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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2017年8月4日号 週刊ポスト「知っているようで知らない日本人の常識
あなたの名字の由来ご存じですか?
第1特集 ルーツにまつわるウソ・ホント
自分の名字のルーツを調べようとするとき、あなたならどうするだろうか。インターネットで検索すれば、たいていの名字について『由来』『ルーツ』を解説したサイトが見つかる。また、図書館に行けば分厚い姓氏事典に何万という名字のルーツが掲載されている。
それらは嘘を書いているわけではないが、そこに登場する名字は、一般的なものに見えても、実は文献の残る名家・旧家の歴史を紹介したにすぎない。例えば、『田中さん』を調べると、藤原家庶流の田中氏や石清水八幡宮神官の田中氏が記載されていることが多いが、全国の『田中さん』の9割はそれらと無関係のルーツを持つ。なぜなら、兵農分離が確立した江戸時代、日本人の9割は農民・町人であり、そうした庶民の家には家系図や一族の歴史を記した記録などはなかったからだ。
が、庶民の名字に歴史やルーツがないわけではない。記録が残っていないだけで、そこには一族がどんな場所でどんな生活をしてきたかがタイムカプセルのように閉じ込めれられている。
それを開けるカギは文献ではない場所にある森岡氏の研究成果をご覧いただく前に、名字にまつわる〝間違った常識〟を少し紹介しておきたい。
ウソ 江戸時代まで庶民には名字がなかった
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ホント 室町時代にはほとんどの日本人に名字があった
小学校の社会の時間に、『江戸時代には武士だけが名字をもっていた』と習った人は少なくない。これが名字に関する誤解の最たるものだ。
実は社会の教科書には『武士以外は名字を名乗ることができなかった』と書いてある。しかし、この表現から『名字はあったけれど、公的に名乗ることを禁止されていた』ということを、社会が専門でもない小学校の先生に理解させることは無理だろう。庶民の名字について誤解したまま子供に教えてきた先生たちも多かったのである。
実際には、室町時代にはすでに農民は名字を持っていた。最も古い記録は、和歌山県紀の川粉河(こかわ)の王子神社に伝わる名つけ帳である。新生男児の名前を記録したこの帳簿は室町時代の文明10年(1478年)以来一度も途切れることなく現在まで続いている。そこには名前の上に、農民たちの名字が記入されている。同地が特別な地域であったと推測する事情はなく、当時から農民が名字を持っていたことを示す証拠といえる。
ウソ 同じ名字なら祖先は同じ
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ホント ルーツが一つという名字はまれ
『田中さん』の例でもわかるように、同じ名字でもルーツは複数あり、それぞれのルーツは血縁、地縁が全くないというケースは非常に多い。次章で紹介するように、名字の多くは地名や地形に由来する。『田んぼの中に住んでいた田中さん』は日本中にいたはずで、彼らは親戚でも同郷でもない。
ウソ 『名字』より『苗字』が正式
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ホント 『苗字』や『氏(し)』は実は新しい言葉
名字=ファミリーネームを指す日本語はいくつかある。現在では『名字』をはじめ、字が違う『苗字』や『姓(せい)』『氏(し)』などが使われている。それぞれ語源が異なるので整理しよう。
奈良時代まで大和政権に仕えた豪族たちは、『蘇我』とか『物部』といった一族の呼び名である『氏(うじ)』を持ち、その氏の朝廷での地位を示す『姓(かばね)』を与えられていた。それがやがて、天皇が臣下になった子や孫に与えた『源』『平』といった『姓(せい)』に統一されていった。この『姓』は天皇の許可なく変更できない公式なものとされた。
それに対して『名字』とは、同じ一族のなかでも家ごとに区別するために自ら名乗った呼称で、貴族であれば邸宅のあった場所、武士なら知行地の地名などを用いたものが多い。一方『苗字』は、『苗』という字に『子孫』といった意味があったことから、江戸時代頃に使われ始めた言葉だ。ただ、明治政府が壬申(じんしん)戸籍を作った際に、『平民苗字必称義務令』などと『苗字』の表記を使ったため、こちらが正式だという誤解が生じた。
