➰7)─1─大正時代は輝かしいデモクラシーの時代ではなくブラックな格差時代であった。~No.25 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本における貧富の格差が広がったのは大正時代であった。
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 リベラル左派やエセ保守は文化マルクス主義者で、大正デモクラシーを美化し、日本を崩壊させる反天皇テロや政府高官テロを礼讃している。
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 大正14(1925)年 治安維持法公布。
 大正時代後半は、キリスト教朝鮮人テロリストと日本人の共産主義者無政府主義者テロリストが摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)と皇族を惨殺するために付け狙っていたテロの時代であった。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。

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 2023年9月15日 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ関東大震災の惨状と復興 スペイン風邪の猛威、大正デモクラシー…「特別展 大正時代」 
 関東大震災の被害を記録した文書
 昭和と明治に挟まれた大正は15年までしかない短い元号だ。だが、米騒動、シベリア出兵、男子普通選挙第一次大戦関東大震災スペイン風邪流行…などいろいろあった時代だ。そんな大正を公文書でたどる「特別展 大正時代」が国立公文書館で開かれているので行ってみた。
 場所は千代田区北の丸公園だから、都営交通乗り放題のシルバーパスで都営新宿線九段下駅まで行き、日本武道館前を通って北の丸公園を抜ければ到着だ。
 9月1日は関東大震災の起きた大正12(1923)年から100年目だ。私事だが、義理の母が今年100歳になった。身近に百寿者がいる時代なので大正もぐっと身近に感じる。
 まず大正改元詔書が展示されていた。明治45(12)年7月30日以後を「大正元年ト為ス」とある。
 明治天皇崩御が前日の29日だった。合わせて当時のお代替わりの宮中行事の様子を写真パネルで見せる。昭和天皇崩御して平成になったときにも行われたことを思い出す。
 いろいろな出来事があった中でも何と言っても関東大震災が最大だろう。震災被害状況の報告や帝都復興計画案ノ大綱などが展示され、合わせて「写真で見る関東大震災と東京」という画像がテレビで流されている。すさまじい惨状とその後の復興にいたる庶民生活を知ることができた。
 大正6(18)年から8(20)年にかけてコロナ禍のように世界中で猛威を振るったのがスペイン風邪だ。大正8年の「流行性感冒治療諸費ヲ国庫剰余金ヨリ支出ス」という文書と当時のポスター写真が展示されている。全世界で推定死者1億人以上ともいわれる史上最大のパンデミックに見舞われた時代だ。
 男子の普通選挙が始まり、女性参政権を求める機運も高まった。大正デモクラシーだ。ロシア革命、シベリア出兵、国際連盟発足、第一次大戦など、いまにつながる国際紛争が起きていた。関連文書も展示されている。
 公文書でたどる100年前の日本はいまとどれほど違うのか。それほどの大違いはないような気がした。昭和の人間だから当たり前か、とひとりで納得して外に出た。
 一番近い駅は地下鉄竹橋駅だが、都営三田線神保町駅まで歩いてシルバーパスで帰路に着いた。
 【国立公文書館】東京都千代田区北の丸公園3の2 東京メトロ東西線竹橋駅5分 9時15分~17時 入場無料 特別展「大正時代」は9月18日まで。
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 精選版 日本国語大辞典大正デモクラシー」の意味・読み・例文・類語
 たいしょう‐デモクラシー タイシャウ‥【大正デモクラシー
 〘名〙 (デモクラシーはdemocracy) 明治以来の藩閥・官僚政治に対して、民主主義的改革を要求して、主に大正期におきた思想および運動。護憲運動に始まり、普選運動や労働運動など社会主義運動が活発化し文化の面でも自由主義的風潮がひろがった。思想的には吉野作造民本主義に理論化された。
