⚔20)─2─本願寺門主顕如の石山合戦。織田信長の宗教保護政策。~No.82No.83 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本民族日本人の歴史には、キリスト教絶対正義史観やマルクス主義共産主義階級闘争史観は通用しないし、東アジアの中華(中国・朝鮮)儒教絶対徳治史観も当てはならなかった。
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 日本の歴史で、宗教・信仰をめぐる戦い・聖戦は存在しなかった。
 日本民族日本人は、対立、差別を助長し、戦争、争いを引き起こす宗教・信仰を生理的に嫌い、目の前から排除した。
 それは、哲学・思想そして主義主張でも同様であった。
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 織田信長の対人認識は、人間としての信頼関係ではなく、金銭や名誉・自尊心による欲得としての利害関係であった。
 人は、信頼では裏切るが、利益が絡むと裏切らない。
 織田信長は、家臣の裏切りにたえず悩まされていた。
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 織田信長豊臣秀吉は、宣教師が命の危険を冒してまで日本に来る真の目的を知っていた。
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 2020年9月号 歴史街道「この著者に注目!
 神田千里 『顕如』 ミネルヴァ書房
 顕如が天下人と戦った理由
 織田信長とおよそ10年間戦い続けた、本願寺顕如に焦点を当てた研究書が発刊された。
 一向一揆について長年研究をしてきた神田千里氏は、本書の企画があよそ20年前からスタートしていたと語る。
 『執筆を依頼されたのは2002年のことです。一向一揆は、天下人や戦国大名など権力者に対する民衆の戦いだった、それが通説でした。私はもともと、これに対して疑問を抱いていました。
 特に織田信長本願寺の戦い、いわゆる「石山合戦」については研究を進めていましたので、顕如の行動を通じて、研究成果をまとめたいと思ったのです。
 しかし当時は顕如に即(そく)した検討が不十分で、その人生を、政治史の中に位置付ける作業で難航していました。
 ようやく近年になって「戦国遺文」や、新たに発見された史料によって、戦国大名の動きを以前より把握できるようになりました。そのおかげで、顕如の人生を政治史に即して書く目途(めど)が立ったのです』
 従来、顕如本願寺門徒に対する権力者の弾圧に抗(こう)して民衆を扇動し、天下人や諸大名と戦ったとされてきたが、実情は違うと神田氏は言う。
 『永禄3年(1560)、関東を支配する北条氏は、長尾景虎上杉謙信)の侵攻に備え、本願寺に協力を依頼しました。このとき北条氏が交渉材料として使ったのが、自国における一向宗信仰の許可です。
 北条氏は自分の領国内では一向宗の信仰を禁止しており、領内の門徒は肩身の狭い思いをしていました。彼らの地位を回復させるために、顕如は北条氏の上杉との戦いに協力します。
 つまり本願寺対上杉の戦いは、本願寺の〝外交闘争〟とみるべきなのです』
 その後、元亀元年(1570)より、本願寺織田信長に対して蜂起しては、和睦(わぼく)することを繰り返す。
 『本願寺は、なぜ何度も信長に対抗したのか、そのい背景として、本願寺門主という立場だけでなく、加賀の大名として顕如が行動していたことに着目しなければなりません。
 本願寺が加賀を領国として支配するようになったのは、顕如の二代前の実如が加賀国の政治抗争に関わったのがきっかけでした。顕如が12歳で第11世門主に就任する頃には、本願寺は加賀の大名として、幕府からも認められる存在となっていたのです。
 そえゆえ、友好関係を結んでいた諸国の大名から要請を受けた際や、隣国・越前で混乱が生じたときには、本願寺も動かざるを得ませんでした。
 顕如の一連の軍事行動は、門徒たちを守ることと、天下人や諸大名に本願寺教団を認めさせる目的があった一方で、加賀一国の大名としての行動もあったのです』
 およそ10年にわたる信長との対立も、お互いを潰(つぶ)し合うことが目的ではなかったと、神田氏は言う。