なお、『氏(し)』というのは、その明治政府が戸籍を作る際に、古来の『姓』でも『名字』でもない新しい概念として作った行政用語である。したがって、言葉としては最も新しく、もちろん古来の『氏(うじ)』とは全く関係ない。
第2特集 日本人の大半が当てはまる『5大ルーツ』
名字のルーツは、たいてい以下の5つのどれかである。
?地名
貴族や武士を含め、最も多いのが居住地の地名を元にした名字だ。自分の名字が父祖の出身の地名になれば、そこがルーツの可能性が高くなる。
ただし、ここでいう地名とは、県名や市区町村名ではない。名字は家と家、一族と一族を区別するために付けられたものなので、もっと小さな『大字(おおあざ)』や『小字(こあざ)』が用いられた。また名字のルーツになったのは江戸時代以前の古い地名だ。ネット上の地図でも大字くらいまで記載されたものがあるが、より詳しく調べたければ、平凡社の『日本歴史地名大系』、角川書店の『角川日本地名大辞典』シリーズなどが役に立つ。
ちなみに、名字ランキング85位の『千葉』は現在の千葉から全国に広まった一族だが、ルーツの地名は千葉県でも千葉市でもなく、千葉市にかつてあった『千葉荘』という地名である。
?地形・風景
次いで多いのが地形や風景に由来する名字だ。
……多くの名字が生まれた室町時代の集落だ。
『山』に囲まれた『谷』で『川』や『池』を利用して『田』を作り、『米』を収穫した。どこにでもある里山の風景がさまざまな名字を生み、上記のような文字がよく使われた。
水田にしにくいところは『畑・畠』にした。『畠』の字を分解して『白田』ともいった。
田んぼの境界線を『くろ』といい、『畔』という漢字をあてた。この場所に柳の木を植えたのが『畔柳』で、のちに『黒柳』に変化した。
山の中腹まで開墾し、そこに住んだのが『山中』や『山内』。麓には道が通り、『山下』には家が並ぶ。山の麓は薪(まき)を取るのに便利なうえ水も得やすく、当時の人には住みやすい場所だった。この場所は『山本』『山元』でもある。中国地方には多い『山根』も同じ。
山の稜線の張り出した所は『山崎』で、神社があれば『宮崎』、寺があれば『寺崎』だ。この崎が直接海に落ち込んでいるところは『うみ』の『さき』で『みさき』といい、『岬』や『三崎』と書いた。
道が山を越える一番高いところは『峠』である。中国地方では『たお』といい『田尾』や『垰』と書いた。鳥が山を越える場所も決まっており、そこを『鳥越』という。また、半島で陸地の幅の狭いところを船を曳いてショートカットしたところが『舟越・船越』である。
道が交差するところは『辻』で、『三』のつく日に市が立てば『三日市』、『五』のつく日に立てば『五日市』という。
江戸時代には農民の集落を『村』、商人の集落を『町』といった。漁村は『浦』と呼ばれ、『村』は『郷』といわれることもあった。
……水や水利に関する名字を集めている。
源流に近い山間部は『沢』といい、その周辺が『沢辺』で、『沢部』も同じルーツ。沢の水を利用して開いた水田が『沢田』で、近くに集落ができると『沢村』となる。
滝や急流では水は大きな音を立てている。『滝本』と『轟(とどろき)』はご近所だったかもしれない(『轟木』『等々力』なども同じ)。
音を立てるのは川とは限らない。潮騒の響くとことでは『鳴海』という名字が生まれた。『成海』や『成見』にも変化した。
九州では、細い川の流れを『つる』といった。南部では『水流』、北部では『津留』という字をあてられることが多い。『鶴』の字も使うが、鳥のツルに因むものと見分けが難しい。
水の湧き出るところは『泉』や『小泉』で、『涌井』も同じ意味。湧いた水は『しみず』といい、一般的には『清水』と書く。『志水』も同じ由来だ。沢の周辺は『林』になっており、小さな林が『小林』で、大きな林が『大林』、これは『森』と同意である。
かつて川はしばしばあふれ、周囲には湿地が多かった。そうした場所は水田に適しており、早くから開墾された。西日本では湿地を『ふけ』といい『泓』『浮池』など、いろいろな漢字をあてた。九州では『むた』といい『牟田』という字をあてる。北陸から東日本にかけては、『やち』ともいう。『谷地』『矢地』『谷内』など地域によって漢字はさまざまだ。
川の合流する地点は『川合』で『河合』『河相』とも書いた。『落合』ともいう。川には『堤』を築いて氾濫を防いだ。大きな川では河岸段丘が発達する。長野県では、そうした地形を『しな』と呼んだ。旧国名『信濃』もこれに由来するという。長野県独特の名字である『仁科(にしな)』は『赤い土』を表す『に(丹)』の段丘という意味だ。
