関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
江戸時代。日本は梅毒感染地帯であった。
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日本人は健康面で特別であり、日本人の血は病的に特殊であった。
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日本天皇は、祭祀王として、疫病が蔓延し庶民・民草が苦しんで難儀するのは自分の不徳であるとして祈りを捧げていた。
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パンデミックは、生存を賭けた微生物のサバイバル術であった。
江戸時代、日本には梅毒が広く蔓延していた。
江戸時代を生きていた祖先を持つ日本人は、薄い濃い何れかで梅毒などの性病の影響されている。
日本民族の血は、純血ではなく汚れている。
日本の心とは、おおらかに、曖昧に、清濁を、素直に分け隔てなく、嫌がらず受け容れる事である。
それが、日本で生きると言う事である。
それが嫌なら、日本を離れる事である。
日本民族や日本人の魂と血は、呪われてはいない。
呪われていると怨嗟の声をあげる日本人の心ほど、醜悪でおぞましい心はない。
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2016年6月号 SAPIO「英雄を苦しめた『病気』。監修/酒井シヅ(順天堂名誉教授)
豊臣秀吉『尿毒症』、前田利家『肝硬変』、黒田官兵衛『梅毒』・・・
『討死』や『謀殺』、『自決』によって散った英雄の最期はドラマチックに語り継がれるが、現代人と同様、『病』に苦しみ、『病』に斃れ、『病』と闘い続けた歴史上の人物の悩みはあまり知られていない。そして、時にその『病』が日本の歴史を大きく変えることとなった。
聖徳太子 痘瘡(とうそう、天然痘)。
平 清盛 インフルエンザ。
足利尊氏 細菌感染症。
源 頼朝 脳卒中。
毛利元就 食道がん。
豊臣秀吉 尿毒症(慢性腎不全)。
黒田官兵衛 梅毒。
上杉謙信 高血圧性脳出血。
前田利家 肝硬変。
武田信玄 胃がん。
徳川家康 胃がん。
島津斉彬 赤痢。
伊達政宗 腹膜炎。
勝 海舟 脳出血。
藤原道長 糖尿病。
足利義満 インフルエンザ。
竹中重治 肺結核。
宇喜多直家 大腸がん。
小早川秀秋 内臓疾患。
池田輝政 脳卒中。
高山右近 赤痢。
直江兼続 消耗性疾患。
徳川秀忠 寄生虫症。
宮本武蔵 肺がん。
水戸光圀 食道がん。
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信玄が生きていたら、織田には負けていなかった?
『病』が変えた日本史
日本では古来より天然痘や麻疹(はしか)などの感染症がたびたび流行し、大勢の人々の命が奪われた。聖徳太子の母后が天然痘に侵され急逝すると、その一か月後には太子が高熱を発して病臥する。太子の看病にあたってい膳妃が病没し、ほどなく太子も48年の生涯を閉じた。当時の斑鳩宮に急性の痘瘡が流行していたことは間違いない。
医学が発達していない時代の『医療』は加持祈祷が中心だった。原因解明の術もなく、疫病は天皇の失政に対する神々の怒りの現れだと考えられた。疫病が蔓延した時に必要なのは神を鎮めることであり、全国の神社で国を挙げて祈祷が行われた。斑鳩宮で次々に人が斃れた時もそうだったのだろう。
疫病以外の病は、怨霊の仕業と考えられた。順天堂名誉教授で医学博士の酒井シヅ氏が語る。
『平清盛はインフルエンザかマラリアのようなひどい熱発作で死んだのですが、原因は清盛の独裁政治に反感を持つ者の怨念だと言われました』
効果的な治療法など生まれるはずもなく、永きに渡り風邪や脚気、寄生虫といった難病とはいえない病で命を落とす者が後を絶たなかった。
多くの公家を輩出した藤原一族もまた、代々疾患に苦しめられていた。藤原不比等も死因は天然痘か麻疹であるとされ、さらに不比等の4人の子たちもわずか4ヶ月の間に全員が天然痘により死んでいる。その後栄華を極めた藤原氏だが、摂政となった藤原伊尹は糖尿病を患い49才で命を落とす。
江戸時代に白米食が広がると、ビタミンB1不足による脚気の死者が増えた。徳川3代将軍・家光は長らく脚気に悩まされた後、衝心脚気(脚気による心不全)で死去。13代将軍・家定も、わずか20歳で亡くなった14代将軍・家茂も脚気が原因だったと言われる。徳川家と脚気は切っても切れない関係なのである。
坂本龍馬はADHDだった?
