🏯54)55)56)─1─日本の職分社会は、弱肉強食の原理で動く近代国家や国際経済には不向きであった。~No.103No.104No.105No.106 ⑦

武士の職分 江戸役人物語 (角川文庫)

武士の職分 江戸役人物語 (角川文庫)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2018年4月号 中央公論明治維新150年にあきたらない方々へ
 職分から政党への500年   五百旗頭薫
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 根本中堂500年
 今から500年前、1518年の5月(永正15年4月4日)に、比叡山延暦寺の根本中堂が落慶供養を迎えた。根本中堂は最澄が788(延暦7)年に建立した延暦寺最初の堂宇であり、総本堂である。だが度々焼失し、その度に再建された。焼失が頻繁であったのは、武家との争いのためである。
 1499(明応8)年、比叡山は北陸に逃げた前将軍足利義稙(義尹)に見方し、将軍義澄(義高)方の南円院を略奪した。だが反撃を受け、根本中堂のみならず、大講堂をはじめとする主な堂舎のほとんどを焼き払われてしまう。
 朝廷に繰り返し復興を要請した結果、ようやく根本中堂は再建されたのである。落慶供養の図面を見るに、正面一間、側面六間で、六間のうち二間の外陣がさらに上礼拝堂と下礼拝堂に分かれており、今日につながる間取りが成立している。将軍に復帰していた義稙と有力大名、そして勅使が参会していたことも分かる。
 だが寄進が思うように集まらず、他の堂舎の再建は進まなかった。信長による焼き討ちを待つまでもなく、比叡山は荒廃していたのである。京都への補給路である琵琶湖を見下ろし、多数の荘園を支配し、宗教のみならず政治・軍事・経済にまたがる威信を誇った比叡山の、終わりの始まりであった。
 職分社会
 なぜ比叡山の荒廃が、500年史の起点になるのか。近世日本が、職分社会として成立する経緯を象徴しているからである。
 西欧の封建制が権利の体系であるとしたら、日本の近世は職分の体系である。権利は、これに対応する義務さえ果たせば、どう処分するかが原則として権利者に委ねられている。これに対し職分は、家に伝わる職業的なミッションであり、ミッションを果たす限りにおいて、身分が低くても自己主張ができる。果たさないと、身分が上でも追求を受けることがある。ここまで果たせばあとは怠ってよい、という境界はない。
 したがって、職分社会は世襲能力主義という矛盾をはらんだ傾向を併せ持つ。2つの傾向の接点で大きな役割を果たしたのが。養子であった。養子によって家は存続したし、家督を継いだ養子は実子以上に家職を果たし、自らを証しようとすることがあった。
 落慶供養が行われた16世紀に、日本はヨーロッパを含む国際社会に登場した。そうさせたのは、こうした職分社会の活力であった。16世紀の終わりから17世紀のはじめにかけて、世界の銀生産は年間ほぼ42万キログラムであったといわれる。利用可能な統計に不整合はあるが、そのうち25万キログラムがボリビアポトシ銀山から掘り出された。他方で日本の銀輸出額は20万キログラムであったという。灰吹法という精錬技術がこれに寄与したが、この技術は中国・朝鮮が先行していたので、技術を活用する社会基盤がパフォーマンスを分けたといえる。それは、日本における自立的で有能な職人や農民たちの存在であった。銀山が発見されると、銀鉱石を掘る職人、精錬する職人、職人を養う食糧を生産する農民が集まり、一定の自治のもとにたちまち1万人規模の都市が山中にできた。日本は、国際的な決済手段としての銀を大量に供給する職分社会として、世界史に登場したのである。
 政治において遂行されたのも、職分の体系の確立であった。天下統一のために、百姓と宗教勢力から際限なく軍事力が供給される状況を根絶しなければならなかった。織田信長一向宗を弾圧するとともに、1571(元亀2)年には比叡山を焼き討ちにした。根本中堂をはじめとして、全山が壊滅した。
 信長死後、16世紀の最後の10年に全国統一を成し遂げた豊臣秀吉は、兵農分離を強力に推し進めた。彼は頻繁に大名を転封し、個々の住民に、侍として君主に随行すうか、百姓として土地に残るか、の選択を強制した。例えば1585年10月(天正13年閏{うるう}8月18日)に大和の筒井定次は近江坂本に呼び出されて伊賀への転封を命じられた。翌日、定次は帰国し、その5日後には国衆を連れて伊賀に入らなければならなかった。同じ日には、残った者からの武器の没収が始まった。猶予というものがなかった。
