✿341)─1─悪名高き日本ナショナリズムの胎動。身分低い国学の四大人。商人の子・本居宣長。〜 No.711No.712/@          

本居宣長(上)

本居宣長(上)

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・    
 日本民族日本人=日本文明・日本文化=日本国語・言霊・和歌・俳句=日本神道・日本仏教・日本儒教・中華漢籍国学蘭学=日本天皇
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 日本儒教陽明学朱子学の折衷。
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 日本のナショナリズムは、天皇中心の民族性に目覚めた身分低い庶民の間から生まれ出た。
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 賀茂真淵は、江戸時代中期の国学者歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した。
 荷田春満本居宣長平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされ、その門流を「県居(あがたい)学派」、あるいは「県門(けんもん)」と称した。
 元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)に岡部政信の三男として生まれた。岡部家は賀茂神社末社神職を代々務める旧家で[2]、父政信は分家筋で農を業とした。
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 荷田春満(寛文9年1月3日(1669年2月3日)- 元文元年7月2日(1736年8月8日))は、江戸時代中期の国学者歌人。通称は、斎宮(いつき)。初名は信盛と称し、のちに東丸。賀茂真淵本居宣長平田篤胤と共に国学の四大人の一人とされる。
 荷田春満の父は伏見稲荷神社(現在の伏見稲荷大社)の社家で御殿預職の羽倉信詮(はくら のぶあき)であり、母は細川忠興の家臣深尾氏の娘貝子である。
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 平田篤胤(安永5年8月24日(1776年10月6日) - 天保14年閏9月11日(1843年11月2日))は、江戸時代後期の国学者神道家・思想家・医者。出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後、備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。大角(だいかく)または大壑(だいがく)とも号した。医者としては玄琢(のちに玄瑞)を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。
 復古神道古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満賀茂真淵本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。
 安永5年8月24日(1776年10月6日)、出羽久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として秋田郡久保田城下の中谷地町(現在の秋田市中通4丁目)に生まれた。生家の大和田家は、朱子学を奉じ、国学神道とは無縁であった。