※日本の思想(1961)〈丸山真男〉一「日本のリベラリズムあるいは『大正デモクラシー』の波が」
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 デジタル大辞泉大正デモクラシー」の意味・読み・例文・類語
 たいしょう‐デモクラシー〔タイシヤウ‐〕【大正デモクラシー
 大正期に顕著となった民主主義的思潮。都市中間層の政治的自覚を背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して護憲運動・普通選挙運動が展開され、吉野作造民本主義自由主義社会主義の思想が高揚した。
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 日本大百科全書(ニッポニカ) 「大正デモクラシー」の意味・わかりやすい解説
 大正デモクラシー たいしょうでもくらしー
 日露戦後から大正末年までの間、政治、社会、文化の各方面に顕著に現れた民主主義的、自由主義的傾向をいう。中心部分を占めるのは明治憲法体制に対抗する政治的自由獲得運動である。
 [松尾尊兌
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 1905年(明治38)の日露戦争非講和運動より1912~13年(大正1~2)の第一次護憲運動まで。非講和運動は藩閥政治打破の要求を含み、「外には帝国主義、内には立憲主義」の理念に指導された全国的な都市民衆運動であり、この点より大正デモクラシーの起点とすることができる。「外には帝国主義」の色彩は、1907年より09年にかけて展開された軍備拡張反対、悪税廃止を要求する商業会議所中心の運動を通して弱められた。2個師団増設問題を契機とする第一次護憲運動は、長州閥の桂(かつら)太郎内閣を倒したが、これは民衆運動が政府を倒した最初の例であり、政党の基礎をもたぬ政府は、天皇詔勅の権威をもってしても維持できぬことを示した点で画期的な意味をもつ。これら諸運動の中核となったのは、日露戦争後の資本主義の発展が生み出した非特権資本家層と都市中間層であり、普通選挙、軍備縮小、満州放棄を唱えた『東洋経済新報』は、その政治意識をもっとも先鋭に代表するものであった。また美濃部達吉(みのべたつきち)の天皇機関説は、天皇の神格的絶対性を否定し、衆議院の国家機関における優越性と、政党内閣制の合憲性を主張することにより、護憲運動の要求に、憲法解釈上の合法性を与えた。この時期には市民的自由要求の声も盛り上がり、婦人解放の第一声たる平塚らいてうらの青鞜(せいとう)社、封建的な束縛に対する自我の解放をテーマとする自然主義や白樺(しらかば)派の文学運動に形象化された。
 [松尾尊兌
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 第一次護憲運動より1918年(大正7)の米騒動まで。第一次世界大戦の開始による大戦景気は、非特権資本家層の反動化をよび、護憲運動により危機に陥った体制は窮地を脱した。しかし増大する都市中間層を基盤に、デモクラシー運動の根は広がり、各地に普選を中心スローガンとする自主的な市民政社が生まれた。最大の発行部数を誇る『大阪朝日新聞』および知識人に人気のある『中央公論』を先頭に、ジャーナリズムはデモクラシー的風潮を鼓吹した。その風潮は、吉野作造(さくぞう)の民本主義に理念化されている。吉野は、主権在民を意味する「民主主義」を憲法上許容できぬとしながらも、主権運用の目的を民衆の利福の実現に置き、かつその運用を民衆の意思決定にゆだねるという「民本主義」を憲政の基本理念として設定し、これに基づく具体的政策として、内には普選と政党内閣制の採用、外には武断的侵略政策の放棄を説いた。民本主義は鈴木文治(ぶんじ)により労働運動に適用され、労働組合を媒介とする労資協調主義を唱える友愛会の結成となり、この組織は大戦中に急速に発展した。
 [松尾尊兌
 第三期目次を見る
