➰142)─1・A─芸能の民は、穢れた部落民・非人で、悪所に住む異界の住人であり、反権力であった。〜No.293/    

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 歌舞伎などの日本の伝統芸能は、天皇家・皇室のように、特殊な血筋の特別な一族で直系男子のみに御家の芸事を一子相伝として伝えた。

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 伝統的な日本芸能は、女性を華やかな舞台から排除して成立している。

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 日本の伝統芸能は、天皇家・皇室と深い繋がりを持っている。

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 非人の堀越重蔵は、下総国幡谷村(現在の千葉県成田市幡谷)で生まれ、江戸に出て、侠客(きょうかく)・唐犬十右衛門のもとで頭角を現し、江戸の侠客・遅蒔(おそまき)重兵衛の娘と結婚した。

 結婚してから7年経っても子が生まれなかった為に、出生地の幡谷村に近くにあった成田山新勝寺に参籠祈願し、そして授かった男の子に海老蔵と名付けた。

 海老蔵は、成長して歌舞伎役者になって初代市川団十郎となる。

 堀越重蔵の祖先は、甲州武田家の家臣であった。
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 「死」の穢れを秘めた歌舞伎役者と河原乞食。
 幕府は歌舞伎を「悪所」として弾圧した。
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 芸能の民は、公権力が及ばない周縁で、公権力に抵抗し、庶民に毒を撒き散らしながら生きる「異界の人」である。

 異界の住人に、人並みの常識や道徳を求めても無駄であった。

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 田崎健太郎「本来、芸人とは日常生活の埒外(らちがい)に生息する人間たちだ」

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 小林よしのり「権力に対する批判精神を持っているのは立派なことだ。

 元々、芸能は河原乞食から始まったものでしょう。

 時の権力に虐げられ、搾取されたものたちが強者たちを茶化し、からかうことにこそ、芸能の神髄がある。それを忘れず、権力に抗うのは意味のあることです。

 権力と戦うものにとって、風刺は大事な武器なんです。〝王様は裸だ!〟とバカにすることが出来ないと、表現者は丸腰になってしまいます」

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 日本の伝統芸能は、差別された非人・賎民・河原乞食ら下層民が始めた芸事であった。
 江戸・大坂・京は、地方の下層民が大量に移住していた。
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 屍体と血は「穢れ」として忌み嫌われた。
 屍体と血を扱う仕事をする者は、卑しい人間として軽蔑され差別された。
 演技とはいえ「死」を身体で表現する歌舞伎役者は、穢れた人間として差別された。
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 血と死に塗(まみ)れる日本人と言えば、武士・サムライと歌舞伎役者・能楽者と非人・エタなどの賤民は同類であった。
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 芸人といわれた上は歌舞伎役者から下は落語家やサーカス団員に至るまで差別された半人前以下、社会の爪弾きモノ者あるいわかたわ者と蔑まれ、社会的な地位や身分は極端に低かった。
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 歌舞伎は、西洋の演劇や中国の京劇とは違う、日本独自の芝居である。
 まして、朝鮮とは縁もゆかりもない。
 歌舞伎は、日本文明・日本文化・伝統芸能である。
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 日本社会は、アリとキリギリス(セミ)の寓話世界で言えばあり社会である。
 歌舞伎役者は、明らかにキリギリス(セミ)の生き方である。
 日本において、アリはキリギリス(セミ)を見捨てる事なく助ける。
 日本だけが庶民文化を伝統文化へと高め発展できたのは、歌舞音曲に生きるキリギリス(セミ)が真面目に働くアリに助けられたからである。
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 日本は、血と死を忌み嫌い、血と死を扱う者はもちろん演じる者も穢れた者として嫌われ差別され迫害対象となった。
 非人や穢多は、それ故に嫌われ、差別され、迫害された。
 自然災害による飢饉や疫病が発生すると、地方・田舎の被災者達は食べ物を求めて非人や穢多が住む貧民窟に流れ込んでいた。
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 初代 市川 團十郎(いちかわ だんじゅうろう、万治3年(1660年) - 元禄17年2月19日(1704年3月24日))は、元禄歌舞伎を代表する江戸の役者。立役を得意とし、荒事芸を歌舞伎に導入した。團十郎が考案した見得は「元禄見得」と呼ばれる。  

 歴史
 初代市川團十郎の父は甲州出身で、異名を「面疵(つらきず)の重蔵」、「菰(こも)の十蔵」と呼ばれた侠客だったという。さらにさかのぼると武士で後北条氏の家来であったという説もあるが、これは甲州の出ということ以外は疑わしい。「菰の十蔵」というのは十蔵が非人出身なのでお菰(コジキ)の意味でそう呼ばれたものとされる。十蔵は甲州から出てしばらく下総国に住んだのち、江戸和泉町に住み着いたといわれている。
 昭和初期に山梨県笛吹市一宮町の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし市川宗家は、初代團十郎成田山新勝寺にほど近い幡谷の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。これが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来である。
 近世初期には長吏頭・弾左衛門支配下にあった。しかし歌舞伎関係者は自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざした。宝永5年(1708年)に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、ついに「独立」をはたす。江戸歌舞伎を代表する市川團十郎家は、このことを記念する『勝扇子(かちおうぎ)』という書物を家宝として伝承していた。またこの訴訟は、歌舞伎十八番の1つ『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』成立の契機となったという有力な説もある。しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われた。彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことだった。
 経歴
 幼少の頃の事績はほとんど伝わらない。芝居の道に入って、最初は市川海老蔵を名乗ったが、延宝3年 (1675年) から市川團十郎を名乗る。同8年 (1680年) につとめた『遊女論』の不破伴左衛門が当たり役となった。
 貞享2年 (1685年)、江戸市村座において『金平六条通』の坂田金平を勤め、それまでの初期歌舞伎にあった「荒武者事」と金平浄瑠璃の荒事とを加味して、歌舞伎における荒事芸を完成させた。これによって江戸で絶大な人気を得、以後230余年にわたって江戸歌舞伎の頂点に君臨した市川宗家の基礎を築くことになる。
 元禄6年 (1693年)、上洛して京都の舞台に出演するが評判は悪く、1年あまりで江戸に帰る。ただしこのとき椎本才麿(しいのもと さいまろ)に入門して、才牛の俳名を得た。
 狂言作者としても三升屋兵庫(みますや ひょうご)の名で活躍し、『参会名護屋』などの作品を残している。初期の荒事が歌舞伎のなかに定着してゆく過程において、團十郎が役者と作者を兼ねたことは、市川家の荒事芸が独自の性格を持つことに繋がった。
元禄17年2月19日(1704年3月24日)、市村座で『わたまし十二段』の佐藤忠信役を演じている最中に、役者の生島半六に舞台上で刺殺された。享年45。一説に、半六は自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいたとも言われるが、明確な証拠はなく、この事件の真相は現在も不明である。
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