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 本居宣長は、坂本木綿の問屋と売り場を営む豪商小津家の次男として生まれた。
 伊勢山田の紙商今井田家の婿養子となったが、家業に精を出さなかった為に2年後に追い出されるようにして離縁させた。
 宣長は、医学を学ぶ為に京に上り、姓を商家の小津姓から祖先の本居姓に戻した。
 国学者本居宣長の誕生である。
 1763年5月25日 本居宣長は、伊勢神宮参宮の為に松阪を来訪した賀茂真淵と初めて対面し、古事記の注釈について指導を願い、入門を希望した。
 1764年正月 本居宣長は、昨年暮れに入門を許可されたので、入門誓詞を賀茂真淵に送った。
 賀茂真淵は、万葉仮名に慣れる為に『万葉集』の注釈から始めるように指導した。
本居宣長「すべて意も事も、言を以て伝うるものなれば、書(ふみ)はその記せる言辞(ことば)こそ主(むね)ぬは有りける」
 本居宣長は、古代の大和言葉万葉集を口に出して読みながら古代日本人の心を想起した。
 万葉集百済語で書かれ、百済語で読み解けるという事は悪意の満ちた説である。
 そして。古事記を読み解くうちに、日本は中国や朝鮮とは違って、天の皇孫が統べる尊き皇国であると言う結論に到達した。
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 石川淳「『古事記』はすべてこれ古き世の語部が声に出て誦み上げたという代々の旧辞である。これに訓したということは、遠い語部の声を追い求めて、宣長みずからこれを誦みならったにひおしい。旧辞の世界は神々の住むところである。神々は宣長の目前をかすめた雲烟ではなく、そのいのちの息の中に躍動して、その体内に宿った『実物』であった」
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 1787(宝暦6)年 『先代旧事本紀』と『古事記』を本屋で購入し、賀茂真淵の書に出会って国学の研究を始めた。
 その後。本居宣長は、賀茂真淵と文通しながら指導を受けた。
 1788年 京都から松坂に帰り医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。
 本居宣長は、世界初の女流作家・紫式部による『源氏物語』の注釈に取り掛かり、物語の内から「もののあわれ」を知る事が肝要であると説いた。
 『紫文要領』「およそこの物語54帳は、物の哀れを知るという一言に尽きる。世の中のありとあらゆる事のさまざまな姿を、見るにつけ聞くにつけ触れるにつけ、そのよろずの事を心で味わって、我が事のように感ずる。此れが事の心を知る、物の心を知る、物の哀れを知るという事である。
 人が甚(いた)く悲しむ様を見聞きして、その悲しみの心を知り、さぞ悲しかろうと我が心に推して量って感ずるのが物の哀れで、物の哀れを知らぬ人は、どれほど人が悲しむのを見ても心がそれに与(あずか)らないから何も感じない。
 世のあらゆる事に物の哀れはあり、善悪正邪の別にあっても、感ずる心は自ずと抑え難く生まれるものであるから、我が心ながらも想うに任せぬところがあって、悪しく邪な事にも感ずる時がある。
 儒仏の道は、悪しき事に感ずるのを戒め、悪しき事には感じないように教える。我が国の歌と物語は、まず物の心、事の心に感ずるのを良き事とし、その善悪正邪には関わらない。とにかく感ずる事を物の哀れを知るといいう、いみじき事とする。物の哀れとは、以上のような味わいをいうのである」
 自然災害多発地帯においては、森羅万象すべてを善と悪」「正と邪」「イエスとノー」といた単純明快に二分できるものではなかった。
 自然災害は、人の命を奪う甚大な被害をもたらすが、同時に多くの恵みをももたらしてくれた。
 日本民族日本人は、そうした両面を持つ自然環境で生きた来た。
 災害をもたらす自然を恨む事は、恵みをもたらしてくれる自然を呪う事になる。
 人のひ弱な力では自然災害を防ぐ事ができない以上、自然災害を受け入れて耐え忍ばねばならない。
 日本列島に生活する以上は、自然災害は避けられないものとして「諦めて」受け入れねばならない。
 人の心も、同様で。
 生まれながらにして極悪非道な人が以内のと同様に、生まれながらにして聖人君主で善良な人はいない。
 生まれた場所や、育った環境と出会った人で抗う事なき定めとして人は変わって行く。
 そうして、人から愛される好人物になり、人から嫌われる悪人となる。
 それは、哀れと言うしかない。
 日本民族日本人は、その抗う事のできない定めゆえに「罪を憎んで、人を憎まず」と考えた。
 人を二面性にわけ、人格面では犯罪を犯した事を法に照らして罰するが、霊魂面では純粋無垢な心として許した。
