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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
江戸時代は、第107代後陽成天皇から第121代孝明天皇の御代である。
日本民族日本人は、歴代天皇と共に苦楽を共にしながら生きてきた。
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日本は大火や自然災害が前提の不安定社会であり、日本人は「言霊」で大火や自然災害と付き合って生きていた。
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「火事と喧嘩は江戸の花」。
江戸時代は、火事が付きものであった。
幕府・各藩から町人まで、「言霊」を信じて火事の「か」の口にしなかったが、何時か火事が起きてもいいように備えていた。
監修・竹内誠「町人地も武家地も焼いた全国の大火
火災の猛威
木造の家がほとんどで、有力な消火手段がなかった江戸時代、人口密集地で火事が起これば、すぐに大火となった。毎年のように大火を繰り返す江戸をはじめ、全国の都市の多くがしばしば大火に見舞われた。火災は武家地をも襲い、江戸城をはじめ、各藩の城の天守閣が焼失することも少なくなかった。
火災の復旧事業は、藩にとって大きな負担であり、幕府が見舞金を出すこともあったが、藩の財政を圧迫することになった。その一方で、建設業者にとっては大きなチャンスだった。
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火消ができても江戸の大火は繰り返された
冬の季節風が大火を生んだ
木造家屋が密集する江戸では頻繁に火事があり、人々は火事を意識して生活した。大商店などでは、火災に備えて再建用の材木を用意していた。
『火事と喧嘩は江戸の華』というのは、火事場における火消の活躍をふまえての言葉であるが、火消が整備されても、大火をなくすことは不可能であった。
大火になるのは西よりの風のときで、江戸の大半を焼きつくした明暦の大火や行人坂の大火、丙寅の大火の三大火災をはじめ、大火は空気が乾燥している12月から3月に集中して起こった」(『地図・グラフ・図解でみる 一目でわかる江戸時代』)
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町人で多い職業は、大工や左官などの建築業に関わる人足達であった。
彼らにとって火事は迷惑であったが、同時に飯の種であった。
火事が、町の経済を支えていた。
火消し衆にとっても、命懸けの危険な消火作業であったが、火事がなければ暇をもてあまして死に壮な程に退屈であった。
「言霊」を信じて火事の話をしなかったが、心のそこでは火事が起きる事を期待し、楽しみにしていた。
本音と建前では全く違っていた。
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江戸の大火で、数万人が罹災した大火は14件あり、ある程度の大きな火事は1,700件以上も発生していた。
江戸の庶民は、大火が絶えない江戸から逃げ出さず住み続けた。
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1601年から大政奉還の1867年に至る267年間で、江戸では49回の大火が発生した。江戸は「火災都市」と呼ばれていたが、大火以外の火事も含めると1,798回発生していた。
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1657年1月18日(〜20日) 第111代後西天皇。江戸三大大火の一つである明暦の大火。当時の江戸の大半が焼失し、死者は3万人から10万人と言われている。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。
会津藩主保科正之(土津神社)は、陣頭指揮を執り、三代将軍徳川家綱を城外に避難させるべきとの意見を退け、「西の丸が焼け落ちたら、屋敷の焼け跡に陣屋を立てればよい」として将軍を江戸城にとどまらせた。
保科正之は、幕府の権威を維持する事よりも江戸庶民の救済と江戸の復興に力を尽くし、限られた財源を効果的に使う事に心を砕いた。
本丸や二の丸、三の丸が再建された。江戸城天守は焼け落ちたが、平和な時代には無用の長物であるとして再建させず、なかった。
身元不明の遺体は、幕府の手により本所牛島新田へ船で運ばれ埋葬され、供養の為に回向院を建立した。
被災者には、米倉からの備蓄米を放出して食糧を配給し、町の復興の為に材木や米の価格統制を統制し、武士・町人を問わず全ての者に復興資金を援助した。
