⚔19)─1─ポルトガル国王の第一回目日本人奴隷売買禁止勅令。石山本願寺と一向一揆。比叡山焼き討ち。伊賀攻め。1568年~No.75No.76No.77 @ 

イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)

イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 織田信長の目指した「天下布武」とは、天下=畿内地方を武力で平定し、室町幕府を再興する事であった。
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 中世キリスト教会は、世界で最も徹底した不寛容な宗教であった。
 その不寛容さゆえに、日本で宗教弾圧を行った。
 敬虔なキリシタンは、異教の神・仏を否定し、神社・仏閣を破壊し、僧侶・尼僧と神主・巫女を暴行し追放するか殺害した。
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 白人キリスト教徒は、非白人異教徒の日本人の人権を認めなかったし、倫理(道徳)で接する事を拒絶した。
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 戦国武将は、他の戦国大名から送られてきた手紙の文字の勢いと文章能力から相手の力量や技量を読み取って、味方に付くか、敵に回るか判断した。
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 司馬遼太郎「(斎藤)道三は過去の秩序を勇気をもって、しかも平然としてやぶった『悪人』であり、悪人であるが故に近世を創造する最初の人になった。そのみごとな悪と、創造性に富んだ悪はもはや美でることを、私はこの作品によって読者に伝えたいと思っている」(『国盗り物語』について)
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 織田信長は、必要に応じて神社仏閣などの宗教施設を保護し、政治に関与、干渉する宗教は容赦なく弾圧した。
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 織田信長は、自分は神の子孫である天皇を超えた生き神であると宣言し、自分が生まれた5月を聖なる日として祝い、自分を生き神として拝めと命じた。
 日本民族の宗教観には、生き神・生き仏信仰や即身仏(ミイラ)信仰が存在し、織田信長が自分を「生き神」と宣言しても別段珍しい事ではない。
 日本には信仰の自由が古代から存在し、織田信長を生き仏として崇めようが崇めまいが個人の自由で、織田信長の死後も神として崇めようが崇めまいがそれも個人の自由であった。
 織田信長の生き神宣言に、驚き、脅威を感じたのはキリスト教の宣教師であった。
 絶対神に対する神聖な信仰に対する最大の脅威は、神の子孫である天皇より、生き神を宣言する織田信長である。
 聖母マリヤに憧れ聖母のような女性と他薦される女性を認めても、救世主イエス・キリストの生まれ変わりを僭称する自薦も他薦も異端として絶対に許せなかった。
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 一神教は、唯一の絶対神を護る為に、厳格な不寛容となって全ての多神教を容赦なく滅ぼす。
 普遍宗教・キリスト教は、民族宗教皇室神道を滅ぼし、非民族宗教神社神道のみを残そうとした。
 キリシタンは、儒教の祖先崇拝は認めたが、神道の祖先神・氏神という人神信仰を否定し、祭祀王・天皇の神性を滅ぼそうとしていた。
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 ルカによる福音書第12章第51ー52「わたしは地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるのならば、三人は二人に、二人は三人と対立して分かれるからである」
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 『新約聖書゠マタイによる福音書、第6章24節・ルカによる福音書、第16章13節』「だれも、二人の主人に仕える事は出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方を崇拝し他方を軽蔑するか、あなた方は、神と富(悪魔、拝金、強欲)の両方に仕える事はできない。」