 日本民族日本人は、「お人好し」にも、人を憎みきれない「心の弱さ」を持っていた。
 日本民族日本人の人間観は、自然災害多発地帯で生きる知恵として「人を信じ切る」にあった。
 如何に裏切られ幾度も騙されようとも、人の心を信じた。
 人を信じ切らなければ、自然災害多発地帯では生き残れない。
 愛憎の邪な心や犯罪を行う悪しき心は人の本性ではなく、人の本来は清明で穏やかな心を持っているのに、何らかの事情で道に迷ってしまったと想い。
 その迷うに陥らざるを得なかった事を「もののあわれ」として、涙を流して見詰めた。
 絶える事なき自然災害において、朝鮮や中国のような不毛な激論に時間はなく、意味もない美辞麗句の祈りを長々と捧げるゆとりもなかった。
 『石上私淑言』「聞いて曰く、愛しい我が子に先立たれた時、父は落ち着いて冷静にしているのに、母がひたすら歎き悲しんで涙に暮れている様を見比べれば、はかなく女々しいのは、女子供のなす業というべきではないのか。
 答えて曰く、その通りである。しかし、雄々しい父の姿は、世間体を慮って取る繕った表面であって、母が人目も気にせず泣き崩れるのは、まことに女々しくみっともなく見えるけれども、これぞ飾らぬ真の情(こころ)である。
 表面の違いはあっても、心奥の悲しみの深さに変わりがある筈はないので、どちらを賢いとか愚かであるとか決めつけられる事ではない。詩歌というのは、塞いだ心からあり余るものを歌い出て、悲しみを晴らす為の技であるから、必ず女々しくなくてはならないものなのだ。
 されば詩歌は異国の書(ふみ)のように、かくかくあらねばならぬ、と万(よろず)に取り繕っていうべきものではない。善くも悪くも、想う心の有りの儘を歌うもので、今のように、此れは良くない、とか、これは女のようだ、とか決め付ける賢い詩は、詩の本意ではない」
 「ただ物は儚く女々しげなる此方(ここ)の歌ぞ詩歌の本意なるというなり」
 和歌の真の姿は、観念的で善悪をハッキリ分ける理屈っぽい漢心のような男らしい豪傑風に勇壮ではなく、情緒的で移ろいやすくどっちつかずであやふやな大和心のような女みたいな女々しさにあるとされた。
 「物の哀れを知るといい、知らぬというけじめは、たとえばめでたき花を見、さやかなる月に向いて、哀れと情(こころ)の感(うご)く、すなわちこれ、物の哀れを知るなり」
 「月花のみにあらず、すべて世の中にありとある事に触れて、その趣き心ばえをわきまえ知りて、嬉しかるべき事は嬉しく、可笑しかるべき事は可笑しく、悲しかるべき事は悲しく、恋しかるべき事恋しく、それぞれに情の感くが、物の哀れを知るなり。それを何とも思わず、情の感かぬが、物の哀れを知らぬなり。されば物の哀れを知る人を心ある人といい、知らぬを心なき人というなり」
 日本人が、古代から日本列島に流れている底流の「物の哀れ」を知る事によって、初めて日本民族となった。
 それは、融通なき硬直した儒教的価値観からの離脱であり、中国を中心とした中華世界・東アジア世界からの独立した瞬間であり。
 朝鮮とは違う価値観で、日本の独自の価値観で全く違う道を歩き始めた瞬間である。
 日本人は、「もののあわれ」という日本民族の情緒的心を手に入れた。
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 自然多発地帯に生きる日本人は、自分の努力だけではどうにもならない状況下で、何時、運悪く死ぬか分からない危うい土地に生きている。
 今、生きている事が奇跡で、生きている事に感謝し喜びを感じていた。
 キリスト教絶対神を通して自然を見下していたが、日本神道は自然と一体化している神々を見上げていた。
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 本居宣長は、随筆集『玉勝間』で、日本の教養人が儒教漢籍を学ぶ事で「漢意(からこころ)」に感化され、中国に従属するが如く中国を手本として中国流の発想になって自慢していると批判した。
 たとえ中国で生まれた漢字を使おうとも、日本文化に根ざした日本語を用いて、中華が入り込む以前の神代から受け継いだ「やまとごころ」を忘れるべきではないと警鐘を鳴らした。
 日本は、物事を、中国のように自分に都合の良い教訓を見出す鑑とするのではなく、あるがままに眺め受け入れる鏡とすべきであると。
 日本人である事を否定し捨て去るような中国趣味や中国崇拝など海外礼賛は、意味が無いと。
 日本は優れているから中国を排斥しろとは言っているのではなく、外国の文物を盲目的にありがたがる事を戒めているのである。
 自他との文化の違いをハッキリさせて、合わない所やそぐわない所は除き、良い所や見習うべき処は柔軟に受け容れるべきであるとも言っている。
