💖22)─1─応神天皇はユダヤ系弓月国人約2万人を新羅から救い出した。日本書紀。〜No.91 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日ユ同化論は正しく、日ユ同祖論はウソである。
 日本天皇・日本国・日本民族ユダヤ民族の関係は古いが、日本人とユダヤ人は同族・同種ではない。
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 昭和20年8月までの日本には、反ユダヤ主義によるユダヤ人の陰謀論は存在しなかった。
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 ユダヤ人を救ったのは、第15代応神天皇と第124代昭和天皇である。
 古代の日本民族は、天皇神話からユダヤ人達を受け入れた。
 ユダヤ系弓月国人は、忠誠を誓った帰化人であって忠誠を拒否した渡来人ではなかった。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「弓月君」の意味・わかりやすい解説
 弓月君 ゆづきのきみ
 秦氏の祖といわれる伝説的な渡来人。融通王とも書く。秦の始皇帝の子孫とされる。『日本書紀』によれば,5世紀頃百済から来朝。その際に,率いてきた多くの人々が新羅によって加羅に留めおかれていると応神天皇に訴えた。そのため天皇葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を加羅に派遣,さらに 3年後に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)をつかわし,弓月君の率いてきた人々を日本へ連れ帰らせたという。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 199年 仲哀天皇の御代に弓月国王の功満王が来日した。
 当時の弓月国は、キリスト教国であった。
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 応神天皇の御代。古墳時代の日本の人口は500万人と推定されている。
 秦氏の祖先は、弓月国から日本を目指して半島に辿り着いたが新羅によって足留めされ、応神天皇に「新羅人の妨害で日本に渡れないので助けてほしい」と要請した。
 283年(西暦319年) 応神天皇は、兵を送って約2万人の弓月人を救い出して日本に受け入れた。
 弓月人は石の加工、土木、治水、建築など多くの高度な技術、高水準な世界の教養・知識、異宗教異文化の価値観を持ち込み、天皇から姓名・地位・土地を貰って日本全土に移り住み広めた。
 日本は、古代から多文化共生社会で、助けを求める外国人を救出する為に軍隊を派遣していた。
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 日本民族は、ユダヤ帰化人と乱婚し混血して同化していった。
 縄文・弥生時代の土と木の文化であったが、弓月人移住者によって石の文化が始まった。
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 ユダヤ人達は、ペルシャサマルカンドを経由して弓月国に移り住んだ。
 弓月国は砂漠の国で、弓月人は遊牧の民であった。
 弓月人は、オアシスの道、草原の道、シルク・ロードを東へと旅をして日本に辿り着いた。
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 創世記4:16~26
 ユダヤ教旧約聖書では、アダムとエバ絶対神ヤハウェ、エホバ)との約束を一度破った事で楽園であった「エデンの園」から追い出され、エデンの東で生活した。
 カインは弟アベルを殺した事で、ひとり両親から離れ「ノデ(さすらう)の地」に移り住み絶対神から離れ流浪の人生を始めた。
 ユダヤ教徒ユダヤ人やネストリウス派キリスト教徒は、聖書に導かれて東方へと向かい、その先に日本があった。
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 431年 東方教会東方諸教会)に含まれるネストリウス派はエフェソス公会議で異端とされ、東へ布教を広めササン朝ペルシアを通じ中国に伝わり、中国では景教と言われ、唐の都長安に寺院が建てられた。
 景教は、仏教と一緒に古代日本に伝来し、皇室神話・皇室神道・皇室祭祀に影響を与えた。
 日本の古代豪族の中に、景教に感化された豪族がいたと言われている。
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 ネストリウス‐は【ネストリウス派
 〘名〙 ネストリウスを祖とするキリスト教の一派。キリストの神性と人性の分離を強調する。シリア、ペルシア、インド、中国に伝えられ、中国では景教と称された。
 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 
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 日本民族の祖先は、数万年前の旧石器人(ヤポネシア人)・縄文人(日本土人)であって、ユダヤ人でもなければ中国人でも半島人でもない。
 日本民族とは、日本列島に流れ着いた雑多・数多くの人種・民族と数万年かけて見境のない乱婚を繰り返して生まれた、血が汚れた混血の雑種民族である。
 それが、日本民族の同化であった。
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 キルギス人のルーツは?
