🕯161)─1─鴨長明『方丈記』。もののあわれ。無常観。松尾芭蕉『野ざらし』。賽の河原。死と桜そして花見。~No.339 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 大滝秀治「健康と元気は別物」
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 人は見たいものを見て、信じたいものを信じる。
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 日本の心は、絶望の中でも笑いを忘れない。
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 哀しみには終わりがあるが、寂しさには終わりがない。
 時間と共に、哀しみは薄らぐが、寂しさを募るばかりである。
 日本民族日本人は、それでも歩みを止める事なく、前を向いて、明日に向かって、歩き続ける。
 それが、自然災害多発地帯に生きる日本民族日本人の生き方。
 我慢し諦めるが絶望はしない、夢と希望を持ち、嵐の日には晴れる事を信じ、漆黒の闇では明かりを求め、夜には朝を待ち望む。
 希望と夢。
 日本の不劇な物語は、神道と仏教の宗教性をおびて逃れられない定めの因果律を表しているが、心の救いとして滑稽話や洒脱話などで「笑い」を含ませている。
 それは、悪ふざけではない。
 心の弱い日本人は、一人だけで悲しみや絶望を堪えきない為に、皆と楽しめる笑いを絶えず求めていた。
 自然災害多発地帯日本列島で生きる為には、絶望的な状況にあっても希望と救いを失う事を恐れた。
 石井公成「『平家物語』では、後白河法皇らが鹿ヶ谷で平氏打倒の策を語り合っていた際、酒を入れるとっくりが倒れたのを見て、一同は『瓶子(平氏)が倒れた』と称し、『首を取ろう』と言って、とっくりの首を折ったりして喜んでいますが、これなどはそうしたお笑いの面の名残りなのです」(『佼成』2016年6月号)
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 1177年 安元の大火。
 1180年 治承の辻風。
 1181年 養和の飢饉。
 1185年 平家滅亡。元暦の大地震
 1212年 鴨長明方丈記』。
 人が淋しい思うのは、「人がいない事が淋しい」のではなく、「人がいなくなってしまう事が淋しい」のである。
 鴨長明は、家を捨て、名誉や栄達を捨て、あらゆる人間関係を捨て去り、山中の一辺一丈の粗末な庵に一人住みつき、誰もいない孤独な生活を送っても淋しさを感じてはいなかった。
 むしろ、ひとり暮らしの孤独に癒やされていた。
 誰もいなくなって取り残され、人の温もりが周囲から消えた時に、その喪失感と寂寥感が淋しい。
 それが、日本の「もののあわれ」である。
 喪失感と寂寥感の淋しさに打ちひしがれた時、日本人は、無理をして笑顔を作り明るく前向きに振る舞う事をせず、然りとてわざとらしく泣き叫び転げ回って悲しみを見せつける事もせず、哀しみから逃げる事な向かい合い、涙を流し、声を殺し、哀しみに沈み、哀しみに身も心も委ねた。
 「生きる哀しみ」に抗う事なく受け入れる。
 日本文化は、命の芽生えである春を愛するが、命の儚さを身にしみて感じる秋が似合う。
 日本神道は、儒教同様に、宗教が必ず持っている明解な死後の世界を持ってはいない。
 日本神道は、死んだ後の事が分からない以上は天国と地獄と極楽浄土と無間地獄とかの死後の世界を言葉で説明せず、生まれた以上は死を迎えるだけとしてどう死を受け入れるかの儀式・作法を伝承してきた。
 「もののあわれ」を中心核とする日本文化は、雲の合間から出る月のほのかな明るさを愛で、草むらで静かに鳴く虫の音を愛した。
 そこには、生と死が渾然一体としていた。
 体力や知力ではどうにも抗う事のできない無力感。
 日本神道は、無力感に打ちひしがれた活力を甦らせる為に、喪失感と寂寥感の淋しさに囚われた気力を満たす為に、世を払う禊ぎとして「祭り」を執り行った。
 静寂に包まれた「心の祀り」と、躍動感に溢れた「体の祭り」。
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 ブリジット・バルドー「大切なのはどの道を選ぶかより、選んだ道をどう生きるか」 
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 酒井雄哉比叡山延暦寺大阿闍梨)「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」
