🌈13)─1─日本文化は停滞した老人文化で、大陸文化は躍進する若者文化である。老人文化における老いの信仰心。~No.25No.26 @

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 古田隆彦(現代社会研究所所長)「人口減少に見合った社会を作る事、つまり、成長拡大社会から成熟濃縮社会を目指す事で、むしろ、私達の生活は豊かになります。
 徳川吉宗が8代将軍に就いていた1730年頃、江戸時代の人口はピークを迎え、3,200万人に達したと推定されています。しかし、その後の約70年間では、飢饉や天変地異によって、人口はおよそ300万人減少しました。ところが、まさに、その時期、蘭学などの学問が栄え、さらに、歌舞伎、浮世絵、戯作などが花開いたのです。
 農民は耕作面積の拡大が可能になった事に加え、労働力不足に対応すべく、新たな農機具を開発しました。その結果、コメの収穫量が拡大し、木綿や菜種など換金作物の生産にも手を伸ばせるようになった。豊かになった農民が都市部で貨幣を使う事で、経済は活性化した。その生活の『ゆとり』が江戸文化を勃興させました。
 ペストの大流行によって、約7,400万人だったヨーロッパの人口は、わずか10年の間に約5,000万人にまで激減しました。ですが、働き手が減っても、工夫をする事で農業生産量は保たれていた。賃金は高騰し、農業生産者にとっては黄金時代を迎えている。その富が都市部に流れ込んで、フィレンツェのような都市国家を繁栄させ、ルネッサンスを生み出しました。ルネッサンスは、芸術のみならず、羅針盤や火薬などといった、目覚ましい科学技術の発展をもたらしたのです」
  ・   ・   ・   ・  
 日本の昔話・民話における準主役は、村・人里離れた淋しい所に住む貧しい年寄りである。
 「むかしむかしあるところに、お爺さんとお婆さんがいました・・・」
 子供がいない年寄りは、ある日突然、主役の子供を授かり手塩に育て育てる。
 が。主役の子供は、何かの理由で育ててくれた年寄りを旅立つ。
 日本の物語は、年老いた親を捨てて子は旅立つ親子の分か話か、年老いて死んで行く地獄のおぞましい死後の話である。 
 若い庶民は、乏しい収入で家族を養わねばならなかった為に、仕事をしない老人を嫌い邪険に扱い家から追い出した。
 生活環境が厳しい地域の生活に困窮する貧困層の間に、姥捨て山の話が生まれた。
 貧しい人で結婚して家族を持つと年老いてから家族に邪魔者扱いをされる為に、老人となったら家族から離れて誰の世話にもならず自活する必要があった。
 たとえ一人になっても、命がある限り一人で生きなければならなかった。
 頼りになるのは、家族ではなく、同じ長屋の住人達である。
 日本社会の絆とは、血縁を持つ遠くの親戚より、地縁としての隣近所の知人であった。
 日本社会の人情は思った以上に薄情ゆえに、年寄りも子供も甘えは許されず、他人に頼る事なく一人で生きていく活力が必要であった。
 日本の人間力とは、一人生き抜く事である。
 其の為に、技術を身に付け鍛え、商才を得て金儲けをし、一人自立する事。
 そして、その技術を未熟な若者達に伝授し、教える事で師匠である老人を大事にさせる。
 教えられた若者も、自分が年を取った時に若者から邪険にされない為に技術・技能を磨いた。
 そこに、偉大な先人である老人の名前を襲名する家元制度が生まれた。
 伝統を継承する家元制度は、老人の生き残りを賭けた悪智恵である。
 名取り・師範・兄弟子である老人達は、芸歴や技能を笠に着て弟子・弟弟子である若輩の若者達をいびり・いじめた。
 忠臣蔵の原因となった、吉良上野介浅野内匠頭への嫌がらせも、老人による若者のいびりである。