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 橋爪大三郎一神教は、神々との闘争の歴史で、そいした神々(多神教の神々)は、神ではなく、全部ウソだというのです。いっぽう一神教の神ヤハウェはどこにいるのかというと、この宇宙の外側にいて、ありありと存在している。こういうもんのなんですよ。神々は、もし存在しているとすれば、この世界の中に存在しているものは、ヤハウェがつくった。さもなければ、人間がつくった。ヤハウェは神々をつくるはずがありませんから。神々は人間がつくったものです。ゆえに、偶像です。人がつくったものを、人が拝むことを、偶像崇拝という。これは、大きな罪になる。ヤハウェに背き、自分を拝んでいるのと同じだからです。
 神々を否定し、放逐してしまうという点で、一神教と仏教、儒教はよく似ている。日本とは正反対なんです。この根本を、日本人はよく理解する必要がある。神道多神教で、多神教は世界にいっぱいあるじゃないか、なんて思わないほうがいい。
 神々は放逐された。だから、仏教、儒教一神教がある。世界の標準はこっちです。世界は一度壊された。そして再建された。再建したのは、宗教です。それが文明をつくり、いまの世界をつくった。こう教えてください。
 偶像崇拝がなぜいけないか。大事な点なのです。もう一回確認しておきます。偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではない。偶像をつくったのが人間だからです。人間が自分自身をあがめているということが、偶像崇拝の最もいけない点です。……
 偶像崇拝がいけないのは、Godではないものを崇拝しているからです。それは人間の業なんです。人間をあがめてもいけないし、人間がこしらえた偶像を崇拝してもいけない」(『ふしぎなキリスト教橋爪大三郎×大澤真幸 P.87〜89)
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 キリスト教などの一神教は、自分を神に似せて創ってくれた創造主を意識し、人間より絶対神の評価を気にする。
 一人の自分として、絶対神の御意思に従い、隣人愛という信仰を守る為に、自分なりに生きる事に専念した。  
 自分は自分、他人は他人として、他人が何を言おうと無関心で、親切心のつもりで忠告しても絶対神の御意思を優先しして聞く耳を持たない。
 自分が正しいと信ずる生き方を通す為なら、他人がどう考えようが、他人にどう迷惑をかけようが、他人が如何に説明して制止しようとも、絶対神の声を聞き、絶対神が導く茨の道を歩んだ。
 評価し承認を求める相手も、他人や社会ではなく、絶対神のみに求めた。
 一神教は、他人や社会を超越した別次元の高みに存在する。
 そこで重視されるのは、自分一人という「個」である。
 一神教的思考が、グローバル思考である。
 絶対神の創造で生まれた自分は「僕」として、生きてる限り、絶対神の御意志を唯一の行動指標として従って行動する。
 絶対神は、宣教師達に、異教国日本に赴き、道に迷って苦しんでいる異教徒日本人に福音を伝え、悪しき宗教の縛りから解き放って正しい道に導き救う事を語りかけた。
 宣教師達は、絶対神の声を聞いて地球の反対側、地上の最果てにある辺境の日本に向かった。
 キリスト教の日本伝道は、純粋であり、善意であった。
 だが。日本人には、それが独善的で排他的に見えて理解できなかった。
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 1500年代末から1600年代中頃にかけて、ローマ・カトリック教会プロテスタント各派は猜疑的不寛容から異端審問と魔女狩り宗教戦争を行っていた。
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 極一部の戦国大名のみが、京に上って天下を手に入れようとしていた。
 それ以外の戦国大名は、天下などには興味が無く、権力を得たいとも思わず、自分の家と領地を固める事に全力を上げて取り組んでいた。 
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 守屋淳「『孫子』が高い質を持っているのは、書かれた時代が、今からおよそ2500年前の春秋戦国時代だったからです。『三略』や『六韜』も、古代中国の戦乱期に書かれたものと言われています。その時代は、1対1の国家の戦いではなく、ライバルがひしめいていた。
 一つの国との戦に勝つ事だけを考えていては、第三国から侵略されてしまう。生き残る為には、狡猾に動かなければいけない。その知恵が詰まったものがこれらの兵法書なのです。兵法というのは、現代の言葉に言い直すと、『戦略』と言えます」
