🏯61)─1─日本の家族システムは土地保護順送りの「職(しき)の体系」。天皇家の資産形成。武士の自力救済。~No.115No.116・ * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 マルクス主義階級闘争史観では、日本独特の社会システム「職の体系」を説明できない。
 同様に、中華儒教原理主義的上下関係論でも無理である。
 何故か、それは危害を加えてくる異民族、侵略してくる異国が抜け落ちているからである。
 「職の体系」が日本民族日本人だけに通用するのは、神聖不可侵の日本天皇を核とした家族システム・社会システムであるからである。
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 真の武士とは、「武士は食わねど高楊枝」よろしく、貧しく苦しい生活であろうと、ぐだぐだ愚痴を言わず、他者を当てにせず頼らず期待せず、自分の知恵と体力を使って苦境を切り開くもの、それがダメなら諦めて切腹して果てた。
 その覚悟が、武士であり、武士道である。
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 2018年2月15日号 週刊文春「文春図書館
 家族システムと日本の歴史、地理学の入門書 鹿島茂
 エマニュエル・トッドの『家族システムの起源』をゼミで学生とともに精読しているが、これを読んでいると日本の歴史というものをもう一度、家族システムという観点から再検討してみたい誘惑に駆られる。この意味でおおいに興味を引かれるのが、本郷和人『日本史のツボ』(文春新書 840円+税ス)。日本史を天皇、宗教、土地、軍事、地域、経済という7つのテーマで眺めると歴史の流れが一気につかめるというのが謳い文句だが、家族システムからすべてを考えるという私の関心と重なる部分が多い。
 まず『天皇』の項。私の疑問は、辺境ゆえに双処居住型核家族焼畑ないしはアジア的稲作農業という産業構造を強いられ、土地所有概念の薄かった日本列島で、7世紀に突如共同体家族的な土地システムである律令制が採用されたのはなぜかということだが、これに対してはこんな答えが用意される。『天皇家が押し進めた「律令制」は、実際にそれによる統治が行われたというよりも、あくまで西からの「外圧」に対抗して国の結束を固めるための「ヴィジョン」あるいは「努力目標」だった』。
 努力目標だから、白村江(はくそんこう)敗北時に顕在的だった脅威が薄れると、律令制は破綻し始めるが、荘園を開拓しても建前的には班田収授の法が生きているため、荘園が天皇=国家に没収される危険も出てくる。そうなったとき、在地領主(下司{げし})は中央貴族や寺社(領家)などに荘園の寄進(年貢の何割かを与える契約)と交換に保護を求める。この上司も上の貴族や摂関家、有力神社などの本家に同じようなことをする。こうした下司職→領家職→本家職の保護順送りの体系を『職(しき)の体系』という。荘園以外も公領も同じシステムで『荘園も公領も根っこは同じ「職の体系」という上下関係によって成り立ってい』た。
 『土地』の項ではこの『職の体系』の重要さがあらためて強調される。すなわち、実質的権力は藤原氏に移ったにもかかわらず、『職の体系』の頂点に位置する天皇家には莫大な収入が集まってきていたため、天皇家は政治権力は失っても経済権力は保持していたのだ。だが『職の体系』には問題があった。
 『土地の持ち主が誰なのかはっきりしないことです。下司職、領家職、本家職のいずれも、土地の権利を一部だけ持っている。しかし、土地まるごとの権利は誰も持っていないという、きわめて不安定な状態です。……中央があてにならないとなると、地方の在地領主たちはどうするか。自力救済です。とりあえず土地を奪いに来る相手を、実力で撃退するほかない。自ら武装して土地を守る。これが武士の誕生です』
 こうした武士の代表が源氏で、武士たちは本領の安堵(もとの所有地の保護)を源氏に求める代わりに『いざ鎌倉』となれば軍事行動を提供する。頼朝は『職の体系』を否定することなく、独自の支配体制を作りあげるが、やがて承久の乱で『職の体系』は弱体化し、土地本位システムに立つ鎌倉幕府が成立する。しかし勝利した鎌倉幕府も中国から流入した銅銭の貨幣経済の浸透で基盤が緩み、蒙古襲来をきっかけに終焉を迎える。
 足利尊氏貨幣経済を見据えて、幕府を京都に開くが、尊氏が京都を選んだもう一つの理由は土地の権利関係を整理できなかったことにある。尊氏の執事だった高師直天皇など木か金属の像でもいいと公言しながら、それでも天皇を廃絶しなかったのは、室町時代の武士は、土地の権利をめぐる論理として、『職の体系』以上のものをまだ構築できなかったからである。