 何時の時代でも、分別わきまえた老人から見れば、若者は礼儀知らずの半人前に過ぎない。
 老人は大事にしなければならないが、それは弱者だからではなく、年長者への礼儀としてである。
 老人への敬意は、身分や肩書きや地位ではなく、過去の栄光や実績でもなく、今、備わっている人格や品位・品性と持っている智恵や技術・技能に対してである。
 自活し子供に頼る事がなかった老人は頑固で、子供には決して媚びなかった。
 戦乱・動乱の時代は若者の時代で、平和・泰平の時代は老人の時代である。
 ゆえに、江戸時代とは職を持った活力ある老人の時代であった。
 江戸庶民文化は、強欲で活力に満ちた老人文化である。
 老人は、貧しい家庭ゆえに生活苦に陥る為に儒教道徳の「親孝行」を期待せず、子供に養ってもらおうという依存心は希薄であった。
 老人は老人、若者は若者。
 先祖代々受け継いできた家業がある豪商や豪農ば、血のつながった子に継いでもらいたいとは思っていた。
 ただし。できれば、男の子よりも女の子の方に継がせたかった。
 武士もまた、家名を残す為に子供の家督を継がせた。
 実の子供ではなく他人の子供でもよく、身分低い家の子供でも気にはしなかった。
 中には、百姓や町人の子供もいた。
 江戸時代の老人は、「年寄りの冷や水」「もうろく爺の役立たず」と若者の邪魔者扱いを撥ね除け、「まだ若い者には負けはせぬ」と虚勢を張り、老骨に鞭を入れて無理をして働いた。
 若者は「いなせな粋」を競い、老人は「趣ある風流」を楽しんだ。
 江戸時代。江戸や大坂のどの都市部では、貧乏ゆえに結婚できない庶民が大半で、そのまま一人ぐらいの老人となり、孤独に死に、無縁仏として墓もなく葬られた。
 日本の庶民文化はこうして生まれ、年寄りと若者が競い合う事で成熟した。
 日本の昔話や民話で年寄りが準主役として主役の若者を一人前に育て旅立たせる話が多いのは、若者に老人になると言う覚悟と役割を教えるためであった。
 ゆえに。大陸の様な、若者が旅立って魔物を退治して王女と結婚して王国を築くという英雄譚や英雄神話は存在しない。
 日本文化は老人文化であり、大陸文化は若者文化である。
   ・   ・   ・   
 大陸の才能ある芸術家や芸能人は、若いうちは人気を博して大金を手に入れ名誉を得たが、年を取り才能がなくなると人から見向きもされなくなる。
 落ちぶれた老人は、財産もなく、家族もなく、安アパートで一人暮らしをし、そして死亡した。
 若い時の栄光は、老後には通用しなかった。
 個人の技能・技術は個人のもので、死ねば後継者がなく消えた。
 後世の芸術家は、偉大な先人の作品を模倣して独自の作風を生み出した。
 日本は技能・芸能を家元制度・襲名として、人から人、老人から若者に継承した。
 大陸では芸術家・芸能人は一代限りとして、作品を残して人を残さなかった。
 領主出身でない芸術家・芸能人は、死亡すると、庶民として集団墓地の穴の中に放り込まれて埋められた。
   ・   ・   ・   
 大陸は、若者文化ゆえに、若者らしく、夜空に打ち上げてど派手に大輪の花を咲かす打ち上げ花火である。
 日本は、老人文化ゆえに、老人らしく、地味で落ちそうで落ちないしぶとい線香花火である。
   ・   ・   ・   
 老人社会とは、老害社会であり、出る釘は打たれる社会であり、停滞した社会である。
 そして、権威が支配する息苦しい硬直した閉塞社会である。
 老人は、子供からの面倒が得られない厳しい現実から、収入を確保し生活の安定を維持する為に、生涯現役として終身雇用と年功序列を守ろうとした。
 とにかく、食べて生きる為には金を稼がねばならなかった。
 その為には、右も左も分からない他業種に無謀な挑戦をせず、慣れ親しんで来た業種にしがみついた。