 ではそもそも、信長は宗教をどのように捉(とら)えていたのか。
 『よく信長と本願寺の間に、宗教観の違いがあったといわれますが、そうではないと思います。
 信長は、排他的な行為をしない限り、どのような宗教でも認める姿勢を見せていましたし、顕如も、他の宗教に対して礼儀を払っていました。
 宗教というと、神仏への信仰を連想しがちですが、当時の人々にとっては、「天道に背(そむ)く行為をすれば罰(ばち)があたる」といった。物事の善悪を定める規範にもなっていました。
 それは戦国大名も例外ではなく、例えば信長でさえ「天道」という言葉をよく用いています。
 従来、戦乱の世は無秩序で、力こそ全てと捉えられてきましたが、宗教の観点から見ると、実は戦国大名もとても信心深く、その判断に大きな影響を与えていたという、新たな一面が見えてくるのです』
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 熱心な宣教師と敬虔な日本人キリシタンは、聖戦として、キリシタン大名の領地を「隣人愛信仰」のキリスト教一色に生まれ変わらせるべく日本の神仏を否定し、神社や仏教寺院を破壊し、仏教僧侶と神主・巫女を虐待して追放し、家にある仏壇・位牌と神棚・護符を壊して燃やした。
 その矛先は、天皇家・皇室に向けられた。
 イエズス会は、キリシタン大名から寄進された長崎をローマ教皇領として日本から切り離し、異教徒の侵略から信仰を守る布教活動拠点にするべく軍港都市要塞の建設に着手した。
 他のキリシタン大名も信仰の証しとして、領地の一部もしくは全部をキリスト教会に寄進した。
 年々、キリシタンが増え全国で20万人~40万人に達した。
 当時の日本の総人口は約1,200万人であった。
 宣教師は、日本人キリシタンに信仰を守る為の死を殉教と美化した。
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 ウィキペディア
 石山合戦は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主顕如石山本願寺に篭って戦った。
 概要
 広義では、元亀元年9月12日の石山挙兵から天正8年8月2日の顕如退去までの10年間を指すが、天正8年閏3月7日(1580年4月20日)に本願寺は大坂退去の誓紙を信長に届けて戦闘行為を休止したことから、閏3月7日を終わりとすることもある。
 戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦終結と同時に各地の一向一揆はその勢いを著しく失った。また、江戸時代に本願寺勢力が分裂する遠因ともなった。
 「本願寺勢力」という言い方は、本願寺派とすると現在の浄土真宗本願寺派西本願寺系)と混交するためである。また、浄土真宗全体が本願寺側についた訳ではない点にも注意する必要がある。以下の文中においては単に本願寺と記す。
 また、「石山本願寺」という呼称についても、近年「石山本願寺」の名称が登場したのは江戸時代以降で、石山合戦当時には「大坂本願寺」と呼ばれていたとする説があり、これを支持する研究者の間では「石山戦争」「石山合戦」の呼称は当時の史実と合致しないとして「大坂本願寺戦争」などの名称を用いる者がいる。

 合戦の流れ
 淀川堤の戦い
 元亀元年(1570年)9月12日に顕如は「信長が本願寺を破却すると言ってきた」として本願寺門徒に檄を飛ばし、三好三人衆攻略のために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃した。そのまま本願寺軍は石山を出て、14日に淀川堤で信長軍と直接激突した。この戦いは織田軍優勢のうちに終わり、本願寺軍は石山に戻り籠城の構えを見せた。織田軍は志賀の陣で既に四面楚歌の状態であるため、石山に監視のための軍を置くと、朝廷に働きかけて本願寺軍に矛を収めるよう勅書を出すなど、本願寺との戦闘を避けた。そのため、石山本願寺の第一次挙兵は、実は1月もたたないうちに実質的には終わったのである。
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 加賀一向一揆
 百科事典マイペディアの解説