 キルギス人の祖先は遊牧民で、1922年に旧ソビエト連邦(現ロシア)の支配下にはいってから定住化が進みました。 キルギスでは、「かつて日本人とキルギス人は兄弟で、魚好きが日本へ、肉好きがキルギスへ来た」という逸話もあります。 キルギス人は、日本人と顔や体つきが大変似ていて、黙っていると見分けがつかないこともあります。
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 日本人と古代ユダヤ人の体形とYAP遺伝子
 古代ユダヤ人は、金髪の白人や黒人ではなく、黒髪・黒目の浅黒い肌(褐色)をした人種で、背が低かったとされています。
 そして、体格は日本人とそっくりとの事です。
 さらに、日本人とユダヤ人の男性Y染色体の中に、YAP遺伝子を持つ事は、12支族をご紹介した際にお伝えしました。
 重複となりますが、下記のとおりです。
 実は、日本人男性の40%近くは、Y染色体に「YAP(ヤップ)」という特殊な遺伝子配列を持っている事がわかりました。
 「YAP(ヤップ)」遺伝子は、中国人や韓国人にはほとんど見られず、アジア系人種の中で非常に珍しい遺伝子です。
 この「YAP(ヤップ)」遺伝子配列を、全世界のユダヤ人の30%程度が保有しています。
 同じ遺伝子配列を持つという事は、先祖が同じという事を意味します。
 全くの無関係という事ではなく、日本人とユダヤ人の祖先につながりがあると、考えられているのです。
 ( © 2023 都市伝説まとめ大辞典
 日本の都市伝説
 【日ユ同祖論】日本人のルーツはユダヤ人だと言われる18の共通点)
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 歴史人
 古墳から探ることで、謎の豪族「秦氏」に迫れるか?
 [入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #038
 柏木 宏之
 古代 日本史
 2021.09.30
 写真・作図/柏木宏之
 渡来氏族である秦氏(はたし)の由来には、現代でも諸説がある。秦の始皇帝の末裔や、イスラエルからからの渡来人とも言われる彼らは、いったい何者なのだろうか? 一族で有名な秦河勝(はたのかわかつ)は、聖徳太子と懇意だったことでも知られており、その身分の高貴さも謎を残している。今回は、彼らの古墳からその正体を考察してみる。
 「辰韓」が「新羅」へ、「辰・新・秦」の「シン」という発音の類似
 秦氏の痕跡、五社神社奥の院・鉢塚古墳/柏木宏之撮影
 「弓月(ゆづき)の君」として歴史に登場するのが「秦氏」です。渡来氏族で、養蚕(ようさん)、機織り、そのほかの最新技術や膨大な財力を以って大和建国の陰に見え隠れする謎の氏族でもあります。
 「秦の始皇帝の末裔説」や遠くイスラエルからやって来たという「日・ユ同祖論説」、「徐福伝説由来説」などなど、さまざま愉快な話題の素をふりまいてくれる氏族でもあります。
 彼らの祖先がどこを故地として、どこから日本列島に渡来してきたのかは私にはわかりません。しかし自由な歴史遊びの素材として、これほど雄大な妄想をさせてくれる氏族も少ないのは確かです。
 秦氏は九州から東北まで、いたるところに存在した痕跡を残しています。
 なぜ彼らが「秦(はた)」を名乗ったのかについては諸説あります。古語で海のことを「パタ」と発音していたので、海を渡って来た彼らが「パタ」を名乗り、それがやがて「ハタ」となったという説があります。
 たしかに古い言い方で海のことを「わたつみ」といいます。それは「パタ→ハタ→ワタ」と音韻変化したのだという説があるからでしょうか。
 これらの説をいちいち検証して否定、または肯定する能力は私にはありませんので、ただ面白がっているだけなのですが、ただ私が一つ引っかかっているのは、倭の五王のうち5人目の「武」に与えられた称号の「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」で、その13文字目の「秦」なのです。
 大昔の朝鮮半島には「馬韓弁韓辰韓」の三国があって、その「辰韓」地域が「新羅」になるといいます。
 「辰・新・秦」はどれも「シン」と発音しますから当て字なのでしょうが、どうも引っかかるのです。
 秦氏新羅からやって来たという説もありますね。しかも列島各地の秦氏は相当多くの人口だったようですから、一度に来たわけではなく長い年月をかけて、何度にもわけて渡来し存続発展したのでしょう。
 渡来した機織り姫を祀る呉服神社柏木宏之撮影
 大阪府池田市内にある機織り姫の神話と秦氏の古墳