 米騒動より1924年(大正13)の第二次護憲運動まで。内には米騒動、外にはロシア革命以来のヨーロッパにおける革命的諸運動、およびILO(国際労働機関)の影響を受け、勤労民衆の政治的自覚がにわかに高まり、普選運動が全国的大衆運動として展開された。それとともに友愛会の後身日本労働総同盟を先頭とする労働組合運動、日本農民組合を主力とする農民運動、全国水平社の部落解放運動、新婦人協会などによる婦人参政権運動など民衆の実力により、言論・集会・結社の自由が実質的に拡大された。勤労民衆の要求は政治的自由より社会的自由へと拡大され、社会主義が急速に影響力を増大した。しかし社会主義のなかでも、政治行動を否定するアナルコ・サンジカリズムが支配的であったため、先進的労働者は普選運動から離脱した。平和に対する要望も広く民衆の間に強まり、シベリア出兵は国民的支持を欠いて敗北に終わり、ワシントン会議による軍備縮小は民衆に歓迎された。五・四、三・一の両民族運動のためもあって、露骨な中国侵略は手控えられ、朝鮮の武断的同化政策も修正された。最初の政党内閣たる原敬(たかし)政友会内閣の成立(1918)以来、発言権を強化した政党勢力は、デモクラシー運動の発展に適合すべき政治体制の修正をめぐって政争を繰り広げた。関東大震災と虎(とら)の門(もん)事件はにわかに支配層に革命近しの恐れを抱かせ、これを防止し、安定した支配体制を維持するための方策として、普選の採用、政党内閣制の樹立を望む憲政会・革新倶楽部(くらぶ)・政友会の護憲三派による第二次護憲運動がおこり、旧体制の保持を望む藩閥、官僚勢力および政友本党とを向こうに回しての選挙戦に勝利を得た。
 [松尾尊兌
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 護憲三派を基礎として成立した加藤高明(たかあき)内閣以来、1932年(昭和7)の五・一五事件による犬養毅(いぬかいつよし)内閣の総辞職まで、政友・民政(憲政会の後身)の二大政党が交代で内閣を組織する政党政治の時代が展開する。日露戦前、山県有朋(やまがたありとも)を頂点とする藩閥官僚勢力が体制内で占めた地位を政党が奪取したのである。普選法成立(1925)の結果、日露戦前100万人に満たなかった有権者は1200万人を超え、本土人口の20%に達した。治安警察法第17条廃止(1926)および小作調停法(1924)、労働争議調停法(1926)の制定により、労働者・農民の団結権争議権が形式的にせよ公認され、無制限の労働者搾取は緩和され、半封建的な高額小作料も20~30%減額された。労働者・農民の無産勢力は中央、地方の議会に進出し、婦人に地方議会の選挙権を与える婦人公民権法案も1930年には衆議院を通過した。国内民主化の進行と、ベルサイユ・ワシントン体制と称される第一次世界大戦後の、アメリカ主導による新国際秩序の圧力のもと、協調外交をうたう幣原(しではら)外交が日本外交の主流を占め、軍備も、第一次大戦中(1915)からの21個師団が、1926年には17個師団へと、日露戦争直後の水準に後退した。
 [松尾尊兌
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 これらの成果も明治憲法体制を一新することはできなかった。憲法改正はもとより、枢密院・貴族院参謀本部・軍令部など、議会中心主義を脅かす諸機構の権限縮小に手をつけるに至らなかった。既成政党勢力は他方では治安維持法(1925)を制定して無産勢力の政治的自由に新たな拘束を加え、また、労働組合法などの労働者保護法や、農民の耕作権を保障する小作法の制定を怠った。このため、世界大恐慌の襲来(1930)、大陸における日本権益を脅かす中国民族運動の発展という新事態に直面し、政党政治は無産勢力の要望を入れつつ局面を打開する方策をとりえず、一度は傘下に収めた中間層を含む民衆の信頼を喪失し、満州事変勃発(ぼっぱつ)以後軍部ファシズムの興隆に道を譲ることになった。しかし、大正デモクラシーを推進した民衆組織と思想は戦時下といえども潜在勢力を保持し、戦後、占領軍の非軍事化政策のもとに展開された戦後民主主義を支える基盤となった。
 [松尾尊兌
 『信夫清三郎著『大正デモクラシー史』(1954・日本評論社)』▽『松尾尊兌著『大正デモクラシーの研究』(1966・青木書店)』▽『金原左門著『大正デモクラシーの社会的形成』(1967・青木書店)』▽『鹿野政直著『大正デモクラシーの底流』(1973・日本放送出版協会)』▽『宮地正人著『日露戦後政治史の研究』(1973・東京大学出版会)』▽『三谷太一郎著『大正デモクラシー論』(1974・中央公論社)』▽『松尾尊兌著『大正デモクラシー』(1974・岩波書店)』