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 薬師寺の高田管長「朝は希望に起き、昼は努力に生き、夜は感謝に眠る」
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 仏教に於ける「諦める」とは、「明らかに究める」の意味である。
 「諦める」とは負け犬の様に逃げる事ではなく、逃げ場がない身の上である事を納得して前に向かって進む事である。
 般若心経の「ギャーティ ギャーティ ハラ ギャーティ」の文句は、一説に「諦めなさい」と訳す事もある。
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 きたやまおさむ白鴎大学副学長)「両親と子どもが床を同じくするという、日本に古くからある『川の字文化』を象徴する一枚と言えるでしょう。しかし、こうした絵を海外の人に見せると驚かれます。
 西洋では、両親と子どもが同室で眠るのはタブーとされています。深層心理学には『エディプスコンプレックス』という言葉があります。息子が父を殺害して母を妻にしたというギリシャ神話にちなんだもので、子どもが異性の親に愛着を持ち、同性の親を敵視する状態を指します。古来、母と息子や父娘の恋愛は大きなタブーで、西洋で寝室を分けるのもそうした理由からだと考えられています。
 ところが、日本では『川の字』です。親子3人が、タブーを意識することなく平和的に共存している。母は授乳を通して子どもとつながり、愛の営みを通して父ともつながる──この三角関係で、対立することなく自然な共存を目指すのです。私はここに、日本独特の『和』の思想を見ます」(ユートピア的な「川の字文化」)
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 曾野綾子「孤独と絶望、この二つの感情を体験しない人は人間として完成しない」
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 「啐琢(そつたく)の機」とは、この世に生まれて来たい雛と、産み出したい母鳥の親子の絶対の信頼が、宇宙の生命の同時性を生む。
 本人が、生きたい、直したい、やり遂げたいという、内に秘めた一途の強い念いがなければ何事も成し遂げる事ができない。
 藁にでもすがりたいその一途の念いを込めた一心不乱の行動が、周囲を動かす。
 「あるがまま」に今ある状態を正常と納得し、「負も正も」運命と受け入れて、思い定めた事に向けて一歩踏み出す。
 勝ち負けではなく、自分の問題である。
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 賽の河原。柳田国男「我々は皆、形を母の胎に仮ると同時に、魂を里の境の淋しい石原から得たのである」
 賽の河原は、死児の鎮魂の場でると同時に、誕生を祈り、再生を願う場でもある、という。
 上田正昭「柳田学(柳田国男)は人の幸福に目を向けようとするに対し、折口学(折口信夫)は不幸に目を向ける民俗学だ」
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 賽の河原
 親に先だって死んだ子供が苦を受けると信じられている冥土(めいど)にある河原。西院(さいいん)(斎院)の河原ともいう。ここで子供が石を積んで塔をつくろうとすると、鬼がきてそれを崩し子供を責めさいなむが、やがて地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が現れて子供を救い守るという。このありさまは、「地蔵和讃(わさん)」や「賽の河原和讃」などに詳しく説かれ、民衆に広まった。賽の河原は、仏典のなかに典拠がなく、日本中世におこった俗信と考えられるが、その由来は、『法華経(ほけきょう)』方便品(ほうべんぼん)の、童子が戯れに砂で塔をつくっても功徳(くどく)があると説く経文に基づくとされる。また名称については、昔の葬地である京都の佐比(さい)川や大和(やまと)国(奈良県)の狭井(さい)川から出たという説、境を意味する賽から出たという説などがある。[松本史朗]
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 悲観論者は、自分の予想以上の結果で失敗し、没落し、全てを失う。
 楽観論者は、自分の予想に近い形で成功し、そこそこに得をし、それなりのモノを得る。 誰も靴を履かない国に派遣された靴販売店のセールスマンで、悲観論者は靴の需要はないと絶望し、楽観論者は無限の需要があると悦ぶ。