 大阪府の北部にある池田市には渡来した機織り姫を祀る神社があります。呉服(くれは)神社と伊居太(いけだ)神社です。そこには織姫伝説がありまして…。
 応神天皇の時代に呉の国から呉服(くれはとり)と綾羽(あやはとり)という姉妹が今の大阪府池田市に渡来して機(はた)織りを続け、二人が亡くなった時に仁徳天皇がこの地に神社を建てて祀った…。という伝説です。
 確かに今でも着物のことを和服といいますが、それは呉服屋さんで買い求めますね!
 そして、秦氏は機織りの技術を以って大和王権に貢献しています。
 大阪府池田市五社神社柏木宏之撮影
 大阪府池田市内には重要な秦氏の痕跡があります。
 五社神社といって、祭神は国常立尊クニトコタチノミコト、建速素盞鳴尊タケハヤスサノヲノミコト、五十猛尊イソタケルノミコト、住吉大神スミヨシノオオカミ、穴織大神アヤハノオオカミの五柱です。そして本殿の後ろに接している「鉢塚古墳」という大石室が奥の院とされています。
 五社神社奥の院鉢塚古墳羨道から石室内部/柏木宏之撮影
 この古墳は調査研究の結果、二段円墳で周濠を含めて直径62mと推定されています。玄室の奥行は6.48m、幅3.2m、高さが5.2mという巨大な空間です。
 有名な明日香村の石舞台古墳の玄室の高さが約4.7mですから、高さでは石舞台古墳よりも高いのです。6世紀末から7世紀初めの築造で、当時の池田市地域は秦氏の領地だったと考えるべきですので、これは秦氏の古墳だということになります。
 蘇我氏に劣らない古墳を築いていた秦氏とはいったい何者なのでしょうか!?
 (続く)
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 Ameba
 日本の歴史と日本人のルーツ
 日本の歴史と日本人のルーツを解明します。
 基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。
 ご質問などはコメント欄にお書きください。
 学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。
 秦氏の王、弓月の君の出身地である弓月国をさがした
 2014-12-15 14:23:43
 テーマ:下関歴史
 日本書記の第14代「仲哀ちゅうあい天皇」の第8年に,弓月ゆづき国の巧満こうまん王が,日本の朝廷を公式訪問し、養蚕の蚕の種を献上したとある。現在、4世紀後半に当たると見ているる。応神天皇14年に弓月の君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。
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 蚕種渡来の碑、忌宮神社、長府
 日本に渡って来た弓月の君が元々居住した弓月国の場所を探してみた。現在の新彊ウイグル自治区の中にグーグルマップで検索した。この国から東方に移動し、朝鮮半島任那から日本に渡来した。弓月国についての記述は、中国史書、資治通鑑にのっているとか。
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 弓月国の位置探索
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 弓月国の中心
 ラビ・M・トケイヤー氏によれば,その位置は,「現在のアラル海アフガニスタンの間」と言う。正確には,現在の中国とカザフスタンの国境付近で,都自体は,現在の「中国」(中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)にあった。古代の弓月城は厳密には東の霍城との間にあると言われるらしいが、現在地の弓月城の境内の形状が日本の神社の境内に良く似ている。
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 伊寧市街
 伊寧市、グルジャ市は、中央アジアの中央部のイリ地方の中心にある市。現在中華人民共和国が統治しており、新彊ウイグル自治区イリ・カザフ自治州に所属する県級市である。中国語での正式名称は伊寧市(イーニンし)。ウイグル語での名称はグルジャ。カザフ族やモンゴル族などの間でもグルジャと呼称されることがある。クルジャとも表記される。また、イリ地方の中心でもあるため、話し言葉でイリと呼称されることも多い。
 参考
 秦氏の男性遺伝子は中東からやってきた
 弓月、すなわち三日月はユダヤ人の象徴であった。ちなみに、現在のイスラムの象徴は三日月と星である。三日月は発展を意味するとか。
 秦氏キリスト教徒説