 [参照項目] | 憲政擁護運動
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2023-09-09
🎶23:─1─ 原敬暗殺事件、犯人の動機はじつは「失恋」だった。大正10(1921)年。~No.52No.53 
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2018-09-18
☱11〕─1─3・1独立暴動(万歳事件)。上海のフランス租界で大韓民国臨時政府樹立。斉藤実総督暗殺テロ未遂事件。大正8年。~No.20No.21 @ 
2018-09-25
☱21〕─4─虎ノ門事件。摂政宮裕仁皇太子暗殺謀議事件。二重橋爆弾事件。テロリスト集団=韓人愛国団・義烈団。大正12月9月25日~大正14年~No.49No.50No.51・ @ ⑧ 
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 現代日本のメディア業界や教育界には、反米テロを礼讃するマルクス主義者が存在し、彼等の中から反宗教無神論・反天皇反民族反日的なリベラル左派や過激派が生まれた。
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 レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、中国共産党日本共産党ディレクションした。
 スターリンは、屈辱的日露戦争敗北の復讐としてレーニンの対日陰謀を実行し、ピョートル1世(大帝)の日本征服の夢を叶えるべく北海道と北方領土4島を武力で強奪し、日本人(主に女性や子供)を虐殺した。
 中国共産党は、レーニンスターリンの指示に従って軍国日本を対米戦争に追い込むべく、中国在住の日本人を虐殺していた。
 当時の日本人は、戦争を嫌い争う事を避ける現代の日本人とは違い、中国人の非人道的残虐行為に激怒し、惨殺された日本人の復讐・報復を政府や軍部に求めた。
 日本人マルクス主義者の中に、レーニン礼讃者や媚中派が存在する。
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シベリア出兵。集団的自衛権発動。
2017-08-14
💖6)─1─日本陸軍は、シベリアからポーランド人戦争孤児765人を武力で助け出した。~No.22No.23No.24No.25・ @ 
2019-10-27
💖6)─2─日本外務省・日本大使館の反ドイツ派は、帰国したポーランド孤児をナチスから助けた。~No.26・ 
2021-02-07
💖6)─3─ポーランド人蜂起部隊イェジキの子供兵士を陰で支えた反ドイツ派日本外交官。~No.27No.28No.29 
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2017-08-17
💖7)─1─日本人軍国主義者は、シベリアのロシア人戦災児童約800人をロシア人共産主義者から救出した。~No.30・ @ 
2021-02-11
💖7)─2─ロシア人避難学童救出活動と日本シベリア派遣軍諜報機関。~No.31No.32No.33 
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2020-03-13
💖8)─1─平明丸事件。日本陸軍はシベリアで救出したトルコ軍人捕虜約1,000人を本国に送り届けた。~No.34No.35No.36No.37・ 
   ・   ・   ・   
第一次世界大戦、日本が5大国の一国として国際連盟の常任事理国になった。
2017-08-18
💖9)─1─日本皇室と日本赤十字社は、パリに日本赤十字社救護班による日赤病院を開院した。~No.38・ @ 
2021-02-17
💖9)─2─日本赤十字社集団的自衛権赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」。~No.39No.40No.41 
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2017-12-04
💖10)─1─青島要塞攻防戦。ドイツ兵士の坂東俘虜収容所。丸亀・松山・久留米。「バルトの楽園」。~No.42No.43No.44No.45・ 
  ・  ・  
