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2016年6月15日 産経ニュース「【第43産経適塾 詳報(3完)】歌舞伎、能、文楽…時を経ても色あせない伝統芸能の魅力 亀岡典子・産経新聞大阪本社編集委員
講義する亀岡典子編集委員=大阪市浪速区の産経新聞大阪本社(南雲都撮影)
大阪市浪速区の産経新聞大阪本社で開かれた関西の経済や文化を学ぶ産経適塾の第43回講座。大阪取引所の山道裕己社長、浪曲師の春野恵子さん、産経新聞社文化部の亀岡典子編集委員が講師を務め、専門分野で培った知見を参加者に伝えた。その講演内容の要旨をまとめた。
現在も新作が続々
歌舞伎、能、文楽は三大伝統芸能といわれていますが、現在も新作が作られています。市川猿之助さん主演の人気漫画「ワンピース」を原作にした歌舞伎を実際に見てみましたが、歌舞伎をしっかり踏まえながらも、ゆずの北川悠仁さん作曲のテーマソングが流れ、観客も立ち上がって盛り上がる。歌舞伎役者が漫画のキャラクターになりきったはじけた演技もみものでした。
先日、「ワンピース」に出演した市川猿弥さんに話をうかがう機会があったのですが、「『ワンピース』で歌舞伎はなんでもありの世界に入ったんじゃないかな」と語っておられました。
能の世界でも現代の能楽師が廃れてしまった演目をよみがえらせる復曲に取り組んでいます。例えば戦前に上演された「鉄門」という作品。この作品は、メーテルリンクの戯曲が大正時代に歌舞伎の演目として上演され、それを見た高浜虚子が能にして、上演したものなのですが、時代を先取りしすぎていたのか、その後、上演されなくなってしまいました。
鉄門は人間の死を描いた作品で、「命のはかなさと大切さを能で表現したい」という現代の能楽師の思いから復曲されることになったのです。
時を経て再演される作品
古の作品が、その時代時代で新たな生命を吹き込まれる。古典芸能にはそういった要素が強くあります。
例えば「平家物語」に材を取った「俊寛」という作品。平安時代末期が舞台の作品で、室町時代に能として作られ、江戸時代に能をベースに歌舞伎、文楽の作品として上演されました。これらは同じ物語でありながら描かれるテーマが異なる作品になっています。俊寛は、平家への反逆罪で仲間とともに絶海の孤島に島流しにされてしまうのですが、やがて罪が赦免されることになりました。迎えの船がやってくるのですが、俊寛だけは乗船を許されず、島に残されてしまいます。俊寛が嘆くところで能は終わるのですが、歌舞伎、文楽では違います。
島で恋人を作った仲間が、恋人と共に島を離れることができるよう船に空きを作るため俊寛は自らの意志で島に残ることを決意するのです。能の「俊寛」と違って歌舞伎、文楽の「俊寛」では情が強調されています。フィクションの部分をあえて付け加えることで物語に別のテーマが生まれたのです。
実は私が最初に見たのは文楽の「俊寛」で、能の「俊寛」を観たのはその後でした。正直、能の「俊寛」には物足りなさを感じ、その感想を能楽師の大槻文蔵さんに話したところ、「作品が作られた時代の違いがあるからだ」と教えていただきました。
能の「俊寛」が作られた室町時代は戦乱や飢えに苦しめられることが多く、生と死、孤独が日常と隣り合わせにある時代でした。孤独を見つめる人間の姿を追求したのが能の「俊寛」だといえます。歌舞伎、文楽の「俊寛」が作られた江戸時代は既に太平の世で、情愛を感じる余裕が生活の中に生まれていました。そこで人情を描く新しい「俊寛」が生まれたのです。海外では3つの俊寛が同時に上演されたこともあったそうです。
見直すと再発見
一度観た作品でも年齢を重ねてから見直すと全く違った印象を受けることがあります。源氏物語に登場する六条御息所という光源氏の年上の恋人が主人公の「野宮」という作品を三十代で観たときには、どこか物足りない印象を持ったのですが、約20年経って見直すと世の無常までが感じられ、心に染みわたるような気がしました。
江戸時代の近松門左衛門作の文楽作品「女殺油地獄」は、主人公の油屋の跡取り与兵衛が、金銭の無心を断られたことから、年上の同業者の人妻の女性お吉を衝動的に殺害してしまうという話なのですが、与兵衛とお吉の間に恋愛感情があったのかなかったのかが、よく議論されます。
あったと解釈するならば、恋愛にまつわる愛憎劇の要素が入ってきますが、なかったと解釈すれば、近所の顔なじみの女性を金銭がらみだけで殺してしまうという現代でも時折ニュースをにぎわす若者の衝動殺人事件の話になります。俳優がどういうふうに解釈して演じるのか、また、観客がどのような心理状態で観るのかによって作品はそれぞれ違ったものになります。