 では、『職の体系』が完全にくずれたのはいつかというと、それは戦国大名が誕生したときだ。戦国大名は自分の領地は自分で守り、収入も全部一人占めにする。中央に税を払うことはない。『ここにおいて、「職の体系」は否定され、新たな土地所有の権利が確立するのです』。
 しからば、こうした『職の体系』→『全的土地私有』という転換が完成したのはいつなのか。それは西にむいた商業資本的な豊臣政権とは反対に、東を向いた農業資本的な徳川幕府が江戸を首都に選んだときである。『関東地方、それからほとんど手つかずで放置されてきた東北地方を開発していけば、国は十分豊かになると家康は考えたはずです』。
 以上の土地制度から説明する日本史にトッド的家族システム論を被せれば次のようになるだろう。徳川幕府がうまく回転したのは、北東日本で土地私有=世襲制度により直系家族が確立されたからである。いっぽう、西南日本では『職の体系』が潜在的に残存していたため日本古来の双処的核家族が残りやすく、それが西南雄藩などで商業資本の発展を促したが、明治以降、商業資本も北東日本に移ったため、衰退が始まった。かくて、私の家族システム的日本史の結論は本書のそれと一致する。
 『私は今の日本の行き詰まりの一因は、西の弱体化にあるのではないかと危惧します』」
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 職の体系(しきのたいけい)とは、日本の歴史上、中世における、重層的土地支配構造を指し示す用語である。平安時代中期から太閤検地まで、主に西日本で見られた。
 「職」(しき)とは、元来土地支配上の職務のことであるが、職権に伴う一定の収益権限も「職」と呼ばれた。ここで言うものは後者の意味である。
 沿革
 成立
 8世紀後期頃から始まった古代の戸籍制度の崩壊は、平安時代に入っても止まらず、平安時代中期には、国家による直接の人民支配はもはや不可能になった。このため国家による租税徴収体制は、律令制的な人的支配の枠組みから中世的な土地支配の枠組みへと移行していった。この土地支配の単位を名と呼ぶが、この頃、郡司、土着国司などを出自とする田堵と呼ばれた富豪層は、名の経営を請け負い、負名と呼ばれるようになっていった。
確立
 11世紀頃になると、内裏や大寺社の再建を目的とした臨時課税をするため、たびたび荘園整理令が出されたが、これにより基準年以前に発生していた荘園は臨時課税の対象として正式に公認化されることとなり、それまで散在していた荘園を一つの領域に統合する措置も行われた。このように一円化して領域性を高めた荘園にも名田制は採用され、各々の国内の荘園・国衙領への一律的な課税(一国平均役)が行われるようになった。
 12世紀に入ると、荘園の増大で税収が減り、上級貴族に俸給を払えなくなった朝廷は、彼らに知行国として国を与え、その国に関する国司の任命権と税収を与えた。同様に皇族にも院宮分国制が敷かれ、こうして権門層たる上級貴族、受領層たる国司、大名田堵たる郷司・保司等が結びつき、荘園制とほとんど変わらぬ構造となった。このように、荘園と郡、郷、保に再編成された国衙領(公領)を個々の収取単位とする体制を荘園公領制と呼ぶ。
 公認化された荘園の領主は、田地の地子(じし)(賃租料)に加え、調、庸や徭役にあたる公事(くじ)も徴収し、同様に公領においても租税体系は一本化した。この一本化した税は年貢と呼ばれるようになった。
 荘園公領制の確立と軌を一にして、在地領主は彼ら同士の土地争いの解決のため武装し、武士となっていった。鎌倉幕府の成立に従い、主に東国の武士は鎌倉幕府に奉公する御家人となり地頭に補任され、所領の支配権が鎌倉幕府に保証された。当初は地頭職というものはなく、あくまで荘官や郷司、保司のうち幕府と主従関係を結んだものが地頭と呼ばれていた。しかし承久の乱以降は西日本を中心に荘官と地頭が並立する荘園も見られ、後述するように地頭請が行われるようになると、徐々に地頭職という観念が定着した。
 変質
 幕府による地頭に対する土地支配権の安堵によって、現地支配の場で見受けられた荘園の国司に対する不安定な法的地位が安定したことにより、地頭は、これまでの重層的な土地支配関係を解消し、一元的な土地支配を指向するようになっていった。このような一元的支配を一円知行といい、一円内の年貢を地頭が荘園領主国司に対して請け負う地頭請が行われ始めた。この場合の地頭の権利は地頭職と呼ばれた。一方で西国では百姓が地縁的な結合を強め、村落を形成し、地頭とは別個に荘園経営を請け負う百姓請も見られるようになった。また、地頭と荘園領主との間で作合を巡る争いの解決方策として下地中分が行われ始めた。