 秦氏の東方移動について
 近くにナラ、ヤマトがあった
 朝鮮半島任那を経由して、日本に渡来
 応神天皇(ホムタワケノミコト)とヘブライ語
 資治通鑑【しじつがん】、中国の史書。宋の司馬光の編著。本文294巻。英宗の援助を得て,1066年―1084年に完成。前403年(戦国時代)から959年(五代末)の史実を編年体で記す。史料は正史のほか実録から小説まで322種の書を参考にしている。(参考)
 参考: 弓月国の近くにヤマト、ナラの存在の示唆
 渡来人のお土産
 弓月の君
 帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記された。
 全国に15万とも20万あるとも言われる古墳であるが、ここから出土する土器は殆どが須恵器である。高坏、器台、装飾壺、あるいはそれらの複合土器であり、全国どこへ行っても同じような須恵器が古墳に副葬されている。どうしてここまでそっくりなんだと思える土器が、主に6-7世紀の西日本の古墳を中心に出土している。また昨年、「加羅新羅の旅」と称して韓国南西部を旅した時に見た古墳の須恵器は、全く日本の古墳から出土したものと同じであった。(歴史倶楽部HP、「日本人の源流を求めて」のコーナー参照。)これらの事実は、「須恵器=渡来人=古墳築造=・・」という図式を思い浮かばせる。・・の部分は人により色々であろう。「製鉄」であったり「機織り」であったり、或いは「騎馬民族」「天皇」であるかもしれない。出土する須恵器のなかには、明らかに中央アジアの遊牧の民に源流をもつと思われる須恵器、皮袋形器や角杯形などがある。江上波夫博士が古墳築造の民を「騎馬民族」と想定したのもうなずける。(引用)
 猿田彦も弓月国辺りからやって来た
 #弓月#応神天皇
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 キルギスと弓月国と日本 - 今日もこれから
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 2014年11月27日
 キルギスと弓月国と日本
 下はGoogleで見つけたキルギスと弓月国と日本を示した地図です。
■弓月国
 古代イスラエルの人々は離散したあとキルギスの北部のエニセイ川源流あたり
 (現在のカザフスタン北部)に弓月国を立てました。
 そこにはヤマトゥという町があり鋳造や織物などの盛んな工業国だったそうです。
 「資治通鑑」によると「弓月国」は「三カ月国」ともよばれており、「弓月国」は3世紀
 から6世紀ごろに栄えた「キリスト教国」だったのである。
 資治通鑑 199巻651年 弓月の記載(辛亥、AD六十から五年)
 http://www.guoxue.com/shibu/zztj/content/zztj_199.htm
 この弓月国周辺には、ユダヤ人コミュニティが点在しており、キリスト教徒とユダヤ人が絹の貿易を独占していたのである。
 秦氏はこうしたユダヤ人コミュニティとの深い関連が予想される。
 http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/hidecross.html
 秦氏の研究を続けた佐伯好郎博士は、弓月君は中国大陸の三日月王国(別名を、新月王国・弓月王国という)から渡来したと推定、その場所を中国の西端、カザフスタンとの国境付近とし、その都が新彊ウイグル自治区北西部の伊寧(いねい)だったと推定した。
引用http://ikuno.lolipop.jp/piramido/pa-hyogo/hy03-01.htm
キルギスの伝説
 「キルギス人と日本人が兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚が好きな者は東に渡って日本人となった。」
 キルギス大使館http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/16/etc_0422.html
キルギス
 キルギス語はアルタイ語属のテュルク諸語に属する。
 日本語と同じく、目的語や述語に助詞や活用語尾が付着する膠着語で、母音調和を行うことを特徴とする。文の語順も日本語と同じ主語-目的語-述語になる。http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/i2/dg.gif キルギスWikipediaより
 248年頃、倭国卑弥呼が亡くなります。。倭国朝貢していた漢も滅びています。(箸墓古墳の頃。日本書紀では垂仁天皇46年位?)