 秀吉は政治と宗教の分離も推進し、カトリックを追放した。海外で改宗した日本人が帰国するのを防ぐことを主な目的として、鎖国を導入した。17世紀に入ると徳川幕府が成立し、鎖国も継承した。
 根本中堂は豊臣政権の下で再建された。だが比叡山の往年の政治力は再建されなかった。徳川家康が発したというお触れ込みで流布した『公武法制応勅18箇条』(『徳川禁令考』前集第一)には、かつて比叡山が京都の鬼門を守り、『天魂』の怒りを代弁していたこと、このような役割は江戸への政務委任により過去のものとすること、が記されている。偽書であるだけに、かえって武家政権の確立と延暦寺の政治的没落を表裏一体と見る通年が反映されている。
 江戸時代
 とはいえ、 武家による統合も容易ではなかった。権利と権利が相互に抑制し合うように、職分と職分が相互に牽制し合うことがあるからである。
 江戸時代、農民はしばしば一揆を起こした。一揆は負けるとは限らなかった。農民たちは、年貢が重すぎて自分たちの再生産ができず、したがって生産するという職分が妨げられていると主張できたからである。これに対し大名には、領内を平穏に統治する職分があった。たとえ将軍への忠誠義務を果たしても、『家中の政教宜しからざるがゆへに』転封改易の対象となった(『廃絶録』下巻)。江戸幕府封建制ではあったが、将軍が強く、大名が弱い封建制であった。一揆のことが幕府に知られると、うまく治まっていないことになるという弱みがあるため、大名はしばし一揆に妥協したのであった。
 それでも一揆が一方的に弾圧されたというイメージが強いのは、事後の処罰が苛酷だったからであろう。あれだけ勇敢に争った農民は、驚くほどの従順さで首謀者への処罰を受け入れた。今度は大名が、統治の職分を果たす番であったからである。
 天皇は将軍に統治の資格を認め、公家も神官など様々な家職の継承・更新を認める立場から一定の収入を得ることがあった。朝廷は、職分認定機関として生き延びたといえる。
 その後、職分の観念は、これに随伴する家や身分の概念が弱体化し、職業間の流動性が高かったにもかかわらず、個人の職業倫理として現在まで残存しているように見える。勤勉な日本社会の起源は、少なくとも500年前まで遡ることができる。
 明治維新と3つの伝統
 とはいえ職分社会のままでは、国民国家産業革命も成立しなかったように思われる。職分社会は、近代日本に何をもたらし、どう変容していったのであろうか。
 将軍も職分から自由ではなかった。圧倒的な力で朝廷と人民を守るという職分があり、これを守れないと急速に権威を失う。先に触れた『公武法制応勅18箇条』にも、『四海鎮致しがたき時は、其罪将軍に有るべし』と記している。
 1853(嘉永6)年の黒船来航を契機に、幕府は開国を決断していく。それは合理的な判断であったが、弱みを認めた幕府の権威は急速に衰え、王政復古の号令となった。150年前、1868年1月3日(慶応3年12月9日)である。これを主導した薩摩と長州の下級武士が次第に新政府の実権を握り、薩長藩閥政府を樹立した。
 王政復古後の戊辰戦争では、均質な兵卒が指揮者を失うという、西洋式軍隊が勝利を収めた。そのためには、一人の騎馬武者の脇を従者が固めるという近世的な編成を解体しなければならなかった。戦争に巻き込まれた人々は、身分制の崩壊を目の当たりにし、秩序感覚や紐帯を喪失した。これにかわる紐帯として、雨後の筍のように登場したのが結社である。 
 結社はアノミー状態からの避難場であったから、何を行い、主張するかは二義的であった。そう考えると、同じような境遇のメンバーからなる結社が、異なる目標を追求したことが理解できる。戊辰戦争での栄光と雇用の延長として朝鮮・清朝との戦争を主張したり、これからの国を豊かにしなければならないとして開墾や起業を試みたり、幕藩政府を批判し、立憲制導入を主張して自由民権運動を展開したりしたのである。 
 こうして1870年代には、大陸進出、経済発展、立憲主義という3つの路線が激しくせめぎ合った。人はこの時代を見て、近代日本の伝統は帝国主義なのか経済成長なのかを迷い、いや、民主化の伝統がはじめからあったと考えたりもする。複数の伝統イメージの根底にあったのは、結社の普遍化と、無目的性であった。