 若造に馬鹿にされ顎で使われない為に、若者負けない「何か」、若者に一目置かせる「何か」を身に付けた。
 老人とは、若者以上に好奇心を持ち、新しい事を柔軟におけ入れ、人一倍努力する必要があった。
  ・   ・   ・  
 老い先短い命は、量より質を求めたが、さりとて金銀宝石をちりばめたけばけばした豪華な物も嫌悪した。
 今この瞬間を充実させたいとの願望から、上手い酒を味わい、少量の旨いもの食べ、若い女性と浮かれ踊った。
 老人の遊びとは、趣味人遊びであり、目利きのを競う隠居道楽であった。
 若者は、物事が変化する事が待てず、積極的に行動して強引に変えようとする。
 物事は、あくせくしたりいらいらしてもどうにもならず、成る様に成るその時までやれる事をやって静かに待つ。
 趣味人の老人は、自分が楽しく遊ぶ事を優先し、「死んで花実は咲かない」「死んで金を持っていけない」とて自分だけの道楽に金を湯水の様に金を浪費した。
 若者は、家族の為に金を貯め、恋人が嬉しがる目新しい奇抜な物を作り送った。
 老人は、自分と孫の為に金を惜しげもなく使い、孫が嬉しがるような素朴な物を作り一緒に遊んだ。
 若者と老人の見る所や考えると事は、全く異なって当然である。
   ・   ・   ・   
 大陸の若者文化と日本の老人文化が、どちらが優位かを問う事は無意味である。
 若者文化であるイギリス文化とフランス文化とドイツ文化で優劣を付けるのは、同質文化であるから可能である。
 大陸の若者文化と日本の老人文化は、異次元的に異質文化である為に比較する事は不可能である。
 つまり。老人の日本文化が世界一素晴らしいといってもそれは夜郎自大的自己満足にすぎず、若者文化の大陸では通用しないし、全く相手にされない。
 老人文化を表現するには日本語しかなく、若者文化の西洋語ではほぼ無理である。
 この文化比較は戦前の日本を言っているであって、現代日本を言ってはいない。
 現代日本は西洋の若者文化に宗旨替えしていて、江戸時代の老人文化は希少価値として、日常生活から完全排除されている。
 多分。若者文化は、急速な発展向上を求める上昇志向があれば、どの国でも、どの地域でも、広める事は可能でる。
 だが。老人文化は、緩やかな成熟を求める覚悟がなければ受け入れられない。
 若者文化がグローバルに世界共通になれるのに対し、老人文化はローカルに地方に埋もれるのみである。
 意欲ある者は、若者文化に憧れても、老人文化には目もくれない。
   ・   ・   ・   
 爛熟した老人文化の担い手とは、人生五十年と言われた江戸時代の50代から上の大人を指していて、人生100年といわれる現代日本の70代以上の後期高齢者ではない。
 趣味人として道楽を生きる老人の事であって、ギャンブルで借金をして家族に迷惑をかける不逞老人や、年寄りだから何もかもやって貰い権利があるとして何もしない不精老人でもなく、自分の思う様に行かないと周囲に当たり散らす苛ついた暴走老人でもない。
 自分の事は自分で責任を持って自分で行うという自立し自活できる老人が、老人文化の担い手である。
 そうした老人は現代日本では数が少ないがゆえに、現代日本には老人文化がないと言える。
 老人文化がある社会とは、停滞した社会でがゆえに江戸時代は成熟し安定して戦乱や動乱がない平和な時代であった。
   ・   ・   ・  
 若者文化とは、新たな価値観で社会を変革する為に権威や権力を否定し、時代を前進させる為に躍動エネルギーを爆発させる。
 ゆえに、各種の革命は若者文化から生まれる。
   ・   ・   ・   
 日本文化と朝鮮文化及び中国文化は異なる。
 中国文化は、大陸文化として若者文化である。
 朝鮮文化は、若者文化でもなく、老人文化でもなく、誤魔化して壮年文化ともいえない。
