- 作者:川添 裕
- 発売日: 2000/07/19
- メディア: 新書
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の伝統的民族芸能の源流は、身分卑しい庶民の娯楽であり、高度に発達した文化と教養に溢れる中華世界の芸能に比べて自慢できるような代物ではなかった。
日本の伝統的民族芸能は、地の果て、辺境の地で、細々と行われていたローカルな単純的催しに過ぎなかった。
現代日本人は、欧米のグローバルな芸能に関心を持っても、日本のローカルな伝統的民族芸能には興味を示さない。
人口激減によって、日本の民族芸能は継承者・後継者がいなくなり何れは消滅する。
・ ・ ・
612(推古天皇20)年 百済仁・味魔之(みまし)は帰化して、呉国の仏教楽舞である「伎楽(ぎがく:無言仮面舞踊劇)」を死者供養として寺院屋外で上演し、日本に伝えた。
日本の芸人は、伎楽の舞を真似ながら独自の工夫をこらし、歌舞伎など伝統芸能を創作していった。
日本の学ぶ(まなぶ)とは、優れたモノを「物真似(ものまね)」する事である。
日本民族は、「模倣が得意」であった。
・ ・ ・
2017年1月号 SAPIO「日本の芸能を旅する 上原義広
第7回 サーカス編
……
奈良時代に始まる日本のサーカスの歴史
日本のサーカスは、実は奈良時代まで遡ることができる。
見世物小屋の芸から始まり、やがて猿楽と呼ばれるようになる。そこでは曲馬、綱渡り芸、独楽(こま)回しなどが演じられていたが、そうした雑芸からやがて能、狂言が分かれていくことになる。そして室町時代になると、僧の格好をした芸能者、放下僧がそれまでの芸に手鞠、高足(竹馬に似た芸)をなど加えて全国を回った。
現在のサーカスのスタイルに近くなったのは、やはり明治の開国頃からだ。海外のサーカス団の来日と共に、西洋の芸が流行するようになり、雑芸もだんだん洗練されていくようになる。下層民が担っていた雑芸が、文明開化と共にサーカスというハイカラなものに変化したのだ。
木下サーカスの創業者、唯助は明治15年、香川県丸亀の矢野家で生まれ、やがて岡山で興行をしていた木下藤十郎に見込まれ養子に入った。唯助が生まれた矢野家も、後に矢野サーカスを立ち上げているから、興行に生きた一族だといえる。
そして明治35年、独立した唯助が中国大陸で旗揚げしたのが木下サーカスだった。以来、木下サーカスは現社長の唯志まで実に4代、創業114年。古典芸能以外でここまで伝統が続いているのは非常に珍しい。
……」
・ ・ ・
・ ・ ・
大いなる小屋―近世都市の祝祭空間 (叢書 演劇と見世物の文化史)
- 作者:服部 幸雄
- メディア: 単行本