 日本民族日本人は、甚大なる被害出す自然災害多発地帯に生きてきた為に、悲観論者として粘着質的に猜疑心が強く必要以上に先行きを不安視するが、楽観論者として淡泊で諦めが早く気持ちを切り替えて素速く行動してきた。
 日本民族日本人は、表の建前と裏の本音を巧みに操って、柳の枝のように強靭的にそしてしなやかに生きてきた。
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 日本には、世界の非常識が多く存在している。
 日本人は、世界で取り立てて愛されてもいなければ、尊敬もされていない、むしろ世界常識が分からない人間と見られている。
 日本人とは、自分を卑下し悪く言って快感を覚える自虐趣味を持ち、自分の馬鹿さ加減を吹聴して自嘲し、自分を辱め貶める事で悦ぶという異常心理を持っている。
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 自意識の弱い日本人は、世間から権威あるとされた有識者の発言で、右に偏ったり、左に偏ったり、情けない程に迷いに迷って自己決定ができない。
 民族に自信を持つ日本人は、民族の古層に流れる「何でも御座れ式中庸」という思想でぶれる事がない。
 「一本調子」を嫌う民族的古層を持っている日本人は、中国人や朝鮮人のように根底から覆すような大崩壊を起こす事なく、目も当てられない程の陰惨な状況に陥る事がなかった。
 日本には、中国や韓国のような大虐殺の歴史は存在しない。
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 日本の強みとは、自然災害多発地帯という島国の特性として、多元で一元に囚われず、実体なき多様性にある。
 ようは、腰が据わらない浮ついた「あやふや」である。
 「あやふや」であるがゆえに、落ち着きを得る為の精神修行として、自分を局地に追い詰める「座禅」や「滝修行」に憧れる。
 静的日本文化とは、日本人が持つ「あやふやな心」や「浮ついた気持ち」や「目移り心変わりしやすい衝動」を沈める為に発展してきた。
 必要でないモノを全て、捨て去り、削ぎ落とし、打ち捨てて、その中心の本質だけ抽出し最小に凝縮させで残す。
 万物は何時かは消滅し無になり、生ある物は必ず死ぬ。
 無の状態から、突然、有ると言う状態が現れ、次の瞬間に無へと消える。
 日本文化は、永遠の無を感じてとる「無の思想」である。
 無には、時空世界としての時間的制約も空間的限界もなく、果てしなく終わりがない、尽きる事がない、定まった形を持たない、漠然とした?み所のない広がりがあるのみであるい。
 ゆえに、「一期一会」である。
 ゆえに、「古池や 蛙飛び込む 水の音」である。
 日本文化は、避けられない死という人生の悲哀から「無」に溶け込もうとする。
 消滅して死ぬ定めであるが故に、今であった事を大事にし、今この時を愛おしく過ごす。
 この底なし的な無の感覚は、中国や朝鮮には無く、自然災害多発地帯の日本にのみ有る。
 西洋は、一元的な唯一絶対価値観を基にして、自分という主体を対象・現象から切り離して「客観的に思考」してきた。
 万物は消滅して無に帰す事なくそこに「有」り、命は死ぬ事なく永遠に特定の場所(天国・神の国)に「残」るのである。
 有には、時空世界としての時間的制約も時空的限界も存在し、定められた形という美しい均整が取れた画一・単一でする。
 西洋文化とは、自意識で自ら行動する「有」の思想で、全てを手に入れ中心に集めて山と築いていく動的文化であるある。
 ゆえに、「私は、美しい花を見る」である。
 西洋文化は、死を超越した永遠の命という人生の賛歌から「有」と一体化する。
 中国と朝鮮は、西洋文化に近い。
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 歌人鴨長明は、50歳で出家して京都の山中で一人暮らしをはじめ、孤高の一人として62歳の生涯を終えた。
 高僧が「狂」となって、地位や名誉や財産を捨てて乞食となり、富と知識が集まる中央の世から全てに事欠く地方の辺境に逃げて漂泊の旅を続け、放浪の末に見知らぬ土地で一人寂しく死んで行った、そうした隠遁者の説話を集めた『発心集』。
 古今亭志ん生「貧乏はするものではない。味わうものだ」(『びんぼう自慢』)
 自然災害多発地帯の日本で、大地震や台風、戦乱や大火災、飢餓や疫病などの災難に翻弄されながら命を失う人々の姿を描写し、諦めとしての観念的「人生の無常観」と救いとしての現実的「あるがままの清涼感」を綴った随筆『方丈記』を書き上げた。