船の着く『みなと』は、水面の部分を『港』といい、陸上は『湊』という。人が住むのは陸上なので、名字では『湊』のほうが多い。古くは『津』といい、大きな津は『大津』、川の船着場は『船津・舟津』や『船場・舟場』とも呼ばれた。
他に地形由来の名字でよく使われる字をいくつか挙げる。
・『迫』『硲』『佐古』『峪』『窄』など……谷間を意味し、『さこ』『せこ』などと読む。
・『谷』『谷戸』『谷津』など……谷間の田を意味し、『やつ』と読む。
・『野』と『原』……水田化された平地が『野』で、水田以外の場所が『原』である。長野県では盆地のことを『たいら』といい、『大平』『中平』『小平』という名字は、『おおだいら』『なかだいら』『こだいら』と読むことが多い。
・『園』『薗』『囿』……『その』と読み、米などの主要作物以外を育てる場所のこと。
・『塚』……『岡/丘』より小さい人工的な盛り土のこと。墓だけを指す言葉ではない。
・『窪』『久保』……『くぼ』は低い場所のこと。北関東で『あくつ』はといい、『阿久津』『圷』『安久津』などの字をあてた。
・『羽仁』『羽』……『はに』『はね』とは粘土質の土のこと。『埴』とも書き、『羽生(はにゅう/はぶ)』とも呼ぶ。
・『張』『治』『春』『針』……新しく田を開墾することを『はる(墾る)』といい、そこから字がさまざまに変化した。また『開』の字も同様で、そこから変化した『貝』『海』『階』も使われる。『荒木』も『あらき(新墾)』が語源で開墾地のこと。
・『室』……貯蔵などのため山腹に穴を掘った岩屋のこと。
?方位&方角
東西南北を『ひがし』『にし』『みなみ』『きた』と読み、下に地形がついている主な名字のランキングを挙げると次のようになる。
東山 1100位台
西山 167位
南山 3400位台
北山 596位
東田 1300位台
西田 109位
南田 3500位台
北田 707位
東村 3500位台
西村 43位
南村 5300位台
北村 114位
西と北が多く、東と南が少ないことには理由がある。
多くの名字が生まれた中世の武士は谷間に好んで住んだ。生活に必要な川が流れているし、集落の入り口が1ヵ所しかなく、村を守りやすかったからだ。
そして、東側や南側に開いた谷間のほうが日当たり良く実りもいい。領主は、そうした谷の入り口近くに居を構え村を守り、農民はそこから谷の奥に向かって住んだ。ということは、領主から見れば南に開いた谷であれば北側に、東に開いた谷であれば西側に農民が住んでいる。従って、彼らが名乗る名字は『北』や『西』が多くなる。
なお、方位や方角を表わす名字には、川の上流か下流かを区別した『上・下』や、寺や神社などとの位置関係を示す『前・後』『表・裏』や『横・脇・端』、領主からの距離を示『近・遠』すなどがある。
また、方位を十二支で示すケースもあり、このなかには北東、南東、南西、北西を意味する『艮(ごん/うしとら)・巽(そん/たつみ)・坤(こん/ひつじさる)乾(けん/いぬい)』を含むが、縁起が良くないとされる巽と坤はあまり使われなかった。
?職業
欧米ではメジャーな名字は職業由来が多い。スミス=鍛冶屋、ミラー=粉ひき、テイラー=仕立屋、クラーク=事務官などだ。日本ではそこまで多くないが、時代によっていくつかのパターンがある。
代表的なのは古代に特定の技能で大和王権に仕えた職業部に由来する名字である。猟犬や番犬としての犬を飼った『犬飼』『犬養』をはじめ、鳥を飼った『鳥飼』、鵜を飼った『鵜飼』などがそうだ。
大王家の直轄地を『屯倉(みやけ)』といい、耕作していた人たちを『田部(たべ)』といった。『三宅』や『田部』『田辺』といった名字はこれに因むものだ。
『服部』は古くは『服織部』と書いて『はたおりべ』と読み、機織りを担当した人たちだった。『錦織』も古代は『錦織部』で『にしこりべ』と読んだ。
地方では、トップの国司は中央の貴族が派遣されて交代で務めたが、郡司は地元の有力者が世襲することが多く。ここから『郡司』という名字が生まれた。村の有力者で行政機構の最末端に位置した人は『とね』といい、『刀禰』『刀祢』『刀根』などと書いた。
平安時代中期以降になると、荘園に因むものが増えてくる。荘園を管理する人を荘司といい、これを務めたのが『しょうじ』さんのルーツ。『荘司』の他にも『庄司』『東海林』『庄子』『正司』など書き方はさまざま。