 「中国の古典兵法、特に『孫子』の言葉は、官兵衛が生きた戦国時代はもちろんですが、生き馬の目を抜く現代のビジネスにも通用します。ソフトバンク孫正義社長が、創業を志す若い日に孫子を人生の書としたのは有名な話です。また、マイクロソフトビル・ゲイツ元会長も、企業戦略に取り入れています」
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 武田信玄「およそ軍勝5分をもって上となし、7分を中となし、十分をもって下となす。それゆえは、5分は励みを生じ、7分は怠りを生じ、十分は驕りを生ずるゆえ、たとえ戦に十分の勝ちをえるとも、驕りを生ずれば、次には必ず敗れるものなり。すべて戦いに限らず、世の中のこと、この心がけ肝要なり」(『甲陽軍鑑』)
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 尾張の国は、気候が温暖にして、土地が肥え農作物が多く、交通の要衝で豊かな為に、人柄が良く争う事を好まず国内での戦いは少なく、他国を侵略して領地を広めようという野心も芽生えなかった。
 豊かな国ほど戦争をしたがるという事は、尾張では当てはまらなかった。
 豊かすぎるが故に、尾張の兵士は弱いとわれていた。
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 織田信長が目指した「天下布武」とは、京都のある畿内から西を武力で統一しようとしたのであって、関東から北は対象外とされた。
 この時代までの天下とは、祭祀王・天皇が住む京の事であって、日本全国を指すものではなく、琉球蝦夷(北海道)は含まれてはいなかった。
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 織田信長は、旧態依然とした古い価値観を破壊して新しい世の中を作ろうとして革新者ではなく、新しいモノに興味を持ちそれが何かを知りたいという好奇心に駆られた合理主義者である。
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 1568年 織田信長は、足利義昭を擁して京都に入った。
 朝廷は、織田信長足利義昭に対して宣教師を京都から追放する様に命じた。
 フロイス宣教師は、織田信長足利義昭に謁見を求めたが待たされた。
 織田信長は、位の高い位階を受けるより、織田家の財力を強化する事を優先して全国の流通経路を抑えるべく堺・大津・草津に代官を置いた。
 同時に、御所の修理費として多額の黄金を献上し、諸大名に頼らなくても経済的自立ができるように朝廷に大量の米を献上して町衆への貸し付け金融業を支援した。
 大友宗麟は、在国イエズス会士を通じて、在マカオ司教でイエズス会士ベルシオール・カルネイロに大砲を発注し、見返りとして領内での教団関係者とポルトガル商人の保護を約束した。
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 織田信長の「天下布武」とは、足利義昭将軍を奉じて上洛し畿内(京都周辺)の秩序を回復した事で達成した。
 次の目的は「天下静謐(せいひつ)」で、将軍を補佐して平和を維持する事であったが、義昭がその責務を放棄して反信長包囲網で戦乱を拡大しようとした為に追放した。
 天下静謐を守る為に、攻めてくる大名や敵対する大名を掃討したが、敵領に兵隊を送り込んだが領地を増やす目的ではなかった。
 金子拓「領土は増えていくのですが、新しい政治や領土経営の形を志向したふうもない。史料からは信長が全国統一を意図していたとは到底考えられないのです」
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 イエズス会は、布教活動するに当たり茶の湯を最大限に利用した。
 西洋では、領主が信ずる信仰が領民の信仰になっていた為、その領主に洗礼を施せば領地を改宗する事が出来た。
 茶室に置いては、大名や武将と一対一で親密に交流する事で貴重な情報を得る事もでき、相手の心の弱さを利用して改宗する事もできた。
 だが、日本では世界の常識である「領主の信仰は領民の信仰」は通用しなかった。
 多くの大名や武将達も、信仰より交易を優先して、教会の茶室に呼ばれて「隣人愛の教義」を聞かされても改宗しなかった。
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 1569年 織田信長は、貨幣に信用を与えて発行を行い、商取引において米を通貨替わりにする事を禁じ、高額取引には金銀を使用する事を命じた。
 だが、農村での貨幣取引を行わず依然として米や絹の物納を温存させた。