 立憲主義に先行する生党
 職分の体系は開国後の幕政を妨げただけでなく、新政府による近代国家形成を、そのための地域住民の動員を、妨げた。農民は、新たな支配者に税金を払うことを受け入れた。生産し、年貢を納めるのは職分であったから。だが学校や衛生やその他の社会インフラのための追加の負担は、職分の想定外であった。
 外の市場に通用する産業を発展させる上でも、職分の体系は不都合であったろう。職分は、有望な産業への労働力の移動を奨励する原理ではなかったから。
 1878(明治11)年には、政府は3新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)を定めて府県議会の設置を義務付けなければならなくなっていた。地域の代表が話し合って同意した事業と予算だから従え、という論理が必要だったのである。
 全国レベルでも国民の創出・動員が必要であったが、恐らく一番高いハードルは徴兵制の導入であり、既に1873年に断行し、これに反対する血税一揆も減税と引き換えに鎮圧済みであった。憲法の制定は1889年、国会開設は1890年まで持ち越された。
 地方レベルと国レベルで議会開設に時差があったことは、重大な結果をもたらした。既に1880年代を通じ、自由民権運動から生党が派生し、地方議会や新聞に勢力を植え付け、憲法と国会を待ち構えていたのである。自由党の結党が1881年、立憲改進党は翌82年であった。
 明治憲法は、ドイツ諸邦を中心とする先例を参照し、君主権や行政の自律性を保つように配慮されたものであったが、政党は自らに有利な解釈や運用を目指して直ちに闘争を開始した。人気があったのはイギリスの議院内閣制である。イギリスの不文憲法である。明文の憲法の不文の運用で議院内閣制を追求して、何が悪いのか。元大蔵卿であった大隈重信率いる改進党は、政策能力を誇示して藩閥に挑戦した。戊辰戦争の軍事指導者であった板垣退助自由民権運動主流の自由党を率いていたが、これに追随した。
 衆議院が予算に対する事実上の拒否権を持っていたため、この潮流を拒否し続けることは難しかった。藩閥指導者にとっての究極の過大は、この移行のプロセスを拒否することではなく、自らが制御し、権力を保持することであった。
 10年もたたないうちに、藩閥筆頭の伊藤博文がこの課題を受け入れた。1900年、伊藤は自由党系と合体して自ら政党の総裁となった。立憲政友会と呼ばれ、日本の保守政党の起源となった。
 藩閥内では、より保守的な山県有朋が伊藤を批判し、藩閥内の主導権を掌握した。だがやはり10年ほどで、山県の後継者の桂太郎も政党結成の必要性を認めるようになった。大隈系と合体して、1910年代に新党を作ろうとし、その死後、立憲同友会が成立した。1920年代には、二大政党の間の政権交代と政党内閣制が慣例化した。
 野党という岐路
 この考察は、政党政治の発展を必然視しすぎているのかもしれない。では歴史の岐路があったとしたら、それおどこれにあったか。複数の政党が存立し、政治対立が機能するか。つまり複数政党政治になるかどうか、が岐路であった。
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 職分が要請する一生懸命さや、それによって得られるプライドや帰属意識が、ここに継承されていた。しかし職分はそれだけではなく、異なる職分を通じて有機的な全体に奉仕しているのだという意識をも、伴っていたと思う。だから荻生徂徠は、士農工商いずれも『役人』だと述べたのである。これに対して、近代日本の政党には、他の政党への承認が弱かったように見受けられる。こうした職分の改編は、今日にまでインパクトを及ぼしている。そう思って、500年史と称している。
 当時から政党は、人間関係に基づく団結に過ぎず、政策の違いではなく感情や利害に基づいて争っている、という批判を受けていた。陸羯南が『政党も亦(また)朋党のみ、争利の徒のみ』と新聞『日本』の社説に記したのは、その一例に過ぎない(1891年6月30日)。2つの党の競合を、源平や南北朝にたとえる論評も多かった。
 もっとも、政策の違いがないというのは正しくはない。政党の帰属する者は、それを体現する大義を求めるものである。劣勢な側ほどそうである。
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 明治憲法原理主義