室町時代以降になると、私的な職業に因む名字が増えた。室町時代に栄えた金融業者を『土倉(どそう)』という、名字では、『とくら』『はぐら』と読む。
江戸時代には、『〜屋』という屋号を名乗る商家が増えた。そうした商家は明治になって戸籍に登録する際に、3つのパターンに分かれた。『越後屋』の例でいうと、
①そのまま『越後屋』で登録
②『屋』を『谷』に変えて『越後谷』で登録
③『屋』を取って『越後』で登録
②の場合、読み方も『〜や』から『〜たに』に変えたものがある。
屋号由来の名字は、商業都市の大阪南部や北前船で栄えた日本海側の都市部に多い。
?下に『藤』
これはよく知られているように、下に『藤(「とう」または「どう」)』がつく名字は、平安時代に隆盛した藤原氏に因む。
当時の朝廷は藤原一族で席捲(せっけん)されていた。貴族たちは自らの邸宅のある場所などから家号(かごう)を名乗ったが、中・下級の官僚たちは大邸宅があるわけでもなく、朝廷内の役職などを名字とした。しかし、役職名だけでは藤原一族であることが埋もれてしまうので、藤原一族であることを明示しつつ、新しい名字として名乗ったのが、『〜藤』という名字である。
中央で出世できなかったため地方に絡む役職に就いた一族が多く、例えば伊勢の藤原氏は『伊藤』と称した。加賀は『加藤』、遠江(とおとうみ)は『遠藤』、近江は『近藤』、尾張は『尾籐』、紀伊は『紀藤』、備後は『後藤』、出雲は『雲藤(うんどう)』を名乗った。国名ではないが、下野(しもつけ)国那須の藤原氏で『須藤』というものもある。
役職と組み合わせたパターンも多い。左衛門府の役人である左衛門尉となった藤原氏は、『左』に『イ』を付けて『佐藤』を名乗った。木工(もく)寮の官僚は『工藤』、斎宮寮は『斎藤』、武者所は『武藤』、内舎人(うどねり)は『内藤』などがある。
『安藤』には2説あり、安芸国の藤原氏というものと、阿倍氏と藤原氏が姻戚関係を結んで一字ずつとったというものだ。
藤原氏に因む名字は種類こそ少ないが人数は多い。全国最多の『佐藤』以下、ベスト100に10種、ベスト1000に16種、ベスト5000には38種入っている。
なお、『藤井』『藤本』など、名字の上に『藤』がつく場合は、多くが植物由来である。
?その他
5大ルーツ以外のものは少ないが、以下のようなものがある。
・拝領……殿様などから褒美として名字を拝領することがある。武勲を称えて『無敵』『百武』などを賜った例や、名字を与えるのは好きだった徳川家康が下賜した『小粥』『昼間』などがある。家康はまた、忠誠を誓った大名などに『松平』を多く与えた。
・僧侶……僧侶は俗世を捨てて名字も捨てた存在だった。明治になって戸籍登録する際に新しく作らせた名字が多い。東西本願寺では宗祖・親鸞の庵があった地名から『大谷』を名字にした。他には仏典や仏教用語からつけた例が多く、釈迦に因む『釈』などがある。
・特殊例……源義経に風呂を供したと言い伝える『風呂』や、弘法大師から肥え太る石をもらったことに因む『肥満』など、特殊な由来を持つ名字も少数ながらある。
第3特集 読み方でわかる先祖の出身地
……
『植物、動物のつく名字』
高い建物がなかった時代、大きな木は家を特定する目印だった。
全国順位16位『松本』の以下、48位『松田』、87位『松井』、92位『松尾』、104位『小松』など、『松』のつく名字は200位までに10個も入っており、植物由来の圧倒的なチャンピオンである。
里に松の木が多かったのが最大の理由だろうが、門松に使わるなど、冬でも葉を落とさない松には『聖なる木』という意味合いもあったと思われる。名字には縁起の良いものを使うのが基本だ。
『松』に次いでは『杉』を使うものが多く、81位『杉山』、98位『杉本』と100位までに2つ入る。
その他では『栗』『桑』『竹』『萩』『榎』『柳』『桜』『梅』『梶』などが多い。
植物に比べ、移動する動物は家の特定にはあまり適さないため名字も多くはない。
現代人に最もなじみのある動物といえば犬・猫だろうが、犬では1100位台の『犬飼』が最多、猫は2万位にやっと入る『猫田』が最多で、名字界ではマイナーである。
農村に関係が深い牛・馬もそれほど多くない。牛は1000位以内には1つもなく、5000位以内だと『牛島』『牛田』『牛山』『牛尾』『牛丸』『牛嶋』『牛込』『牛木』の8つ。馬の場合は『相馬』『有馬』『対馬』など、『馬』が下についた地名由来のものが多い他、『駒井』『駒田』など『駒』という言葉も使われた。馬を調練する『馬場』や、放牧場を指す『牧』も馬関連の名字だ。