 織田軍団は、兵士を領民ではなく貨幣で契約雇用した関係で貨幣を支配する必要があった。
 天下を統一するまでは、貨幣経済と土地経済を支配し、貨幣流通量を管理する必要があった。
 その為に、堺・京の瀬戸内海=伊勢・美濃の東海=若狭の日本海を結ぶ琵琶湖の安土に拠点を置き城を建設した。
 貨幣と土地を支配する新システムは、この後、豊臣秀吉徳川家康に受け継がれていった。
 朝廷は、石見銀山による銀と信長からの献上の米を背景として畿内で独自の経済システムを築いていたが、信長の軍事力を背景とした新たな金融・経済システムの出現に脅威を感じた。
 ユダヤ人商人達も、世界の金融を一手に請け負うという商売戦略から、自分達とは違う実力者による金融・経済システムの出現は好まなかった。
 朝廷も、貨幣流通には反対であった。
 戦国大名は、領地を巡って争い、奪った土地を支配する認可を、無力化した室町幕府ではなく朝廷の権威に求めていた。
 もし。土地より貨幣の方が価値があるとしたら、戦国大名は無駄な領地争奪戦を止めて海外との交易で平和的に収益を上げる事になる。
 土地=米という支配モデルが崩壊すると、土地を介して天皇とサムライの関係も維持できなくなるからである。
 正親町天皇は、日本銀をキリシタンから守る為に、足利義昭織田信長に宣教師追放を命じた。
 足利義昭織田信長は、拒否した。
 織田信長は、ポルトガル人やイエズス会の意図を知ってはいたが、天下布武の為には彼らの軍事・経済両面での協力が不可欠で合った為に拒否した。
 朝廷は、信長に望みの位階を授ける事で手なずけようとしたが、名より実を求める信長によって失敗していた。
 織田信長は、代々織田家の祖先は「藤原氏」と称していたが、1570年代に「平氏」に変えた。
 織田信長は、フロイス宣教師に京都居住と布教を許す朱印状を与えた。
 日蓮宗徒は、キリスト教に対する激しい敵意を剥き出しにして、宣教師排斥を求めた。
 正親町天皇は、二度目の宣教師追放の綸旨を出した。
 5月11日 織田信長は、キリスト教の教義について修道士ロレンソ了斎と日乗上人に真贋論戦を命じた。
 日乗上人は、敗北し逆上してロレンソを殺そうとすが取り押さえられ、信長によって追放された。
 キリスト教との神学論争で勝てる宗教は、日本にはなかった。
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 1570年(〜80年) 浄土真宗石山本願寺は、イエズス会宣教師を保護する織田信長の支配を拒否して、全国の門徒に信長と戦う様に呼びかけていた。
 一向専念の信条から、信長の戦いを聖戦として鼓舞した。
 「仏敵と戦うは弥陀の御意志!弥陀の為に死ねば極楽往生!」
 織田信長は、政治力と軍事力を持った宗教勢力に手こずっていた。
 2017年1月26日号 週刊新潮「生き抜くヒント! 五木寛之
 無知の大海はてもなし
 ……
 寺内町というのは、蓮如が山科に作った本願寺のスタイルで、寺と町が一体となった形式の中世後期の宗教都市である。要するに寺を中心に町ができて、その外側を壕(ほり)や土塁(どるい)で囲んだ一種の城郭都市だ。盗賊や野武士らが攻めてくれば、門をとざして防禦する。
 寺が燃えるときは町も滅ぶぞ、町が滅ぶときは寺も共になくなるぞ、といった運命共同体的都市である。いわゆる城下町とは反対の発想だ。
 中世後期には全国各地にそんな寺内町が数多く存在した。織田信長が手を焼いた石山本願寺なども、代表的な寺内町である。
 これは、ほとんど『じないてょう』と呼ばれることが多い。しかし、私は寺内町を城下町や門前町と対比してその意義を評価しているので、ここは『じないまち』と読みたいところ。
 全国統一をめざす織田信長が、もっとも畏(おそ)れたのは、各地の権力者、城主たちではなく、この寺内町の全国的なネットワークだった。だからこそ門徒の殲滅戦をあれほど徹底的にやったのだ。
 信長はシャープな感覚の持主だった。寺内町をつぶしながらも、その中でにぎわっていた各地門徒フリーマーケットは、うまく活用している。寺内町は一種のアジールなので、諸国から集まってくる門徒たちが、各種の品物を自由に売買することができたのだ。
 ……」 
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 1570年 日本人のキリスト教徒は西日本を中心に約3万人いて、宣教師は40ヵ所にキリスト教会を建設した。
 ポルトガルは、遙か遠くの日本や東南アジアへと悪天候や海賊の危険を冒して交易船を派遣し、競争相手のイギリスやオランダと張り合うより、手近にあるブラジルでの砂糖栽培で利益を上げる事に方針転換した。
