🏯63)─1─百姓と村高。村請。ムラ共同体とムラ民主主義はマルクス主義の仇敵。~No.119No.120 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 江戸時代には、土地神話はなかった。
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 武士は一所懸命で、百姓は一生懸命であった。
 武士は一所懸命として、逃げ出さず戦った。
 百姓は一生懸命として、戦わず逃げ出した。
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 日本民族の百姓は、人が住まない不毛な大地に移り住み、悪戦苦闘しながら開墾し、地道に農耕し、1年に一度だけ作った農作物を食べて生きていた。
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 百姓には、サムライ・武士とは違って家に対するこだわりはなかった。
 ムラ社会は、閉鎖的排他的ではなく、開放的で柔軟的で包容力があった。
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 戦後、マルクス主義史観で新たに作られた日本史の常識は捨てるべき時である。
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 2017年12月16日 朝日新聞「千葉真由美の村人の歴史学
 他人の家もみんなで守った
 家の維持
 先祖代々守ってきた家、自らの家を未来へも存続させたいという意識は、現代人にもあるかもしれない。江戸時代の村には、自らの家だけではなく、他家の存続にも腐心する村人たちがいた。
 村には、年貢などの負担の基準となる村高が決められており、たとえ一つの家が潰れてしまっても、その分の村高が減らされるわけではなかった。潰れてしまった家の年貢は、その村の人々が負担することになる。各家の維持は、村全体の問題でもあった。大沼田新田(現・東京都小平市)の宗門人別帳の記載をもとに、村内の家を潰さないよい苦心する村人たちを紹介しよう。嘉永3(1850)年、庄左衛門家の次男で18歳の惣吉が、無人となって隣家の重兵衛家の当主となった。惣吉一人だけの世帯である。しかし、翌年、惣吉は、これまた無人となった七兵衛家に移った。重兵衛家に、隣村の柳久保村(同・東久留米市)から5人家族が移住することになったためであった。
 七兵衛家の当主となった惣吉は、しばらく一人世帯のままであった。一方、実家庄左衛門家にいた5歳上の兄幸八が、嘉永7(1854)年、27歳で病死してしまう。幸八には、妻たかと娘1人がいた。その4年後、惣吉は、庄左衛門家にいた義姉たちを自らの妻として迎えた。たかの娘も一緒である。惣吉とたか夫婦は、さらに3人の子どもに恵まれることになる。
 ところが、庄左衛門家には故・幸八の両親のみとなり、跡継ぎのない二人世帯となってしまった。この事態に対応したのだろう。慶応元(1865)年、惣吉とたか、そして子どもたちも庄左衛門家に戻った。惣吉は結局、実家の跡継ぎとなった。14年にわたり惣吉が当主であった七兵衛家には、新たな家族が移住している。
 惣吉は村の中で、実家以外の家の当主になることで、村内の家を存続させる役割を果たしてきた。彼にしてみれば、家や村の状況に翻弄(ほんろう)される人生といえるかもしれない。しかし、見方を変えれば、本来は家を継ぐことはない次男として生まれたにもかかわらず、家の当主になる道があったともいえる。
 さて、惣吉が最初に当主となった重兵衛家に、5人家族が移住するとき、村役人に宛てて一通の証文が作成されている。そこには村人たちの切実な思いが書かれていた。当時、他の村から移住者を受け入れるには、村役人の許可が必要だった。
 『物柔らかで真面目な人柄の金五郎という人物に、この家を相続してほしいと考えていたが、困窮した家の跡では心もとないと、村役人は難色を示した。しかしわれわれは、金五郎への相続を強く願っている。年貢はしっかり納めさせ、土地の質に入れさせたりしない。また何かあれば、自分たちで引き受け、この家を潰すようなことは絶対にさせない』
 そもそも、5人家族の移住自体が重兵衛家を存続させるための村人による計画であり、彼らの強い意思によるものだった。
 家を安定的に維持するために、村人たちはさまざまな対策を立てていたのです」
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 村の集会において、年貢を納めていれば零細百姓や小作人であっても大百姓や豪農と同様に発言する権利があった。
 大百姓や豪農であっても、村の集会では零細百姓や小作人の意見を聞かねばならなかった。
 日本には、ムラ民主主義が存在していた。
 ムラ人は、集会で意見を言って議論していた。
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 村人口が減る事は、村にとって死活問題であった。
 村の人口を維持する為には、閉鎖的排他的ではいられず、開放的で包容力が必要であった。
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 デジタル大辞泉の解説
 むら‐だか【村高】
 江戸時代、年貢・諸役負担の基準となった一村の田畑・屋敷などの総石高。
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 百科事典マイペディアの解説
 村高【むらだか】
 検地によって定められた一村の総石高。近世村落を表す一つの指標となり,年貢・諸役も村高に応じて賦課するのが原則であった。しかし,その後水損などで荒地が生じた場合でも,次の検地まで原則として村高は変更されず,年貢収取にあたっては,実際に作付された耕地の石高(毛付高)を基準とする場合が多かった。
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 百科事典マイペディアの解説
 村高【むらだか】
 検地によって定められた一村の総石高。近世村落を表す一つの指標となり,年貢・諸役も村高に応じて賦課するのが原則であった。しかし,その後水損などで荒地が生じた場合でも,次の検地まで原則として村高は変更されず,年貢収取にあたっては,実際に作付された耕地の石高(毛付高)を基準とする場合が多かった。
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 世界大百科事典内の村高の言及
 【石高制】より
