⛩7)─1・A─国際的動物愛護団体は、伝統的民族宗教の神事・祭祀・儀式を潰そうとしている。~No.12・ *  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 普遍宗教・絶対正義・一般常識が、ローカルな民族宗教を破壊し、地域の伝統的宗教行事を消滅させていく。
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 現代日本では、反宗教無神論信奉者であるリベラル左派のマイノリティ・ファシズムエコ・テロリストヒューマニズム原理主義。環境過激派による「神殺し」が静かに行われている。
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 天皇心神話・天孫降臨神話の日本神道には、敵はいても味方はいない。
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 2015年10月1日 週刊新潮「過激化する『動物愛護』のバカ一覧 三品純
 諏訪大社『カエル神事』に猛烈抗議
 見世物小屋『蛇女』は中止
 犬様、蛇様、カエル様──。『生類憐れみの令』の時代から300余年、昨今の日本では、『人権』ならぬ『獣権』が幅を利かせ、各地でバカげたトラブルを頻発させているという。……
 まず初めに、ごく最近起こったこんな『事件』について紹介しよう。
 9月14日午前2時過ぎ、千葉県松戸市で、逃走していた紀州犬が通りかがりの女性に噛みつき、捜していた飼い主の70代男性も襲いかかった。犬の体長は120センチ。現場に急行して3人の警官は危険を感じ、飼い主の許可を取った上で13発発砲。大型犬を射殺したのである。
 問題はこの後、だ。松戸署の副署長が説明する。
 『14日の午前中にニュースが流されてから、非難が殺到。翌日までに約400件に上り、電話はパンクしました。〝残酷だ。犬がかわいそうじゃないか!〟〝13発も撃つ必要があったのか!〟というのが大半でしたが、中には〝〝素手でなんとかならなかったのか!〟という意見もありました』
 そういうお前が捕まえてみろ!と電話の向こうに毒づきたくもなるだろうが、副署長は冷静に続ける。
 『万一、犬を逃がした場合、時間を考えれば、朝小学生たちが通学する時間になると、さらに被害が拡大する恐れがある。適性な処置だったと考えています。しかし、抗議の数はすさまじく、通常業務が成り立たないレベル。チームを作って応対したほどでした』
 ちなみに、射殺された犬は、日常的に飼い主家族にも噛みつくなど、凶暴性には歯止めがかからなくなっていたという。
 9月20日から1週間は『動物愛護週間』。全国各地で、動物とのふれあいイベントが数多く開かれている。しかし、近年の動物愛護運動は、膝に犬猫を乗っけて頭を撫でているような牧歌的なものに留まらない。冒頭のように、『動物愛』は、時にバランスを失い、暴走し、各地で人々を困惑させるトラブルが続出しているのだ。
 例えば──
 〈動物が虐待されて殺されていても平気なんですか〉
 〈人はみな小さな命をも慈しむ心を育むべし!〉
 『御柱(おんばしら)』で知られる長野県の『諏訪大社』。この正月、そんな無粋なプラカードや横断幕を掲げた10名ほどの団体が門前に現れた。
 彼らの矛先は、毎年元旦に行われる『蛙狩(かわずがり)神事』だ。これは社の前に流れる御手洗川で蛙を捕まえ、矢で射ぬき、神前に捧げるというもの。供えられる蛙は2匹のみで、弓矢で刺すのは拝殿で行うため、外からは見えないという。1000年前から続く伝統行事だが、彼らはこれが『虐待だ!』と訴えているである。
 『動物を大切に、という気持ちは否定しませんが──』
 と、憤りを隠さないのは、同社の氏子・笠原雅男氏である。
 『何より許しがたかったのは、1人の女性が御手洗川に踏み込み、氏子が蛙を捕まえるのを阻止しようとしたことです。神社にとって、神事の際に蛙のいる場所は〝聖域〟で、宮司でも入らない。しかし、彼女はそこを踏み越えて〝やめろ!〟〝蛙を殺すな!〟と叫びながら捕獲をとめようとした挙句、勢い余って滑って川に転がった。神様に対して失礼極まりない行動です』