 分からない、というしかない。
   ・   ・   ・   
 権威への反逆児である若者は、より速く、より遠く、より合理的に追求し、社会を変える為に性急な革命を行い、たえず新しいモノを生み出す。
 権威内の異端者である老人は、よりゆっくり、より近く、より寛容に見極め、社会が変わる為にゆっくりと改革を行い、古いモノを新しいモノに作りかえる。
 権威は、伝統の裏打ちがあって正統性が保持される。
   ・   ・   ・   
 老人文化に於ける信仰心。
 680年 天武天皇は、持統皇后の病気平癒を願って薬師寺を建立した。
 天皇・皇后、皇族、有力貴族は、家族の病気平癒や身内の安寧祈願そして政敵として倒した相手が怨霊となって祟らないようにする怨霊鎮護の為に、私財を投じて寺院を建立した。
 諸仏に救いを求めて寺院を建立する発願の目的は、その程度で、けっして、仏典・経典を読み、高僧・名僧から釈迦の教えを聞いて帰依する為ではなかった。
 身分の壁があって立身出世がかなわない以上、商売繁盛や学業成就などは二の次三の次で、まず第一に今を無事に生き延びる事だけであった。
 当時の、仏教に対する認識は浅く、信仰心も深くはなかった。
 仏教における真の教えは、現生での苦を如何に受け入れ解消して生きる事かであって、死後どうなるかではなく、他人よりまず自分であった。
 新薬師寺は、747年に光明皇后聖武天皇の眼病平癒を祈願して創建された。
 宗教心の薄い一般庶民は、高貴な人々が祈願して建立した寺院や祈りを捧げる御仏には霊験があるのと自分勝手に思い込み、自分の現世利得を叶えて貰う為に祈った。
 無学文盲の一般庶民は、漢籍も仏典も読めず、高僧が説く御仏の慈悲や慈愛も理解できなかった為に、意味もわからず高貴な人を真似をして祈りを捧げた。
 日本民族日本人の信仰心とは、他人が熱心に祈りを捧げる神仏は優れた神仏なのだから取り敢えず真似をして拝んでおこう、という底の浅いものであった。
 軽薄な信仰心ゆえに、狂信的ではなく、原理主義も生まれない。
 命と信仰の二者択一を迫られたら、死んだらお仕舞い、命あっての物種、死んでの長者より生きての貧乏、死んで花実が咲くものか、など惑わず命が大事として信仰を捨てた。
 日本の宗教・信仰において、救世主も奇蹟も恩寵もなく、信仰の証としての殉教もない。
   ・   ・   ・   
 日本の仏教 田中雅博「仏教は、お釈迦様の時代から、信仰とは異なる宗教です。『信』と訳された梵語は4つありますが、神の信仰する意味のヒンドゥー教で使われるバクティ(信仰)は仏教経典には出てきません。仏教で使われる『信』はアディムクティ(信解)、シュラッダー(信頼)、プラサーダ(浄信)で、要約すれば信心とは『自己執着を捨てる』という教義を理解することです。自己執着を捨てる仏教は、仏教自身に執着しません。それで、あらゆる価値観を尊重する曼荼羅の宗教へと展開し、日本人の価値観(宗教)となりました。特定の信仰を主張して争うことがない曼荼羅の宗教こそが日本の文化なのです」
   ・   ・   ・   
 2016年6月号 Hanada「西尾幹二の現代世界史放談
 ……
 日本人の宗教心
 ところで、日本はなぜ神道と仏教なのでしょう。神道と並べて仏教ですね。儒教ではない。儒教は祖先崇拝という点では関係ありますが、日本人の宗教心に入っていないと思います。儒教は道徳として日本に影響を与えましたが、皇帝制度と科挙のシステムに切り離せないほど繋がっています。韓国は儒教なのです。朱子学イデオロギーであのようになってしまいます。