秦氏の来日と移住
 仲哀天皇の199年にも来日した弓月国王の功満王
 応神天皇の283年の弓月君(融通王)の来日の前に応神天皇の父とされる仲哀天皇の199年に、 融通王の父である功満王(弓月の王)が日本を公式訪問したという(新撰姓氏録)。(西暦319年)
 http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index5.html
 この訪問の翌年、仲哀天皇は旅先でなくなります。
后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)は身重の体で新羅に出兵、帰国の途で応神天皇を出産します。
 もしかして天皇新羅に毒殺されたと思った后が復讐しに行ったのかと思うくらい唐突な出兵に思えます。
 帰国後は摂政として国の運営に当たります。
 やがて応神天皇の治世になります。
 応神天皇14年、弓月の君が再び来日し、日本への移住を求めます。新羅が邪魔をするので兵を出して新羅を鎮め、応神天皇16年に弓月の人々を迎えます。
 日本書紀の記録は120年ずれているので西暦405年頃のことになります。
 応神天皇の283年に弓月国の「ヤマトゥ」から来た秦氏
 秦氏の来日は、公式記録(日本書紀)によれば、応神天皇の283年に弓月君百済から127県の1万8670人を連れて、 日本に来たという。
 弓月君の名前は、新撰姓氏録では融通王と呼んでいるそうで、 天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の「ヤマトゥ」から来たらしい。
 この「ヤマトゥ」の近くに「ハン・テングリ(Khan Tengri)山」という山があって、 この山が「天狗」のルーツではないかと言われている。
 ハン(Khan)は、族長の称号であり、テングリ(Tengri)は、天神を示すと言う。
 http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/gif/CUT_476.gif
 山伏
 http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index5.html
 キルギスの南西1000kmの所にカイラス山(標高6050m)があります。
 カイラス山の麓にWesak Valleyウエサク渓谷という所があります。ここで、ウエサク祭というのが、大昔から行われています。
 京都の鞍馬寺でも、「五月満月祭」と言う、同じような祭事が行われていました。
戦後、名前が「ウエサク祭」に変わりました。
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/nazo/Kyrgyz.htm
 ウエサク祭
 京都鞍馬寺 五月満月祭
 Since 2002
 Update 2014.10.15
 2015年(平成27年)の鞍馬寺ウエサク祭/五月満月祭
 2015年(平成27年)の京都鞍馬寺のウエサク祭/五月満月祭は5月3日(日曜日)になります。
 http://power-spots.jp/Wesak/Wesak2013.jpg
 カレンダー上で満月になるのは、5月4日(月曜日)になりますが、4日の夜では満月を過ぎてしまうため、満月をお迎えするために、5月3日(日曜日)におこなわれますので、ご注意ください。(鞍馬寺に直接電話して確認しました)
 2015年はゴールデンウィークにちょうど重なるため、遠方からの参加者も多くなり、大変混雑することが予想されます。
 http://power-spots.jp/Wesak/Photos/P5260120.jpg