 諦めの無常観と救いの清涼感は、生活に難渋する山中の粗末なあばら屋でる方丈庵の傍らに流れていた小さな渓流から生まれた。
 人を寄せ付けないような奥深い山中にある小さな渓流のせせらぎが、時間と空間を超えた無限の「無の世界」を醸し出していた。
 八百万の神々。霊魂。自然の1/fゆらぎ。マイナスイオン空気イオン)。
 危機に直面し、苦難に陥ったとき、その状況を如何に生き抜くかは現実に即した知恵が必要である。
 知恵の源泉は、先祖から受け継いできた人間としての本当の教養であり、自分で考えず他人から借りてきた上っ面だけの軽薄な情報(例えばネット情報)ではない。
 重要なのは、一人で立つ集合知であって、他人に流される集合痴ではない。
 人は、所詮、一人で立ち、一人で生き、一人で死んでいく。
 自然災害や大火が頻繁に起きる日本で伝承されてきた生き方は、一人で生き、ない物や足りない物は自分で作り、そこに行けばあるのであれば自ら出向いて手に入れる事であった。
 そして、自分で作れない物やどうにもならない事には、なけなしの金を払って手に入れる事。身銭を切る事であった。
 一人で生きて死んで行くが故に、同じ一人で生きて死ぬ者同士として絆を大事にし、寄りかかり依存しないようにしながら助け合わねばならないと。
 まず自分を助け、身の回りの者を共に助け、全ての者を公として助ける。
 福沢諭吉「一身独立して一国独立す」
 古くは『万葉集』から、自然災害多発地帯に生きる日本人は「死」から目をそらす事なく「生」を考え、そして他の大勢の人に囲まれていても所詮は「一人」を痛感していた。
 良寛「沙門にもあらず、俗人にもあらず」
 西行吉田兼好。一休。千利休良寛松尾芭蕉種田山頭火
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 鴨長明「おびただしく大地震振ること侍りき。そのさま、よのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水涌き出で、巌(いわお)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は足の立ちどをまどはず」(『方丈記』)
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詠み人しらず「今今と今という間に今ぞなく 今という間に今ぞ過ぎ行く」
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 親鸞「明日ありと思う心の仇(あだ)桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」
 (明日があるから、明日やればいい、と思う心のあやまち。美しく咲く花も夜中に嵐が吹いて散ってしまうかもしれない)
 「人のいのちは日々に今日や限りと思ひ 時時に只今やおはりと思ふべし」
 (人の命は今日、今しかない、何があっても決して後悔する事がない様に、真剣に今を積み重ねて行く事が大切)
 「非人を差別する者こそ、真の意味での非人なのだ」
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 自然災害多発地帯の日本では、誰も責任が取りようのない不慮な災難は、無理に犯人探しをして責任を押しつける事なく、やむを得ない「天災」と諦めた。
 もし。それが原因で死亡すれば、寿命、定めとして諦めた。
 自然災害多発地帯で生きる知恵とは、「諦念」である。
 他人のせいではなく自分の責任として「諦念」する事が、無常観であった。
 自然災害多発地帯で生きる者は、自己責任・自己判断が原則であるが、皆で一致協力して事態に対処する集団行動が鉄則で、「甘え」や「わがまま」は許されなかった。
 一人の自分勝手・身勝手で、全員が被害を受け、場合によっては全員が死ぬ危険があるからである。
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 百姓や町人達は、無能さを自覚していただけに無駄な努力をしなかった。
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 権力や権威と無縁な庶民は、努力と怠惰の間に楽しみ・趣味を求めた。
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 オリヴィエ・ジェルマントン「神道なくして日本はない。日本人よ、すみやかに誇りと主権を取り戻せ」