2019-07-05
💖11)─1─マルタ島の偉業。日本欧州派遣艦隊は地中海の守護神である。~No.46No.47No.48No.49・ 
   ・   ・   ・   
2021-05-09
💖12)─1─1920年の華北大旱害・飢饉に対する軍国日本の調査と救済。~No.50No.51No.52 
   ・   ・   ・   
日本軍の敵軍捕虜に対する扱い。
2018-08-07
💖13)─1─日本軍は、武士道精神で戦い、戦闘が終われば戦場に残された敵軍兵士負傷者を助け保護し治療した。~No.53・ @ 
2022-02-06
💖13)─2─イギリス海軍は撃沈されたら「日本艇に救助してもらえ」と教えていた。~No.54No.55 
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日本民族日本人の愛国心
2017-08-23
💖14)─1─愛国心とは命を捨てる決意と死を受け入れる覚悟である。~No.56No.57No.58・ @ 
2021-07-09
💖15)─1─日本民族は漂着民の子孫で、目の前で船が難破すれば遭難者・漂流者を助けた。~No.59No.60No.61 
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小灘利春「特攻は愛するものを守りたいとの強い思いから生まれたのです」 
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2017-08-26
➰2)─1─裕仁皇太子の欧州訪問。大正天皇関東大震災詔書大正天皇崩御。日本児童文学の創成期。ジャポニズムの終焉。1912年 ~No.2No.3No.4No.5・ @ 
2022-02-07
➰3)─1─第一次世界大戦と令嬢イルマ殺し事件。ドイツ海相の令嬢は俘虜大尉の妻、福岡収容所の悲劇。~No.6 ① 
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2018-11-17
➰4)─1─関東大震災と皇室ナショナリズム。摂政・裕仁皇太子の被災者救援策。~No.7No.8No.9・ @ 
2020-03-27
➰4)─2─貞明皇后関東大震災の被災者を慰問し慰め励まし勇気づけた。〜No.10No.11No.12・ 
2017-08-27  
➰4)─3─関東大震災と横浜刑務所。備えあれば憂いなし、それは江戸時代・振袖火事以来の伝統であった。~No.13No.14No.15・ @ 
2018-12-04
➰4)─4─天皇主義者・賀川豊彦関東大震災キリスト教の信仰と日本初のボランティア。~No.16・ @ 
2022-06-27
➰4)─5─大正12年、関東大震災(9月)と虎ノ門事件(12月)。摂政宮裕仁親王を襲う無政府主義テロリスト。~No.17No.18 
2022-09-11
➰4)─6・A─関東大震災貞明皇后の慰問活動と九条武子氏は慈善活動に挺身。~No.18  
2023-08-18
➰4)─6・B─摂政の昭和天皇や皇后、現地に 皇室被災地訪問の原点 関東大震災100年。~No.18 
2023-08-26
➰4)─6・C─貞明皇后意向受けた「宮内省巡回救療班」は22万人を診察した。~No.18 
2023-08-28
➰4)─6・D─100年前の関東大震災 皇室「災害お見舞い」の原点。~No.18 
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2021-08-22
➰5)─1─戦争神経症の日本人兵士は戦中も戦後も精神科病院に隔離。~No.19No.20No.21 ③ 
   ・   ・   ・   
2021-10-23
➰6)─1─裕仁皇太子がボンボニエールに込めた世界平和への願い。~No.22No.23No.24 ④ 
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2023-09-17
➰7)─1─大正時代はデモクラシーの時代ではなくブラックな時代であった。~No.25 
2023-07-25
➰7)─2─大正デモクラシーが近代化明治の科学と合理と精神を葬った。~No.26No.27 
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