✨53)─1─淡路島の忘れられた戦没学徒たちの慰霊施設『若人の広場』。~No.213No.214No.215 @ ㊺ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人は、薄情で、忘れやすい人間である。
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 日本人と親日派朝鮮人は兵士として戦ったが、反日朝鮮人は徴用工として逃げた。
 日本人の女性・子供・老人は、国民の義務から死を覚悟し、女子挺身隊・勤労動員・戦時徴用として戦争に協力した。
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 2017年9月号 正論「忘れられた戦没学徒たちの慰霊施設
 淡路島『若人の広場』秘話 栃尾
 あなたは『若人の広場』を知っていますか。
 瀬戸内海に浮かぶ兵庫県の淡路島。東京都23区とほぼ同じ広さのこの島の南端、南あわじ市の大見山の山上に、市が管理するこの都市公園はある。遠く海上からでも見える三角の尖塔と城壁を連想する石積み風の展望台の真新しい白さが周囲の緑によく映えている。ただ、『若人の広場公園』という、やや古風で抽象的な正式名称だけでは、ここが、もともと何の目的で設置されたかを言い当てる人は少ないだろう。
 この公園は、かつて『戦没学徒記念若人の広場』という名称であった。先の大戦で学徒勤労動員や学徒出陣で亡くなった男女学徒約20万人を追討する国内唯一の施設で、昭和42年に建設されたものなのである。当初の総工費は1億8,000万円で、民間からの募金で集められた。
 敷地は約7万平方メートル。中心となるのは、『永遠の灯』と名付けられた戦没学徒追悼のシンボルが設置された記念塔と、戦没学徒の遺品等を展示される展示館。そこに竣工当初は年間10万人近い来訪者が足を運んでいたが、時代の変化や施設の老朽化により年々減少し、平成7年1月の阪神淡路大震災の後に一度閉鎖された。関係者の尽力で平成27年3月に新しい都市公園として再整備されはしたが、全国的にみると、今では思い出す人も少ない。『忘れられた戦没学徒の慰霊施設』になっている。本稿h、この若人の広場の当初の建設経緯や震災後の再開の経緯を紹介し、できれば是非一度ここを訪れていただきたいという思いで筆をとったものである。
 元動員学徒たちの熱い思い
 若人の広場の設計は、当時既に世界的に有名で日本を代表する建築家であった丹下健三によってなされた。建設資金を集めるための募金委員会の委員長は時の内閣総理大臣岸信介であった。この2人の名前だけ見ても、いかに大がかりなプロジェクトとして立案されたか想像に難くない。昭和42年の竣工式には、首相を辞した岸信介はもとより、秩父宮妃殿下にもご臨席を仰ぎ、また昭和47年11月に開催された『戦没若人のための慰霊祭』には当時の皇太子殿下及び妃殿下(現天皇皇后両陛下)も臨席されている。
 当初の建設経緯については、京都工芸繊維大学の松隈洋教授の手による『丹下健三と記念碑的造形──モニュメンタリズム──をめぐって「戦没学徒を記念する広場」1967年の意味するもの』(建築思潮社刊『住宅移築』2009年12月号)と題する論文に、建築学の立場からの詳細な論考がある。専門性の高い論文であるが、建築学の門外漢が読んでも興味深い。
 まずは、松隈教授のご了解を得て、多くをその論文によりながら建設までの経緯を述べたい。
 昭和34年4月、動員学徒戦傷病者及び動員学徒戦没者遺族等に対し必要な援護を行い、もってその福祉を図ることを目的に財団法人動員学徒援護会が設置された。若人の広場はこの財団により計画が進められることとなるが、財団の設立当初の主な役員は、会長が自民党で労働大臣や運輸大臣を務めた大橋武夫、理事長が同じく自民党で農林大臣や防衛庁長官等を歴任した松野頼三。先にも述べたように、施設の建設資金募集委員会委員長は岸信介であった。
 ただ、こうした表の顔とは別に、強い信念でこのプロジェクトを実質的に推進したのは宮原周治という1人の動員学徒であった。松隈論文によると、宮原は戦時中の熊本中学在学中に軍需工場へ動員され、その際に受けた空襲で両手を失っている。その体験から、戦後は上京して動員学徒の救済援助活動に従事し、不自由な体にもかかわがず、この建物の資金を集めるために全国を行脚して歩いたような人物で、その後、援護会の事務局長に就任した。