 ポルトガルは、アジアの香料貿易から撤退し、日本へのキリスト教布教という情熱も薄れた。
 ブラジルの砂糖、アフリカの黒人奴隷、ヨーロッパの武器という三角貿易が始まった。
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 1571年9月12日 叡山焼き討ち。
 明智光秀ら織田勢は、強大な軍事と経済を背景として俗的政治圧力集団となったていた延暦寺を焼き討ちし、比叡山にいた僧侶や僧兵や庶民など1,500〜4,000人を殺害しその首を刎ねた。
 織田信長が問題にしたのは、宿敵の朝倉と浅井勢を匿った事である。
 日本は、古来から政教分離を原則として、宗教が政治に口を出すことを最も嫌っていた。
 織田信長は、暴力で宗教を政治の場から追放し、虐殺で宗教勢力を沈黙させた。
 日本には、陰惨な宗教戦争も対立も根絶された。
 神の裔である天皇は、祭祀王として無心に民の安寧を祈ることを最重要な役目としていた。
 庶民の象徴として、時々の実力者に、勅命を持って官職を与えて政治を依託した。
 だが、宗教や主義や個人欲から大虐殺を行う恐れのある、独裁者の様な絶対権力者の出現を許さなかった。
 昭和天皇天皇は、国家の最高機関である。機関説でいいではないか」
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 比叡山延暦寺の焼き討ちは、全山焼却ではなかった。
 逆らう者に対する威嚇で、無人で使われていない堂塔を焼き、武装した僧兵を主に殺した。 
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 仏教勢力は、キリスト教邪教と決め付け、各地でキリスト教会や信者の家を焼いて迫害を過激化した。
 熱心で戦闘的なキリシタンは、負けずとして、神社仏閣を破壊していた。
 宗教対立は、激しさを増していた。
 キリシタン大名達は、宣教師の移動を守る為に護衛兵をつけたが、仏教勢力はその振る舞いにさらに激怒した。
 キリシタン大名の領地でない処では、一般信者が武装して宣教師を守ったが、同じ村の仏教徒は武器を持って敵対する村人に困惑した。
 キリスト教徒が居る村は、分裂し、いがみ合った。
 多数を占める仏教徒は、絶対神への信仰から村の調和を乱して反省しないキリスト教徒を村八分とした。
 少数派のキリスト教徒は、絶対神への信仰の試練として、村の仕来りを無視して団結した。
 宣教師は、そうした逆境の中にいる敬虔な信者を巡り、日本人的人情に流される事なく、伝統的村の掟に妥協せず、絶対神への「隣人愛信仰」を貫く様に説き、そしていざという時には命を捨てる「殉教」を強調した。
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 日本の伝統として、政治に宗教が干渉する事を最も嫌った。
 宗教を持って政治に参加しようとする人間は、神道的教養を持った日本人ではない。
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 高野澄「延暦寺が信長の仇敵である朝倉・浅井連合を領地に匿い、肩入れしたということが表向きの理由ですが、信長は当時の寺社仏閣の宗教勢力が武器を持って『僧兵』となり、大きな力を持ち始めていたことに強い危機感を覚えていた。
 特に比叡山は広大な寺社領地や豊富な財力を持っており、琵琶湖の湖上運輸の実権も握っていた。また開山以来、朝廷と近い関係を結んでいたのも気に入らなかった。そのため朝倉・浅井を口実に焼き討ちを決行したのです。
 言い方を換えれば、信長は〝政教分離〟を求めた史上初の人物だったともいえます。
 最澄が開山した当初の比叡山は『人はみな仏になる』という法華経の教えを広めるべく人材育成に力を入れ、親鸞日蓮など、多くの名僧を輩出した。
 しかし、平安中期以降、僧たちは権益を要求し、通らなければ日吉神社の神輿を京都にかつぎおろして強訴するなど、その振る舞いは尊大になっていった。朝廷も手を出せず、白河法皇にして『鴨川の流れと山法師、双六の賽は意のままにならず』と嘆かせた。
 衆徒たちが領地からの年貢を元手に近隣の村人や農民たちに高利貸しを行ったり、足利将軍家の不安に付け込み、幕府を脅かして銭を出させるなど、守銭奴に成り下がった。金を得た僧たちは山を降り、坂本の町で魚鳥を食し、酒を呑み、遊女を買った。
 その状況にあっても、延暦寺の宗教的権威は少しも衰えず、日本仏教界の頂点に位置していた」
 小林隆彰「信長にも焼くべき理屈があったろうし、比叡山側にも焼かれる理由があった。いたずらに信長を恨むのは仏の道に反する」