 鎌倉時代中期以降、元寇に際し神風が吹いたのは神仏の加護によるものであるとの考えから徳政令の一環として寺社の所領を確保する神領興行令が相次いで出された。これにより、一円知行は地頭側からだけでなく荘官や領家が本所や地頭による干渉を排除する方向でも進んだ。これらの動きにより、領家職を持つ地頭や地頭職を持つ領家が現れるなど、従来の身分格差に応じた体系が崩れだし、荘園・公領における領家職・地頭職のあり方が大きく変わることとなった。更に建武の新政では諸国の本家・領家職が廃され、官社解放令が出されるなど一円化は急速に進んだ。
 このような状況のもと室町時代になると、公家領、武家領という概念が定着し諸法令上も一円知行を前提とした規定が見られるようになった。一方で守護の権力が強大化し、守護領国制の成立を目指して、在庁官人を含む鎌倉期の地頭、国人を被官化し、国衙や彼らの所持していた領地を掌握し始めた。この時期には守護が自国の領内における荘園、公領の年貢を本家、領家や知行国主に対して請け負う守護請が広まったが、このような守護の権利も守護職と呼ばれた。
 この頃になると、直接の耕作者である作人の耕作権が作職として確立し、惣村の形成が見られ始めた。また、作職を持つ者が下作人と呼ばれる小作人に耕作される事例も見られ、作職も細分化されるようになる。更に職そのものが、本来の身分的な性格から単なる得分権となり、在地領主的な職を本家や領家が直接保持する場合や、その逆の場合が見られてきた。更に公武の利害関係を包括的に調整できる室町幕府の体制により、下地中分などによる荘園の再編成がすすみ、寺社本所による一円領や武家一円領が定着した。
 衰退期
 戦国時代になると、守護大名に代わった戦国大名は、土地の一円知行をより進めていき、荘園制は崩壊した。
 最終的には太閤検地により、土地には直接の耕作者の権利しか認められなくなり、以前までの重層的支配構造は名実共に解消された。
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 職の体系(読み)しきのたいけい
 世界大百科事典内の職の体系の言及
 【荘園】より
 …西国の寺社・貴族の荘園は荘務権を持つ本所・領家が預所職を補任,預所下司・公文等の荘官職を,鎌倉後期以降は百姓名の名主職を補任して荘園経営の体制を整えた。これらの職に補任された人は一定の得分を保証され,それぞれの職務を請け負ったので,この体制を〈職の体系〉とよんでいる。その中で幕府が補任権をもつ地頭は給田畠,給名のほかに荘の田地の加地子を加徴米として徴収,雑事を在家に賦課したほか,山野河海の得分の半分を保証され,預所とともに年貢・公事徴収や荘内の検断に当たり,検断得分の3分の1を与えられるなどの権限をもっていた。…
 【東国】より
 …また収取単位としての名の発達が著しく,荘園・公領内部にも百姓名が成立している。さらに東国の荘園・公領は下司(げし)・郡司の下に郷があるという単純な構成であるのに対し,西国では領家職(りようけしき)・預所職(あずかりどころしき),下司職,公文職(くもんしき)などが重層する,いわゆる〈職(しき)の体系〉を顕著に発達させているのである。 これは直接的には,それぞれの単位を請け負い,管理している郡司,郷司,名主(みようしゆ)などの領主のあり方の差異の現れとみることができるが,より根底的にはそれを支える社会の構造の違いがこの差異を生み出したものと思われる。…
 ※「職の体系」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
 出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「職(所有の形態)」の解説
 職(所有の形態) しき
 中世にみられる所有の一形態。荘園制(しょうえんせい)下では、一般に本家(ほんけ)職、領家(りょうけ)職、預所(あずかりどころ)職、荘官(しょうかん)職(地頭(じとう)職、下司(げし)職、公文(くもん)職など)、名主(みょうしゅ)職という重層的所有の体系が存在する。このそれぞれを「職」とよぶ。「職」は単なる所有権ではなく、本家職は皇室・最上級貴族、領家職は上級・中級貴族、預所職は下級貴族・上級武士、荘官職は在地領主・村落領主、名主職は村落領主・百姓というように一定の身分的対応がみられ、それぞれの所有者はその所職に応じた職務権限を有している。また「職」は譲与の対象であるが、上級者から補任(ぶにん)される性格をもっている。このような「職」の体系は、荘園内部ばかりでなく、国衙(こくが)領でもみられるし、寺社の本末体制のなかにもみられ、最近では非農業民、いわゆる職人の「職」もこの一つの形態であると考えられている。さらに、「職」は11世紀に成立し16世紀末には消滅するので、律令(りつりょう)体制下にも、また後の幕藩体制下にも存在しない中世独自の所有形態である。そういう意味で「職」は中世の荘園制のみならず、それを生み出した中世社会の構造的特質というべきものである。