我々がなぜ、当時の病気について知り得るのか。日記や伝記などの史料を辿り、そこに書かれた症状から推察する場合も多いが、近年では縄文時代のように古い時代でも、発掘された骨から結核や変形性関節症の痕を特定できるようになってきた。最近の研究では、遺跡から出土した遺物に付着する寄生虫卵から、中間宿主である魚の種類までわかるようになっている。
死に至る病ではないが、幕末志士の坂本龍馬はADHD(注意欠陥多動性障害)であったとする説がある。ADHDとは発達障害の一種で、集中できない、じっとしていられないなど感情のコントロールができにくいケースがある反面、類まれな行動力や創造性を発揮するという特徴がある。これが、龍馬の逸話と一致する点が多いのだ。
こうしてみると、病が歴史の変化をもたらした事例は枚挙に暇がない。病は歴史を揺り動かしてきたのだ。矢傷から感染症に罹った足利尊氏は、腫れ物が悪化して世を去った。南北朝の動乱を長引かせた尊氏の突然の死は、尊氏にとってだけでなく日本の歴史にとっても予期せぬものだったに違いない。
歴史に『たられば』が許されるなら、という夢想話で名前が挙がるのが武田信玄であろう。天下にその名を轟かせた信玄だったが、胃がんと思われる病で急激に体調を崩し、まさにこれからというところで51年の生涯に幕を下ろす。それが武田家にとってどれほどのことだったかは、信玄自らが『没後3年の間は秘匿せよ』と遺言したことからも想像がつく。事実、武田家は信玄の死後10年も経たず没落した。
信玄が病に斃れなければ、死の2年後に起きた長篠の戦いで織田・徳川連合軍に惨敗する結果とならなかったかもしれない。長篠の戦を率いた子の勝頼は、有名な織田の『三段銃陣』に対し正面突破する戦略で甚大な被害を受け、武田家滅亡のきっかけを作ったが、戦略家の信玄が健在だったら別の選択をした可能性は十分あるだろう。
医学に通じていた家康
個人ではなく、歴史そのおのに影響を与えた病気もある。歴史研究家の川口素生氏は、とりわけ安政5年(1858年)の夏に江戸で猛威を振るったコレラを挙げる。
『安政コレラは3万人以上の死者を出した。知識人にはコレラで亡くなった人も多く、江戸の街がまるっきり変わってしまったといっても良いでしょう。江戸幕府の権威の失墜につながったこともあり、コレラがなかったら江戸幕府はもっと続いていたかもしれない』(川口氏)
歴史に名の残す者で病に斃れた人間が多い一方、養生を尽くして長寿を全うした伊達政宗のような人物もいる。『薬で読み解く江戸の事件史』などの著作がある作家の山崎光夫氏は、75歳まで生きた徳川家康は医学の知識が医者以上にあったと言う。
『頭脳明晰で好奇心旺盛だった家康は、書物や医者などから得た知識が非常に豊富でした。3歳だった家光が高熱を出した際、医者も匙を投げたにもかかわらず家康が処方した薬で治してしまったという話も残っています』
家康が大阪の陣で豊臣を滅ぼしたのが最晩年、死去したのがその翌年。家康が秀吉と同様に60歳ほどで生涯を閉じていたら、江戸に幕府はなく大阪が首都になっていたかもしれない。
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戦国武将の5人に1人は花柳病だった?