江戸の食糧を確保する為に人口統制を行い、諸大名の参勤交代停止および早期帰国の要請、町人で近郊に親戚や知人がいる者は江戸からの自主退去、江戸の人口が増えないように江戸への立ち入りを禁止した。
諸大名は将軍に忠義を示すべく江戸に駆けつけようとしたが、保科正之は禁止した。
債権にようとしていたが、陽としていたがることが幕府への忠義と考えそうなところだが
保科正之は、「自分はあくまでも将軍の後見役。自分が将軍より目立ってはいけない」との信念から、死ぬ直前に、家臣に命じて自分の業績を記した書類や書物などを焼却させた。
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日本の伝統的指導者は、自分の功績をひけらかさず、誇らず、自慢せず、何もなかったように死んで行った。
日本の指導者は、世界の指導者とは異なる信念で行動し、自分の功績を後世に残す為に自慢話的な回顧録を残さなかった。
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1683年12月28日・29日 第112代霊元天皇。天和の大火。お七火事とも称される。死者は、最大3,500人と推定される。
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1772年2月29日 第118代後桃園天皇。三大大火の一つ明和の大火。目黒行人坂大火とも呼ばれる。死者1万5,000人、行方不明者は4,000人いじょう。
放火犯は武州熊谷無宿の真秀という坊主で、6月22日に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。
江戸時代は、死刑が行われていた。
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1806年3月4日 第119代光格天皇。江戸三大大火の一つで文化の大火。丙寅の大火とも呼ばれる。
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祖先からの田畑を持つ農家も家業を受け継ぐ商家も一子相伝で匠の技を伝える職人の家も、家を守り潰さず、そっくりそのままで子孫に残す事を最大の使命としていた。
子宝に恵まれず直系の子を持たない者で、血縁縁者や血縁なき他家から養子を取る事を嫌う者は、公認で神社や寺の夜祭りに女房を送り出した。
女房達は、子どもを授かる為に、仮面や覆面して相手が分からない男達と境内の彼方此方で乱交を行った。
男が原因で子どもが出来なければ、妻達は夫公認で浮気をしていた。
夫は、正妻が産んだ父親が分からない子供を自分の実子として認めて育て、家財全てを与えた。
そうした例は、庶民だけではなく、武家にても行われていた。
武家での代表例が、淀君である。
豊臣秀吉は、秀頼誕生にかかわった陰陽師や秘密を知る淀君の近習らを口封じの為に殺害した。
地方においては、夜這いはして、他人の家に忍び込んで女房と性交渉を行う事は珍しい事ではなかった。
日本には、男女の性器を御神体として祀る民俗文化が根強く残っている。
それは、獣のような野蛮な性の乱れであり、同時におおらかで開放的な性の発散であった。
古来。日本の祝言・結婚とは、キリスト教のように絶対神の前で貞淑を命を以て誓うのではなく、男と女が此の世で夫婦である関係を契り固めるだけのものであった。
独占欲の強い男や嫉妬心の強い男は、妻が男の所に走らないようにする為に儒教的家族観を女に押し付け、そして家の中に女を押し込めた。
昔の日本人女性には、命を賭けまで「女の操」を守るという潔癖な貞淑は持ち合わせてはいなかった。
日本女性の幸せは、理想的な夫を得る事ではなく、子供を授かる事でその父親がが誰であっても関係がなく、子供を通じて夫の全財産を手に入れる事であった。
そこには、個人的な色恋や愛など入り込む余地がなかった。
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地方の農村から売られた娘の人生は悲惨で、漂泊の人生を送り、若くして死亡し、無縁仏として葬られた。
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江戸時代。大火や自然災害が繰り返し起きても、その都度、御上(幕府や大名)から見舞金や義捐金が出るわけがない為に、庶民達は自力救済として店を再建し商いを再開して生活するしかなかった。
自力救済社会では、誰も助けてくれず、生きて行く為には、ネガティブにやる気をなくして塞ぎ込んでいるは暇なく、ポジティブに空元気を出して自ら進んで動くしかなかった。
日本の大火や自然災害を生き抜く為に必要な智恵は、文系状況解析と理系論理分析であった。