 ここで『学徒出陣』と『学徒勤労動員』について、説明しておくと、学徒出陣は、終戦末期の戦局悪化、兵力不足を受けて徴兵猶予を受けていた大学、高校等の文科系の学生を在学途中で兵力として動員したものである。その総数は推計約13万人ともいわれるが、その公的な数字は発表されておらず、死傷者にいたっては推計数さえないとされている。
 一方上記の宮原も経験した学徒勤労動員は、同じく戦争末期に深刻な労働力不足を補うために、中学以上の生徒や学生を軍需工場や食糧生産に動員したものである。これも公式に認められた数字はないが、総数約310万6,000人、死亡4万〜5万人、傷病1万〜2万人という数字が、松隈論文にも引用されている。
 若人の広場はその両者を包合する慰霊施設であるが、宮原自身の思いはやはり自分の経験した勤労動員にあったようであり、松隈論文は次のように指摘している。
 〈おそらく、宮原の心にあったのは、自らと同じく、戦争の激化に伴って、学園から強制的に軍需工場や建物疎開などへと動員され、無念にも命を落とした若い学徒たちを追悼し、その生を記憶するための施設をつくろうと、生き残った者としての使命感だったに違いない。この建物には、後にその範囲が拡大されて、いわゆる『学徒出陣』として戦場に駆り出されて戦死した学徒兵の遺品類も収蔵されていく。けれども、当初は、むしろ、戦後、ほとんど顧られることのなかった『勤労動員学徒』を追悼する施設の実現が目的とされていたのだと思う。〉
 ……
 丹下健三岸信介への反発
 ……
 竣工そして閉鎖、再開・・・
 『若人の広場』は昭和42年10月に竣工式をむかえた。冒頭で述べたように秩父宮妃殿下のご臨席のもと、盛大に執り行われ、記念塔には『永遠の灯』が灯された。
 ……
 来場者も初めは多かった。昭和42年は10月オープン後のわずか数ヶ月であるが、約9万5,000人。しかし、翌43年は約7万6,000人となり、それ以後の40年代は概ね5万人台、50年代は3万〜5万人程度、60年代以降急激に落ち込み、平成になって6,000〜7,000人程度にまでなった。そしれ平成7年1月に阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受けて閉館に至った。
 ……
 平成27年3月、新たな『若人の広場公園』が竣工、ほぼもとの形に復元され、竣工式では、震災で消えた『永遠の灯』も最点灯された。元動員学徒宮原周治や建築家丹下健三、旧南淡町長森勝ら故人をはじめ、当時、施設の建設推進に奔走した人々の思いが甦った瞬間であった。再整備の設計は、丹下健三の流れをくむ丹下都市建築設計であった。
 ……
 ひとりでお多くの人に
 冒頭この若人の広場が『忘れられた戦没学徒の慰霊施設』であると書いた。ただ、毎年10月21日(明治神宮外苑での出陣学徒壮行会開催日)には、地元有志による『全国戦没学徒追悼式』が開催され、南あわじ市も毎年8月15日の政府主催の全国戦没者追悼式にあわせ『戦没学徒追悼献花式』を実施している。さらには平成27年には戦後70年の節目ということで、10月21日に『終戦70年全国戦没学徒追悼式』が兵庫県、淡路島内3市、淡路島くにうみ協会等で構成する実行委員会主催で開催され、約630名にのぼる参加者があった。この追悼式典は、今後5年ごとの節目の年に開催予定であり、何とか皇室の方にもお越しいただければと考えている。
 ただ、こうした地元の活動について、マスコミ報道も概ねローカル扱いで、国民の多くに届いているとは言い難い。そもそも、戦没学徒の慰霊式典は、県や市という地元公共団体で主催すべきものかという根本的な疑問もある。国としての何らかの対応が必要ではないだろうか。
 そして何より、ここを1人でも多くの人に知っていただき、できれば一度訪れていただきたい。天気さえよければ感動ものの絶景は保証します」
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 2015年3月15日 産経WEST「戦没学徒を慰霊する全国唯一の施設「若人の広場」が20年ぶり再開 兵庫・南あわじ市