性病に苦しめられた英雄たち
日本の歴史に名を残し英雄たちの死因は様々だが、意外にも『梅毒』で命を失った武将は多く、名軍師として名高い黒田官兵衛をはじめ、家康の次男で越前北ノ庄初代藩主の結城秀康、熊本の加藤清正などがこの病にかかっている。
当時『唐瘡』『琉球瘡』と呼ばれた梅毒は、南蛮からもたらされたというのが定説。
『その伝来は鉄砲よりも早く、1510年代に、中国人や琉球人が南蛮人から感染し、九州から全国各地へ伝播したと考えられる』というのは歴史研究家の川口素生氏。
また、歴史作家の山崎光夫氏は『戦国時代は複数人と関係を持つことがステータスの一種であり、家康は記録されているだけで16人の側室をもっていた。当時は男性同士が関係を持つことも珍しくなく、コンドームもなかった。おそらく庶民の5人に1人は梅毒などの性病に罹っていたはず』という。
もちろん梅毒以外の性病が蔓延していたことは想像に難くないが、淋病は重症化して死因となることが稀で史料に残ることが少ない。
江戸時代に入ると吉原などの遊郭が発達することで、梅毒の流行に拍車が掛かる。『解体新書』の著者で医師の杉田玄白の回想には『1000人の患者のうち、700〜800人は梅毒だった』という記述も残っている。さらに幕末に西洋医学を日本に伝えたオランダの医師・ボンベは『日本人は夫婦以外とも性行為に対する罪悪感がない。遊郭での性病対策もなく一般家庭に蔓延している』と指摘した。
梅毒は、潜伏期間を含め感染から死に至るまで通常は10年以上かかる。仮に歴史上の偉人が梅毒に感染しても、重症化するまでに他の病などで命を落とすケースもあっただろう。その場合は死因となることが稀で資料に残されることがないから、実際にはもっと多くの有名な武将が性病に悩まされていたと見ていい」
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2016年9月11日号 サンデー毎日「梅毒は1492年、新大陸を発見したコロンブスの一行が、その地の風土病を持ち帰ったことが始まりといわれている。世界で爆発的な流行となり、日本には16世紀に上陸した。国内で初めて梅毒が記録されたのは1512年。梅毒は当時『瘡(かさ)』と呼ばれ、特効薬のないまま感染が広がった。
63年に来日したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは〈男も女もそれ(梅毒)を普通の事として、少しも恥じない〉と書き、江戸時代には医師の橘南谿(なんけい)が『西遊記』(1795年)で、京都の人の半分は梅毒にかかっていたと記したほど。症状が進行すれば鼻が欠け、命を落とす危険もあったため、各地では梅毒平癒を願う『瘡守(かさもり)稲荷』が信仰を集めた。徳川家康の次男、結城秀康や、肥後熊本藩初代藩主の加藤清正も梅毒で亡くなったいわれる──。
こう書くと、梅毒はひどく昔の病気に感じられる。実際、1943年にはペニシリンによ投薬治療が成功し、患者数は激減。国立感染症研究所によると、67年には1万1,000例だったが、近年は87年の2,928例をピークに減少傾向にあった。ところが2010年を境に増加傾向に転じ、特に今年の増え方は顕著だ。感染研によると、8月14日までの報告数は2,591例。昨年の2,698例(今年3月30日時点の暫定値)に迫る」
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日本人は、自分達では手に負えない事は全て神として祀って恐れ戦き、神の怒りが鎮まってくれるようにと祈り続けた。
笠森稲荷の笠森は瘡守(かさもり)の同じ音の当て漢字で、梅毒を皮膚病の瘡に隠し、瘡の疫病神を御稲荷さんに重ねて隠し、皮膚病全般の瘡を治す霊験があると誤魔化し除けの神としてま信仰した。
悪い漢字を読み方が同じで別の漢字に変えて誤魔化すのは、日本の隠蔽体質の最たる実例である。
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安藤優一觔「遊女は仕事を始めて1年以内に、梅毒に感染する確率が高かった」(『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』)