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 2015年11月22日号 サンデー毎日五木寛之のボケない名言
 汝が性(さが)のつたなさを泣け (松尾芭蕉
 人に人を救うことはできるか
 『野ざらし紀行』のなかに出てくる言葉に触れて、最初、異様な感じを受けたものだった。芭蕉という人が恐ろしくなったのである。
 富士川ぞいに旅をしていると、あわれな泣き声がきこえる。道端に赤子が捨てられていて、しきりに泣いているのだ。
 中世では捨て子や人さらいなどはめずらしくなかった。『女盗(と)り子盗りは世のならい』といわれたものである。江戸時代になると、間引きや、捨て子が多くなる。口減らしというか、幼な児を養育できなくなる人びとが増えてくるのである。秋風のなかに泣く子を見て、芭蕉はどうしたか。
 『露計(つゆばかり)の命待つ間と捨置(すておき)けむ』
 この子の命は明日までもつであろうか、と、『袂(たもと)より喰物(くいもの)なげてとおる』のだ。そうして一句吟じるのだから凄い。
 『猿を聞く人捨子(すてご)に秋の風いかに』
 風いかに、などといわれても返答に困る。その後につづく文章も恐ろしい。
 『汝(なんじ)ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ、唯これ天にして、汝が性(さが)のつたなさを泣け』
 おまえの宿業というか、身の不運を泣くしかあるまい、という。これを冷たいと見るのはまちがいだと、おおかたの論者はいう。たしかにそこで拾いあげても、どうしようもないのだから、人は人の存在を嘆くしかないのだ。そういわれれば返す言葉はない。しかし、なあ。」 
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 6月5日号 サンデー毎日五木寛之のボケない名言
 人は誰でも寂しいものなのだ
 これは戯曲『出家とその弟子』の中で、親鸞が弟子の唯円に向けて語る一?である。劇中のセリフであるが、作家の倉田百三の言葉として取り上げた。
 唯円親鸞の面綬の弟子である。のちに『歎異抄』の著者とされて、人びとにもその名が知られることとなった。
 あるとき唯円親鸞に告白する。自分はこのところ淋しくて仕方がないのです、といのだ。
 別にとりたてて原因があるわけではない。念仏を信じて生きていながら、理由もなく一人で涙がこぼれてくる。念仏者がこんなことでいいのでしょうか、と親鸞に相談するのである。
 それに対して、親鸞はこう答える。
 『淋しいのが本当だよ。淋しい時には寂しがるより仕方がないのだ』と。
 あなたは淋しくはないのですか、と唯円が重ねてたずねると、親鸞は『私も淋しいのだ』とうなずく。
 『私は一生涯淋しいのだろと思っている』
 つよい信仰を持っていても、人間は淋しいものなのだ。いわんや凡夫である私たちにして淋しくないわけがない。
 ロシア語の『トスか』という言葉を、二葉亭四迷は『ふさざの虫』と訳した。ポルトガル語の『サウダーデ』を、新田次郎は『孤愁(こしゅう)』と呼んでいる。人生は淋しいものなのだ、と覚悟を決めることで、なぜか心が軽くなるような気がする、と言ったら笑われるだろうか」
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 桜と花見。天皇の皇祖皇宗祭祀と稲作信仰。
 1926年(大正15年・昭和元年) イギリス人コリングウッドイングラムは、新しい桜の品種を入手する為に来日したが、400種以上あった品種が激減している事に落胆した。
 日本人は、桜の中でも染井吉野ソメイヨシノ)を好み、新しい桜の名所や公園そして道路脇に染井吉野のみを植え、他品種の桜を排除した。
 染井吉野による桜の単一化が進み、それ以外は数を減らすか絶滅した。
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 日本人にとって桜とは、教養なき庶民のように好み酒を飲んで浮かれ騒ぐ宴会・お花見の飾りにすぎず、教養ある知識人のように静かに花を愛(め)でる対象ではなかった。
 日本人にとって桜とは、好む花であったが、愛(いと)おしむ花ではなかった。
 サムライや軍人にとって桜とは、咲いて直ぐ散る「潔い」花であった。
 教養有る者と庶民とサムライ・軍人とでは、三者三様で桜の捉え方が違う。
 日本的教養の有る者は、多様性を大事にして染井吉野ではない希少な桜を愛で大切にした。
 昭和に入り、戦後になって、桜の単一化は加速している。 
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 茨木のり子「ことしも生きて さくらを見ています ひとは生涯に 何回ぐらいさくらをみるのかしら