 「大かたこれらの事、古き書(ふみ。『古事記』など)の趣をよくえて漢意という物をさとりぬらば、おのづからいとよく分るるを」
 守るべきは、祖先から日本人である事、そして子孫も日本人である事、
 その漫然とした、曖昧な、漠然とした、ハッキリと言葉や文字で説明が付かない日本。
 日本的、日本風の、根拠なき日本らしいとされる生き方。
 日本風土の中で、志と気概を持った分別ある生と死。
 無理して分かり合う必要なく、中国人には中国人の考え方や生き方がある様に、日本人には日本人としての考え方や生き方があると言う事である。
 だが。そういう棲み分けができたのは、中国との国交を遮断し、中国人を日本に受け容れていなかったからである。
 中国人は、日本人と正反対であり、オランダ人やイギリス人とも異なる価値観で発想し行動していた。
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 小林秀雄本居宣長』。「母親から教えられた片言という種子から育った母国語の組織だけが、私達が重ねて来た過去の経験の、自分等に親しい意味や味わいを、貯えて置いてくれるのである。私達は、安心して、過去の保存を、これに託し、過去が失われず、現在のうちに生きかえるのを、期待しているわけだが、この安心や期待は、あまり大きく深いと言おうか、当たり前過ぎると言おうか、安心にながら、期待しながら、そうとは気付かぬ程のものである。言語伝統は、其処に、音を立てて流れているのだが、これを身体で感じ取ってはいながら、意識の上に、はっきり描き出す事が出来ずにいる」
 「(国語とは)独力で生きている一大組織」
 「誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踊になるのを待つのである。例えば悲しみを堪え難いと思うのも、裏を返せば、これに堪えたい、その『カタチ』を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕らえどころのない悲しみの嵐が、おのずから文ある声の『カタチ』となって捕らわれる。宣長に言わせれば、この『カタチ』は、悲しみが己を導くその『シカタ』を語る。更に言えば、『シカタ』しか語らぬ純粋な表現性なのである」(『本居宣長』)
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 自然=言葉=和=日本国語=我。
 日本国語は、相手に理念や観念や意思を伝えたり思想や哲学を論理的に表現する合理的な大陸言語とは異なり、自然の中に「いきずく」あやしき言霊の生の営みである以上、伝える相手は自分という「我」である。
 我を落ち着かせ整えるのが、「和」である。
 つまり。日々雑多の中で、見失いがちな「我」という紛れもなき実態を再発見するのが日本国語である。
 和歌・俳句・川柳・長唄・民謡など日本独自の短詩形文化は、刻々と変わりゆく心模様を嘆きとして言葉に代え、吐息の様に流しながら詠って自然に還す事である。
 日本国語は、「我」のローカル言語であって「私」のグローバル言語でない以上、世界が単一・画一のグローバル化が進めば滅び行く民族言語である。
 祖先が護り伝えて来た伝統的文化的民族言語の継続性持続性は、受け継いだ者の摂取選択の自由権でどうにでもなる。
 祖先は不服を申し立て取り消しと存続を求めて、死後の世界からこの世の現実世界に現れては来ない。
 死者に語る言葉はない。
 事実、現代語には死語となった言葉が山ほどある。
 現代の日本国語が、江戸、室町、鎌倉、平安、奈良、飛鳥、ヤマト、さらに古代に、通用するかと言えば通用しない。
 つまり。将来、日本国語は変化し続け、今とは異なり、通用しなくなる言語に変わっていく。
 昔は国内で変わっていったが、未来は国外で変わっていく。
 言語は、絶えず変化して、永遠に変わらないというものではない。
 昔の美しい日本語は今はなく、今の正しい日本語は未来にはなく、未来には別の日本語が話されている。

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紫文要領 (岩波文庫)

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源氏物語玉の小櫛―物のあわれ論 (現代語訳本居宣長選集)

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本居宣長 (講談社学術文庫)

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新装版 考えるヒント (文春文庫)

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