 戦国時代に加賀国で蜂起した一向一揆。1471年蓮如(れんにょ)は越前国吉崎(よしざき)(現福井県あわら市)に下向して北陸地方真宗一向宗)の布教を開始。これを受け,1474年から翌年にかけて加賀の守護勢力の一部と一向宗徒は,それぞれの反対勢力打倒の一揆(惣国一揆)を形成した。1488年再び大規模な一向一揆が起き,加賀守護富樫政親(とがしまさちか)を打倒,〈百姓の持ちたる国〉といわれる門徒領国を成立させた。1531年(享禄4年)には享禄(きょうろく)錯乱といわれる内紛があり,のち上杉謙信織田信長などとも敵対したが,1580年の石山本願寺の降伏などがあり,翌年門徒三百余人が捕らえられて磔刑に処され,加賀一向一揆は解体した。→吉崎御坊石山合戦/伊賀惣国一揆/雑賀一揆/長島一揆
 →関連項目朝倉始末記|加賀国|倉月荘|大聖寺山城国一揆
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 世界大百科事典 第2版の解説
 1471年(文明3)吉崎へ下向した蓮如は,親鸞以来の血脈相承を根拠に一宗独立を宣言し,個別分散的な浄土系諸門流の掌握を開始した。蓮如教団は,世法的宗教観の否定を唱える門流をも内包し,他宗派との間に鋭い緊張関係を生じた。一方加賀守護勢力は15世紀中期以降幾度も二手にわかれ支配権を争っていた。このような状況下74‐75年一部守護勢と一向衆とは,国人層,百姓層,寺社勢力をも糾合し,それぞれの反対勢力打倒の一揆(惣国一揆)をおこした。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 1474年(文明6)から1580年(天正8)にわたり、加賀国(石川県)の一向衆徒らが、国内を支配、運営した一揆蓮如(れんにょ)は、親鸞(しんらん)以来の血脈相承を根拠に、一宗の独立を意図し、吉崎(よしざき)(福井県あわら市)滞在中(1471~75)分散的な北陸の浄土系諸門流を次々に吸収していった。1473年には、加賀での公的認可を条件に、富樫政親(とがしまさちか)の要請を受け、守護家の内紛に介入、翌年、高田専修寺(せんじゅじ)派と結ぶ富樫幸千代(こうちよ)を倒した(文明(ぶんめい)一揆)。続いて75年には政親と戦い、88年には、かわりの守護を擁立し、政親を高尾城に滅ぼした(長享(ちょうきょう)一揆)。文明一揆時、政親に協力した国人層は連合組織「郡」を結成。また長享一揆時、小地域ごとに結集した門末は「組」を結成した。「組」はやがて一門(宗主庶子)の与力(よりき)組織となった。
 1506年、1521~23年、畿内(きない)、北陸の政争の影響を受けて、数か国に及ぶ一揆が発生(永正(えいしょう)・大永(だいえい)一揆)。北陸の門末は、加賀一門の統制下にあったため、加賀の一揆は、越前(えちぜん)、越中(えっちゅう)など北陸一帯の一揆となった。1510年代に、本願寺一門は「郡」の有力者を家人化し、「郡」を一向宗の組織とし、続いて坊主衆の一揆への参加を禁止した。そのため、加賀の一揆組織は俗的色彩を強く帯びることとなった。「郡」は在地領主権を所領外の門末へも及ぼし、「組」は軍事的、財政的宗教役を担った。1531年、新・旧宗主系親族団の内紛により、一門が没落(享禄錯乱(きょうろくさくらん)、あるいは大小一揆)したため、「郡」と「組」は本願寺に直属(1546年以後金沢御坊(かなざわごぼう)に従属)することとなり、人員面、機能面での同一化を促進させていった。越前、能登(のと)の門末を含む「加賀」衆は、1555年、64年に朝倉勢と、70年代前半は上杉勢と、それ以後は織田勢と戦い続けた。「加賀」衆の支配権とその境界線は、ともに私的で、その安全性の保障は戦い続けることによってのみ得られた。しかし、1580年金沢御坊の陥落とともに、加賀一揆は織田軍により解体された。
 [金龍 静]
 『井上鋭夫著『一向一揆の研究』(1968・吉川弘文館)』
 [参照項目] | 一揆 | 一向一揆 | 加賀国 | 浄土真宗 | 富樫政親 | 本願寺 | 蓮如
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 一般社団法人織田木瓜紋会のブログ
 織田木瓜紋会は、信長公の聖地『安土山』の再建を目標とします。安土を訪れる方々に信長公が愛した『神々の住まう安土山』の姿を再現できればと考えております。 また、信長公亡き後の織田家について調査研究致します。