 日本は儒教を本格的には受け入れませんでした。天皇をずっといただいていますし、王様が2人居続けられた国なので世界に理解されなかったのですが、日本人が心のバランスをとるうえで良かったと思います。つまり、遠いところにある見えない神・仏様と、生きた神様である天皇と、すなわち超越神と現身の神、二神をいただくことで自在に生きることができたということです。
 仏教は本格的に日本人の心に入っていて、日本の宗教心理の根底を形作りました。神道は超越神を持ちませんが仏教がそれを与えてくれて、二神をいただくことをもって日本人はバランスをとってきたのです。
 日本人はなぜ仏教には抵抗がなかったのか、ということもついでだから考えておきましょう。神道に抵抗がないのは分かりますが、日本人は仏教以外の外来宗教はほとんど受け入れませんでした。ユダヤ教キリスト教イスラム教もヒンズー教も韓国儒教も、いわゆる原理主義的な宗教を日本人は受け入れません。
 しかし仏教は受け入れました。しかも日本仏教は久しく発展し、独自の発展を遂げました。民族の心の深いところにフィットしたのです。なぜかというと、それぞれの宗教は皆、後ろに政治文化を抱いています。たとえば、儒教は皇帝制度と科挙のシステムを抱えている。ヒンズー教も同様で、インドの社会風俗や生活習慣を抱えています。ユダヤ教キリスト教はさらにそうです。西欧の政治や哲学の一大観念大系を突きつけてきます。
 そういうものと何の関係もない仏教。後ろに何もついていない仏教。無いなのです。それが日本の仏教と組み合わせしやすかった。日本人の心が『無』であるということと、深く関係があるのです。
 キリスト教と仏教は、ともに普遍宗教ですが、どちらもそれぞれが生まれ育った土地でどうであったかということが日本に関係がある。仏教はインドの地で徹底的に発展を遂げました。思想展開は小乗仏教大乗仏教密教に至るまで。そして形而上(けいじじょう)的な理論展開を終えてから、外国に出始めるのです。8世紀の密教に至るまでインドの地で発展を遂げますが、そこで忽然と消えてしまったのです。つまり、本当に消えてなくなってしまいます。
 あるイギリスの植民地主義者がインドに渡ってきて大きな立派なお堂があり、それはブディズムの伽藍だと聞いているが、僧侶一人いないし、仏像もないし、経典もない。忽然と消えたのです。それでは仏教が消えたのかといえばではありません。インドの地から消えただけです。
 チベット仏教・ネパール仏教・中国仏教・日本仏教、南にいけばタイなどの南伝仏教。そういうふうに外に展開したのです。キリスト教はどうかというと全く正反対で、イスラエルの地では一切いかなる理論展開もしないで、ローマとビザンチン西ローマ帝国東ローマ帝国で初めて展開しました。
 仏教と違って、他の地域に移っていて初めて形而上的・論理的・学問的発展を遂げました。それに比べると仏教は、後ろに何も政治文化がついていないので日本人に受け入れやすかった。遙か西方浄土にいる仏様は、抽象観念として存在し得たのです。
 日本人の西洋大誤解
 しかし、キリスト教はそうではなかった。巨大な哲学大系が後ろに控えていて、しかもそれを強制する政治制度や軍事力が控えていた。日本人はそれを受け入れる気にはならなかった。ただ、西洋の文化や芸術や学問は危険がないので受け入れた。大変に尊敬し、いまも愛好している。しかし根っこにある宗教を受け入れていないので、日本人の西洋理解は西洋大誤解かもしれない。
 日本人は、がらんどうのようなにもないものが好きだったのではないでしょうか。そうとしか思えないのです。政治文化を強制してこない。哲学的理念を強(し)いてこない。ひたすらそういう世界に憧れた。西方浄土への憧れ、それは平安末期辺りから強くなりますが、日本人の心をずっと掴まえていて、いまでも何か事があると、遠い国で起こった出来事を日本人は尊敬するのです。素晴らしいものは外国にあると信じ、明治以来、長い間、西洋文化を鑑としたのは『西方浄土』に代わった。つまり、仏様はいつの間にか西ヨーロッパ文明に代わったのです。それが旧制高等学校のドイツ語、フランス語崇拝、教養主義礼賛になった。