 「天下が乱れきり、その一翼を担った比叡山は結局は、焼かれる運命にあったように思うのである。叡山僧が開祖大師のお心を踏みにじって来た仏罰に素直に頭を下げねばならない」
 「もし、信長の鉄槌がなかったにしても必ず仏の戒めを受けていたはずである。焼き討ちは、叡山僧の心を入れ替えた。物に酔い、権勢におもねていた僧は去り、再び開祖のお心をこの比叡山にとり戻そうとした僧が獅子奮迅に働いた。山の規則を改め、修学に精進したのである。……信長は後世の僧達にとって間違いなく一大善智識の一人であったと思うべき」(『比叡山時報』「新生比叡は信長に功あり」)
 水尾寂芳(比叡山延暦寺の副執行)「そもそも比叡山延暦寺が信長を『仏敵』としていると思われていること自体、誤解されている部分がある。
 確かに信長と比叡山は戦争をしており、敵同士でした。だが、伝教大師最澄)の『怨みをもって怨みに報ゆれば怨み尽きず、徳をもって怨みに報ゆれば怨みは即ち尽く』という言葉があるように、怨みをずっと持っていたら平和に繋がらない。怨親ともに仏縁であるということです」
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 1571年 ミゲル・ロペス・レガスピ提督は、マゼラン死後放置されたフィリピンを訪れ、スペイン統治を再開した。
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 1571年 モンゴル帝国のアルタン・ハーンは、長年敵対していた明国と講和した。
 明国は、中華思想としてアルタン・ハーンを帰属した蛮族として順義王の称号を与え、毎年国境沿いに定期市を開いて交易を許した。
 アルタン・ハーンは、漢族移住者の増加にともなって支那文化が蔓延して民族文化が失われ事を恐れて、明国と敵対していたチベットとの関係を強化してチベット仏教を受け入れた。
 モンゴル帝国は、仏教を取り入れ儒教を遠ざけお陰で中華文明圏の呪縛に縛られる事を免れ、観念的硬直した中華思想の精神的支配を脱して版図を広げて大帝国を築いた。
 経教分離政策で、明国との交易で国が豊かになっても、民族の独自性を失う事なく頑迷に精神や文化を守り通した。
 偉大な皇帝アルタン・ハーンが死亡するや、チベット仏教ゲルク派カルマ派の対立に巻き込まれて帝国衰退し、モンゴル部族は分裂した。
 宗教は、全ての面で諸刃の剣であった。
 ゲルグ派西モンゴル部族は、カルマ派北モンゴル部族に攻められて窮地に追いやられた青海のゲルグ派の救援要請を受けて出兵し、北モンゴル部族を撃退して、同地のカルマ派を壊滅させ、チベットダライ・ラマ政権を樹立した。
 1636年 南モンゴルは、清国に取り込まれた。
 西モンゴル・ジューンガル部族族長の息子で仏教僧のガルダンは、部族長の兄が暗殺されるやその仇を討ち、チベットダライ・ラマ5世の後援を受けてジュンガル帝国を建国した。
 ジュンガル帝国は、ゲルク派仏教帝国として中央アジア最強の帝国に成長した。
 ガンダル皇帝は、民族を再統一するべく、3万の兵を率いてカルマ派北モンゴルを攻めた。
 北モンゴル部族数十万人は、ジュンガル帝国の侵攻に抗しきれずに清国の保護を求めて南モンゴルに逃げ込んだ。
 南北モンゴルは、儒教化した清国の保護を受ける事によって支那領土となった。
 清国の康煕帝は、祖国防衛の為にジュンガル帝国と対立した。
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 1571年3月12日 ポルトガル国王ドン・セバスチアンは、日本人を奴隷として売買する事を禁止する第一回目の勅令を発した。
 インド副王は、ポルトガル人商人から多額の金を貰っていた為に、勅令を遵守する気はなく、取り締まる為の役人を任命しなかった。
 ポルトガル人商人は、本国から遠い事をいい事に、勅令を無視して日本人奴隷貿易を盛んに行っていた。
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 1572年 パリのサン=パルテルミで、4,000人以上が虐殺された。
 教皇グレゴリウス13世は、大虐殺を祝福して記念メダルを作り、9月11日を「ユグノー大虐殺の記念日」として祝典を開催した。
 中世キリスト教世界は、隣人愛の信仰に満ちた「神の国」ではなかった。
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 1573年 大友宗麟は、カンボジアやシャムなどの東南アジア地域と交易を盛んに行いた。
 カンボジア国王は、友好の証しとして銅銃一丁を大友宗麟に贈った。