 阪神・淡路大震災以来20年ぶりに改修された戦没学徒を慰霊する「若人の広場」。参加者らはペン先をかたどった記念碑に献花した=15日、兵庫県南あわじ市
 第二次大戦中に戦没した約20万人の学徒を慰霊する全国唯一の施設で、平成7年から閉鎖中だった「戦没学徒記念若人の広場」(兵庫県南あわじ市阿万塩屋町)が改修を終え15日、「永遠の灯(ともしび)」が再び点火された。阪神大震災で被害を受けて以来、戦後70年の節目の年に平和を願うシンボルとしてよみがえった。
 式典で兵庫県井戸敏三知事は「哀悼の意をささげ、記念塔に平和を誓いたい」とあいさつ。ペン先をかたどり、「若者よ 天と地をつなぐ灯たれ」と刻まれた記念塔前で、「永遠の灯」に点火、献花した。
 広場は昭和42年に開設。建築家の故丹下健三氏設計の遺品展示室と記念碑が建設された。
 しかし、震災で外壁にヒビが入るなどして閉鎖した。老朽化もあって廃虚のような状態となり、戦没学徒の手紙など展示物は京都市立命館大学国際平和ミュージアムに寄贈。平成22年に南あわじ市が土地などを取得して「若人の広場公園」として改修を進めていた。
 改修に携わった丹下氏の長男で建築家の憲孝さん(57)は「歴史のなかで忘れてはならないものを、後世に伝えなくてはいけない」と話していた。」
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 心霊マニアの内では、「若人の広場の慰霊塔」は淡路島での有名な恐怖の心霊スポットである。
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 朝鮮人は、日本国籍を持ち、日本国内に住めば選挙権が与えられ高級軍人(最高・陸軍中将)への道が開いていた。
 世界に出ると日本人と見なされ、日本人と同じ権利を与えられ、日本人として保護された。
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 親日派知日派朝鮮人は、日本国民としての権利に伴う責任と義務を果たしていた。
 反日朝鮮人は、日本国民としての権利を持を行使していたが、日本国民としての責任と義務を拒否し、侮日感情を秘め、敵日行動を行っていた。
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 戦前の日本人は、軍部・軍国主義者にプロパガンダで洗脳され、偽情報に踊らされ、騙されて戦争をしたのではなく、避けられない運命として受け入れて戦争に参加した。
 日本の男性はおろか女性・子供・年寄りに至るまで、反日朝鮮人や日本人共産主義者のように逃げ隠れをせず、ましてや妨害・破壊行為や厭戦気分を広めるデマ流布や国内情報提供など天皇や国や同朋を裏切る卑劣・卑怯な利敵行為などはしなかった。
 日本人は赤紙の徴兵として、親日派知日派朝鮮人は志願兵・軍属として、彼我の戦力差がハッキリした絶望的戦況でも最後の勝利を信じて戦った。
 女性や子供や老人も、本土決戦による一億総玉砕によって勝利が得られると信じ切って戦った。
 日本人共産主義者は、中国に逃げて中国共産党に協力した。
 反日派侮日派朝鮮人は、軍国日本が行っている絶望的戦争への参加を拒否し、徴用工として日本国内の鉱山や工場に逃げた。
 独立派朝鮮人朝鮮人テロリストは、軍国日本を滅亡させる為に暗躍していた。
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 日本国内には約200万人の朝鮮人が重労働に従事し、その中には日本人であれば強制的に兵隊となっている年齢の若者が含まれていた。
 日本人は、志願兵・軍属として戦う親日派知日派朝鮮人を生死を共にする戦友・仲間として信頼したが、共に戦う事を拒否して逃げた反日朝鮮人を軽蔑し差別した。
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 国力も兵力も脆弱な軍国日本は、国力も兵力も充実した大国アメリカのような良心的兵役拒否など認めてはいなかった。
 軍国日本は、ヒト・モノ・カネあらゆる面で大国アメリカのような我が儘が言える自由な余裕はなく、生きる為に年齢性別に関係なく根刮ぎ残らず投入する総力戦であった。
