商で寧波(ニンポ−)へ向かう途中漂着したという。時の種子島領主種子島時尭(たねがしまときただ)が面談した。船には少数のポルトガル人が乗っていた。船は中国人の海賊船であったといわれている。中国人の海賊とポルトガル人はお互いの利益のため協力関係にあった。彼等は商人であったが状況により密貿易、海賊行為もした。
 当時明国は海禁政策を採っており、室町幕府日明貿易勘合貿易)は途絶しており、私貿易、密貿易が横行していた。 
 彼等は日本の来た最初のヨーロッパ人である。ポルトガル人は時尭に鉄砲の実射をした。 時尭はその威力に驚いて2000両で鉄砲2丁を買い求めたという。(この言い伝えは 誇張だと思う。安土桃山時代の2000両が現在の貨幣価値でいくらであるが算定するのは不可能だ。当時と今では社会が違う。電化製品はなかった。米の価格も銘柄によって違うが天正年間(1573年−1593年)一両は米4石に相当した。一石150キロ、4石で450キロ2000両は8000石(90万キロ)、1キロ300円で計算して2億7000万円、種子島島津藩に従属し石高1万石。)
 種子島は良質の砂鉄がとれ、島には全国から来た鍛冶職人が多かった。 
 時尭は鍛冶職人八板金兵衛に鉄砲の製作を命じる。チュープとねじ切りに苦労する. また銃身の底の強度が十分でないため発火と同時に暴発した。2年後に完成する。
 根来寺四坊のうち最有力だった『杉之坊』の頭であり杉之坊算長(すぎのぼうさんちょう/かずなが)とも呼ばれた津田監物算長(つだけんもつかずなが)は鉄砲伝来の情報を得るとただちに種子島に渡り1544年3月種子島時堯から鉄炮を買い根来に持ち帰った。津田監物芝辻清右衛門に鉄砲を作らせた。芝辻清右衛門は後に堺に移住した。堺は鉄砲の一大生産地となった。芝辻清右衛門は堺鉄砲製造の祖といわれている。近代になって鉄砲の筒を作る技術は自転車の車体のチューブ生産に生かされた。堺市には自転車博物館がある。
 近江の国友(長浜市)、日野、紀州の根来、堺は鉄砲製造で栄えたが根来の鉄砲製造は秀吉の根来攻めにより衰退した。
 織田信長が1575年の長篠の戦いで3000名の鉄砲隊を用い甲斐武田氏の騎馬軍団に勝ったことでそれまでの戦いの戦術は役だだなくなった。
 戦国時代末期には日本は50万丁以上の鉄砲があったともいわれ世界最大の銃保有国であったといわれている。
 話は元へ戻るが根来が秀吉により灰塵に帰した後大伝道院の学問所であった智積院の再興をめざした玄宥(げんゆう)僧正は高野山に逃れた後、豊臣秀吉が亡くなった1598年京都に落ちのびた。京都の北野に家康より寺地を賜り、堂宇を建てた。 
 大和の長谷寺奈良時代東大寺の末寺で華厳宗の寺であったが 
 平安中期、興福寺法相宗)の末寺となる。秀吉が根来寺を攻めた時、専誉は長谷寺に入り、小池坊を再建。長谷寺は現在末寺3000余寺、壇信徒およそ300万人の真言宗豊山派総本山である。
 関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は慶長6年(1601年)東山の秀吉を祀る豊国神社(とよくにじんじゃ)の土地の一部を玄宥に与えた。ここに五百仏山(いおぶさん)根来山 智積院を建てた。1604年玄宥は入寂す。
 1615年大阪夏の陣で豊臣家滅ぶ。家康ただちに豊国社を廃し、社領1万石を没収し「豊国大明神」の神号を奪った。智積院三世日誉(にちよ)は智積院が学徒の増加で手狭になったので家康に新たに寺領の拝領を求めた。家康は広大な豊国神社の境内にある祥雲禅寺を与えた。この寺は秀吉が3歳で夭折した息子鶴松の菩提をとむらうため建てたものである。 
 智積院大書院の庭は祥雲禅寺の庭であったといわれている。また長谷川等伯の障壁画は 祥雲禅寺の客殿を飾っていたものである。その客殿は天和2年(1682年)全焼したが障壁画は大部分救出された。障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは一部救出されなかった部分があると思われる。1947年にも火災があり国宝に指定されていた宸殿の障壁画16面が焼失した。
 紀州根来寺は徳川の時代となって紀州徳川家の庇護により一部再興したがかっての境内末寺2700坊の栄光は再現できなかった。
 智積院は江戸時代多くの学僧が集まり学山智山と称され多くの優れた学僧を生み出した。
 明治維新を向かえ明治政府の神仏分離令により廃仏希釈運動の影響を受ける。明治2年(1869年)には土佐藩の陣所となっていた教学研鑚の勧学院が爆発炎上し、明治15年(1882年)金堂が焼失した。
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