🏯52)53)─1─江戸時代の男は儒教に縛られて辛かった。~No.99No.10No.101No.102 @ 

大庄屋走る―小倉藩・村役人の日記 (海鳥ブックス)

大庄屋走る―小倉藩・村役人の日記 (海鳥ブックス)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 農作業・親の介護・子ども養育など家庭の仕事は全て男の責任。
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 江戸時代初期まで、日本では女子は自立していた。
 徳川光圀は、儒教朱子学の熱烈な信奉者として仏教を排斥し、男尊女卑で女性の地位を貶めた。
 徳川幕府は、儒教朱子学を官学としたが官僚登用試験である科挙制度は採用せず、中華世界にあった宦官(かんがん)制度に価値を見いださなかった。
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 日本は、中国や朝鮮同様に儒教を採用としたが、科挙制度と宦官制度は排除した。
 社会を停滞させる科挙制度と宦官制度を排除した事で、日本は中国や朝鮮に比べて常識ある真面な国となった。
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 2017年4月15日 朝日新聞「千葉真由美の村人の歴史学
 男性にとっても難しかった
 仕事と家庭の両立
 『仕事と家庭を両立させる』といえば、現代社会では、働く女性の問題として頻繁に取り上げられるテーマである。しかし江戸時代の村では、村役人をつとめた男性が、仕事と家庭の両立を求められることがあった。
 江戸時代、村の代表者であり、まとめ役でもある名主や組頭などの村役人は、年貢の管理・納入はもちろんのこと、決められた帳簿の作成・提出などの領主支配への対応をはじめ、日々行うべき実務がある。村の会計管理、生産状況や村人の把握。村人が事件を起こせば対応に追われるし、近隣の村との連携もあった。これらを自らの家の生産活動と同時に行わなければならないのである。
 村役人は実務能力、調整力、そして体力がなくては勤まらないものだった。そのため、家庭との両立は難しいと考え、村役人を辞めることを願い出る者もいた。
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 武蔵国多摩郡小川村(現・東京都小平市)では延享(えんきょう)2(1743)年、兵左衛門(へいざえもん)と息子兵蔵(へいぞう)も親子が組頭役を辞めたいと名主に願い出た。いきさつを記した証文には、次のように書かれている。
 『兵左衛門家では祖先の代に組頭を命じられてからこれまで勤めてきた。しかし両親は高齢となり、病身となっている。また、妻は死去し、幼い子どもを育てることも難しくなってしまった。そのため昨年、組頭を辞めさせてほしいと申し入れたが、名主には考え直して欲しいと言われた。やむをえず、代官へも願い出たが、村の名主が判断することであると言われ、取り上げられなかった。その後、何度も名主へ願ったところ、昔からのしきたりであるから本来は聞き入れられないが、孝養のためであるから特別に聞き入れよう、ということで組頭を辞めることを認めてもらった』
 兵蔵は、両親と幼い子どもの面倒をみるために、村役人を辞めたのである。
 こういった事例は珍しいものではなかった。少し時代を下った文政10(1827)年、常陸国筑波郡上菅間村(現・茨城県つくば市)の兵助が、名主見習を辞めたいと願書を領主に出した。その理由は、困窮していること、祖母と幼い子どもに手がかかることが多く、農業がしっかりできず困っているというものであった。そして子どもが成長するまで、名主見習を免除してほしいというものである。
 高齢者の介護や子どもの養育が、村役人を辞めるための理由になっていた。
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 注目すべきは、近世社会では、子育てと親の介護の責任者は、一家の主となる男性と考えられていたことである。現代の育児書や介護書に相当する書物も、男性の著者によって、男性に向けて書かれている。とくに介護は儒教の教えが浸透した社会の中では、孝養の重要な実践行為ともされていたのである。
 責任をもって多忙な村役人の仕事をこなすことと子や親の面倒をみること、仕事家庭の両立は、男性にとっても容易ではなかったのである」



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近世の村と地域情報

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