 祭典のスケジュールとしては、
 第一部 19時開始
 第二部 22時開始
 第三部 第二部に引き続き実施
 となる思われますが、参加者が多い場合は、安全上の理由からスケジュールが変更になることがあるので、詳細についてはまだ未定です。
 ウエサク祭が行われる鞍馬寺の位置とアクセス
 京都市街北部。鞍馬山の中腹に位置し、山の反対側には水の神様で知られる貴船神社があります。
 http://power-spots.jp/Wesak/map.jpg
 http://power-spots.jp/Wesak/index.html
■ 弓月国の名の由来
 なぜ「月」なのだろうか。
 私は、おそらく、この国があった場所と関係していると思う。
 大陸の西にはイスラエルが。そして、弓月国の東にはまだ土地が広がっている。
 つまり、中間だ。とすれば、それは月だ。
 ユダヤキリスト教徒であった秦氏は、ユダヤの象徴表現に通じていた。聖書において、天体の序列は、星→月→太陽である。
 秦氏は、大陸を月の土地として認識していた。
 だから、弓月とか三日月という国名を使用したのだろう。
 この秦氏が日本にやってきた理由は、太陽の土地に移り住むためだ。
 東の果ては太陽の地である。だから、彼らが日本列島にやってきたときに、この国を日本と名づけたのだろう。
 彼らがもともといたローマは、星の土地である。イスラエルも星。
 それは日が沈む場所。夜の国だ。
 今でもEUイスラエルの象徴は星である。
 そして、中東や中央アジアなどイスラムの象徴は月。
 仮に秦氏が宗教的動機で日本に移住したとすれば、それは、イエス・キリストの象徴が太陽だからだろう。
 ヨハネは、「天地を照らすまことの光」と呼んだ。
 引用http://www.millnm.net/qanda3/42Uc9GgCOaDsc67684.htm
 わたしはこのブログをはじめるためにglowforestmoonというIDを取得したのですが、
 希望するIDが皆ふさがっていて苦し紛れにつけた名前でした。
 こんな記事を書くのもなにかのご縁かと、不思議な気分です。(^_^;
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 朝日日本歴史人物事典 「弓月君」の解説
 古代の朝鮮から渡来した人々の集団の首長とされる伝説的人物。融通王とも。『日本書紀』によると,応神14年に弓月君百済から渡来し,率いる120県の人々が新羅人の邪魔により,加羅(加耶)に留まっていると報じたので,葛城襲津彦加羅に遣わされた。同16年になって平群木【G7EDF/へぐりのつく】宿禰,的戸田宿禰らを加羅に遣わし,襲津彦と共に人々を連れてきたという。『古事記』応神記には秦造の祖,漢直の祖が渡来したとのみある。9世紀初めの『古語拾遺』や『新撰姓氏録』には秦氏の祖と伝えられ,『日本三代実録』元慶7(944)年条の秦永原らの上奏では同氏は秦の始皇帝の子孫融通王の後裔であるとの系譜意識が語られている。これに対して,これらの記事は元来弓月君は葛城氏の同系の波多氏らの祖という伝承であったのが,のち秦氏の祖と変わったとする異説もある。秦氏は波旦(韓国蔚珍市)あたりを本拠地とする集団が5世紀末から6世紀初めにかけて加耶南部に移動し,そこから渡来して故地の名にちなんだ氏名を称したとみなされる。<参考文献>平野邦雄『大化前代社会組織の研究』
(鈴木靖民)
 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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 日本大百科全書(ニッポニカ) 「秦氏」の意味・わかりやすい解説