それらを抑えて動物由来名字で最多登場するのが『熊』だ。164位『熊谷』、767位『大熊』、850位『熊沢』、884位『熊田』、956位『熊倉』などがある。
その他の哺乳類では『鹿』『猿』『猪』がよく使われる。鳥では『鷲』『鷹』『鴨』『鷺』が多い。魚は少なく、5000位以内に入るのは『鮫島』と『鯉沼』のみ。」
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日本人に自我が確立しなかった理由は、自分が帰属する「家の家名」や「個人の姓名」へのこだわりの薄さが原因であった。
冲方丁「日本の社会は昔から多層構造で、名前も幼名から元服名、公式用、仕事用、趣味用と次々変える文化だったんですね。だから自我もカルタみたいに平面に並べていく。増えても潰れることもない。
西洋の場合、一つの名前の上にマトリョーシカみたいに積み重ねていくから、自我が内側で圧迫されて潰れていく。縦に積まれるから、下の方はもうギシギシになって潰れてしまう。……『自我の崩壊怖い』みたいなことなのでしょう」
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日本民族日本人は、哲学・思想・主義を熱狂して振り回す観念主義者や理想主義者でもなく、宗教を盲信し幻想世界に逃げ込む空想主義者や神秘主義者でもなく、冷静な観察眼を持った合理的な現実主義者である。
その証拠が、日本国語による日本姓名である。
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日本姓名には、日本文明が籠められている。
それゆえに、日本姓名に花鳥風月と虫が加わると日本文化の芳香が香り立つ。
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例えば、「はなきかおる」を、日本国語文字にして「花木薫」と書くとそこに日本文化の色香が立ちのぼるが、西洋語文字にしてKaoru Hanakiと書くと無味乾燥となり日本文化は見えない。
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自然災害多発地帯で生活してきた祖先達は、現実から逃げず愚痴や不平不満を言わず、そこで生きるに知恵として日本文化を生み出し日本文明を築き、その心・精神を名字の中に潜めた。
日本民族日本人が怖れたのは、人ではなく自然である。
それ故に、人と人の争い事を嫌い、穏やかに、仲良く、助け合いながら生きる事に心掛けた。
日本人の名字は、言霊でその名を声に出すだけで無意識に日本文化に浸る事ができる。 それは、日本民族日本人の生きる智恵である。
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日本文化が、日本民族の独占所有物ではなく開放された柔軟文化である証拠は、人種・民族に関係なく日本文化に憧れて日本姓名を名乗ればそれだけで日本文化に浸る事ができる。
それは、日本国語が持つ良い意味での魅力である。
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だが、日本姓名だけが特別に優れているわけではない。
全ての人種・民族・部族、国家・国民が持つ独自の姓名には、それぞれ大切な意味・言われが含まれている。
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日本人と中国人・韓国人・朝鮮人とが全く違う人間である事は、その姓名を見れば一目瞭然である。
そして、日本人と中国人・韓国人・朝鮮人が、いくら腹を割り、誠意を持ち、とことん話し合った所で分かり合えないのも、お互いが名乗る姓名の意味を見ればわかる。
つまり、日本人と中国人・韓国人・朝鮮人は話し合っても分かり合えないと言う事である。
中国人・韓国人・朝鮮人が日本姓名への創氏改名に強い拒否反応を示したのも、古代中華姓名の持つ意味が理由である。
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日本文明・日本文化が中華文明・中国文化・朝鮮文化とは別ものである事は、日本姓名と中国・朝鮮の中国姓名との違いを見れば明らかである。
つまり、「名は体を表す」である。
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日本は、生家の姓に愛着を持たずこだわらず自分の姓を棄てる為に、夫婦同姓である。