 …石高制の原理は,領主・農民間の階級関係や領主相互間のヒエラルヒーを規定づけるものとして,江戸時代を通じて機能したが,検地が新たに行われても,表高の改定は家格の変更を伴うので,幕府の判断で適宜石高を定めた例もある。関東地方のように年貢収納が反取(たんどり)のところでは,日常的には百姓は石高を意識せずに生活していたが,郷帳作成の際には村高が石高で与えられた。地域の実情に応じて慣習的方式を採用し,石高制を機械的に適用しなかったことが,かえってそれを体制として維持する要因となったという見方もできよう。…
 【高】より
…中世で租米量を表した〈分米(ぶんまい)〉という語が,近世になると法定収穫量を表すようになったが,この分米のことを高と呼ぶ場合も多くなった。しかし一部分の土地の石高をいう場合には依然として分米という語が使われることもあり,村全体の石高を集計した村高をいう場合には,分米といわず高といった。その中間で,たとえば上・中・下などの田品ごとの集計高は〈小以高(こいだか)〉ともいったが,分米といっている場合もある。…
 【反取】より
…その租額を根取または根取米と称した。根取はもと村高をさしていたが,江戸時代に貢租が籾納から米納に代わって根取の意味も変化したようである。関西に多い厘取(りんどり)法に対して,反取法は関東で多く行われた。…
 【村】より
…例えばA村に石盛(こくもり)10(反当り米1石の生産)の耕地が10町歩,石盛8(反当り8斗)の耕地が20町歩あるとすると前者は100石,後者は160石,計260石の石高となる。これを村高とし,A村は260石の村となる。このようにして全国の村(松前対馬,伊豆諸島を除く)に石高をつけ,これによって山間,平野,海浜等々の地域差にもかかわらず,全国の村は石高をもって統一された。…
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 デジタル大辞泉の解説
 むら‐うけ【村請】
 1 江戸時代、村役人を通じて村の共同責任で年貢・諸役などを上納させたこと。
 2 「村請新田(むらうけしんでん)」の略。
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 百科事典マイペディアの解説
 村請【むらうけ】
 近世,年貢(ねんぐ)・諸役の納入や触の遵守などを村を単位として請け負わせることで,村請制という。山林野や灌漑(かんがい)用水の利用や維持も村を前提とし,戸籍も村ごとに作成されたから,領主への出願や,旅行や転居の際にも村の証明が必要であった。
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 百科事典マイペディアの解説
 村請【むらうけ】
 近世,年貢(ねんぐ)・諸役の納入や触の遵守などを村を単位として請け負わせることで,村請制という。山林野や灌漑(かんがい)用水の利用や維持も村を前提とし,戸籍も村ごとに作成されたから,領主への出願や,旅行や転居の際にも村の証明が必要であった。
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 大辞林 第三版の解説
 むらうけ【村請】
 江戸時代、村民が共同の責任で納税・諸役・新田の開墾などを引き受けたこと。村請制。 → 地下請じげうけ
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 世界大百科事典内の村請の言及
 【名寄帳】より
 …百姓の名まえ別に田,畑,屋敷の石高(こくだか),面積を1筆ごとに記載し,それを合計して百姓別の石高,面積を記帳している。年貢の村請(むらうけ)制のもとで,村役人が村請年貢を村内で割り付け,徴集する必要から,村内における年貢諸役の負担責任者を明確にするために作成した。検地帳が領主側で作成した帳簿であるのに対し,名寄帳は,検地で確定された村高に応じる村請年貢を納入するために,村内の実情に即して村側で作成した帳簿である。…
 【未進】より
 …初期には年貢を皆済させるための厳しい法令が多くだされている。近世の年貢徴収の原則は,村請(むらうけ)制といって村高に対して一括賦課し,村役人がそれを村内の個々の百姓の名請(なうけ)高に応じて割りふった。実際には年貢を上納できない百姓がいる場合でも村役人が立て替えたり,他所から借りたり,あるいは領主から拝借のかたちにして皆済するということが行われた。…
 【村総作】より
 …日本の近世において,村内に病気,欠落(かけおち),出奉公(でぼうこう)などによる労働力減少で自家所持耕地を耕作できず,したがって所定の年貢を払えない農家が出た場合,他の村人が代わって耕作すること。近世の村は年貢村請(むらうけ)制であったから,村内に耕作放棄者(家)が出ると,その分をだれかが埋めなければならなかった。このような場合の連帯責任は五人組が負うべきものとされていたが,実情はさまざまであった。…
 【役家】より
… 太閤検地に始まる近世検地では,原則として事実上の耕作者を公式の作人とする方針が貫かれたので,検地帳に零細な石高所持の作人として登録された小農民が少なくなかったが,彼らは所持石高の貢租は負担したが,夫役の負担はなかった。すなわち,領主の貢租・夫役の徴収は,それぞれ村高と村ごとの役家数を基準として賦課されたが,いずれも村請として行われたので,領主に対する村請の主体とされたのは,役家=本百姓にほかならなかった。これを役家制と呼んでいる。…
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 日本のムラ社会には、マルクス主義階級闘争史観も中華思想の身分的上下関係も通用しないどころか有害であった。
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 日本民族日本人とは、どん百姓の子孫であってサムライ・武士の子孫ではない。
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 サムライ・武士にとって、ムラ人=百姓は手に負えない厄介な存在であった。
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 日本の小作人は、中華の家内奴隷ではなかったし、西洋の農業奴隷でもなかった。
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 日本の大百姓は、中華や西洋の地主・豪農とは違う。
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 村役人は、村人すべての百姓の意見をまとめたり、御上のお達しを全ての百姓に周知徹底させねばならないという気苦労が多かった為に、できれば職を辞したいと思っていた。
 村役人は、日本と中華や西洋とでは異なる。

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