 秦氏 はたうじ
 東漢氏(やまとのあやうじ)と並ぶ古代の渡来人中の雄族。記紀や『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』などによれば、応神(おうじん)朝に秦(しん)の始皇帝の後裔(こうえい)の弓月君(ゆつきのきみ)が120の県(こおり)の人民を従えて移住したと記すが、中国系ではなく新羅(しらぎ)系の渡来人で、渡来時期も5世紀以降と想像される。ハタは、朝鮮語で「海」を意味する「パダ」に由来するとの説もある。山背(やましろ)国(山城(やましろ)国、京都府中・南部)を拠点として秦氏とその支配下の民(秦人・秦人部・秦部)の分布は日本各地にみられ膨大な数に及ぶ。朝廷の蔵を管理し、大和(やまと)王権の財政をつかさどる一方、新羅系の技術者を擁して鋳工・木工などの各種技術部門の主導権を握り、鉱山の開発や灌漑(かんがい)・土木事業を推進するなど殖産氏族としての活動が顕著である。政治的にはさほど目だった動きを示さないが、欽明(きんめい)天皇の側近であった秦大津父(はたのおおつち)や、厩戸皇子(うまやどのみこ)(聖徳太子)に仕えた秦河勝(はたのかわかつ)の存在は、秦氏がその豊かな経済力と財政的手腕によって、大和王権内に隠然たる力を保持したことを示唆している。
 [加藤謙吉]
 [参照項目] | 秦河勝
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 世界大百科事典 第2版 「秦氏」の意味・わかりやすい解説
 はたうじ【秦氏
 日本古代に朝鮮半島から渡来した氏族。秦始皇帝の裔を称し,後漢霊帝の子孫という漢氏(あやうじ)と勢力を二分した。《日本書紀》には,応神天皇のとき弓月君(ゆづきのきみ)が〈百二十県〉の〈人夫〉をひきいて〈帰化〉し,雄略天皇のとき全国の〈秦民〉を集めて秦酒公に賜り,酒公は〈百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)〉をひきい朝廷に絹を貢進したとある。《新撰姓氏録》もほとんど同じことを記すが,弓月君は秦始皇帝の子孫で,帰化したのち〈大和朝津間腋上〉の地に安置されたとし,酒公は〈秦民〉92部1万8670人をひきい絹を貢進し,それを納めるため〈大蔵〉を宮側にたて,その〈長官〉となったという。
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 旺文社日本史事典 三訂版 「秦氏」の解説
 秦氏 はたうじ
 古代,渡来人系の有力豪族
 秦 (しん) の始皇帝を始祖とする弓月君 (ゆづきのきみ) の子孫と称し,5世紀応神天皇の代に渡来。淀川中流から京都盆地にかけ勢力を有した。養蚕・機織技術を伝え,秦部 (はたべ) を統率し,6世紀以後大和政権の財政事務を担当した。また長岡京平安京造営にも活躍した。秦河勝 (はたのかわかつ) が京都太秦 (うずまさ) に建てた広隆寺は有名。
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 日本の都市伝説
 【日ユ同祖論】日本人のルーツはユダヤ人だと言われる18の共通点
 都市伝説の中でも定番の説の日ユ同祖論について取り上げます。
 日ユ同祖論は、日本人とユダヤ人は、ルーツが同じなのでは?と考える説です。
 結論から言うと…
 私たち日本人とユダヤ人は、同じルーツを持っている可能性が高いです。
 そうじゃないと説明が付かない!