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 2014年1月16日 読売新聞「大航海時代の1573年、元奴隷の日本人同士がポルトガルの教会で結婚式を挙げた記録を、東大史料編纂所の岡美穂子助教(日欧交渉史)の研究グループがリスボンの国立文書館で発見した。日本では室町幕府が滅びた戦乱期。別の日本人3人の姻戚記録も見つかり、43年の鉄砲伝来以降、多くの日本人が渡欧していたことが確認されたとともに、一部は、当時栄華を誇った港湾都市で市民として認められていたと推測される。
 初期に渡欧した日本人では、九州のキリシタン大名が82年に少年をローマに派遣した天正遣欧使節が知らせる。それに先駈け、53年にフランシスコ・ザビエルに洗礼を受けた初の日本人ベルナルドがリスボンに留学したとされる。
 ……
 スペインやポルトガルは16世紀後半、東南アジアで日本人を含む奴隷貿易を行っており、今回見つかった日本人もその一環で欧州に運ばれたとみられる。ただ、81年にリスボン発インド行きの船に日本人船員がいた別の記録もある。
 ポルトガル人の同国立エヴォラ大のルシオ・デ・ソウザ特別研究員(大航海時代史)は『大航海時代を牽引したポルトガルで地元女性と結婚できたのなら、自由民の日本人2人は、奴隷出身ではないかもしれない。別の形でリスボンを訪れ、資産があったなど社会的評価を受けた市民だった可能性もある』としている」
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 1573年 フランス。殺人鬼ジル・ガルニエが、オオカミ男とされ火炙りの刑で生きたまま焼き殺された。
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 1574年 織田信長は、伊勢長島の一向一揆を滅ぼし、武器を持って抵抗をやめない門徒数万人を虐殺した。
 宗教権威が政治・まつりごとに干渉する事を嫌悪し、政治・まつりごとの生々しい現実から宗教の理想的幻想を完全排除した。
 信長は、反宗教無神論ではなく、宗教が政治を左右するという中世の仕組みを破壊しようとしたのである。その証拠に、晩年に築城した安土山城の重要な一角に総見寺を建立した。
 信長を無神論の冷血漢と言いつのったのは、キリスト教原理主義者の宣教師フロイスであった。
 信長は、敵対する一部の寺社を攻撃したが、信仰のみで政治に介入しない神社仏閣を保護した。
 8月7日 ヴァリニャーノからイエズス会総長への書簡。「航海の条件が悪いと、一般的に、海上で30日も、40日も足止めを食らう。60〜70日以上の事も度々である。足止めという事態から、何時も深刻な不都合が生じる。その一つは、猛烈な暑さが原因で、何時も大勢の者が病になって死んでしまう。たった一度の航海でも、死者の数が100人に達したり、100人を超えたりする事もある」
 海を越える航海は過酷で死を伴う為に、水夫や兵士に志願する者が少なかった。
 熟練水兵を補佐する人数を確保する為に、犯罪者、前科者、浮浪者、貧困生活者から肉体的に丈夫な者を半強制的に船に乗船させて出港させた。
 為に。戦闘能力は低くかった為に、海賊行為をしながら戦闘技術を磨いた。
 各地の港に入港し上陸するや、航海の鬱憤を晴らす様に強姦や暴力を振るった。
 各国の船員は、教養ある紳士ではなく、海賊に近い荒くれた無法者であった。
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 2018年4月29日 産経ニュース「織田信長の侵攻防げ 伊賀・甲賀の「忍者」連携示す文書初公開へ/伊賀市長が発見、市が購入
 伊賀衆と甲賀衆の連携自治を示す「甲賀郡奉公惣・伊賀奉公惣連署起請文」。6月にも初公開される方針が固まった=伊賀市上野丸之内上野図書館
 伊賀市は、「忍者の里」の伊賀衆と甲賀衆が織田信長に侵攻される直前に密接な関係にあったことを示す戦国時代の文書を、6月中旬にも初公開する。専門家は「民衆の高い自治能力を示すとともに“リアル忍者”に迫る貴重な史料。実物を見る価値は大いにある」と話す。
 文書は、9通からなる「伊(い)賀(がの)国(くに)上(かみ)柘(つ)植(げ)村(むら)并(ならびに)近(おう)江(みの)国(くに)和(わ)田(た)・五(ご)反(たん)田(だ)村(むら)山(さん)論(ろん)関係文書」の中の「甲賀郡奉行惣・伊賀奉行惣連署起請文(きしょうもん)」。天正元(1573)年に地侍集団の「伊賀惣(そう)国(こく)一(いっ)揆(き)」と「甲賀郡中(ちゅう)惣(そう)」が、燃料や飼料となる柴や草を採取する境界域の入会地(いりあいち)の利用に関する取り決めが記されている。