 このようにして確立した複数政党制であるが、1930年代に入ると政権を失ってしまう。憲法には政党や議院内閣制への言及はない。政党は誰よりも憲法を円滑に運用している限りでのみ支配が認められた。その意味で、またしても権利ではなく職分──うまく治めている限りは治めてよい──による統治であった。
 しかも政党はこの職分を演出するにおいて、将軍ほど巧みではなかった。江戸城本丸御殿の格式によって御威光を示すようなことはできず、権力の簒奪者というイメージを払拭することは難しかった。政党の存在が法的に保証されていないということは、政党の行動が法的に規制されんしということでもあった。官僚制に侵入し、系列化し、そのリソースを利用するという点で、政党の振る舞いはあまりにも無遠慮である、と多くの国民は考えた。
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 500年の旅を終えて
 職分社会は強固であり、近代国家を作る上での障害になるほどであった。職分社会を乗り越える過程で比較的凝集性(ぎょうしゅうせい)の高い政党が2つ、憲法や国会よりも先達として生まれ落ちた。
 憲法は戦前も戦後もハイブリッドであり、時代に合わせて変容に適している。それ故に制度の全体像が理解しにくく、憲法なり民意なりが貫徹していないという不満が生まれやすい。政党がこのギャップを拡大したり、そこに寄生していたりする場合には、特に不満が大きくなる。
 その結果、戦前も戦後も、40年ほど時間がたつと、根源的なルールに戻せ、という原理主義が擡頭する。原理主義は、仮にその方向性が正しいとしても、制度を運用する上での注意深さやバランス感覚、フェアプレーの精神などが失われやすい。政権・与党だけでなく、野党も注意が必要である。野党を作る道は険しく、そのため野党の振る舞いそのものも険しくなりがちであるから。
 今、我々が直面しているのはこのような問題である」
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 多様性が豊かなのは、絶対的弱肉強食の原理ではなく相対的棲み分けの原則である。
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 西洋世界の封建制は、家や出身や血筋に関係のない実力優先の権力体系である。
 日本の封建制は、家の世襲制と個人の能力を重視する職分体系である。
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 同じ封建制といっても、日本の大名は西洋や中華の領主とは違う。
 同様に、日本の庶民(百姓・町人)は西洋や中華の人民・民衆・大衆とも違う。
 同じ身分制度といっても、日本の百姓・職人・商人は西洋・中華には存在しない。
 日本の武士・サムライは、西洋の騎士に通ずるところはあるが、聖人君主を目指す中華(中国・朝鮮)には存在しない。
 中国の士大夫・読書人ではないし、朝鮮の両班とも全く違う。
 何故なら、日本には中華世界の正統派儒教に基づく科挙制度がなかったからである。
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 日本には、西洋キリスト文明の絶対神に見放された憐れな奴隷はいなかったし、中華儒教文明の唾棄すべき無学文盲の小人・侏儒はいなかったし、マルクス主義(主に共産主義)の搾取され虐げられる哀れな人民もいなかった。
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 西洋キリスト文明は、日本人奴隷交易を神の御名によっておこなった。
 中華儒教文明の朝鮮は、度々、日本を襲撃・侵略し、日本人婦女子を強制連行して中国人奴隷商人に売っていた。
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 日本と中華(中国・朝鮮)は、多くの面で違い、一衣帯水・唇と歯の関係は真っ赤な嘘であり、悪い冗談である。
 そもそも、日本と中華(中国・朝鮮)の間には友好など存在しなかった。
 日本の安全と幸福そして平和の為には、中華(中国・朝鮮)を「敬して遠ざける」事であり、朋友として「和して同ずる」事ではなかった。


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