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日本人は、性欲が旺盛で、だらしないほどに性風俗は乱れに乱れていた。
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幕府公認の吉原の遊女や非公認の岡場所の夜鷹は、男と寝ると数年以内に梅毒(唐瘡、とうがさ)などの性病に感染し若くして死亡した。
遊女の平均寿命は、22〜23歳といわれている。
実家では、貧しさ故に娘を娼婦に売ったとあっては世間体が悪い為に遺体の引き取りを拒否した。
遊郭は、無責任に、遊女の遺体を近くの寺に犬猫の屍体のように放り込んで処分した。
放り込まれた寺も迷惑であったが、遊女の遺体を無縁仏として葬った。
江戸時代は風俗が乱れていて、結婚できない男性は遊郭通いで梅毒に感染していた。
梅毒感染者の男性が結婚すると、相手の女性にも感染させ、生まれて来る子供も先天的に梅毒患者であった。
女性は再婚が可能であった為に、梅毒を持ったまま再婚した。
日本全国、至る所に、梅毒感染者が溢れていた。
梅毒を悪化した感染者や先天的梅毒乳幼児が早く死んだ為に、江戸時代の平均寿命は短かった。
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吉原や岡場所そして宿場や港町での女郎・遊女の間で、梅毒が蔓延していた。
日本人は、梅毒に罹る事は「女遊びを極めた証拠」として自慢していたといわれている。
一度、梅毒に罹ると二度と罹らないと信じられ、大いに女遊びを楽しんだといわれている。
昔から、日本の男も女もだらしなかったといわれている。
「親の目を 盗んだ息子 鼻が落ち」
梅毒は中南米大陸の病気で、1492年にコロンブスの部下が性交渉で感染してヨーロッパに持ち込まれ、わずか20年後の1512年に宣教師や商人や船乗りによって日本にもたらされた。
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江戸時代の日本人の多くが梅毒・淋病などの性病感染者で、多くの子供は先天的感染者であった。
時代劇で遊び人、男女問わず、女色・男色・同性愛者など性風俗に溺れて者は例外なく性病感染者であった。
何故、日本が性病感染地帯となったかといえば、日本人は生まれ付き性倫理にだらしなく性欲が旺盛であった事、行楽好きが原因であった。
藩士である武士は、戦闘要員として藩主・主君の許可なく藩領を出る事ができなかった。
百姓や町人の庶民は、お伊勢参り・善光寺参り・金毘羅(金比羅)参り・大山詣で・富士詣でなどの信仰旅行、草津温泉・有馬温泉などの湯治旅行、春・梅、桜、藤などの花見や秋・紅葉、月見など行楽旅行など、許可を得れば自由気ままな旅行を行っていた。
江戸は、武士の都市として、各大名が参勤交代で大勢の家臣を引き連れて集まり、家臣達は梅毒が蔓延している吉原や岡場所で女遊びをしていた。
亰や大坂は、商人の都市として、全国から米や特産品が船や荷駄で運び込まれ、船人足や荷駄人足たちが遊郭でドンチャン騒ぎを行っていた。
伊勢神宮のある伊勢、善光寺のある信濃、金刀比羅宮のある讃岐、宮島のある安芸などでは、参拝者が旅籠で飯盛り女と乱痴気騒ぎをした。
温泉地である、草津温泉のある上野、湯河原温泉のある相模、別所温泉のある信濃、有馬温泉のある摂津、道後温泉のある伊予などでは湯治客が飯盛り女と馬鹿騒ぎをした。
全国の神社仏閣が執り行う宵祭りでは、金のない男女が知らない相手と一夜の逢瀬を楽しんでいた。
日本の梅毒や淋病など性病感染者は、貧しい庶民や下級武士が多かった。
日本天皇・皇族と徳川将軍は、庶民のような遊びず、その代わり幾人もの側室を持っていたので性病に感染する事はなかった。
妾を抱えた豪商や豪農も同様である。
貧富の格差が、梅毒や淋病などの性病感染しない健康の格差に繋がっていた。
ただし、大名や上級武士、豪商や豪農でも、若気の至りで乱れた風俗遊びをしていれば梅毒や淋病などの性病感染は免れなかったね。
日本文化、特に庶民文化である江戸文化が花開いたのは、梅毒や淋病などの性病感染のお陰ともいえる。