 仮にイスラム過激派のモスクで同じようなことをしたら、彼らは一体、どんな結末が待っているだろうか。
 笠原氏が続ける。
 『私は子どもの頃から蛙狩を見てきましたが、地元からは〝虐待だ〟なんて批判を聞いたことがありません。もちろん神事は今後も続けていきますよ』
 抗議を行った『全国動物ネットワーク』の代表者の女性に聞くと、
 『世界の動物愛護の潮流を潰すような記事を書くんですね? 蛙狩りは違法行為だから、国民が違法と声を上げて、何がおかしいんですか? 来年も抗議しますよ』
 と気勢を上げるが、そもそも最低限の礼儀や常識を持ち合わせていない人々が〝法〟を語っても、そこにはちっとも説得力が感じられないもである。
 警官が告げた『逮捕』
 こうした『愛護運動』は、他の伝統文化にも牙をむいている。
 次に紹介するのは、江戸時代から続く『見世物小屋』のケースだ。『人間ポンプ』や『火吹き女』など奇芸で縁日を賑わせた祭りの風物詩である。最盛期に300もあった小屋は次々と幕を閉じ、現在興行を打つのは『大寅興行社』1軒のみとなっているが──今やこれも危機に瀕しているのをご存じだろうか?
 ……
 当の福岡市東部動物愛護管理センターは、『強制的に興行を中止させようとしたわけではありません』と回答。
 見世物は、『動物愛護法』のできるはるか昔から連綿と続けらえてきた。福祉の概念が希薄な時代、障害者や孤児を受け入れるなど、今風に言えば、〝弱者のセーフティーネット〟として機能してきた経緯がある。
 しかし、『動物愛護』のかけ声の前に、彼らは生活の糧を失い、その灯は存亡の秋を迎えているのだ。
 〝テメェらで殺しあえ〟
 今回取材していて気が付いたのは、愛護団体は、東日本大震災後に活動が活発化しているケースが多いということだ。震災では、原発事故の立ち入り禁止区域内に数多くの犬や猫、家畜が残され、それを救うために、多くの団体が何度も現地に向かった。こうした活動を通して、彼らの『愛護熱』はより燃え盛っていったということだろう。
 また、抗議をするのは、子育てがひと段落した30〜40代の女性が中心だ。
 そして何より特徴的なのは、ここ数年、世を席巻するSNSが彼らの炎に油を注いでいるという現状だ。どこかで動物虐待と思われる事例があったとする。すると、その〝情報〟は、フェイスブックツイッター、ラインを通じ、瞬く間に拡散していく。
 ……
 こうした匿名の抗議に比べれば、先の諏訪大社見世物小屋へのそれは、顔が見えるだけ〝健全〟と言えるかもしれない。姿を見せない、対話の成り立たない抗議は、誤解は誤解、憎しみは憎しみのまま増幅し、誰にも制御不可能な『運動』を生んでしまうのである。
 匿名の抗議と『動物愛護』と言えば、『マタギの里』として知られる山形県小国町で起きた事例にもビックリさせられる。
 昨年9月、同町で60代の男性がキノコ狩りの際、体長1.8メートルのツキノワグマに襲われた。しかし、男性は勇敢にも、スパイク付の地下足袋で熊を蹴り、見事撃退してしまったのだ。この『事件』は、地元紙だけでなく、在京スポーツ紙でも報じられた。
 普通の読み手なら〝武勇伝〟に拍手喝采となるのだが、この『蹴り』がよほど癪に障ったのか、『動物愛護』派の皆様はまるで異なる受け止め方をしたという。
 小国町の農林振興室の担当者は言う。
 『本件が報じられた直後から電話やメールで抗議が相次ぎました。中には〝熊が殺されるかと思うと夜も眠れない〟〝かわいそうな熊のことを考えると精神状態がおかしくなる〟〝そもそもキノコは熊の食べ物。山の中に入らなければいい〟というものもありました』
 欺瞞的な自己愛
 こんな話も聞いた。同じくマタギの里である秋田県北秋田市で猟を営む男性は、苦笑して言う。
 『ある時、県の狩猟免許の講義のために会場に向かったら、そこに愛護活動家が待ち受けていた。〝熊のプロなら殺さないで山に追い返せ!〟と言ってきたんです。言いがかりだな、と思って、逆に〝じゃあアナタがたも動物保護のプロなんでしょ。熊を説得してみてください〟と言ったら、〝それは屁理屈だ〟とブツブツ言うだけでしたよ』
 いかがだろうか?