 信長公の政策についてー外交戦略:信長公と寺社仏閣②ー
 Ⅱ. 信長公の寺社仏閣対応について
 ①信長公の神社に対する対応
 信長公は国盗りをしたあと、寺社仏閣を焼き払ったということは広く知られていますが、天照大神(アマテラスオオカミ)と春日大神(カスガオオカミ)、八幡大神(ヤハタノオオカミ)そして牛頭天王(ゴズテンノウ、素盞嗚命スサノオノミコ)を祀る神社には手を出さなかったそうです。天照大神天皇家春日大神藤原氏氏神八幡大神は武士の神だったことが理由だと推察します。
 信長公は天下を目指すには他の権力者と強固な利害関係を築く必要があり、国内のどの勢力そしてどの派閥、どの氏族の誰と結びつくことが最も効果的で最も合理的かを常に考えたはずです。その戦略の一つが上記神社への配慮です。
 また二十二社(国家の重大事や天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた主に畿内の神社)も擁護しますが、延暦寺の末寺の一つ日吉大社(京の高利貸しの主力)は延暦寺焼き討ちの時に焼け落ちます。
 二十二社・・・京都 石清水八幡宮・加茂別雷神社・加茂御祖神社・松尾大社平野神社伏見稲荷大社大原野神社梅宮大社吉田神社・八坂神社・北野天満宮貴船神社、奈良 春日大社大神神社石上神宮大和神社廣瀬大社龍田大社丹生川上神社丹生川上神社上社丹生川上神社下社、大阪 住吉大社、三重 伊勢神宮、滋賀 日吉大社、兵庫 廣田神社
 前回述べた神人についても淀の魚市の専売権や水陸運送権をもつ石清水八幡宮(三大八幡の一つ:総本社は大分・宇佐神宮で福岡・筥崎宮か神奈川・鶴岡八幡宮のいずれかを加える、京の裏鬼門の守護)の修繕を行ない、 琵琶湖沿岸における独占的な漁業権を所有する上賀茂(賀茂別雷神社)・下鴨神社賀茂御祖神社)には馬を奉納し競馬を開催し友好関係を築きます。
 ②信長公の寺院に対する対応
 今回は信長公の寺院擁護について考察します。地域により対応が異なるので、それぞれについて見ていきます。

 ②-2信長公が擁護した寺院
■京における寺院の擁護
 天文5年(1536)天文法華の乱で焼き討ちになった法華宗の寺院は天文11年(1542)になり二一本山のうち一五本山が京に戻ります。これらの多くは下京に移転し、堀や土塁などの防衛施設を設け武力を備えます。
 一五本山・・・妙顕寺 要法寺 本圀寺 妙覚寺 妙満寺 本禅寺 本満寺 立本寺 妙蓮寺 本能寺 本法寺 頂妙寺 妙泉寺 本隆寺 妙伝寺
 また元亀4年(1573)4月、信長公は旧二条城に籠る義昭への威嚇として上京一帯を焼き討ちにします。その後義昭は宇治・槇島城に籠っているところを信長軍に攻められ、京から追放されます。しかしこの焼き討ちは正親町天皇に事前告知(吉田神社の神主)しており、噂話として上京の住人にも伝わります。上京の住人は攻撃を逃れようと銀1300枚を出す用意をしますが、信長公はこの要求を拒否します。ちなみに下京は銀800枚で焼き討ちを免れています。
 こうした背景もあり信長公に逆らう寺院もなく、基本的には寺領の安堵をしています。中には信長公の命により、尾張から上京する寺院もありました。 また天正3年(1575)には下京地子銭を得る権利を、信長が妹・犬に与えています。
■奈良における寺院の擁護
 神国と呼ばれた奈良(大和)における寺院のあり方は他国と異なります。興福寺が強大な権力を振るい支配力を強め(春日大社の実権も握っています)、大和各地の国人衆が在地武士団として力を持ち、それぞれが.興福寺に属する形をとっています。名実ともに支配していたのは興福寺です。また多くの寺院と公家などの土地が入りくみ利権関係が複雑です。
 そこで信長公は大きな2つの改革を行ないます。天正8年(1580)に実施した「大和差出」と「一国破城」です。
 大和指出とは寺社に対しては旧権限を安堵し、国人に対しては反乱分子の除去など、筒井順慶を中心とした軍事編成の強化のことです。朱印状による安堵により徹底的な破壊には至らず旧来の体制を利用した、まさに再編と呼べるものです。
 一国破城とは大和国内の城を大和郡山城を除き全て破壊させるというものです。 300以上もの城郭がありましたが、破城により郡山城を除き総て破却します。