 ……
 さくらふぶきの下を ふらふら歩けば 一瞬 名僧のごとくにわかるにです 死こそ常態 生はいとしき蜃気楼」
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 2016年4月10日 サンデー毎日「一条昌也の人生の四季
 花見をするなら、死を想え!」
 日本各地で桜が咲きはじめ、花見のシーズンがやってきた。日本人は『限りある生命』のシンボルである桜を愛してきた。日本人がいかに桜好きかは、毎年のように桜に関する歌が発表されて、それが必ずヒットすることからもよくわかる。
 平安時代より以前は、日本で単に『花』といえば梅を指した。平安以降は桜である。最初は『貴族の花』また『都市の花』であった桜だが、武士が台頭し、地方農民が生産力を拡大させるにしたがって、次第に『庶民の花』としての性格を帯びてくる。よく『花は桜木、人は武士』などといわれるが、これは江戸中期の歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』に用いられて以降、流行語となった。
 国学者本居宣長は桜を日本人の『こころ』そのものとしてとらえ、『敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花』という和歌を詠んだ。桜を見て、『ああ美しいなあ』と感嘆の声を上げること、難しい理屈抜きで桜の美しさに感激すること、これが本当の日本精神だというのである。
 日本人は、月と花に大きな関心を寄せてきた。月も花も、その変化がはっきりと眼に見える『かたち』であらわれるから、自然の中でも時間の流れを強く感じさせる。
 特に日本においては桜が『生』のシンボルとされた。桜ほど見事に咲いて、見事に散る花はないからだ。そこに日本独自の美意識も生まれた。
 月に桜を誰よりも愛した日本人こそ、『歌聖』と呼ばれた西行である。彼が詠んだ歌の中でも、『願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ』は特に有名だ。西行は、この歌に詠んだとおりの状況で入寂したという伝説が残っている。
 結局、月も桜も、その美しさ、はかなさは限りなく『死』を連想させるのである。月は欠けるから美しく、桜は散るから美しく、そして人は死ぬから美しいのかもしれない。
 散りゆく桜の花びらを眺めていると、死が怖きなくなっている自分に気づく。花見をするなら、死を想え!」
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 2016年4月17日 サンデー毎日「四季 宮廷料理の心 松本栄文
 桜は日本人特有の文化・価値観・習俗に根付いたものです。その語源は『神の宿る木』(サ=歳の神、クラ=神蔵)を示す大和言葉に始まります。桜の新芽が動き出した頃合いに田んぼの土を耕し、花が咲けば稲種を蒔き、田に水を張る。そして
桜葉が新録を迎えると田植えを行い、濃緑になれば田の水切りをして苗の分(ぶん)けを促進、花が咲き、翡翠(ひすい)色の淡い緑穂が実ります。やがて御盆が過ぎ、桜葉が黄色に変わると収穫、杭(くい)掛けにして天日干しです。紅葉して落ち始めた頃に脱穀し、乾燥した稲藁(わら)で注連縄(しめなわ)を作り、正月歳(サイ)の神様を家に御迎えして稲作1年を感謝申し上げるのでございます。こうした1年の稲作暦が日本独自の『年度〆(じめ。4月始まり、3月終わり)』を誕生させたのです。また『お花見』とは、ただ木の下で酒盛りをするのではなく、神々に『御酒と御餅』を供御し、新たに始まる田植えが豊穣の実りを得られますようにと祈願した民間習俗が今に発展したもの。桜を知ることは日本人を知るに通ずることなのです」
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 1594年 豊臣秀吉は、足軽・百姓の卑しい身分の出身だっただけに陽気に浮かれ騒ぐ事を好み、5,000人以上を従えて吉野山で盛大な花見の会を催した。
 「年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」
 (ぜひ一度は拝みたいものだと長い月日、願い続けた吉野の桜。一目千本とも言われる花の盛りを今日、ついに私は見る事ができていることだなあ)
 豊臣秀吉「世が安らかになるのであれば、幾らでも金を使う」


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