 以上に上げた事例は、全国津々浦々でトラブルを巻き起こす『愛護運動』のごくごく一部に過ぎない。
 『そもそも人間は殺生をして生きている。食用から、蛙の神事も含めて、我々の生活は動物の犠牲の上に成り立っているのです』
 と言うのは、呉智英氏だ。
 『昔は、鶏肉を食べたければ、家庭で鶏を解体するのが当たり前でした。しかし、豊かになると共に、そういう場面が日常から消えていった。代わりに、あえて人間の〝業(ごう)〟に目を向けず、純真で、ぶりっこ的な動物愛を押し付けてくる事例が目立つようになったのでしょう。本来、不必要に残酷、残虐なものは、人間の営みの中で自然に淘汰されていく。ヒステリックな言動で、無理やり人々の生活を押さえつけようとするのは、欺瞞的な自己愛が根底にあるものと言ってよいでしょう』
 『動物愛護』という誰にも否定できない言葉を錦の御旗に、伝統や文化、人々の生活に土足で踏み込む──。
 そんな愚かしい『運動』のあり方では、彼らが謳う『人間と動物との共生』の日など、いつになっても訪れそうにないのである」
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 イギリスに於いて、躾けられない犬は駄目犬として射殺され、躾けられる犬は賢い犬として死ぬまで大事に飼育する。
 ゆえに、イギリスの犬は行儀が良く、飼い主の良きパートナーである。
 ペットの飼い方は、イギリスは日本より合理的であり賢明である。
 イギリスは、飼うにあたって大人として責任をとっている。
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 人間を含めた全ての生物は、他の生物を襲って殺し、命を奪い、その肉体を貪り食う事で生きている。
 絶対神が動植物を創ったのは、人が生きる為の糧にする為であって、人生のパートナーにする為ではない。
 動物を助ける為に人を犠牲にするのは、絶対神の恩寵に叛する。
 人間の為に動物を絶滅させる事は、絶対神の恩寵を踏みにじる事である。
 生きる為に必要な数の動物を殺す事は許されるが、趣味や興味など自己満足で殺す事は許されない。
 ライオンなど肉食動物は、腹が一杯であれば獲物を襲い殺す事はない。
 それが、食うか食われるかという自然界に於ける「弱肉強食の絶対原則」である。
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 多くの宗教には、生きた動物を生け贄として殺し絶対神に捧げる神聖な儀式が今も存在する。
 生け贄を捧げる神事は、人類が数千万年受け継いできた宗教文化である。
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 崩壊し始めている日本。
 宗教心・信仰心を捨て始めた日本人。
 自分だけの価値観で自己満足的な考えと行動をとり他人を干渉し排除しようとする日本人は、外国人移民が増えて多様化する多民族多文化多宗教多価値観国家では生きてはいけない。
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 少数派外国人移民の宗教・信仰・精神性では、多数派日本民族日本人の宗教・信仰・精神性は理解できない。
 狂信的な外国人移民は、日本民族日本人の宗教・信仰・精神性を「悪」として排斥する可能性がある。
 少数者を尊重するとき、多数派は譲歩する必要がある。
 まして、世界で理解されない民族性は改造する必要がある。
 さもなければ、世界に受け入れられない。
 宗教・信仰・精神性のグローバル化
 文化のグローバル化
 世界で理解されないモノは、世界で理解されるモノに改善されなければならない。
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