 という多くの共通点があるのです。
 その共通点の数、実に18個です。
 ※共通点は調査して、随時追加します。
 真偽のほどはわかりませんが、日本人のルーツはユダヤ人であってもおかしくないと思うはずです。
 それでは、日本人とユダヤ人の共通点を順番に説明していきます。
 目次[非表示]
 日ユ同祖論とは
 日本人とユダヤ人のDNAのつながり
 古代イスラエル民族12支族と失われた10支族
 日本人とユダヤ人の18の共通点
 日ユ同祖論とは
 日本人とユダヤ人古代イスラエル人)は共通の祖先を持つという説です。
 日ユ同祖論は大きく3つに分けられます。
 古代イスラエルの失われた10支族が日本に渡来した説
 古代イスラエルの12支族全てが日本に渡来した説
 古代日本人がユダヤ人の祖先であるという説
 日ユ同祖論の起源は、明治に来日した、スコットランド人のニコラス・マクラウド
提唱したことから始まります。
 ニコラス・マクラウドの主張は以下の通りです。
 日本人の祖先は、イスラエルから渡来したと考える。
 古代イスラエルの失われた10支族は、
 青森戸来村、沖縄奄美朝鮮半島らを経由して 日本の京都「鞍馬寺」へ渡った。
 ダン族など残りの支族は、朝鮮半島に留まったと考えている。
 これらの説の整合性は取れているため、信じる方も多い説ではありますが、一般的にはトンデモ理論だとされています。
 日本人とユダヤ人のDNAのつながり
 しかし、日本人とユダヤ人のDNAは、強いつながりがある事がわかっています。
 男性の細胞の中には、Y染色体があります。
 Y染色体は、DNAの格納庫のようなものです。
 Y染色体の遺伝子情報は、父から息子へ、男系でのみ伝えられます。
 実は、日本人男性の40%近くは、Y染色体に「YAP(ヤップ)」という特殊な遺伝子配列を持っている事がわかりました。
 「YAP(ヤップ)」遺伝子は、
 中国人や韓国人にはほとんど見られず、アジア系人種の中で非常に珍しい遺伝子です。
 この「YAP(ヤップ)」遺伝子配列を、全世界のユダヤ人の30%程度が保有しています。
 同じ遺伝子配列を持つという事は、先祖が同じという事を意味します。
 全くの無関係という事ではなく、日本人とユダヤ人の祖先につながりがあると、考えられているのです。
 古代イスラエル民族12支族と失われた10支族
 日ユ同祖論のキーワードは、「古代イスラエルの失われた10支族」です。

 日本人と古代ユダヤ人の体形とYAP遺伝子
 古代ユダヤ人は、金髪の白人や黒人ではなく、黒髪・黒目の浅黒い肌(褐色)をした人種で、背が低かったとされています。
 そして、体格は日本人とそっくりとの事です。
 さらに、日本人とユダヤ人の男性Y染色体の中に、YAP遺伝子を持つ事は、12支族をご紹介した際にお伝えしました。
 重複となりますが、下記のとおりです。
 実は、日本人男性の40%近くは、Y染色体に「YAP(ヤップ)」という特殊な遺伝子配列を持っている事がわかりました。
 「YAP(ヤップ)」遺伝子は、中国人や韓国人にはほとんど見られず、アジア系人種の中で非常に珍しい遺伝子です。
 この「YAP(ヤップ)」遺伝子配列を、全世界のユダヤ人の30%程度が保有しています。
 同じ遺伝子配列を持つという事は、先祖が同じという事を意味します。
 全くの無関係という事ではなく、日本人とユダヤ人の祖先につながりがあると、考えられているのです。

 渡来人「秦氏」と失われた10支族
 日本に多くの技術を伝承し、日本を発展させたため、秦氏は最強の渡来人と呼ばれています。
 しかし、その多くは謎に包まれており、どんな人物だったのか不明であり、「ヘブライ系渡来人」という説もあります。
 他にも聖徳太子秦氏ではないか?
 という説もあるほど謎の人物なのです。
 秦氏は第15代応神天皇のとき、大陸から渡来しており、10万以上の人々が日本に帰化したと伝えられています。
 京都の太秦(ウズマサ)に、定住するようになりました。
 秦家は非常に有力な力を持っており、794年の平安京秦氏の力によって事実上作られています。
 また、仁徳天皇陵のような超巨大古墳建築にも秦氏の力がありました。
 秦氏の本拠地にある
 「八坂神社」の祇園信仰に、古代ヘブライ信仰と非常に似た点があります。
 そのため、秦氏古代イスラエル民族と、考える説があります。
 八坂神社や伊勢神宮の周辺などに
 「蘇民将来」という伝承にまつわる護符があるが、ここにもダビデの紋章が出てきます。
 何らかのつながりがあっても、不思議ではありません。
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