中華は、生家の姓に愛着を持ちこだわるり自分の姓を捨てない為に、夫婦別姓である。
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日本では、新しい家を興す為に、生まれたときの一族・家の姓をその時々の気分で幾つも変えて名乗った。
血のつながりのない他姓・他家への養子も珍しくなかった。
中華では、古い家を護る為に、生まれたときの血族・宗族・一族の姓を一生涯変える事なく名乗った。
創氏改名に対して、日本人は自分の「個」の利益になるのなら抵抗感なく姓を変えた、中華の人びとは「孝」こそ最高の価値として親からの姓を変える事は死にあたいするとして嫌った。
姓名に対する認識は、日本人と中国人・韓国人・朝鮮人など中華の人々とでは正反対である。
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日本では、姓名から祖先のルーツを探る事は難しい。
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日本人が一族の姓名にこだわり家名を意識し始めたのは、「孝=道徳」という儒教価値観が広まった明治以降である。
江戸時代までの徳は、「親に対する孝」ではなく「主君に対する忠」であった。
その意味でも、日本と中華(中国・朝鮮)の徳は違う。
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庶民・民草も、日本と中華(中国・朝鮮)では対象者が異なる。
中華の徳は「親に対する孝」である為に、内向的で、庶民・民草は血族・宗族・一族の者に向かって他の血族・宗族・一族は切り捨てた。
中華社会の上下関係は三層構造として、聖人君主、庶民・民草=我が血族・宗族・一族、小人=他の血族・宗族・一族である。
その為に、大虐殺は、中華世界では日常的に発生した。
日本の徳は「主君に対する忠」である為に、外向的で、庶民・民草は主君の領民全てに向けられた。
日本では、殺し合いが起きて虐殺まで発展する事は少なかった。
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日本には庶民はいても、中華のような小人はいなかった。
非人・エタ・河乞食などの賤民は小人ではない。
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儒教に対する認識は、明治以降特に現代人より、明治以前の江戸時代の人間の方が正しかった。
江戸時代の人々が居たお蔭で、日本は近代化に成功し、世界に通用する民族的国民国家に生まれ変わり、中華を排除した和洋折衷型産業国家を築き上げた。
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日本人の由緒正しい名字・姓(かばね)は、日本天皇に由来する。
室町時代頃から、町人や百姓の庶民は名字を持っていた。同じ姓でも歴史的人物・名家・旧家の子孫ではないのが9割以上。
庶民の姓で、農工作業や日本神話に関連する姓も日本天皇と何らかの縁を持っている。
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日本姓名を名乗る限り、日本天皇との見えざる絆・つながりからは逃れられない。
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天皇制度廃止を願う反天皇反日的日本人は、先ず、日本天皇に関連するの氏素姓、名字、苗字を全て抹消する必要がある。
つまり、日本民族日本人の名前を捨て、新しい姓として、欧米風の姓名か中国風の姓名を名乗る必要がある。
なぜなら、日本民族日本人の名前を名乗ると否が応でも日本天皇につながり、日本天皇の存在を自動承認する事になるからである。
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天皇を憎み天皇制度廃止を主張する反天皇反日的日本人は、日本天皇との絆・つながりを断ち切り為に、日本姓名を捨てるべきである。
もし、日本民族日本人の名前を名乗りながら天皇制度廃止を主張する人間は、誠意のないモノ、信用に値しないモノで、陰険な人であるから話を真に受けて聞く必要はない。
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