 これら2つの改革は、宗教都市大和に対抗できるだけの武家の都市として、一国規模の城下町を建設し成立させることが目的です。 荘園制の中で成長してきた国人を政権により一つの軍隊として筒井順慶の下へ統制させ、商人は新しい都市を基盤とした競争によって新興商人を城下に集めます。職人衆も寺社領も統制され、その経済力を利用することができます。
 複雑な支配権と土地制度を有していた大和も、天正8年の両政策による石高と郡山城に集約され、一元的な支配体制が生まれます。
■愛知における寺院の擁護
 尾張統一戦の時に戦場となった上4郡では焼け落ちた寺院もありますが、支配体制が整っていたので寺院による反乱はほぼなく、寺領安堵されています。中には織田家ゆかりの寺院が多くあります。
 「清洲町史」によると慶長15年(1610)の名古屋地区にあった寺院数は103寺です。
■岐阜における寺院の擁護
 義父・斉藤道山の時代から支配体制は整っていたので寺領は保護されます。一部戦場となり焼け落ちた寺院もあります。
 岐阜4仏とよばれる岐阜城下の守護寺院を配備します( 善光寺如来・小熊の地蔵・西野の不動・美江寺の観音)。
■滋賀における寺院の擁護
 六角氏、浅井氏との戦い、延暦寺の焼き討ちを経て滋賀(近江)を制圧します。姉川の戦いでは湖北十ヶ寺の僧兵たちが敵勢に加わります。近江の寺院は延暦寺の傘下の寺院が多く、他の宗派に改宗されるか焼き討ちにあっています。
 浄土宗の僧・浄厳坊明感(近江・金勝寺)を招き、焼失した慈恩寺の跡地に浄厳院を開きます。ここで天正7年(1579)に浄土宗と日蓮宗の僧による仏教論争(安土宗論)が行われます。 浄土宗が勝ったことを評価し、貞安上人(能登・西光寺→近江・妙金剛寺)が呼ばれ西光寺を開きます。貞安上人は天正15年(1587)に正親町天皇の勅命により信長・信忠公の墓所の一つである京都・大雲院(銅閣寺)を、同年秀吉の命で京都・伏見に勝念寺を開創します。
 安土山には總見寺を建立します。通用門である百々橋口から必ず通過する場所にあります。信長公没後、二の丸跡に秀吉により建てられた本廟を、織田家(大和宇陀藩→柏原藩の猶子)が江戸末期まで代々守護します。また寺領を秀吉と徳川代々の将軍から安堵されます。
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 織田信長は、人が信仰する宗教には寛大で、キリスト教の為に仏教を滅ぼそうとしたわけではなく、戦国大名となった一向宗浄土真宗本願寺と俗事的な戦いを続けただけである。
 織田信長が、倒した相手は戦国大名本願寺であったがゆえに、一向宗を根絶やしにする為に一向宗寺院を破壊し一向宗門徒を弾圧し虐殺しなかった。
 つまり、一向宗浄土真宗武装解除して無力化し、財力を利用して政治に関与させない為に、武器を持って戦わない一向宗門徒は殺さなかった。
 織田信長が、「神仏を怖れない魔王で、仏・仏教を滅ぼそうとした第六天であった」はウソで、むしろ、天皇を敬って大金を投じて御所の修繕を行い、神仏を大事にし、荒廃した寺社仏閣の再建を後押ししていた。
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 織田信長日本民族日本人の英雄である。
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 将来、日本統一を果たした天下人・織田信長は、神国・日本国の存亡を懸けてキリスト教勢力(キリシタン)と大祖国戦争をする可能性があった。
 中世キリスト教会と白人キリスト教商人は、日本人から日本人を奴隷として購入し外国に輸出していた。
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 織田信長が、他の戦国大名と違って武士・雑兵を金で雇って常備軍としたのは、貧しい領民(百姓)を雑兵として強制徴兵すると「乱取り」を行う事を危険性があったからである。
 つまり、雑兵に乱取りという副業・役得をさせない為に金銭契約による完全雇用であった。
 織田信長は、庶民の諸悪である乱取りを禁止したが落ち武者狩りや戦場荒らしは放置した。
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顕如:仏法再興の志を励まれ候べく候 (ミネルヴァ日本評伝選 208)