江戸時代を生きていた日本人の強みは、学ばなくとも、現実の実生活を生きる事で文系状況解析と理系論理分析を均衡に体得したからである。
それが、「言霊」に支えられた民族的活力であった。
日本の大火や自然災害は、「言霊」を信じて口に出そうが出すまいが関係なく、さらには神や仏にも関係なく確実に起きていた。
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日本の世間とは、町では大工の棟梁や職人の親方や長屋の大家など、農村では豪農や庄屋・名主や村の長など、分別と責任を持ち職で一本立ちしている大人達の事である。
仕事を持って生計を立て、地域の為に働き、更に趣味や道楽や教養を持つ事で、一人前の大人として認められた。
百姓や町人達は、一人前の大人として認めて貰う為に、彼らの見識を意識して「お天道様が見ている」と言って自戒していた。
この点が、絶対神の審判を意識する西洋との違いである。
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江戸の名物は、「火事、喧嘩、伊勢屋な看板、稲荷に犬の糞」。
江戸の町は、商人の町である大阪とは違って士の町と言われるが、江戸の住人の半数が士で残りの半数が町人であった。
町人は、消費者である士に生活必需品を提供する事で生活していた。
つまり、江戸の町は士の町と言うより町人の町であった。
町人達は、町の安全を確保する為に町内や神社・仏閣などで犬を放し飼いにしていた。
放し飼いにされていた犬達は、寝床や餌を与えられ、自由に町内を徘徊し、地域の子供達と遊び、不審者を見掛けると吠えた。
そうした犬は、町犬と言われて大事に育てられていて、飼い主の分からない野良犬は少なかった。
犬が飼い犬として縄に縛られるようになったのは、西洋に倣って明治6年に畜犬規則が施行されてからである。
飼い主が分からず放し飼いにされた町犬や村犬は、野良犬として殺処分された。
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日本は、聖人君主の徳という観念的な政治的儒教を敬遠し、庶民の道徳という現実的な精神的儒教のみを受け入れた。
中国・朝鮮の儒教は、支配者のイデオロギーとして、科挙を受ける資格がある読書人や士大夫の間に広がった。
日本の儒教は、庶民のイデオロギーとして、サムライや百姓・町人の間に広がった。
江戸幕府は、儒教、特に朱子学の正統論を危険思想として警戒し、統治の正統性を天皇・朝廷をも超越した「天」に求めた。
天皇機関説的に、天皇は「天の代理」として武力で天下を統一した徳川家を承認し、朝廷は天皇の勅を報じて将軍宣下という儀式を執り行ってその正統性を認めたと。
徳川家康も、織田信長も、豊臣秀吉も、その他の戦国武将も、天皇を神ではなく殺せば死ぬ人間である事を知っていた。
むしろ。武門の棟梁である足利将軍の権威を公家の家長のような天皇の権威よりも上に見ていたがゆえに、実の将軍位に成ろうとしても、虚の天皇位には興味が無かった。
戦に出陣する時、天皇にではなく、天皇の上にある「天」を意識して戦勝を祈願していた。
神社は、天皇を崇拝する宗教施設ではなく、天皇の上にいる「天」あるいは「神」を祀る宗教施設であった。
松平定信は、朱子学を正学として、徳川幕府の権威を高める為に、徳川家は天皇・朝廷から統治権を委託されているという「大政委任論」を唱えた。
日本の儒学者は、中国や朝鮮の儒学者に比べて身分が低く、現実離れした役に立たない屁理屈のみを話す堅物として変人扱いされていた。
サムライや庶民は、理知的な小難しい儒学者の例え話を嫌い、情緒的な分かりやすい仏教僧の法話を好んで聞いた。
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江戸時代の庶民は、社会の不条理を憂いて少しでも過ごしやすい社会に変えようという、理想に燃えた真面目に生きる事をうさんくさいとして嫌っていた。
「成る物は成るし、成らぬ物は成らない」と諦め、合理的な理想に囚われた融通のない真面目さよりも、曖昧なお天道様に従う融通性のある真っ当さを愛した。
規律正しい戒律・掟に雁字搦めに縛られた生き方より、ちゃらんぽらんで馬鹿げた生き方に憧れた。
庶民の生活とは、中途半端でふざけた世界であった。
日本文化の本質は、「遊び」であって「真面目」ではなく、盲従的「古式踏襲」ではなく見えない所での「創意工夫」であった。
庶民は、「天才と気狂いは紙一重」として理想に燃える真面目な人間を恐れ、人に迷惑をかけないちゃらんぽらんな人間を趣味人として愛した。
貧しくとも物事を深刻に考えず、空元気で生き抜こうとした。
こうした好い怪訝な人間観ゆえに、儒教は庶民の間では広まらなかった。