 一方、信長が伊勢国の平定に着手した永禄12(1569)年の制定と推定される伊賀惣国一揆の掟書(おきてがき)には、軍事的に協力することが記されている。敵軍が伊賀国に侵入した場合は鐘を鳴らし、17〜50歳の住民は参集することや、伊賀国甲賀郡との境界で近日中に野外集会を開くといった内容だ。
 今回の起請文はその4年後のもので、三重大学藤田達生教授(日本史学)は「大名権力による存亡の危機の中で伊賀と甲賀が一致団結し、軍事だけでなく日常生活に関わる自治が機能していたことを示す無二の史料。自治能力の高さは他国で出稼ぎをする雇い兵を生み、忍者が活躍する背景にもなった」と指摘する。
 しかし、起請文が作成された翌年の1574年に甲賀郡中惣は信長に攻略され、1581年の第2次天正伊賀の乱で伊賀惣国一揆は信長の徹底的な焦土作戦で壊滅した。
 文書は、郷土史料収集家でもある岡本栄市長が平成28年12月、京都の古書店から送られてきた目録に同文書があるのを発見。市が65万円で購入、市文化財に指定した。所蔵する上野図書館上野丸之内)で一般公開する。」
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 1575年 長篠の戦い。織田・徳川連合軍3万余人対武田軍1万5,000人。
 織田信長は、決戦する意思はなくむしろ防戦して武田軍に撤退してもらいたかった。
 武田勝頼は、決戦を仕掛けて自滅した。
 織田信長の勝利は、偶然であった。
 織田軍の鉄砲は、約1,000挺で3,000挺ではなく、三段撃ちはなかった。
 武田の騎馬隊も、存在しなかった。
 織田・徳川連合の勝因は、近在の百姓に大金や食糧を配り陣地作りをしたからである。
 百姓達は、金や米を貰う為に、一家総出で、女や子供を連れて陣地造り、戦場で死んだ武士の武具甲冑から下着まで身包みを剝いで打ち捨てた。
 百姓は、命の遣り取りをする侍達を横目に、強かに生きていた。 
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 1575年 織田信長は、一向宗と百姓が治める越前を攻め、1万2,000人以上の一向宗と抵抗する百姓を虐殺して占領した。
 武器を持って権力に逆らう宗教を徹底的に弾圧し、宗教が信仰を悪用して政治に介入する事を許さなかった。
 日本の政体は、何時の時代でも、宗教が政治に関与する事を嫌い、政治の場から宗教を排除してきた。
 戦国大名で、残虐行為がもっとも多く行ったのは織田信長である。
 織田信長は、古い価値観を盾にして働きもせず裕福に暮らす既得権者を憎悪し、根絶やしにすべく残虐行為を行った。
 無神論者の織田信長は、宗教そのものを否定せず、表向きは慈悲だ愛だと御大層な教義で魂の救済を説教しながら、裏では政治権力と結託して大金を貯め込み武装する宗教権威を最も憎んだ。
 貧しい人間を言葉巧みに惑わし、寄進だ寄付だとして金を巻き上げて私腹を肥やす宗教家が許せなかった。
 さらには、神仏への信仰による犠牲は貴いと騙して無知な信者・信徒を死に追いやる宗教家を生かしてはおけないと確信していた。
 宗教家が、武器も持って政治に口を出す事や金を持って経済を支配する事を認めなかった。
 世捨て人として、世俗を捨て、世俗的欲を捨て、世の中の邪魔にならない様にヒッソリと息を殺してながら経典を読んで修行だけしていればいいと突き放していた。
 宗教に騙される庶民に対して、政治権力と結託した宗教に頼っても救われないし、信仰の為に死ぬ事は尊いと説く神仏に頼って助からない事を知らしめる為に、比叡山延暦寺を焼き払って僧侶や信徒を虐殺し、長島一向一揆越前一向一揆を鎮圧して門徒や百姓を虐殺した。
 植民地拡大の先兵であるキリスト教への不信を持っていたが、合戦に必要な火薬の交易の為に宣教師の布教を許していた。
 だが、宣教師が中世キリスト教会の振る舞いを日本で行っていれば、日本を統一後に弾圧され虐殺される事は確実であった。
 部下を成果のみで評価して恩賞を与える織田信長は、人間的魅力ではなく能力・才能・才覚を重視し、命令を疑う事なく忠実に実行する者だけを重用した。
 その人間不信ゆえに部下の信頼を失い、荒木村重明智光秀等の裏切りにあって、ついに本能寺の変で非業の死を遂げた。
 日本人は、人と人の信頼関係を重視する情緒的な村型人間であり、人を信用せず契約で行動する合理的な都市型人間ではなかった。
 朝廷は、織田信長を右近衛大将に任官した。
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古代国家と天皇

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