 他方、世界全体の現実を見ようとしなかったのではないか。だから当時、表舞台から消えたイスラムの世界も見ていなかったのです。現実は見ていなかったけれども、西方浄土をひたすら憧れるように、西洋文化をひたすら学んだ。そしれ夢を育てて、自分のところでそれを移植して自分なりの西洋文化を作ってここまできた。本当にそう思いますよ。
 日本では必ずどこかで西洋絵画展をやっているでしょう。ついこの間まで、モネ展をやっていました。去年はスイスのホドラー展もやっていました。近くは何度目かのカラヴァジョ展が開かれています。こんなことをやる国は、アジアでは他にありません。日本中のどこかで、必ずいろんな西洋絵画展をやっています。
 コンサートも盛んです。最近、ドイツ人はモーツァルトベートーヴェンをあまり聞かないといいます。そんなもの要るのか、という話らしいのです。オーケストラはほとんど外国人だそうで、10人中8人から9人は外国人、ドイツ人の音楽家がいなくなった。文学も教育も衰滅です。音楽も哲学もダメ。ドイツの限界というか、アイデンティティの喪失ということです。中国人と一緒になって浮かれて金儲けばかりです」
   ・   ・   ・    
 2016年9月25日号 サンデー毎日「一条昌也の人生の四季
 人は老いるほど豊かになる
 9月19日は『敬老の日』である。『敬老』という考え方は、古代中国に生まれた儒教に由来する。わたしは古今東西の人物のなかで孔子を最も尊敬しており、何かあれば『論語』を読むことにしている。そのに『論語』には次の有名な言葉が出てくる。
 『われ15にして学に志し、30にして立つ。40にして惑わず。50にして天命を知る。60にして耳順(したが)う。70にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず』
 60になって人の言葉が素直に聞かれ、たとえ自分と違う意見であっても反発しない。70になると自分の思うままに自由にふるまい、それでも道を踏み外さないようになった。
 ここで、孔子は『老い』を衰退ではなく、逆に人間的完成としてとらえている。ブッダは『生老病死を苦悩としたが、孔子は大いに『老い』を肯定したのである。
 孔子と並ぶ古代中国の哲人といえば老子だが、老子の『老』とは人生経験を豊かに積んだ人という意味である。また、老酒というように、長い年月をかけて練りに練ったという意味が『老』に含まれている。
 世間には、いわゆると『老いの神話』いうものがある。高齢者を肉体的にも精神的にも衰退し、ただ死を待つだけの存在とみなすことである。すなわち、老人とは『孤独』『無力』『依存的』『外見に魅力がない』『頭の回転が鈍い』などと見る。
 しかし、物事というのは何でも見方を変えるだけで、ポジティブなイメージに読み替えることが可能だ。たとえば、高齢者は孤独なのではなく、『毅然としている』。無力なのではなく、『おだやか』。依存的なのではなく、『親しみやすい』。外見に魅力がないのではなく、『内面が深い』。そして、頭の回りが鈍いのではなく、『思慮深い』といったふうにである。
 神道では、『老い』を神に近づく状態としてとらえ、その最短距離にいる人間を『翁(おきな)』と呼ぶ。これこそ真の『老いの神話』ではないだろうか。人は老いるほど豊かになるのである」
   ・   ・   ・   
 2016年9月30日号 週刊ポスト「いのちの苦しみが消える古典のことば 田中雅博
 『五蘊皆空(ごうんかいくう)』 般若心経