世間の空気に支配され社会に対する真剣さがなかった為に、社会を変革しようという意欲は生まれず、「日々これ好日」として社会は停滞していた。
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司馬江漢は、伊勢参拝に向かう途中の旅籠で、その表戸口に「儒者・学者、虚名の者、並びに物もらい入るべからず」との立て看板を見た。
日本人の識字率の高さは、朝鮮とは違って、民族独自の日本語による和文であり、国際語である中国語による漢文ではなかった。
日本人が好んで読んでいたのは、東洋思想である儒学や仏教などの漢籍ではなく、英雄奇談や滑稽・色物などの物語である。
日本人の読書は、高度な教養を身に付ける為の学習ではなく、単なる娯楽、憩いにすぎなかった。
ゆえに、中国はおろか朝鮮などには関心もなく、興味もなく、あえて知ろうとは思わなかった。
中国に対する思い入れは、日本人と朝鮮人では正反対に近いほど異なる。
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2017年2月5日 朝日新聞「ひもとく 磯田道史
都市と大火
変わるリスクに応じた防災を
江戸は世界に類例がないほど火災が多発した。昨年12月、糸魚川で大火があった。焼失面積は約4万平米。都市防災が専門の西田幸夫氏によれば、江戸の町では今回の糸魚川のような3万平米(約1万坪)を超える大火が毎年のように起こっていた。江戸が東京となり1900年ごろに消火栓ができるまで、大火は日常であった(辻本誠著『火災の科学』=中公新書ラクレ・品切れ)。当時の日本都市は木造家屋が過密に集中していたからである。
江戸は火事前提
江戸時代の日本人口は3,000万人。米作地帯で高度な農業社会だから人口密度が高い。しかも徳川将軍や大名は天下泰平のため時分の膝元(ひざもと)に家臣を集住させ、恐ろしい過密都市ができた。武家の消費を担う町人は狭い空間にひしめいた。屋敷面積が身分格式の証しで、町人は武家より狭い空間に住むのが社会の基本。幾度、火災にあっても、火除け地を設けるだけで、町人住居をひろげる発想はなかった。むしろ、頻発する火事が前提の社会で、武家や土地持ちの豪商ら金持ちが、火災のたびに屋敷を建て直し、結果的に、火災は大工など庶民に富を分配する機能をもった。だから、放火も多かった。
江戸では住民は穴蔵をほり、火事の時はそこに家財を投げ込み身一つで逃げた。穴蔵で、江戸の10分の1が穴になったともいわれる(『江戸の火事』黒木喬著、同成社江戸時代史叢書)。乾燥した日に大風が吹く江戸の店では土蔵に粘土で目張りをした。なければ味噌で蔵を封じた。江戸に比べ、京・大坂では、火事の頻度は少なかった。比較経済史が専門の斎藤修氏によれば、江戸は裏店(うらだな)の世界、大坂は商家の世界である。江戸は独身男が長屋で暮らし、酒に寝たばこで火元管理が難しい。一方、大坂は商家に住みこむ手代・丁稚(でっち)らに厳しく火の用心をたたきこんだ。
ただ、京・大坂にも大火はあった。『銀二貫』(高田郁著 幻冬舎時代小説文庫)は大火のなかを生き抜く、京・大坂の商人の暮らしを描いた時代小説である。町の庶民の運命は火事が握っていた。『大火が町を焼き尽くす度、人々は店を普請し、商いを再開し、幾度となく立ち直る』。前近代の日本人の火事とのつきあいかたを良く言い表している。江戸では店の焼失は織り込みずみで、大店(おおだな)はしばしば郊外にプレハブのような店の建設部材をあらかじめ用意していた。それで火事場の灰が温かいうちに営業を再開する店もあった。
近現代の大規模火災のパターンは2つ。大型ビル火災と、主に日本海側の港町が乾燥風(フェーン)にあおられる大火。後者は函館(1934年)、魚津(56年)、酒田(76年)などで起きた。港町は木造家屋が密集。ここで起きる大火の分析で参考になるのが、夏目漱石の一番弟子で物理学者の寺田寅彦の文章。『函館の大火について』(『天災と国防』講談社学術文庫)である。
『各自が覚悟を』
『火事と喧嘩は江戸の華』というが、寺田は江戸で華であったのは、火事ではなくて、江戸の火消=消防機関の活躍であった点を忘れるなと釘を刺す。火災の科学知識の教育普及と、学際的な火災の研究の必要を説く。『全国民は函館罹災(りさい)民の焦眉(しょうび)の急を救うために応分の力を添えることを忘れないと同時に各自自身が同じ災禍にかからぬように覚悟をきめることがいっそう大切』と寺田は訴える。函館は糸魚川と換えれば、そのまま我々にあてはまる言葉だ。
現代社会は、建物の高層化・深層地下化、そして新素材の使用など、新しい火災リスクがいっぱいで、そこに高齢化という人間側の問題が加わる。寺田の警句をかみしめたい」
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