 [飯沼賢司]
 「職」の特質をめぐって目次を見る
 「職」については第二次世界大戦前後を通じて膨大な研究史がある。古典的説としては、「職」を負担付き不動産物件とみて、その本質は非官職的な用益・得分権的な面にあるという説と、国家的土地所有の分有形態としての公的性格を強調し、封建的関係とは別物とする説が存在した。戦後の研究も基本的にこの二大潮流のなかで展開された。石母田正(いしもだしょう)は後者の説を踏襲し、そのような古代的な「職」のなかに芽生えてくる封建的ウクラードとしての在地領主制に研究の重点を置いたが、石母田説をさらに発展させた永原慶二(ながはらけいじ)によって「職」の本格的分析がなされ、その公権性、求心性といった非封建的性格が強調された。一方このような説に対して、戸田芳実(とだよしみ)・河音能平(かわねよしやす)は「職」は封建的土地所有権であるとし、また黒田俊雄(くろだとしお)は「職」=封建的ヒエラルヒー説を提起した。この両者の分岐点は、「職」の本質を、公的=古代的=非封建的とみるか、私的=中世的=封建的主従関係とみるかにある。これらに対して、両側面のどちらが本質かという問題のたて方ではなく、「職」本来の特質として認めるところから出発すべきであると考えたのが、上横手雅敬(うわよこてまさたか)、羽下徳彦(はがのりひこ)であり、網野善彦(あみのよしひこ)は同様の方向で「職」をとらえ、その二元性が現出する原因を農民の土地所有の未熟さに求めている。網野は最近さらにその説を進め、土地所有の面からだけではなく、「職能」「職掌」といった「業」の面から「職」の本質を考えようとしている。また佐藤進一は、特定氏族の請負による官庁業務の家産化から生まれた日本独自の家産概念が「職」であり、「務(む)」であるとして、「職」の議論のなかに家業論、請負論を導入した。これはさらに飯沼賢司(いいぬまけんじ)により、「イエの成立」「職の成立」の対応という形で深められた。
 [飯沼賢司]
 「職」の成立目次を見る
 「職」の所見の早い例としては、天慶(てんぎょう)9年(946)の「名張山預職(なばりやまあずかりしき)」や長徳(ちょうとく)3年(997)の「山城(やましろ)国上桂(かみかつら)の中司職」などがあり、「職」=封建的土地所有とみる人々はこれに注目する。これに対して、「職」=非封建制説では、土地所有と所職の関係がみられる11世紀なかばの安芸(あき)国高田(たかだ)郡の「郡大領(ぐんたいりょう)職」「郡司(ぐんじ)職」に注目し、「職」成立における官職的・公的側面を強調している。後者に注目する永原は、「職」の体系は、郡司職・郷司(ごうじ)職などの地方官的地位に出発し、上級の「職」に及んだとしているが、最近の佐藤・飯沼の説では、「職」は中世社会の構造的特質であって、国衙領に出発するのか、荘園に出発するのか、という問題のたて方は有効でないとして、「職」を土地制度のレベルだけでなく、支配構造の問題として考えている。
 [飯沼賢司]
 「職」の変質と解体目次を見る
 13世紀後半には名主職以下の作職・下作職などの下級所職が成立する。これらの「職」は、本家職から荘官職までのいわゆる上級所職が基本的には売買されないのに対して、売買の対象となり、不動産物件的性格が濃厚である。また同じころ、商工業者の「職」も成立する。これらを農民・商工業者の成長の結果とみる点では諸説とも一致しているが、これを「職」とは異なるものとみる見解、「職」の発展上にみる見解に分かれる。「職」の解体については両説は多少異なるが、「職」的な土地所有関係が完全に払拭(ふっしょく)されるのは、太閤(たいこう)検地である。
 [飯沼賢司]
 『中田薫著『法制史論集2』(1926・岩波書店)』▽『牧健二著『日本封建制度成立史』(1935・弘文堂書店)』▽『永原慶二著『日本中世社会構造の研究』(1973・岩波書店)』▽『黒田俊雄著『荘園制社会』(1967・日本評論社)』▽『戸田芳実著『日本領主制成立史の研究』(1967・岩波書店)』▽『網野善彦著『日本中世の非農業民と天皇』(1984岩波書店)』▽『佐藤進一著『日本の中世国家』(1984岩波書店)』▽『島田次郎著『日本中世の領主制と村落 上』(1985・吉川弘文館)』▽『飯沼賢司「「職」とイエの成立」(『歴史学研究』534号所収・1984・青木書店)』
 [参照項目] | 荘園
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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