また、東京と関西では役者の演技も大きな違いがあります。例えば「仮名手本忠臣蔵」の「勘平腹切り」の場面は、東京の役者は観客に正面を向いて腹を切りますが、関西では背を向けて演じます。この違いは江戸時代に、江戸が武士の町、大坂が商人の町だったことに要因があるようです。大坂では本音やリアリティーが重んじられました。それぞれの町の風土が演出や役者の演技に影響を与えているのです。
古典芸能は後継者の問題も含めて厳しい環境にあるのは確かです。しかし、古典芸能には日本人が培ってきた精神の輝きが宿っています。古典芸能が難解なものではなく、人生に寄り添うような近しいものであることを多くの人にわかってもらいたいとの思いから、これからも取材活動を頑張っていきたいと思っています。」
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近松門左衛門「侍とても尊からず、町人とても卑しからず。尊きはこの胸一つ」
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浄瑠璃。司馬遼太郎「(高田屋嘉兵衛)彼は満足な初等教育を受けていなかったが、浄瑠璃好きの御陰で、魅力的な表現力を持っていたらしい。無学な船乗りがらシェイクスピアは全部暗誦していて、適時引き用するといったふうな人物を想像すればいい」
「嘉兵衛がそうだったように、方々から大阪や尼崎に丁稚に入った子供達は、文楽を見に行ったり、浄瑠璃を聞いたりしました。それは大変な娯楽であると同時に、そうして見たり聞いたりしながら、言葉を磨いたようですね」
「どうも浄瑠璃は、町人階級の日本語を正しくしたのではないか。浄瑠璃には娯楽以上の意味があったと、嘉兵衛を書きながら思った事があります」
高田屋嘉兵衛が乗っていた北前船は、1812年にロシア領千島列島沖でロシア船に拿捕された。
ロシア側は、ゴローニン少佐が前年の1811年に日本領北方領土・国後島で捕らえられ幽閉された報復として高田屋嘉兵衛を捕らえた。
高田屋嘉兵衛は、ロシア語が話せなかったし、貧しい漁民出身で身分は低かったが、リコルド少佐と協力して日露間の外交交渉を行い、幕府を説得してゴローニンを釈放させ、和平に尽力した。
リコルド少佐は、日本語は分からなかった。
豊竹咲甫太夫「大阪が生んだ文楽(人形浄瑠璃)を見た事がなくても、近松の書いた戯曲は全国何処でも出版されていました。浄瑠璃を教える師匠さんもいて、女義太夫のお師匠さんに入れ込み旦那衆もいた。全国にそういうお稽古屋さんがいて、幕末の大阪だと5万人。素人で語れる人がいたそうです。上方落語にも女義太夫のお師匠さんに習いに行くというくだりがよく登場します。浄瑠璃通でもある作家のいとうせいこさんの言葉を借りれば、元祖AKB、アイドルの要素もあった。高田屋嘉兵衛が学校は出ていないけてども、立ち居振る舞い、言葉などを浄瑠璃から覚えたというのはよくわかります。自然とここ一番に使う言葉は『浄瑠璃語』になったんでしょう」
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森西真弓(大阪樟蔭{しょういん}女子大学教授)「恋愛物が当たる京、豪傑の活躍が受ける江戸、理屈と義理が好まれる大坂。違いがくっきり分かれている。理屈と道理を重んじる商都らしい気質が難解ともいえる筋立てを生んだのではないか」
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山川静夫「(文楽の楽しみ方)初心者のうちは、人形の面白さを楽しめばいいでしょう。3人遣いは、世界的にも珍しく、ミュージカル『ライオンキング』も文楽の人形を参考にしていますよね。人形の顔が、本当にいい顔をしています。首の種類を見れば、役柄や性格がわかります。生身の役者と違って、敵を持ち上げて投げ飛ばすなどの誇張した動きの半面、リアルな表現もあり、その違いを発見してほしい。
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歌舞伎や文楽は、勉強ではなくて娯楽。ガイドブックで予習していくのもいいのですが、それでは自分なりの発見はできない」
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