 ……仏陀の言葉『諸法は我でない』を、仏陀の死後1000年を経て著された般若心経の言葉として再び取り上げます。般若心経は、非常に多くの人びとによって1000年以上も読み続けられている言葉なのです、その内容を重ねて紹介したいのです。
 ……ギルバート・ライルの『範疇(はんちゅう)誤謬(ごびゅう)』を参照しました。
 オックスフォード大学を初めて訪問した外国人が、各学部や図書館や運動場や事務棟などを案内された後で、『学生が勉強する所や学籍係が仕事をする場所は解りましたが、大学はどこに在ったのですか?』と質問したという話です。『私の身体』や『私の思い』等は『私という主体』と範疇が異なるのです。それは、デカルトの『我思う、故に我あり』が論理学的に間違っていることの証明でした。
 オックスフォード大学でギルバート・ライルの先生であったウィトゲンシュタインは著書『論理哲学論考』で『私の身体は有る。しかし私という主体は私の世界に属さない、それは世界の限界である』と言っています。
 般若心経には『五蘊』という言葉が出きます。色(私の身体)・受(私の感覚)・想(私の表象)・行(私の意思)・識(私の認識)という5つの自己執着の要素の集合のことで、自己執着が空っぽになった状態が般若心経の『五蘊皆空』です。
 この五蘊皆空(自己執着が無くなった状態)が般若(知恵)の波羅蜜多(はらみた、完成)です。……知恵の完成は『筏(いかだ)の譬喩(ひゆ)』を使って説かれました。旅人が、仏教という筏に乗って、苦しみの此岸(しがん)から涅槃(安楽)の彼岸に渡った。彼岸に渡った後、旅を続けるには筏(仏教)を捨てる。自己執着を捨てることを説く仏教は、仏教自身に執着しないのです。
 『知恵の完成に於いて』という文が『般若波羅蜜多時』という漢訳されなした。『筏の譬喩』に当てはめれば『彼岸に於いて』という意味です。
 般若心経は『舎利子是(しゃりしぜ)』と続きます。『シャーリプトラ(お釈迦様の、知恵に優れた年上の弟子)よ、ここでは』という意味です。『ここでは』は『彼岸に於いては』です。般若心経の内容は、すべて『知恵の完成に於いて』の話なのです。彼岸においては筏(仏教)も捨てるのです(無苦集滅道)。
 明治維新以降のいわゆる日本の近代化は、実際には西洋化でした。言葉も外国語の翻訳に使われて西洋化し、素晴らしい日本文化が忘れられています。仏教という翻訳語(元来は仏法、および仏道といわれた)が、キリスト教などの一神教のように一つの価値観を信仰する宗教と混同されています。仏法(現代語では仏教)は、『我こそ正しい』という自己執着を離れ、あらゆる価値観を尊重する宗教(生き方、価値観)なのです。」
   ・   ・   ・   
 日本文化とは、多発する自然災害と貧しさの中で四苦八苦しながら青息吐息で生き抜いてきた老人が「命尽きる最後の時」「人生最後の季節」を心静かに迎える為の「翁(おきな)文化」である。
 日本文化の真髄に触れられるのは翁の心境に達し得て「老人」だけであが、幾ら精進して、苦しい修練を重ねても、日本文化の真髄を体得できないし奥義を極める事はできない。
 日本文化の道を極めようとする求道者は、生きてる限り未熟者であって、体得者にはなりえない。
 日本文化の境地を垣間見み感じられるのは、程好い具合に老いた時期。
 例えれば、散り始めそうになっている花びらの時期である。
 だが、散り終わった後の状態も、大地に落ちて色あせた状態も、日本文化の趣きのうちである。
 老いて「翁」となる事が、日本文化が求める境地であるが、それで終わりではなく道半ばに過ぎない。
 日本文化の真髄は、老いて、生死を超えた先にある。
 日本文化は、若さと活気を求める西洋文化中華文化(中国・朝鮮)と根本で異なる。



   ・   ・   ・