 国力のなさを知る軍国日本、昭和天皇A級戦犯達は、アメリカとの絶望的戦争を回避しようとしたが、戦争を求めていたアメリカ・イギリスのよって外交交渉を拒絶され、止むなく戦争を決断した。
 開戦を決断した以上、勝てないと分かっていても勝つとの信念で、弱音を吐かず泣き言をいわず死力を尽くして戦った。
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 軍国日本は、兵力が不足していたが、朝鮮半島に徴兵制を布告せず、朝鮮人を兵士に採用しなかった。
 つまり、朝鮮人は日本人とは違って精神力及び身体能力などの面から兵士とするには不適格者と認めていた。
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 国際社会は、絶望的戦闘に逃げずに死を覚悟して戦った勇猛果敢な日本人や親日派朝鮮人より、生きる為に逃げ回った卑怯・卑劣な反日朝鮮人の言い分を正論として聞いている。
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 サムライ・武士を自称する日本人は、死を覚悟し、1%の勝利・生還を信じて戦った。
 死中に活を求めるのが、日本人の志、大和魂、日本精神であった。
 潔さを心情とする大和心・日本の心は、如何なる苦境にあろうが、如何に絶望的な状況に追い込まれても、戦友・同朋を裏切り見捨て自分一人が助かる事を「身の恥」「心の穢れ」と嫌った。
 日本人将兵が生還を望まず玉砕したのは、戦陣訓の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」に縛られ投降を禁止されていたからではなかった。
 靖国神社の心とは、戦友・同朋を見捨てられなかった日本人の心情である。
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 韓国反日映画「軍艦島」を観て喜ぶ韓国人・中国人そして日本人には、幾らは話したところで靖国神社を理解する事は絶対にあり得ない。
 特に、中国共産党などは理解不能である以上に拒絶反応しかない。
 そうした類いは、分かり合うことを諦めて切り捨てるほかない。
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 軍艦島などの鉱山では、危険性が高い為に、基本的に女性や12歳以下の児童を使役する事は禁止されていた。
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 自然災害多発地帯に生きる日本人は、人力ではどうにもならない自然災害に直面した時、わが身・命を守る為に親兄弟でさえ見捨てて逃げた。
 自然災害に巻き込まれて助からないと悟った時、生還を諦め、巻き添えにしない為に助けてもらう事を拒否した。
 自然災害では、人は薄情にならざるを得ない。
 日本民族日本人の死生観・人生観そして宗教観は、人智を越え人力では抗いきれない自然災害多発地帯で生きる智恵であった。
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 戦争と自然災害は根本的に違う。
 自然災害では生きる為に薄情になって逃げたが、戦争では情に流されて逃げずに死んだ。
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 現代日本人は、戦後のマルクス主義反戦平和教育で思考力が硬直化し人間性も単細胞化した為に、複雑な多様性ある日本人的心情が理解できない。
 特に、1980年代以降にそれは顕著に表れた。
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 現代教育は、人権重視の西洋価値観による人対応であって自然重視の日本価値観による自然対応ではない。
 日本の価値観は、東洋価値観の一つであるが、中国・朝鮮の中華価値観とは馴染みづらく、インドや中央アジアの価値観に馴染みやすい。



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