梅毒や淋病などの性病の感染で脳が冒され、破壊されて狂人として狂い死にする者もいれば、得意な才能を発揮し芸達者として短期間の間に名人芸に到達し惜しまれて死ぬ者もいた。
職人は匠として、メイド・イン・ジャパンをつくり出した。
梅毒や淋病などの性病感染は、人の移動の激しい国や地域で爆発的に蔓延する。
その意味で、梅毒や淋病などの性病の感染がひどい国や地域は、ヒト・モノ・カネが活発に移動して経済が発展し、知識の移動で文化度も高かった事を意味する。
ゆえに、江戸時代が梅毒や淋病などの性病感染地帯であったという事は、恥じる事ではなく誇りとするべきである。
現代日本人は、江戸時代の子孫として、梅毒や淋病などの性病の洗礼を受けて生きている。
日本の多様性は、性欲の乱れた不潔の中に存在していた。
その反動として日本人は「穢れ」を嫌い、清潔で清浄な空間に憧れ、無駄なモノを極限まで削ぎ落とした日本文化に昇華させた。
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季節の行楽として、庶民は、春のサクラ・梅見物と秋の落葉狩りを楽しんでいた。
秋の落葉狩りが定着したのは江戸中期からで、各地で名所案内書が出版されていた。
江戸の『江戸名所図会』は、1834〜36年。
京の『都名所図会』は、1780年。
江戸の紅葉の名所は、浅草の正燈寺と品川の海晏寺であった。
江戸は独身男性が多かった為に、男達の目当ては正燈寺近くの吉原と海晏寺近くの品川遊郭であった。
観光地や有名な寺社仏閣の近くには、必ず遊郭があった。
実を言えば、男達の楽しみは女遊び、女達の楽しみは食べ歩きであった。
庶民が好んで呼んでいた出版・貸本は、そうした旅先の案内本であった。
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感染症で人類に甚大なる被害をもたらしたウイルスや細菌などの微生物は、生存できる宿主を探していた。
微生物は、感染した人間などの動物たちの体内環境が生存に適していなければ、生存可能な環境に改造すべく特殊な成分の分泌した。
改造する為に分泌された物質が、宿主に良い作用と悪い作用を引き起こす。
悪い作用の毒性が強いと、共存できない宿主を殺した。
毒性の強く感染力が強い微生物は、パンデミック、感染症の世界的流行を引き起こした。
宿主内の先住微生物と宿主の体内免疫システムは、毒性の強い物質を分泌する新参微生物を敵として攻撃した。
生体の防御機能と味方の微生物が強い生物のみが、微生物の体内環境を巡る死闘を勝つ抜いて生き残る。
生存の為に宿主を必要とする微生物は、共存できる宿主を探し、感染した後は生存に適した環境に改造するべく物質を分泌した。
如何なる微生物も、生存本能として、感染した宿主を殺そうとは思ってはいない。
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疫病の原因も分からずその治療手段も知らなかった日本人は、天災と共に人間の邪な心・不純な心による驕りに対する神々の天罰と恐れた。
神々の怒りを鎮める為に神社仏閣で赦しを請い、改心し、心を入れ替え、正直者となり真っ当な生き方をする事を平身低頭で謝り誓った。
日本人のお人好し的な性格は、自戒と自制を神仏に誓い、その誓願を実際の行動に表そうとするところから生まれた。
日本天皇は、広範囲にわたる甚大な被害は自分の不徳として神々に謝り、国民・民族が無事健やかに生活できるように祈った。
日本天皇の最重要な責務は、神の血筋を根拠とした神の裔として祈る事であった。
その祈り故に、日本天皇は廃絶される事なく、今日まで継承されている。
その祈りができるのは、神の裔である現天皇家のみである。
ゆえに、現天皇家こそが日本民族日本人そのものである。
現天皇家の存在とは、俗世の政治、経済、軍事ではなく、神聖な「祈り」である。
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- 作者:山本 俊一
- 出版社/メーカー: 朝倉書店
- 発売日: 1994/04
- メディア: ハードカバー